(あぜ道に咲く彼岸花)

少年時代、我が家には一艘のボートがありました。星々のつぶやきで以前「ヒルガオ」の中で、父が拾ってきたのではないか、と述べました。

姉によると購入したものなのだそうです。

鮫川の河口にボートを浮かべ、中洲や対岸へ父と渡りました。ときに家族一家で行くこともありました。

はしけのない砂浜の川岸からボートに乗って漕ぎ出すにはちょっとしたコツが必要です。うっかりすると転覆しそうになります。

50メートルほど漕ぎ、川中に至ると2級河川とはいえ河口だけあって意外にも水深が深い。濃緑の川面をボラがときおり跳びます。

中洲に近づいてくると川底が見えてきます。徐々に浅くなり、舟底がさーっと音を立てて砂浜に乗り上げます。

潮に舟が持って行かれないように舳先(へさき)を引っ張って、中洲側にさらに引き揚げます。この中洲は満ち潮になると水没します。

直径数十メートルの中洲は恰好のシジミの採取地でした。砂地なので茶褐色のシジミ貝です。泥地に棲むシジミは黒色でざらざらしています。

中洲を離れ、対岸に向かいます。元の陸地から数百メートルしか離れていません。にもかかわらず、別世界に来たという感慨を覚えました。

これは不思議な気持ちでした。川というものは、生態系としては両岸には同一性があり、「流域」という表現で捉えることができます。

しかし、実際に向こう岸に渡ってみると、異なった世界に至ったと感じるのです。

その意味で川とは、結び付ける力よりは、隔てる方向に作用するものだと私は感じます。家の近所を流れる夏井川。その橋の一つは「両軍橋」と称します。

ところで、仏法では悟達を「此岸から彼岸」という水平移動によって表現します。下から上への上昇ではないところに私は惹かれます。

なお、サンスクリット語のパーラミター(音訳:波羅蜜)とは「向こう岸に至った」という意味です。

このことは次元は異なりますが、「水平的人間関係」を強調するアドラーの心理学を想起します。

つまり、人間関係を上下(垂直的)関係ではなく、個人と個人が対等(水平的)な関係から人間関係を捉えることをアドラーは勧めています。詳細は割愛。

というわけで、此岸から彼岸まで、少し難しい話になってしまいました。

ちなみに、「葉見ず花見ず」の彼岸花は好きではありません。


(野ねずみが朝日を浴びて目を閉じていました)

幼少期に母にたくさんの絵本を読んでもらいました。聴力がやがて失われると診断された息子に母は必死に読み聞かせをしてくれました。

絵本はいまでも好きです。でも、絵は上手く描けません。

中学2年生のときです。自分なりに一生懸命に描いた絵。それを美術の先生に「なんだこれは。描き直せ」と言われたときはショックでした。

河川で砂利を採取するキャタピラー式の重機を描いたつもりでした。

いったい何の絵なのか先生に理解されなかったようです。悲しい思い出です。この種の重機は私のトラウマです。

それからさかのぼること数年、小学生のときには「音痴」と家族に言われ、やはり心に傷を負いました。

感じていることをそのまま当人に伝えることはときに危険です。否、多くの場合、危険を伴います。

率直に伝えることのリスクを自身の体験から私は学びました。

事実は、事実という理由によって告げていいのか。もちろんウソを言うことはよくない。

しかし、事実もまた必ずしも伝えていいとは限らない。そう私は思うようになりました。

かように「事実」と「伝える」ことには、千尋の谷ほどの乖離があります。

ですから、大声で「ハゲー」などと言う人は非情な心の持ち主だと思います。たとえ事実であったとしても。

とともに、言葉の持つ不思議な力を子ども心にも感じました。言葉はまさに呪文です。

いったん「音痴」と称されてしまうと、自分もそう信じ、その呪縛から解き放たれないのです。

閑話休題。

ずいぶん遠回りしましたが、本日の本題は、絵本のことです。このごろ、絵本を書いてみたいという思いがふつふつと湧いてきます。

家の周りには野鼠、狸、狐、ハクビシン、雉、川鵜、鴨、鷺といった小動物が棲んでいます。

彼ら彼女らを登場させて物語が作れないか。そんなことを夢想しています。

ま、夢想しているうちが花なんですけどね。


(落石注意)

会津から自宅への帰り道。市内に至り、国道49号線からは近道を使おうと思いました。

いわき三和インターから県道66号線を経由し、いよいよ山深い道に入ります。県道135号三株下市萱小川線です。

車1台がやっとの隘路(あいろ)です。ときおり「落石注意」の看板が目に入ります。

「落石注意」を見て、いつも私は思い悩んでいました。

すでに落ちた石に注意を払えということなのか、あるいは石が落ちてくるかもしれないことへの注意喚起なのか。いったいどちらなのだ、と。

家人に言うと、「どっちもなんじゃない」との返答。納得です。これぞアウフヘーベン(止揚)。

さて、車をしばらく走らせると、対向車の気配。軽自動車が見えてきました。

すれ違い困難の隘路です。私が後退して山側に幅寄せをしました。すると軽自動車が止まり、80歳過ぎの男性の運転手が降りてきました。

「どこさ行くんだい」

「自宅に帰るところです。この先は通れますか。台風の被害はないですか」

「ああ、大丈夫だよ。家はどこ」

「○○です」

「ああ、うちの近くだね。新しい団地のほうげ」

「もともとの家で、義父が昔から住んでいます。義父は○○と申します」

「ああ、知ってる。むかし、いっしょに働いていたもの」

「お名前はなんとおっしゃるのですか」

「○○だよ」

「もしかしたら息子さん市役所の...私もなんですよ。どちらに行くんですか」

「どこにも行がね。栗、拾ってんだ。ほら、これだ。山には上がんね。道路に落ちてる山栗、拾ってんだ」

「ずいぶん採りましたね」

「そんなごどねぇ」

「では、お気をつけて」

車は木漏れ日の中に消えていきました。

台風のあとは栗拾いの絶好の機会なのですね。山の幸も海の幸も台風のあとはおこぼれにあずかることができます。

以前「今日もアワビなのか」に記しました。台風後に海辺に流れ着いた無数の鮑を父が拾ってきたことがあります。

もう見るのも嫌だと思うほどアワビを食べた思い出です。


(「はじまりの美術館」を初訪問。撮影可が嬉しい)

半世紀も生きていると己の至らぬ点や短所を指摘してくれる人はまれになります。勇気の要ることですから。

その意味でそのような指摘をしてくれる人を持つことは幸せです。しかも、真心からの発意であればなおのことです。

会津の地に仕事の師匠を訪ねました。


(左奥は鈴木祥太氏製作の作品。「はじまりの美術館」)

冷製茶碗蒸し、たたききゅうりの漬物、鶏のケチャップ炒めブロッコリー添え、まいたけとぶなしめじと豚肉の炒め、筋子の酒粕漬け等々。

手料理を作ってくださいました。すじこは絶品でした。熱々のご飯でかっこみたい誘惑に何度も駆られました。

真心の品々に舌鼓を打ちながら、語りに熱が入っていきます。


(鈴木祥太氏製作 同)

師匠の指摘は鋭く、ときに容赦ない。

たとえて言えば、浴室の鏡に濡れた己の頭髪が映り、思いのほか貧弱になっていることを知ったときのショック。

あるいは、ビルのガラスに映る己の歩く姿の弱々しさに気づいたときの気持ちといったところでしょうか。


(宮原克人氏製作 同)

いずれも自分自身も薄々とは感じているのです。頭ではわかっているのです。

でも、それを直視できない。否、直視しようとしない。つまり、己の弱さに勝てないのです。ずるい生命(いのち)です。

一夜の語らいによって心洗われ、お腹も満たされ、師匠宅を辞去。次は真冬の会津を訪れたいと願っています。


(中央と左は片桐功敦氏、右は今村文氏製作 同)

雪のない浜の人間のわがままです。


(中身はまったく同じ黒豆)

黒豆の煮豆が大好きです。いくらでも食べられます。でも、上手に炊けない。市販品を買ってしまいます。

ふっくらと、しかも皮にしわなく色つやよく炊いてみたいと思い数十年が過ぎました。煮豆はどうにも不得手です。

煮豆講習会なるものがあれば、万難を排して参加したい。そう思っています。

さて、黒豆の市販品と言えばフジッコです。神戸市中央区に本社を置く食品メーカー。刻み昆布の「ふじっ子」で知られています。

そのフジッコが製造するセブンプレミアムの黒豆。異なるパッケージで2種類販売されているのをご存じでしょうか。

62グラム入りの容器が2段重ねになっているタイプ(写真左)と袋に115グラム入りのもの(写真右)です。

この2つの存在を否定するものではありません。そんな意図は毛頭ないのですが...。

値段がどうしても気になってしょうがないのです。価格設定がおかしくないか、と思い続けて数年。いや増してもやもや感が募ります。

62グラム2個入り、つまり124グラムの方は149円(税込)。一方、115グラムの袋タイプは159円(税込)です。いずれもヨークベニマル好間店で購入。

124グラムで149円。1グラム1.2円。
115グラムで159円。1グラム1.38円。

おかしいと思いませんか。パッケージの手間は2個入りの方がかかっているはずです。家族に訴えても冷笑されるだけ。

気になって気になってしょうがない。黒豆を見るたびにもやもやしてしまいます。


(カフェは心のオアシス)

日暮れのカフェ。ほかに客はいません。店員さんが一人。

「あっ、いつもブログ、読んでいます」

「ありがとうございます」

「お店にベーグルは置いてありますか」

「以前はお出ししていたんですけど、いまは...。お客様へ新しいものと思っていた矢先でした。ベーグルもいいかもしれませんね」

「お店のことで前から気になっていたことがありました。それはロビーとの空間のつながりです。開放的過ぎるかなと」

「そうおっしゃるお客様もいます」

「カフェに求めるのは、第一に落ち着きであり、擬似の自分の空間です。その意味で背中がちょっと落ち着かないというか、仕切りか目隠しがほしいなと思います」

「わかります。カウンターと客席が対峙しているのもお客さんにとっては落ち着かないかもしれないですね」

いつしか私たちはカフェ談義に花が咲いてしまいました。私は提案しました。

「座ったときに顔が見えない程度の仕切りを設けるか、あるいは観葉植物を配置するのはどうでしょう」

話をしながら私は思いました。ここで「星々のつぶやき」読み聞かせができないか、と。このカフェで朗読会ができたらいいなぁと思い始めました。

「読み聞かせブログ」の誕生です。

きょうの午前中、仕事で中級音訳奉仕者養成講座閉講式で私はこのようにあいさついたしました。

「声の持つ力は想像以上に大きいのです。肉声が放つ豊かな創造性をみなさんは確信していただきたい」と。

というわけで、「読み聞かせブログ」という新たなジャンルを切り拓く決意が漲ってきました。


(新政府軍は海からやって来ました)

逆行催眠あるいは退行催眠にあこがれた時期がありました。自分の過去はどのようだったのだろう、と。

退行催眠は、出生を通り越して、前世の自分を垣間見ることができるという。記憶の奥底をたどることによって前世の記憶が蘇るのだそうです。

ところが、長じるにつれて退行催眠への憧憬は薄らいでいきました。人類の歴史を知れば知るほど、殺し合いがあまりにも多いことに気づいたからです。

私自身、加害者・被害者、双方ともになっていた可能性があります。刀を振るってずばっとやっていたかもしれないですし、背後から突き刺されていたかもしれません。

先日、6回連続講座の「いわきの『戊辰戦争』」第4回に参加しました。今回のテーマは「笠間藩神谷陣屋の受難 〜中神谷から薬王寺、八茎へ〜」です。

初めて知りました。現在のいわき市域の人々が新政府軍と旧幕府軍とに分かれて相争い、殺し合ったことを。

これまでの私の理解は、単純に新政府軍が北茨城の平潟港から上陸し、平城を攻めに来たとばかり思っていました。

違っていたのですね。あまりにも単純でした。浅学を恥ずるのみです。

当時、市北部には笠間藩の飛び地があり、同藩の神谷(かべや)陣屋がありました。大雑把に言えば、夏井川の北側が笠間藩領、そして南側が磐城平藩領です。

笠間藩本藩の牧野家は新政府軍に恭順の意を示していました。奥州越列藩同盟に属する磐城平藩にとっては敵ということになります。

150年前、この地で、言うなれば“市民戦争”が行われたのです。

毎日、通勤で歩いているこの地は、じつは死屍累々の血塗られた戦場だったのです。

鼻歌を歌いながら、ほろ酔い気分で歩くこの道にも凄惨な歴史が留められているのです。

私は知っています。たまに待ち合わせに使う、あの角の薬局が刑場跡だったことも。

というわけで、きょうの教訓です。

知ることも大事、知らぬことも大事。


(こじんまりとして大好きな曽原湖)

ふとした小さなサプライズの重なりが幸せの肥やしになるのだと思う。昼食後、職場の給湯室でタイ製の弁当箱を洗っていました。

背後から「ピントー」との女性の声が聞こえてきました。

そうです。私はタイ語で「ピントー」と呼ばれる弁当箱を洗っていました。以前「ピントー」でつぶやいています。

声をかけてくれたのは「星々のつぶやき」の愛読者で、かつ同じフロアの職員でした。身近に愛読者がいるとは思いもしませんでした。びっくりすると同時にうれしくなりました。

ブログをお読みになって「ピントー」のこともよくご存じでした。窓もなく陰気な給湯室。百ワットの電球が灯ったかのように明るくなりました。

地元の大学を訪れて教授と面会したときのことです。ひととおり当方の話を終えたところで、「相談があるんです」と。

教授が理事長となっているNPOの取り組み(重病の子どもたちを支援する活動)で、ある財団から助成金を受けようとしている。

その条件として地域に根ざした団体との連携が必要となっている。しかもNPOの法人格を有している団体でなければならない、という。


(郡山のベーグル専門店「ヨシダベーゴー」)

「私の取り組みに賛同する、どこかいい団体がないでしょうか」

私の頭の中にある団体が思い浮かびました。お母さん方が元気に活動している団体です。しかも、NPO法人を取得しています。

「先生、心当たりのある団体があります。先方に連絡を取ってみます。その上で再度先生にご連絡いたします」

帰庁後、団体の代表の携帯電話に電話しました。すると市役所の庁舎内にいるという。

なんというシンクロニシティ(共時性)でしょう。教授に連絡先を伝えることの快諾を得て、すぐに大学にメールを送りました。

先生から依頼を受けて1時間後にミッションが完了しました。

きょうのサプライズ。午前中のことです。ふらっと友人が職場に訪ねてきました。

私の大好きなベーグルを持ってきてくれたとのこと。東京で買いだめしたベーグルが冷蔵庫からなくなり、禁断症状が出始めようとしていたところでした。

なんというシンクロニシティなんでしょう。感謝感謝です。

小さなサプライズの重なりは幸せの肥やしです。


(何より構えがいい。緑色のラインもいい)

「『小京都と呼ばないで』。金沢市は、『小京都』のイメージを払拭(ふっしょく)するための会議『金沢らしさ検討プロジェクト』を始めた」(2017年9月13日/官庁速報)。

時事通信社の記事を見て、その通りだと思いました。かねてから「あやかる」という言葉が私は嫌いです。

正直、私もあやかりたいと思うことはあります。ああいいなぁあの人、と思うことも、もちろんあります。

改めて「あやかる」の意味を調べてみました。

「好ましい状態にある人の影響が及んで、自分も同じような状態になる。『あなたの幸運に―・りたい」(三省堂大辞林)。

てっきり「あやかる」は願うことかと思っていました。が、そのような状態になることを意味するのですね。これは発見です。

ともあれ、金沢市が小京都と呼ばれたくないという気持ち。わかります。

小京都と自ら呼んでしまった瞬間から、金沢市は京都よりは格下だと宣言しているようなものですから。

以前、星々のつぶやきの「東北の湘南」で私は述べました。東北地方には「東北の湘南」を標榜する自治体が少なくとも5自治体ある、と。

秋田県にかほ市、岩手県陸前高田市、宮城県亘理町、同山元町、福島県いわき市。

東北の湘南と称してしまった瞬間から本物の湘南以下だと認めていることになるのです。それは自慢でもなんでもありません。

当該地域が温暖だという意味で標榜しているのであれば、即刻やめた方がいい。

この「あやかり」根性を私は心から叩きのめしたい。そして、提唱したいのです。

九州の某市に「わが市は九州のいわき」と呼ばせ、関西の某町に「わが町は関西のいわき」と呼ばせ、関東の某市に「関東のいわき」と呼ばせしめるのです。

いま私の胸には恩師の言葉が蘇ってきます。ゼミ生が国際関係についてのレポートを発表したときのことでした。

「今後は環太平洋地域が世界の中心になっていく」と学生が述べたあと、恩師は言いました。

「いま、あなたがいるところが世界の中心なんですよ」


(何を話しかけているのか)

文字の力を感じました。要約筆記者養成講習会の閉講式に主催者として出席したときのことです。

要約筆記は、中途失聴者や難聴者のコミュニケーション保障の手段の一つです。手書きによる要約筆記とパソコンによる要約筆記があります。

修了最後の時限として、1時間の講演の音源を再生して書き取る研修がありました。30分を手書き要約筆記、残り30分をパソコン要約筆記によって行うというものです。今回の修了予定者は2名です。

始まる前、私は思いました。

パソコンの方が断然早いし、要約できるボリュームも多い。手書きはパソコン要約筆記に適わないだろう、と。

1時間の講演を聞き終わり、私は不思議な思いにとらわれました。

私は軽度の難聴です。補聴器をしていますが、顔が見えない音源再生だけの講演は聞き取りが難しい。なぜなら、口唇の動きを読み取りながら聞いているからです。

音源の再生が始まると案の定、2割程度しか理解できません。

まさに要約筆記が必要としている状態です。

手書き要約筆記は、確かに遅い。

しかし、研修の賜物でしょう。余計な情報が削ぎ落とされ、言葉が文字通り「要約」されているのです。しっかりと講師の言わんとすることが伝わってきました。何よりも手書きの持つ味わいが温かさを添えていました。

後半の30分はパソコン要約筆記です。手書き要約筆記とくらべボリュームが格段に増えました。手書きよりも誤字は減っています。

だからと言って、必ずしも理解しやすいかというと、そうでもないのです。話者の言葉を忠実に再現しようと要約筆記者は努力しています。

ところが、要約の度合いは手書きと比較して格段に落ちているのを感じました。また、パソコンの文字を投影した文字は読みやすいものの、無機質さは否めませんでした。

結果として、手書き要約筆記の方がより伝わってきたと言えます。

そのことを要約筆記者講習会の講師に伝えました。

「そうなんです。パソコン、イコール優れているとは限らないのです。ですから、会では要約筆記の依頼を受けるとできる限り手書き要約筆記で行うようにしています」

そのような答えが返ってきました。

文字の持つ不思議な力を垣間見た思いがします。


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