(重要文化財「萬翠荘」。松山市にて)

今治の懐石料理「ゆき」で今治市の若い職員と隣り合わせになりました。マダイ、ブリの刺身がじつに美味しい。ぷりぷり感が違う。潮の速さが身を引き締まらせるのでしょうか。

今治の産業を尋ねる中で、「伯方(はかた)の塩」のことが話題になりました。

「伯方の塩って、九州・福岡の博多だと思う人が多いんです。じつは今治市内に伯方島があります。ご存じでしたか」

「瀬戸内にあるのだろうとは思っていましたけど、今治だったのですね。それは知りませんでした」

「でも、伯方の塩っては言うんですけど、メキシコやオーストラリアの塩を使っているんです」

そう自嘲気味に言いました。

「それには深い歴史があるんですよ。専売特許との戦いなど、涙ぐましい背景があるんです」

「そうだったんですか。知りませんでした」

ウィキペディアと博多塩業のウェブサイトを基に「背景」について再構成します。

1971年(昭和46年)に成立した「塩業近代化臨時措置法(塩専売法)」により、従来の流下式塩田製法が全廃され、イオン交換膜製塩への切り替えが起こった。海水から直接「塩」を採ることが出来なくなり、製塩業は化学工業化された。

江戸時代から続いていた伯方島の塩田も1971年(昭和46年)に廃止。

これに疑問を持った住民らによって自然塩存続運動が起こる。

塩田製塩の存続を訴え、5万人の署名を集めて関係各省へ訴えた結果、1973年(昭和48年)、日本専売公社は「メキシコ・オーストラリアから輸入される天日海塩を用いること」などを条件として塩田製法を用いた塩の販売を認可。

ここに「伯方の塩」が生まれた。

原塩を利用すること以外にも「平釜(熱効率が悪い)を使うこと」「専売塩を誹謗してはならない」などの制約を受け、「袋のデザインや文言の変更」についても専売公社にお伺いを立てなければならなかった。

塩専売法は1997年(平成9年)に廃止され、海水からの塩の直接採取が認められるようになったが、伯方の塩にはメキシコ、オーストラリアのものが用いられている。

なぜ、同国の塩を使うのか。清浄であることと地球環境への配慮からである。

製造の初期過程に「かん水(濃い塩水)」をつくる工程がある。海水を直接煮つめて「かん水」をつくる方法は、たくさんの燃料を必要とする。それに対して、自然の風や太陽熱といった自然エネルギーによって結晶した輸入天日塩田塩を使うと、燃料は少なくて済む。

また、メキシコ塩の産地であるゲレロネグロでは世界遺産にも登録されているほど清浄な湾の海水を、オーストラリア塩の産地であるプライスでは南極海につながる海水を使用。

そのようなきれいな海水よりつくられた天日塩田塩でもあり、同国から天日塩田塩を輸入し使用するのは、原料を安定して仕入れるためでもある。

そのような理由で「伯方の塩」は、現在もメキシコまたはオーストラリアの天日塩田塩を日本の海水に溶かして、ろ過した後のきれいな塩水を原料としているのである。

「ところで、今治がタオル産業が有名なのは、歴史的に綿花の栽培が盛んだったからですよね」

「そうなんですか。なぜタオル製造が盛んなのか、わからないです。すみません」

(下へつづく)


(坂の上の雲ミュージアム)

午前6時今治発の予讃線の普通列車に乗り、松山に向かいました。海が見えるはずだと思い期待したものの、経度の仕業で外は真っ暗。

太陽が昇るのが遅いことにしばらくしてから気づきました。

ずいぶん前に読み、そして今回、再読の途中でやめてしまった司馬遼太郎著『坂の上の雲』。ミュージアムに行くつもりはありませんでした。

朝7時過ぎに道後温泉本館で入浴し、風呂上がりに気分が変わりました。これぞ温泉の効能でしょうか。


(道後温泉本館は本年秋以降に改修工事に入ります)

展示資料を追いながらストーリーを意外に記憶しているものだと思いました。秋山兄弟や正岡子規の足跡を辿ることで懐かしさを覚えました。

初めて知ったことがあります。オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の遭難事件の後に秋山真之が関わりがあったことをです。

エルトゥールル号の生存者をオスマン帝国に帰還させた日本の軍艦「比叡」に秋山真之が乗船していたのです。秋山は病床にあった正岡子規を励ますため年賀状をコンスタンチノープルから送ってもいました。


(ミュージアムカフェにて坊ちゃんだんごを喰らいます)

この度の西の旅の振り返りをします。

福島から空路、伊丹へ。神戸の六甲で隠れ家のようなカフェ・アンタイルで知人と昼食。普通列車で兵庫県・岡山県・広島県を移動。

尾道にてゲストハウス「あなごのねどこ」でアナゴの気分になる。京都からのゲストと交流。翌日午前、海を眺めながら宇部の友人とラーメンとプリンを食べ、別れる。


(細長いスプーンですくい上げながら食べます。耳かきを連想しました)

しまなみ海道をバスで渡る。因島で途中下車し大橋の下まで降りて、そしてバス停まで駆け上る無理をする。

今治で岡田武史さんの講演を聴講し心震える。懇親会のあと、駅前の「しまなみ温泉 喜助の湯」に浸かる。宿は駅前のゲストハウス「シクロの家」。香港からのゲストと交流。

以降は上述の通り。

昼、松山から空路、東京に戻り、東京富士美術館で開催中の東山魁夷展を鑑賞。


(これまで横浜、仙台、東京・山種、水戸の4か所で東山魁夷展を見てきました)

作品を丹念に見ながら、旅で出会ったこと、学びを得たことを反芻しました。熟成させ後日、形にしようと思います。

ともあれ、明日が月曜日だと思うと旅の思い出もすべて帳消しになるくらい憂鬱です。真冬に露天風呂に浸かっているニホンザルの気分と言えましょうか。

湯上がりの寒くつらい現実が待っています。


(因島大橋を渡り今治へ)

FC今治の運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」。その代表取締役を務める岡田武史さんの講演会に参加。サッカーへのたぎるような熱き想いに心が揺さぶられました。

披露宴を抜け出して会場のみなと交流センター「はーばりー」に駆けつけたという岡田さん。講演会の後は高知に行かなければならないとのこと。

多忙ゆえ今回の講演への準備はままならなかったと言いつつ、サッカーと今治のまちづくりへの尽きることのない言葉の咆哮が続きます。

「死にものぐるいで考え、死にものぐるいで動く。それしかない」「このまま走っておれが倒れるか、あるいは会社が倒れるかだ」

「命をかけてとまでは言わないが」と謙遜して言うものの、リスクをかけて文字通り日々走っている様子が伝わってきます。

人口16万人の今治でJリーグ昇格を目指す。それがいかに大変なことか。J1に行くにはスタジアムを持たなければならない。岡田さんの熱き想いに賛同してスタジアムは作られた。

イニシャルコストは賄えてもランニングコストをどうするのか。

心震える感動、心踊るワクワク感、心温まる絆を感じられるスタジアム。そういったコンセプトでスタジアムを作り上げていく。

サッカーに興味がない人にも来てもらう。商業施設と一体となった複合型のスポーツパークを実現する。


(講演会会場のみなと交流館「はーばりー」)

岡田さんはスタジアム収容率日本一を掲げる。溶岩のように熱く粘着力のある情熱。片言隻句(へんげんせっく)に想いのの強さと固さを感じました。

今治から日本のサッカーを変える。岡田さんは還暦を超えたそうです。青年のような熱量にこちらまでやけどしそうになりました。

質疑応答で私は尋ねました。

「地元のいわきFCを強くするために地域は何ができるか。地域は何をすべきか」

岡田さんは簡潔に二つのポイントからアドバイスをしてくれました。胸に深く刺さる言葉でした。私自身これから何ができるか模索したいと思います。

現在、岡田さんは「株式会社今治.夢スポーツ」の代表取締役のほか、日本エンタープライズの社外取締役、城西国際大学特任教授、日本サッカー協会副会長の要職にあります。

今治と言えばタオルしか思いつかなかった私。

今治造船が日本一の造船数と技術を持っていること、「伯方の塩」の伯方とは今治市内の地名であることを今治市職員から教えてもらいました。浅学非才に磨きがかかってきたようです。

旅の恥を洗い流すため「坊ちゃん」が泳いで叱られた道後温泉に向かいます。


(ゲストハウス「あなごのねどこ」)

秘密基地を作って心騒いでいたころの興奮が蘇ってきました。尾道駅南口を降りて東側に延々と続くアーケード商店街。

意図的なのか、あるいは図らずもそうなってしまったのか。商店街はじつに昭和の匂いが濃く漂っています。

傘の付いた昔ながらの電球が淡い灯火となって照らしています。何故にこの傘付き電球に郷愁を感じるのでしょう。


(いつまでも眺めていたくなる傘付き電球)

「雨の日、風の日、街角に立ち、通りを見ています、眺めています」

電力会社のCMだったでしょうか。電柱を擬人化した歌がこの街には似合います。

尾道商業会議所の資料展示受付の方に尋ねました。


(尾道商業会議所)

「この商店街のレトロな感じは意図的に残しているんですか」

「そのまま残ってしまっていると言えるでしょうね。尾道は戦災に遭っていないんです。代々お店をやってきた方がそのまま居着いてお店をやってはるんです」

「そうなんですか。昭和な感じがとってもいいですね」

「ここの人はどこがいいんだろうって言ってはりますけどね。政治は広島、経済は尾道と言いまして、ここは栄えたんです。豪商がいっぱいいました」


(アーケードの横道にも昔のまんまの店が立ち並ぶ)

異なる種類のアーケードをいくつか歩いて、その行き着いた先にゲストハウス「あなごのねどこ」はありました。ひっそりと佇んでいました。

同ハウス付属の「あくびカフェ」脇の細く薄暗い廊下がアナゴになった気分にさせてくれます。

商店街の一角を再生して作られた「あなごのねどこ」。同じ部屋に京都から来た親子といっしょになりました。


(アナゴの寝床にふさわしい空間です。素泊り2800円)

「お姉さんと弟さんかと思いました。お母さんと息子さんだったんですね」

「暗いからそう見えたんでしょう。高校進学のために来たんです。前回は入試で、今回は説明会のために来ました」


(「パン屋航路」外観)

「説明会ということは合格されたんですね。おめでとうございます」

「ありがとうございます。この商店街のもう一つ向こうのアーケードに美味しいパン屋さんがあります。カレーパンが美味しいですよ」


(「パン屋航路」店内)

息子さんの前途を祝しつつ別れの挨拶をしました。早速、教えてもらった「パン屋航路」に立ち寄り、カレーパンとベーグルを購入。ベーグルが充実していて嬉しくなりました。

「ただでさえパン屋さんは早いのにベーグル作りは大変でしょう」

店員さんに尋ねました。

「そうなんです。ベーグルは茹でないといけないですから。熱くて熱くて」

ゲストハウスに戻ると、居間に岡山から来たという二人の若い女性がいました。こたつを囲んで笠岡沖の北木島のことでしばし歓談。

「岡山にいながら、北木島のこと知りませんでした。島で取れた石が大坂城や日本銀行の建築資材として使われていたんですね」


(「あくびカフェ」)

ゲストハウス隣の「あくびカフェ」でゆっくりと朝食を取りました。尾道と言えばラーメン。じつはそれしかわからなかった私。

学ぶべきことがこんこんと湧いてくる日本の地域の魅力に圧倒されそうです。徘徊癖にますます拍車がかかる徘徊中年。しまなみ海道の道中は続きます。


(陽光燦たる如月の海。小名浜港にて)

不登校問題を話し合うカフェに参加。不登校を経験したという高校生の話に惹きつけられました。

小学生のとき、いわゆる保健室登校でかろうじて学校に通っていた。教室での授業以外の学校行事などには躊躇しながらも参加していたという。

授業には出席せずそういった行事のときのみ参加することに一部のクラスメイトからは羨望とも揶揄とも言える、心無い言葉を投げかけられた。それが嫌で仕方なかった。

中学生になってすぐのホームルーム。学級委員長をどうするかの議論になったとき、小学生のときからのそのクラスメイトが言った。

「◯◯さんが学級委員長をやったらいいと思います」

学校を休んでばかりいた自分に対してなんていうことを言うのか、と思ったという。私のこと、わかっているはずなのに。

嫌々ながら、結局、学級委員長の任を引き受けることに。

いざ委員長になってみると数多くの仕事があり、「これはどうしたらいいのか、あれはどうするのか」等々、日々皆から判断を求められ、いつしか頼りにされ、それに応えている自分に気づく。

自分の存在意義の確かさを感じる中で、周りの勧めもあり、生徒会役員にまでなったのだという。

嫌だな、苦手だなと思っていた人が返って自分の潜在力を引き出す力強いブースターになったとも言えるこの話を聞き、何か心の中で弾けました。

結局、誰かのせいではなく、自分なのだ、と。前職で勤めていた生命保険の営業職時代の研修で上司が言っていたことを思い出しました。

「嫌だと思う人を指差してみなさい。人差し指以外の下の三本の指はこちらを向いているんですよ。要はこちらなんです」

論理的には滅茶苦茶な指差し理論。されど30年近く経ついまでも、妙に心に残っています。

要は自分なんですよね。わかっちゃいるんです。


(「カフェ・アンタイル」のランチ。ロール白菜)

神戸市職員の知人が案内してくれたのは六甲の隠れ家とも言うべき「カフェ・アンタイル」。我が家にいるかのような落ち着いた雰囲気です。美味しい料理をいただきました。

「震災のとき、この辺の六甲の山は被害はどうだったんですか」

「こちら山側は被害は比較的少なかったです。神戸は大震災のイメージがありますけど、災害といえばじつは水害で、何度も水害に見舞われてきました。神戸は治水の歴史なんです。いまから80年前に阪神大水害というものがありました」

「阪神大水害ですか。戦前ですね。初めて伺う話です。恥ずかしながら知りませんでした」

西宮市職員の共通の知人も補足して言います。

「さきほどタクシーで上がってきた大通りは土砂が流れ落ちて駅舎のガード下が埋まってしまいました」


(陽光降り注ぐ家庭的な雰囲気)

阪神大水害は、1938年(昭和13年)7月に発生。台風に刺激された梅雨前線によって集中豪雨をもたらし、死者616名、被災家屋は約9万戸にも達する大水害が起きたという。記録によると神戸市の人口及び家屋の7割が被災した。

「六甲の山は花崗岩です。水が浸透しやすく脆い。六甲は良質な水が出るところですけど裏を返せば水に弱いということです。その上、山は当時樹木が伐採されていてはげ山でした。一気に土石流が市街地に流れ込みました」

「良い水が得られるということは水害と表裏一体のことだったのですね」

「そうです。この災害を契機として六甲山系の砂防事業が国の直轄事業として行われるようになり、いまも続いています」

話を聞きながら、兵庫県選出の防災担当大臣がいたことを思い出しました。

砂防事業。どうしても利権がらみを連想してしまう私です。砂防と言えば、平河町の砂防会館。砂防会館と言えば木曜クラブそしてロッキード事件。

というわけで、何事も真っさらな眼(まなこ)で見ないと地域のことはわからないものです。旨味たっぷりのロール白菜をいただきながら反省しきりの六甲の昼下がりでした。


(また買ってしまった。にんじんくんです)

就寝少し前になると母はある器具を使って豆炭をガスコンロで火起こししました。

何と呼ぶのでしょうか。名称はわかりません。内側にこんもりと盛り上がった鉄製の網目の付いた鍋のような器具です。

どら焼きを四角にしたような豆炭独特の形状が私は好きでした。いかにも「まめたん」という感じがしたからです。

豆炭がぱちぱちと火の粉を弾き、室内が炭の匂いで充満してきます。我が家の冬の匂いです。“火起こし鍋”の中で豆炭がある程度赤くなるとトングを使ってあんかに移します。

あんかは広辞苑大の大きさで丸みを帯びています。豆炭に比して大げさな大きさに思えました。

二枚貝のように開くあんか。中心のくぼみに豆炭を据え置いたあと、二枚貝のふたを閉じ、カチッと締めます。

このあんかの外側の色は朱色です。にんじんより少し赤みがかった色。朱の墨汁に似ています。

赤い袋状のカバーにあんかを入れて、布団の中に入れて置くのです。寒がりの私はあんかを抱いたり、足裏で挟み込むようにして暖を取りました。

朝、目が覚めてあんかを開けると、豆炭は形こそ豆炭のままですが、冷えてふんわりした灰になっていました。

きっとあの豆炭あんかは石綿がぎっしりと詰まっていたんだろうなぁといまになって思います。

気にしないことが一番。気にしても解決できないことが思ったより多いことにこの頃気が付き始めました。


(104メートルからの自由落下。八景島シーパラダイスにて)

重力加速度ことgが苦手な私。地元の「いわき海竜の里」にあるドラゴンコースターでさえ、恐怖を感じます。バカにできないgがかかります。

30年ほど前に通訳の仕事でタイの研修生を東京ディズニーランドに案内しました。人混みが嫌いな私はそれまで同ランドを訪れたことがありませんでした。

スペース・マウンテンなる乗り物に乗り込むことになりました。事前の警告アナウンスが恐怖感を駆り立てます。

乗り込んで数十秒後に深く後悔しました。

どこかに飛んで行ってしまいそうな容赦のない遠心力。右に左にgがかかります。上下にも感じます。お腹の中から何かが出てきそうです。

その後は、ハンドルを握りしめ、下を向き、ただひたすら早く終わってくれと祈るような気持ちで耐えに耐えました。

こんな乗り物の何が面白いのか。苦痛と恐怖以外の何物でもない。PTSDというのでしょうか。いまだにトラウマとなって心に傷を負っています。

それから5年ほどのちに友人夫妻と八景島シーバラダイスを観光する機会がありました。

ジェットコースターに乗ろうと友人夫妻がさかんに誘います。苦手なことを訴えても根っからのラテン系の友人は「大丈夫、大丈夫」と言い張ります。

乗って間もなく、またもや深く後悔しました。重力加速度こそスペース・マウンテンに及ばないものの、心理的恐怖は比較になりません。


(河合雅司著『未来の年表』)

海上に突き出た軌道によってまるで空中を走っている錯覚に襲われます。「海に落ちるぅっ!」と本気で思いました。

降車後、友人の奥さんが気分が悪くなってしまいました。私もふらふらになりました。以来、四半世紀が経過しますが絶叫系マシンには一度も乗っていません。

恐怖をあえて味わいたいという逆説的な心理は日常生活に刺激が不足していることに起因するのでしょうか。

かつて五島勉氏の預言シリーズの著書を片っ端から読み「恐怖の大王」に怯えていた私。いまや「イカ大王」を見て笑うだけのつまらぬ感性に成り下がってしまいました。

賢人は安きに居て危きを歎き佞人(ねいじん)は危きに居て安きを歎く

いい意味の恐怖というものは必要なのだろうと思います。

というわけで河合雅司著『未来の年表』を読みながら、目下恐怖を味わっています。


(かぼちゃのモンブランケーキ)

アトリエ・バーゼルを初訪問。「住宅街にたたずむ、木のぬくもり、手作り感覚を大切にした、心温まるケーキカフェと生活雑貨のお店」(同店ウェブサイト)

「自家製ケーキ各種、焼き菓子ギフト、生活雑貨、ケーキとお茶とランチが楽しめるお店」(同)

八王子の奥座敷(そもそも八王子が東京の奥座敷かもしれませんが)とも言うべき南大沢にあります。気に入りました。

「STAUBのお鍋をオーブンで一晩かけてじっくり煮込む『コトコト煮込み』が人気メニュー」(同)

このコトコト煮込み。事前予約が必要です。まるごとの玉ねぎ、セロリ、にんじんなどが若鶏を囲むように煮込まれています。

野菜と肉の旨味がゆっくりと溶け出し融合しています。作り手の優しさが伝わってくる、そんな煮込み料理です。

素朴な味なのに深い味わい。スープを一口飲むだけで幸せな気持ちになります。身も心も温まります。


(お手洗いも素敵な造りです)

かつて母ががんを患っていたとき、いろいろな野菜を丸ごとじっくり煮込んで、そのスープをよく飲んでいました。味付けは塩だけです。

野菜だけなのに思いのほか美味しかったのを記憶しています。そのときのスープの味を思い出しました。

雪の残る八王子。2月の末に逝って四半世紀。亡き母を想いながら、シメはかぼちゃのモンブランケーキを喰らいます。至福のひととき。

ちなみに私、栗、芋、かぼちゃ系のスイーツがたまらなく好きです。

案内してくれた友に感謝。味付けは違いますが、なんだか参鶏湯(サムゲタン)が食べたくなってきました。


(海上保安資料館横浜館)

まず工作船の大きさに驚きました。建物の中に入っているからなのか、あるいは船を下から見上げているからなのか。圧倒的な存在感を感じました。

2001年12月22日未明に防衛省から海上保安庁に不審船に関する情報がもたらされる。

同日午前6時20分、発見・追跡。 午後1時12分、停船命令・威嚇射撃。

上空及び海面への威嚇射撃によっても停船しなかったことから、午後4時13分、船体への威嚇射撃を実施。

「この船体への威嚇射撃は、人に危害を与えてはならないため、射撃警告で具体的に射撃場所を伝え、射撃目標は船首や船尾端など、通常人がいないところとし、退避可能なように相当の時間をおいた後に射撃を実施」(工作船資料館パンフレット)

工作船の進路方向に漁船団が見えたため、海上保安庁は、巡視船2隻により両舷から挟み撃ちにしようと工作船に接近。

午後10時9分、船橋後部で毛布のようなものに隠れていた数名が自動小銃で巡視船に攻撃。巡視船あまみの乗組員3名が負傷。レーダーなどの機器も破壊されました。

午後10時10分、巡視船が正当防衛射撃を行い、数分後、工作船は自爆と思われる爆発を起こし自沈。

不法を働いていた工作船。麻薬の密売に関わっていたという。水深90メートルの海底から引き揚げられ、いまここ横浜に展示されています。

遺留品を見ながら、自沈とともに死亡した10名の工作船乗組員を思いました。

一方で、律義な手続きを取りながら射撃をする海上保安庁乗組員にも思いを致しました。

これほどインパクトのある資料館は、郡山市のデコ屋敷資料館(秘宝館)以来です。

工作船の要目(抜粋)
全長:29.68メートル
型幅:4.66メートル
総トン数:44トン
出力:約4,400馬力(一般的な漁船の約10倍)
速力:約33ノット(61km/h)

回収した主な武器:ロケットランチャー、軽機関銃、二連装機銃、無反動砲、自動小銃、手りゅう弾、携行型地対空ミサイル


Calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728   
<< February 2018 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM