(幼い頃遊んだ小浜海岸。友人が撮影し送ってくれました)

最近の補聴器は小さくてカラフルでまるで宝石のようです。でも、値段がじつに高い。私の補聴器は両耳で50万円しました。

2か月に1度ほどクリーニングをしてもらうために補聴器店に寄ります。精密機器ですのでメンテナンスは大事です。

「連絡しようと思っていたんですよ。新しい補聴器が発売になったんです」

「ほう。どんな機能が付いているんですか」

「新機能は残響抑制です。騒音抑制はこれまでもありましたけど、反響の大きい部屋での聞き取りが楽になります。アンプの回路も新しくなって質が良くなっています」

「いいお値段ですね。両耳で629,000円ですか」

「試してみますか。補聴器の乾燥をかけている間に設定しましょう」

新製品の補聴器をパソコンにつないで私の聴力データに合わせて調整。最新の補聴器は小さなコンピュータが内蔵されています。

真空器が唸り声を上げながら私のお古の補聴器を乾燥しています。新製品を耳に付けてみました。

「おお、これは音がクリアですね。繊細ですね。ほしいなぁ。補聴器がなくても生きてはいけますけど、仕事はできないんです。補聴器は私の身体の一部です」

「たしかに補聴器がなくても生活はできますけどね。お仕事には不自由ですよね。いまの補聴器はもう10年経ちますね。そうそう、誤って洗濯機に入れてしまいましたよね」

「はい。ポケットに入れたまま洗濯機で2回洗ってしまいました。イヤホンとスピーカーを交換してもらいました」

「そういえば補聴器から洗剤のにおいがしていましたよ。アンプは交換していないのでそろそろ故障する可能性がありますね」

「629,000円かぁ。ま、非課税なのがせめてもの救いですけど」

クリーニングと乾燥が終わりました。

音が良くなった10年越しの補聴器を付けました。なんだかもう少し頑張れそうな気がしてきました。

学生時代、下着を裏返して着て新鮮感を味わい、もう一日いや数日頑張れた頃を思い出しました。


(コーチ・エィ取締役の粟津恭一郎さんの本です)

意識せずとも日に何度も私たちは質問を投げかけています。自分に対してもです。

夕餉の食卓。元暴走族だった人が学校の先生になった。群馬の人だという。すごいねと高校生の息子たちが賞賛。

すかさず私が質問します。

「暴走族でない、いわゆるふつうの人が勉強して教員になったことと元暴走族の人が教員になったことは、先生ということの評価は同等じゃないの」

「いや違うよ。元暴走族の人が先生になるってすごいじゃない」

「じゃ、人間はいったん悪に染まってから先生になる方が素晴らしいってなっちゃうんじゃないの」

「そういうことじゃなくて」

「じゃ、刑務所から出所してきた人が先生になるのはどうなの。背中に絵が描いてあって小指がない人だけど」

「それはダメでしょ」

「なんでダメなの」

「だって犯罪を犯してるもん」

「犯罪を犯した人はダメなんだね。再起しちゃいけないってこと?」

「元暴走族の人が先生になることはすごいことで、犯罪を犯した人が先生になるのは許されない。この違いはなに?」

「ん〜わかんない」

「過去との対比も大事だけど、いま目の前の姿において評価することの方がより大切だと思う。いま何をしているのかという視点」

息子たちは耳を傾けています。

「もちろん元暴走族の人が先生になるには大変な努力が必要だった思う。けれど、そのことと人間の評価は別物と考えた方がいい。まっとうに努力した人も同様にすごいことなんだ」

というわけで、食卓での親父の意地悪な質問は食感に影響するということがわかりました。


(カフェは水の入ったグラスが似合う)

図書館にて吉田麻子著『小説でわかる名著「経営者の条件」人生を変えるドラッガー』を読了。その後、同図書館主催の上映会に参加。そして夜は小さな勉強会に。

『小説でわかる名著「経営者の条件」人生を変えるドラッガー』は、ある読書会の課題図書です。知人に勉強会への参加を勧められました。

著者は眼光紙背に徹する思いでP・ドラッカー著『経営者の条件』を読んだのでしょう。良書だと感じました。

単にドラッカーをわかりやすく、物語風に描いたというのではなくして、ドラッカーが何を訴えようとしたのか、その真の目的に肉薄しようとの試みを感じました。

図書館での上映作品は「氷雪の門/樺太1945年 夏」でした。いわゆる「真岡郵便電信局事件」を扱った作品です。ドキュメンタリーではなく脚色を交えての物語といってよいでしょう。

樺太は当時日本領でした。1945(昭和20)年8月15日以後も日本軍とソ連軍との戦闘が続いていました。

真岡郵便局の電話交換手は疎開ぜず業務に当たる中、8月20日に真岡にソ連軍が上陸。女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡したという事件です。

昨今、レッドラインとかチキンレースといった、どこか上滑りしたテレビのワイドショーのような感覚で、戦争を他人事のように感じている自分がいました。

同映画を見て自らを省みました。

戦争ほどむごたらしいものはなく、悲惨なものはない。戦争とは、リアルに肉親が死ぬ、いや、殺されることである、と実感しました。

夜は知人主催の小さな勉強会に参加。地元の大学の先生を講師に招いてのお話でした。


(読みやすい本です)

スマホの電話料金がなぜ高いのか、格安スマホとは何なのかといった話題からふるさと納税のメリット、ネットバンキングの利点等これまで触れたことのない知見を得ることができました。

勉強会に参加して思いました。

知らないということのおそろしさです。知る者と知らざる者との格差は広がるばかり。

読書によって自ら一次情報を得る地道な努力も必要なことでしょう。

今月は夏休みもあり現時点で7冊を読み終えました。でも、頑張っても月に10冊がいいところです。ちなみに7冊目は橳島次郎著『これからの死に方』でした。

やはり思うのです。

一次情報としての書籍を読む努力を重ねつつも、人の出会いが大事である。つまり、「知っている人を知る」ということが並行して必要なのではないか。

わからないことがあったら知っている人に教えてもらえばいいのです。

己ひとりが知ることのできる範囲は極めて狭い。時間も限られています。いつの間にか半世紀も過ぎてしまいました。あと何年生きられるのか。

今後は、「知っている人を知る」営みにも力を入れていきたい。そんなふうに思った学びの土曜日でした。

美味しい店を知っている人、特に繋がっていきたいと切に願っています。


(川内村のカフェAmazon)

私は「真剣な無料」に弱い。無料なので当然費用は発生しない。気楽に構えていいはず。でもちょっと違うメンタルなのです。

GoogleやYahooといった検索エンジンやfacebookなどのSNSも無料ではあります。が、どこかに商業主義が見え隠れし、遠慮の気持ちは起きません。

広告も出てきますし、検索の傾向をAIに分析させて、利用しているんだろう、と邪推、いや推測しています。

だから、無料であることに引け目は感じません。お互い様でしょ。私のことも利用してますよね。そんな気持ちです。

少し前にユニークな形のハチミツ・スプーンをネット上で見つけ、どのショップが安いか比べたことがあります。

たかがスプーン、されどスプーン。こちらも真剣です。

結局、購入はしなかったのですが、しばらくの間、検索エンジンを使うたびに、そのスプーンの広告が表示されていました。

しつこいぜAI。恐るべしAI。

ところが、そういったものと異なる種類の無料があります。私はそれを「真剣な無料」と名付けたいと思います。

日経ビジネスオンライン(通称NBO)

じつにクオリティの高い情報を提供しています。最新の時事や企業の動向など鋭い視点からの記事に毎度多くの学びがあります。

無料で読むことに、恐縮の思いを抱き、極端な言い方をすれば良心の呵責に苛まされそうです。

WEEKLY GLOBAL COACH

株式会社コーチ・エィが発行する公式メールマガジンです。世界で18万人を超えるビジネスリーダーたちが愛読しています。

エグゼクティブコーチによるビジネスコラムのほか、コーチング研究所の分析レポートなど、毎回、そうか、なるほどと思う、含蓄に富んだ内容のメルマガです。

毎週毎週読ませていただくたびに、「無料で読んですみません」という思いに駆られます。

トライアート通信

地元の会社「有限会社トライアート」の広報紙です。毎月発行。この8月で90号を数えます。

同社はサインの会社。いわゆる看板屋さんです。

A3判カラー見開きの「トライアート通信」は表紙の絵に新進気鋭のアーティストの作品を用いる力の入れよう。

記事は「TRYARTのお仕事」「アート日記」「スタッフのひとりごと」「社長の部屋」「東京営業所より愛をこめて 浅草橋日和」「かわらばん」のほか「それいけ!サンドマン」という4コマ漫画もあります。

かなり手間暇がかかっているはずです。

ヘッダー(ページの最下部)には「言葉のサプリ」という欄があります。

今号では「『@』を@マークと呼ぶのは日本だけ」や「現代のサンドバックの中身は『砂』ではない」とさらっとトリビア的なことが記されていて勉強になります。

とにかく面白い。内容が濃い。私は「社長の部屋」と「浅草橋日和」が大好きです。

毎月無料で郵送されてきます。この頃、“恐縮感”が募ってきています。

「真剣な無料」には、不思議な力がある。そう思います。

心の中で信頼と紐帯の気持ちが芽生え、強力なファンになってしまっているのです。

あなたの周りにもきっと「真剣な無料」があるはずです。


(ドトールのあさ。昨日と座る位置が違う)

ふと恩師の言葉がよみがえります。「事実であっても、言っていい立場とそうでない立場があるんだよ」。

A国がB国を占領。そのお蔭でB国のインフラや教育が発展したという「事実」があったとします。

恩師曰く。

「そのことについてB国の人が言及するのはいい。でも、A国の人が言ってはだめなんだ。事実だからといって言っていいとは限らないのだよ」。

国際関係とはまったく関係のない卑近な例でもこれは言えます。

頭髪が薄い。娑婆世界では「ハゲ」と言います。私も最近抜け毛を大量生産し危機感を抱いています。

その事実を他人が言ってはだめです。本人が言及するのであれば構わないでしょう。

ま、その場合であったとしても「本当に薄くなったよね」などと言ってはいけないでしょう。

むしろ「そんなことありませんよ。心なしか濃くなってきているように見えますよ」。

そのように言うことは、個人の感想としてならばよいでしょう。あくまでも個人の感想ですから偽りではありません。思いやりの心です。

繰り返します。

事実であるということと、言及していいということは別次元の問題なのです。

冒頭のA国とB国について言えば、占領したという事実こそA国の人々は直視すべきでしょう。

靴は踏まれた方はその痛みをいつまでも覚えているものです。踏んだ側はすぐに忘れてしまうのに。

マレーシアに長く駐在していた方のメルマガを拝してそんなことを思いました。


(職場の隣の公園)

休み明けの職場。身体が鈍(なま)っているのを感じます。頭の回転も鈍い。回覧されてきたスタッフ作成の報告書を読んでいます。

尋ねます。

「事業所を訪問しての実態調査の報告書のようだけど、なぜこの時期に訪問したの」

「法律の改正に伴って基準が変わり、その基準に合致しているか調査するよう国の通知があったからです」

「なるほど、理由はわかりました。改正された基準に合っているか調べるというものだね。では、対象となる事業所は市内に何か所あるの」

「3か所です。うち1か所は休止中なので2か所を調査することになります。この報告書はその1か所目で、追ってもう1か所分の報告が上がってきます」

「まさににいま教えてくれた『なぜ』の部分と『調査対象の事業所数』、休止中が1か所あることを含めて、報告書の冒頭に書いてほしい」

「あ、はい」

石川啄木の短歌「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」を引いて、私は報告書の書き方についてアドバイスしました。

「この報告書に間違いはない。詳細に調査結果について書かれています。でも、なぜいまこの報告書が作成されたのか、なぜこの事業所だけが調査されたのか、が記されていない」

「はい」

「石川啄木の短歌で言えば、『われ泣きぬれて蟹とたはむる』の部分についてのみ書かれているということです。背景や全体像に当たる『東海の小島の磯の白砂に』が欠けている」

いぶかしげな表情を浮かべたのでさらに説明を加えました。

「報告書というものは、作成者やいまここにいる職員が全員異動したとしても、わかるものでなければならない。どのような経緯で作成されたのか、5年後の担当職員が見ても理解できるものであるべきなのです」

鳥瞰(ちょうかん)する眼を持っていた石川啄木。空の高みから東海を見、そこに浮かぶ小島の磯にズームアップ。

白砂にいる自分自身の状況を描いています。小さな生き物である蟹とたはむれている様子を。

ちなみに、今号のブログで言えば「休み明けの職場」が「東海の小島」に当たります。

というわけで、明日はもう金曜日。なんだかちょっと嬉しい。

今夜の課題図書は木下芳一著『つらい「胸やけ」スッキリ―胃食道逆流症といわれたら』です。しっかりと酒とたはむれる身体になりたいものです。


(ドトールのあさ。休み明けの気持ちをリセット)

休み明けのあさは弁当を作るのがしんどい。私は思います。弁当作りとは一定程度の気持ちの張りがあってはじめてなし得る作業である、と。

東京から友人一家が来訪。今春小学校に上がった可愛らしいひとり娘さんを連れての小旅行です。

海に行きたいという。正確に言えば、泳ぎたいとのこと。

連日梅雨の続きのような秋雨を思わせるどんよりとした日が続いています。当日は雨でした。

高速道路を北上中の友人に屋内で楽しめる施設をいくつか紹介。検討するようにアドバイスしました。

しばらくすると雨の降る海辺でお母さんと娘さんが喜ぶ画像が友人から送信されてきました。数人のサーファーを除いて海水浴客はいないという。貸切状態です。

驚きました。雨の中、歓喜雀躍と波と戯れる姿に感動すら覚えました。

友人がテント内に待避しながら見守っているのは予想がつきましたが、お母さんも娘さんとともに雨の海水浴を楽しんでいるのです。

夕方、みな我が家に来てくれました。

聞けばお母さんはかつて水泳部だったという。海水の温度を測り22度以上あることを確認。

一見無謀に思えた行為は、じつは細心の注意を払ってのことだったのです。

海で泳ぎたい。その願いをなんとしても叶えてあげたい。その一貫した意志に心揺さぶられました。

自分だったら、と思わざるを得ませんでした。二酸化硫黄の香る屋内レジャー施設でお茶を濁したであろう、と。


(イワナの里「川内村」)

翌日、隣村の釣り堀に案内。イワナを7匹釣り上げました。小1時間かけて炭火で焼きイワナを頬張りました。

この日も時折霧雨の降るあいにくの天気。イワナを堪能したあとは村内の温泉に入って旅の疲れを癒してもらおうと思いました。

「また海に行きたいっていってるんだよね」

「本当に海が好きなんだね」

友人一家は山を降りて一路海岸に向かったのでした。

のちに連絡があり、娘さんはふたたび歓喜雀躍と楽しんだとのことでした。

私は思いました。この頃、自分自身に貫くという心が失せてきた。やわになってきたな、と。

友人一家に触れて、私は心に期しました。「貫く心」をいまふたたび喚起したい。

というわけで、弁当作りを明日からまた頑張りたいと思います。身近な一歩が大事です。

一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、です。


(澤上商店)

「隣の芝生は青い」。そう見えるのではなく、事実であることもあります。いや、多々あるといってもいいでしょう。

隣接の市ではないものの、とかく比較することの多いK市に行ってきました。私の欲するものがあるからです。

「人生の喜びの85パーセントは食べ物で得られる」とは、星々のつぶやきで生まれた格言です。

私の食べたいものがK市にはあります。まず、澤上商店。ベトナム料理店です。


(ほの暗い店内)

店内の雰囲気はまさに東南アジアのひなびた食堂。店内に入るとニョクマム(タイのナンプラー)と香辛料のにおいが脳を刺激します。

海南鶏飯(タイでいうカオマンガイ)とフォー(米粉麺)を注文。

嗚呼、においがたまらない。鼻を寄せ、吸い込み、鼻腔の奥に送り込みます。

脳髄に圧縮されていた30年前のタイ滞在中の記憶が解凍されていきます。においによってタグ付けされた過去の記憶が走馬灯のようによみがえります。


(海南鶏飯。皿の模様がパイナップル)

身震いするような快感を覚えます。

こんなお店のあるK市はいいなぁ。羨望の思いに駆られます。才覚と資金があれば自分でお店をやってみたい。

次に、ヨシダベーゴーに初入店。ベーグルのお店です。

ベーグルは、パンの一種。東欧系ユダヤ人の食べ物として知られています。基本的にバター、卵、牛乳を使用していません。


(素敵なお店 ヨシダベーゴー)

こねた生地をドーナツ状にして湯にくぐらせてから、焼きます。もっちりとした触感がたまりません。

20年前に滞在していたカナダ・モントリオールの日々を思い出させる食べ物です。

横から輪切りにして、クリームチーズを塗って食べるのが主流です。

こんなお店のあるK市はいいなぁ。なぜわが市にはないのだろう。不満が募ります。才覚と資金があれば自分でお店をやってみたい。


(冷凍で1か月保存できます)

というわけで、退職後の夢は、タイ料理とベーグルを楽しめる店を開店することです。

が、才覚も資金もないのでときどきK市に行くことにします。 冬はわが市よりずっと寒いので行きません。


(スパリゾート・ハワイアンズ)

もうその土曜日は朝から興奮していました。ただでさえ土曜日は半ドンでうれしい。その日は特に楽しみでした。

火力発電所の年中行事の中でのハイライト。それが常磐ハワイアンセンターに行く日なのです。秋の行事だったと記憶しています。

学校からアパートに帰宅。両親は家族5人分の着替えや食料をリュックに詰め込んでいました。

午後2時過ぎに常磐交通の乗合用のバスが「貸切」と表示し、社宅の周りに何台も待機していました。

アパート1棟に20世帯余が入居していました。11棟のアパートと上位役職者用の平屋の戸建を含めれば、佐糠町の社宅には相当な数の住人がいたと思います。

火力発電所と常磐ハワイアンセンターはもともと事業上のつながりがありました。

炭鉱です。

大鉄傘(だいてっさん)の常磐ハワイアンセンターの構造は、火力発電所の貯炭場(ちょたんば)と大きさも形も同じです。

午後3時半ごろに常磐ハワイアンセンターに到着。

靴を脱ぎ、半透明の袋に入れます。素足に床の温かみを感じます。二酸化硫黄のにおいと湿気。いやがうえにも心が躍ります。

我が家はプールの見える3階の休憩室に陣取ることが多かったように思います。誘蛾灯のような薄紫色の蛍光灯が天井にぼんやりと光っていました。

ステージでは枕木のような打楽器を激しく叩いています。

姉と弟と私の3人はプールに向かいます。流れるプールなどでひと泳ぎして父母のところに戻ると夕飯です。

重箱に混ぜご飯やいなり寿司、ゆでたまごが詰まっています。当時は当然のように食べ物を持ち込んでいました。

私の楽しみは、3つ。

まず、ゲームコーナーに行くこと。スマートボールとメダルゲームが目当てでした。落ちそうで落ちない棚田のメダルをときに腰の力を使って獲得しました。

つぎに、カネボウのBOBというアイスキャンデーを買うこと。それから、風呂上りにミキサーのメロンジュースを飲むことでした。

温泉ももちろん楽しみでした。

金魚の入った水槽の上にある金魚風呂、追加料金を払わなければならない金風呂、ハワイを冠した施設なのになぜかナイアガラの滝を模した露天風呂。露天風呂に行くまでの小路が薄暗く、そして寒い。

露天風呂は岩によって男女が仕切られていました。ときに岩をよじ登る人もいました。

午後8時半まで、みなが思い思いの時間を過ごします。

私はバナナ園が好きでした。

バナナやパイナップル、パパイヤが実を付けていました。鎖に繋がれた大きなオウムが大人の背より高いところにいて鋭いくちばしを見せていました。水槽にはピラニアが泳いでいました。

お土産コーナーを通過して午後9時ごろにバスに乗り一路社宅に戻るのでした。出口近くのソテツを照らす強烈な照明から湯気が立っていました。

枕木の打楽器、金風呂、金魚風呂、ナイアガラの滝、オウム、ピラニア、BOB、メダルゲーム、ソテツ等々。

こういったもろもろのものが融合して私のハワイのイメージが作られて四十余年。

いつの日か、二酸化硫黄がにおわないという、太平洋に浮かぶ島・ハワイに行ってみたいものです。

ちなみにナイアガラの滝はカナダ側から20年前に訪れることができました。露天風呂の滝とは比べものにならない豪快な滝でした。


(夜のいわき駅)

旧友と久しぶりに会い、寿司店で夕食を共にしました。翌日、人間ドック受診のため、私は酒抜きでの食事です。

友人はある県庁所在地の地方議員を務めています。政治家の感覚ということが話題になりました。

私が尋ねます。

「国会議員の問題発言とか振る舞いを見てると、やっぱり赤じゅうたんボケってあるのげ」

「あると思うよ。地方議員だってそういう感覚になるもの」

「どういうふうになるの」

「新幹線での移動は視察などの公務はグリーン車なんだ」

「おれは乗ったことないな」

「でね、グリーン車って椅子の幅が違うもんだから、たまに私用で普通車に乗ると狭いって感じるよ」

いまだかつて乗車したことのないグリーン車に思いを馳せていると友人が尋ねます。

「グリーン車と普通車って違うなって感じることがあるんだ。何だと思う」

「何だろうね。客層かな」

「においなんだよ」

「へ〜においね」

「グリーン車から普通車に移動するとわかるんだけど、食べ物やらお客さんのにおいやら、雑多なにおいがするんだ。で、グリーン車に移動すると、その生活のにおいがないんだ」

「なるほどね。においね」

「それから、音も違う。普通車は子どももいるのでがやがやうるさい。でも、グリーン車は静かだ。明確に違う」

友人は言う。グリーン車に乗ることが当たり前という感覚がこわい、と。

私は友人のにおいの話に強く惹きつけられました。

超一流と言われるホテルには、かぐわしい香りがあり、においでホテルのランクがわかるのではないか。かねがね私はそんな考えを持っていました。

ひとしきりにおいの話題で盛り上がったあと、お互いが服用しているクスリの話に花が咲きました。友人は血圧が高いのだという。

「おれ、上が150で下が100なんだよ」

「無理に下げない方がいいんじゃないの。大脳が血液を送ってくれって命令してるんだろうから。ちなみにおれは上が100。飲んでるクスリは逆流性食道炎を抑えるやつ」

というわけで、最後は加齢臭漂う、じつにオヤジくさい話で終わりました。

「特別」が当たり前の感覚になり、さらに、当たり前という意識すらなくなったとき、人間は腐ってくるのだろうなと思いました。

加齢臭はにおっても、人間としての腐臭だけは漂わせたくないものです。


Calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM