(「ななへやへはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき」。我が家にも蓑はありません。自宅にて)

わかってはいるのです。糖質は抑制すべき、と。この頃、糖蜜・黒蜜・蜂蜜の三蜜を身体が欲しています。禁止されると余計に掻き立てられるカリギュラ効果のせいでしょうか。豊後国に旅する人の気持ちも私にはわかります。

おかしな夢もよく見るようになってきました。一昨晩はピザの夢でした。

第二次世界大戦がエポックを画したようにコロナ禍もまた歴史の転換点になり得るのでしょうか。後世、「コロナ前・コロナ後」と称されるようになるかもしれません。

記憶をたどる基準点としていつの間にか震災前か後かを用いるようになりました。「あれは震災前だったっけ」「いや、震災のあとだよ」等々。関西と東北では「震災」の意味が異なることは要注意です。

もはや大型連休明けにコロナ明けを迎えるとは専門家も含め誰も信じていないでしょう。長梅雨のようにしばらくは陰陰滅滅と続くように思います。

コロナ明けとは、仮にあったとしても、晴々としたものではなく、コロナが常態化し社会が受容した状態を言うのかもしれません。society with coronaあるいはlife with coronaがコロナ明けの実態となるでしょう。

国家においても企業においても、コロナ禍という挑戦に対し的確に応戦できたところがコロナ後の勝利者となります。

民の意を汲み取り最適な制度設計を迅速に構築し、実行する。この際、実行とは末端まで速かに行き渡らせることを意味します。そういった観点から台湾はコロナ後、変貌が最も期待される統治機構の一つです。

人間の身体にたとえれば大脳で最適解をすぐさま見つけ、全神経を通じて一気呵成に伝達する手段と実行力を体得したように思います。脳も神経もまるで筋肉質のようです。

私は憂います。

我が国の為政者は神経伝達部分においてのみ筋肉質を得たいとの誘惑に駆られるのではないか、と。管理型国家への誘惑です。もっと強制力を持ちたいという権力欲が増大しているのではないかと危惧しています。

人は嘲笑され馬鹿にされたとき、それが蓄積し、次なる謀(はかりごと)へのエネルギーとして引き継がれていきます。当代だけでなく、次代においても注意深く監視していきたいものです。

コロナ禍を奇貨として発展していく国家と、蹉跌となり転落していく国家に分かれるエポックに私たちは立ち会っているのかもしれない。そんなふうに思っています。


(人間を変えるのは習慣なのです)

なんであんなに髪の毛があるのだろう。国会中継を見ているときに真っ先に思う我が国の総理大臣に対する私の感想です。

子どもの頃、総理大臣の頭髪のイメージは田中角栄氏でした。それ以降もそのイメージを裏切らない諸氏が就きました。校長室に掲げてある歴代校長の写真とダブるヘアスタイルです。

バーコードの厚薄に違いはあっても原則として頭皮が照り輝き、かつ、すだれ系の人々が我が国の総理大臣でした。校長先生もまたそうでした。

ところが、今どうでしょう。我が国の総理大臣はふさふさです。答弁の内容よりも、若干の滑舌の悪さよりも、国会中継を見るたびに私は頭髪に目が行ってしまうのです。

そういえば、父上も髪が豊富にありました。やはり遺伝なのでしょうか。

世界のトップリーダーを見ても従前の田中角栄氏的頭髪はロシア大統領くらいでしょうか。中国国家主席もまた豊かな森林を頭上に蓄えています。何かと話題のお隣の韓国大統領も白髪こそ目立ちますがしっかり生えています。

合衆国大統領においても同じです。ニクソン氏やフォード氏のような頭皮光輝系は近年まったく登場しなくなりました。不思議なことです。現大統領にあってはむしろ頭髪の豊かさを誇示するようなヘアスタイルです。

ただ、交代したばかりのイギリス首相の頭髪は妙です。薄いのか、あるいはたくさんあるのか。ヘアスタイルによってわからなくなる曖昧さがあります。ニュータイプ出現といった感じです。ウォッチすべき新種だと思っています。

このように世界の国家指導者の間で頭髪に変化が起きていることを私たちは気づかなければなりません。持続可能な毛髪に余念がないのです。

おそらくG20サミットの昼食後の裏の話題はお互いの髪の毛のことでもちきりだと私はにらんでいます。

というわけで、30数年通う理髪店で“ハゲのカリスマ”こと小林弘子氏の著書を紹介されました。『あなたは「髪を生やす習慣」を知らないだけ。』です。約5万人の髪を生やしてきた実績があるとのこと。

「あら、この辺、薄くなってきたわね」

髪を切ってもらいながら以前よく言われたその言葉も最近聞かれなくなりました。そうです。言及されなくなったとき、それはいよいよ到来したときなのです。

覚悟と受容。エリザベス・キューブラー=ロス博士が訴えていたことと重なります。

山崎豊子著『不毛地帯』。伊藤忠元会長のS氏が主人公ではと騒がれた著作です。じつは隠された別な意味があるのではないか。急ぎ再読を検討中です。


(福島県立博物館にて)

よく切羽詰ることがあります。その割りに行動は緩慢。さほどない血が頭に上り、思考が停止します。

反りが合わない人と仕事をするとストレスフルとなります。どう工夫しても、どう努力しても合わない。アジャストできないのです。

であれば、鍔迫り合いをしてでも立ち向かえるかというと、そんな胆力は己にはありません。ただ、相槌を打ちながら、時が過ぎるのを待つのみ。


(伊勢志摩サミットで供された菓子を求めて本家長門屋へ。会津若松七日町にて)

鎬を削るような険路を歩むこともなく、争いごとを避けてきた結果、隘路に至る始末。結果、折り紙つきの臆病者になりました。

以上、「刀由来」の言葉を6つ使って私の心象風景を描写してみました。

すなわち、「切羽詰る」「反りが合わない」「鍔迫り合い」「相槌を打つ」「鎬を削る」「折り紙つき」です。

福島県立博物館に赴き「美しき刃たち〜東京富士美術館コレクションと福島の名刀〜」を鑑賞。まったく予備知識もなく平安時代から近世に至る眼前の刀を呆然と眺めるだけでした。


(刀より団子。長門屋にて)

脇差(短刀)を見たときは、いい刺身包丁に使えそうだと邪(よこしま)な思いがよぎりました。それにしてもなぜ錆びないのか、これは不思議でした。

懇意にしている鉄工所社長のKさんに教授いただかなければと思った次第です。

この展示で最も感銘を受けた作品は私の職場の近くの「鍛冶町」出身の刀工の手による刀でした。

朝鮮国王に贈る刀を作るよう幕府から命じられた名工であったという。美しい刃文を食い入るように見ながら、当時の刀工に思いを致しました。


(夏はやっぱりきなこ系です)

盆休みの懈怠溢れる己の生活を見透かされたような気がしました。一振りの刀さえ残せない一身をどう処していけばいいのか。無印良品のきなこ玉を食べながら煩悶しています。


(タイの東北料理。もち米で食べます)

人は、なかなか変われない。だからこそ「君子豹変、小人革面」(易経)という言葉が伝えられているのだろうと思います。

意味するところは、君子と呼ばれる立派な人物は、過ちがあれば、すみやかに改める。まるで豹のようだ。小人は外面だけを改めるだけである、と。

元寇(げんこう)後の鎌倉幕府の外交を見るにつけ、学ぶべき教訓があると私は感じます。

文永の役。その後に来た元(げん)の使者の首を執権・北条時宗は刎ねます。当時、若干20代です。かなり強硬な若者だったと言えましょう。

この時代、優しい人は生き残れません。まさに北条家そのものが血で血を洗う争いの末に築かれた家柄です。

弘安の役。朝鮮半島と中国大陸から合計14万もの大軍が博多沖に押し寄せます。古今東西の歴史上、他国を侵すため、これほどの軍隊が海を越えて赴いた例はないのではないでしょうか。

南宋の僧から元の動向を把握するとともに、北条時宗は、文永の役で生き捕りしたモンゴルの将軍から敵の戦法を聴取。情報収集に長けていたようです。もちろん戦略も大事です。が、戦争においては情報こそが命です。

日露戦争では、同盟国イギリスからもたらされた情報によって日本は有利に戦況を運ぶことができました。

さて、弘安の役では、いわゆる神風が吹き、元軍は壊滅します。歴史的には人知の及ばない力(神風)によって撃退されたと解されています。しかし、博多沖に夏の間、2か月も押しとどめられれば、台風に遭うのは目に見えています。

この防衛戦は、博多沖にとどめおいた日本側の必死の努力の成果であったと言えます。その意味で、弘安の役の不敗は、北条時宗の指揮のもと、防塁の構築など「人の手」によってもたらされたのだろうと私は思います。

クビライが死去。その跡を継いだ孫のテムル(第6代皇帝)は祖父と異なりました。北方の情勢の変化も関係があったかもしれません。周囲の外国に対して過度な敵対策ではなく、融和策を打ち出します。それに応じて東南アジア地域の諸国なども交易を開始します。

しかし、鎌倉幕府は再びの朝貢の呼びかけに対し頑なに拒絶。元寇の恐怖からか、不信感からか、しばらくのちに交易が始まりますが、周辺国と比べ立ち遅れました。

ここなのです。いったん敷いた路線を変えることの難しさ。いったん抱いてしまった相手へのレッテル。ゼロベースで考えることは至難です。「一貫性」と「豹変できる柔軟性」。このバランスが厄介です。

イギリスのEU離脱への対応や北朝鮮への我が国の対応も「豹変」をキーワードにして俯瞰すると、違ったプリズムの透過光となります。

というわけで、小人の私は着ぐるみで外面だけ改めることが癖になっています。三代目鳥メロで催された暑気払いでは会場が完全密室ではなかったことから、信用失墜行為のおそれありと判断し、着用いたしませんでした。

もとより信用は地に落ちていますが、所詮はただの臆病者です。

ちなみに、だいこん以外に、にんじん、なす、さくらんぼ(さくらんぼうし)の着ぐるみを保有しています。さくらんぼうしは、錯乱防止ではありません。


※史観について異見のある方のコメントをお待ちしています。


(今朝のお弁当。手作りにこだわっています)

世界史は嫌いでした。ローマ帝国の歴代の皇帝の名前が出てきた時点でもうお腹いっぱいになりました。トゥスだのウスだのアヌスだの、何とかしてくれよ、という思いでした。

ところが、齢(よわい)半世紀を経て、世界史、特に近現代史を学び直しておかないといけないのではないか。そんな思いに駆られるようなりました。

なぜか、それはまたの機会にお話します。

遅きに失した感があります。が、佐藤一斎の言葉を銘にして、学びの歩みをカタツムリの速度で進めたいと思います。今号は、というか、今号もつまらないです。オチもありません。

「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり壮にして学べば、則ち老いて衰えず老いて学べば、則ち死して朽ちず」

というわけで、死して朽ち果てても一向にかまわないのですが、ロシア革命についての私の備忘録です。

ドイツのウィルヘルム2世はロシアを内部から崩壊させようとしていた。ロシアの革命家たちに100万ルーブルもの資金援助をしたことがドイツ財務省の電報として残っています。

一方、日本もやっていました。

大佐の明石元二郎がヨーロッパを中心にロシアの革命家たちと通じ、革命を支援していたのです。

日露戦争当時の日本の国家予算は約2億3千万円。その中で参謀本部から100万円(現在の貨幣価値にして400億円以上)ほどの工作資金が与えられていました。山縣有朋の指示です。

つまり、日本もロシア革命を焚き付けていたということです。知りませんでした。

10月革命ののち、レーニンが国民に約束した憲法制定議会選挙はレーニンの期待を裏切るものであった。第一党になったのは農村で力を得ていた革命勢力エスエルで410議席。レーニン率いるボリシェビキは175議席だった。

それで、選挙に負けたレーニンは何をやったか。議会を武力で封鎖し解散させました。いわばクーデターです。レーニンは述べています。

「国家に関わる仕事は省庁や官房などで行われており議会では庶民の目を欺くことを目的に駄弁を弄しているに過ぎない」(レーニン著『国家と革命』)

革命によって地主から解放された農民は都市への穀物の供給を止めました。その結果、首都では食料が不足し飢餓が発生。レーニンは事態を打開するため食糧徴発部隊を農村に派遣。抵抗する富農を追放しました。

豊かな土壌で富農の多かったタンボフでは農民が反乱。3万人に膨れ上がった反乱軍を抑えるため、レーニン率いる赤軍はタンボフに対し毒ガスを使用。森に隠れていた多くの農民が呼吸困難で死亡しました。1万4千人もの農民が殺され、反乱は鎮圧されました。

現在、ロシアの学校で「ロシア革命」という言葉は使われないという。ソビエト時代は「偉大なる10月社会主義革命」と称されていました。いま歴史の授業で「1917年10月の出来事」と教えられています。

“出来事”なのですね。そのように教えているロシアの教育力に私は期待したいと思います。

結びに私の問題提起です。100年前のレーニンの言葉「議会では庶民の目を欺くことを目的に駄弁を弄している」は現在も有効でしょうか。

「駄弁」とはくだらない話の意。だべると同義です。なお、「星々のつぶやき」は私の駄弁です。いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。


(坂の上の雲ミュージアム)

午前6時今治発の予讃線の普通列車に乗り、松山に向かいました。海が見えるはずだと思い期待したものの、経度の仕業で外は真っ暗。

太陽が昇るのが遅いことにしばらくしてから気づきました。

ずいぶん前に読み、そして今回、再読の途中でやめてしまった司馬遼太郎著『坂の上の雲』。ミュージアムに行くつもりはありませんでした。

朝7時過ぎに道後温泉本館で入浴し、風呂上がりに気分が変わりました。これぞ温泉の効能でしょうか。


(道後温泉本館は本年秋以降に改修工事に入ります)

展示資料を追いながらストーリーを意外に記憶しているものだと思いました。秋山兄弟や正岡子規の足跡を辿ることで懐かしさを覚えました。

初めて知ったことがあります。オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の遭難事件の後に秋山真之が関わりがあったことをです。

エルトゥールル号の生存者をオスマン帝国に帰還させた日本の軍艦「比叡」に秋山真之が乗船していたのです。秋山は病床にあった正岡子規を励ますため年賀状をコンスタンチノープルから送ってもいました。


(ミュージアムカフェにて坊ちゃんだんごを喰らいます)

この度の西の旅の振り返りをします。

福島から空路、伊丹へ。神戸の六甲で隠れ家のようなカフェ・アンタイルで知人と昼食。普通列車で兵庫県・岡山県・広島県を移動。

尾道にてゲストハウス「あなごのねどこ」でアナゴの気分になる。京都からのゲストと交流。翌日午前、海を眺めながら宇部の友人とラーメンとプリンを食べ、別れる。


(細長いスプーンですくい上げながら食べます。耳かきを連想しました)

しまなみ海道をバスで渡る。因島で途中下車し大橋の下まで降りて、そしてバス停まで駆け上る無理をする。

今治で岡田武史さんの講演を聴講し心震える。懇親会のあと、駅前の「しまなみ温泉 喜助の湯」に浸かる。宿は駅前のゲストハウス「シクロの家」。香港からのゲストと交流。

以降は上述の通り。

昼、松山から空路、東京に戻り、東京富士美術館で開催中の東山魁夷展を鑑賞。


(これまで横浜、仙台、東京・山種、水戸の4か所で東山魁夷展を見てきました)

作品を丹念に見ながら、旅で出会ったこと、学びを得たことを反芻しました。熟成させ後日、形にしようと思います。

ともあれ、明日が月曜日だと思うと旅の思い出もすべて帳消しになるくらい憂鬱です。真冬に露天風呂に浸かっているニホンザルの気分と言えましょうか。

湯上がりの寒くつらい現実が待っています。


(「カフェ・アンタイル」のランチ。ロール白菜)

神戸市職員の知人が案内してくれたのは六甲の隠れ家とも言うべき「カフェ・アンタイル」。我が家にいるかのような落ち着いた雰囲気です。美味しい料理をいただきました。

「震災のとき、この辺の六甲の山は被害はどうだったんですか」

「こちら山側は被害は比較的少なかったです。神戸は大震災のイメージがありますけど、災害といえばじつは水害で、何度も水害に見舞われてきました。神戸は治水の歴史なんです。いまから80年前に阪神大水害というものがありました」

「阪神大水害ですか。戦前ですね。初めて伺う話です。恥ずかしながら知りませんでした」

西宮市職員の共通の知人も補足して言います。

「さきほどタクシーで上がってきた大通りは土砂が流れ落ちて駅舎のガード下が埋まってしまいました」


(陽光降り注ぐ家庭的な雰囲気)

阪神大水害は、1938年(昭和13年)7月に発生。台風に刺激された梅雨前線によって集中豪雨をもたらし、死者616名、被災家屋は約9万戸にも達する大水害が起きたという。記録によると神戸市の人口及び家屋の7割が被災した。

「六甲の山は花崗岩です。水が浸透しやすく脆い。六甲は良質な水が出るところですけど裏を返せば水に弱いということです。その上、山は当時樹木が伐採されていてはげ山でした。一気に土石流が市街地に流れ込みました」

「良い水が得られるということは水害と表裏一体のことだったのですね」

「そうです。この災害を契機として六甲山系の砂防事業が国の直轄事業として行われるようになり、いまも続いています」

話を聞きながら、兵庫県選出の防災担当大臣がいたことを思い出しました。

砂防事業。どうしても利権がらみを連想してしまう私です。砂防と言えば、平河町の砂防会館。砂防会館と言えば木曜クラブそしてロッキード事件。

というわけで、何事も真っさらな眼(まなこ)で見ないと地域のことはわからないものです。旨味たっぷりのロール白菜をいただきながら反省しきりの六甲の昼下がりでした。


(新政府軍は海からやって来ました)

逆行催眠あるいは退行催眠にあこがれた時期がありました。自分の過去はどのようだったのだろう、と。

退行催眠は、出生を通り越して、前世の自分を垣間見ることができるという。記憶の奥底をたどることによって前世の記憶が蘇るのだそうです。

ところが、長じるにつれて退行催眠への憧憬は薄らいでいきました。人類の歴史を知れば知るほど、殺し合いがあまりにも多いことに気づいたからです。

私自身、加害者・被害者、双方ともになっていた可能性があります。刀を振るってずばっとやっていたかもしれないですし、背後から突き刺されていたかもしれません。

先日、6回連続講座の「いわきの『戊辰戦争』」第4回に参加しました。今回のテーマは「笠間藩神谷陣屋の受難 〜中神谷から薬王寺、八茎へ〜」です。

初めて知りました。現在のいわき市域の人々が新政府軍と旧幕府軍とに分かれて相争い、殺し合ったことを。

これまでの私の理解は、単純に新政府軍が北茨城の平潟港から上陸し、平城を攻めに来たとばかり思っていました。

違っていたのですね。あまりにも単純でした。浅学を恥ずるのみです。

当時、市北部には笠間藩の飛び地があり、同藩の神谷(かべや)陣屋がありました。大雑把に言えば、夏井川の北側が笠間藩領、そして南側が磐城平藩領です。

笠間藩本藩の牧野家は新政府軍に恭順の意を示していました。奥州越列藩同盟に属する磐城平藩にとっては敵ということになります。

150年前、この地で、言うなれば“市民戦争”が行われたのです。

毎日、通勤で歩いているこの地は、じつは死屍累々の血塗られた戦場だったのです。

鼻歌を歌いながら、ほろ酔い気分で歩くこの道にも凄惨な歴史が留められているのです。

私は知っています。たまに待ち合わせに使う、あの角の薬局が刑場跡だったことも。

というわけで、きょうの教訓です。

知ることも大事、知らぬことも大事。


(夏草と水路は似合う)

涙もろくなった。そんな言葉を加齢現象として聞くことがあります。私も以前よりエモーショナルになったと思います。

歴史講座「いわきの戊辰戦争」(全6回)の第3回講座を聴講。

新政府軍側、奥羽越列藩同盟側の藩士の記した文書を紐解きながら、合戦の様子を生き生きと語る講師に魅了されました。

地元で起きたことなのに知らないことばかりです。

仙台藩は軍艦で小名浜に藩士を送りました。記録によれば少なくとも460名、講師によれば1000名ほどいたのではないかとのこと。

最初の激突は現在の小名浜南富岡。二ツ橋の戦いです。

新政府軍の圧倒的な火力により仙台藩士は撃たれるままだったという。仙台藩の記録では72名が死亡。仙台藩の兵は小名浜に向かって潰走(かいそう)。

磐城平藩士の文書では「敵勢」と新政府軍を呼んでいるのに対し、薩摩藩士や佐土原藩士の記録には奥羽越列藩同盟側を「賊徒」あるいは、単に「賊」と記していることに悲しみを覚えます。

平和な江戸時代265年。その終わりに突如、穏やかな風土の東北南部で戦いが繰り広げられたのです。

仙台藩士が72名も殺害されたことに地元の小名浜の人々は驚き恐怖におののいたことは想像に難くありません。亡骸を懇ろに葬ったという。

二ツ橋のたもとに「仙台塚」があると教えられました。

家人に講座のあらましを伝えました。

「たった150年前にこのいわきの地で仙台の人が72人も殺されたんだって。親やあるいは奥さん、子どももいただろうに。仙台塚に供養に行ってこようと思う」

「150年も前でしょ。日本はずっと戦(いくさ)ばかりやってたんでしょ。関ヶ原の戦いとか」

「江戸時代は平穏だったんだよ。それが突然、戦争が起きて、仙台の人がここに来て死んじゃったんだよ。可哀想で可哀想で」

「昔はそういうの当たり前だったんじゃないの」

「.....」

今も昔も分かり合えない者同士で起きる政治の延長戦。それが戦争である。


(六本木。近くに稲川会の本部があります。今回のブログは真面目です)

この季節、蚊に刺されるのが嫌でたまりません。そんなとき、ふと、名曲「掻きたくてしかたない」をYouTubeで聞きます。

すると、あの憎々しい蚊に対して一重深い思いやりを持つことが出来ます。

さて、天皇のお出かけを行幸(ぎょうこう)と言います。

明治維新の際、当初、政府は大坂遷都を考えました。しかし、公家や宮中、京都市民などの反対に遭い、40日余りの大坂滞在という行幸(お出かけ)に留めました。
 
次に、明治政府内で東西両都案が浮上し、江戸を東京と称することにしました。

明治天皇は明治元年9月に京都を出発して10月に東京に行幸。そして、明治元年12月に京都に還幸(お戻り)。明治2年3月に東京へ再度行幸。

その際、京都から東京へ遷都するのではないかと京都・大坂の人々の間で動揺が大きくなり、政府は人々に遷都ではないと訴えました。

しかし、明治4年までに首都機能が東京に移転。当初京都で予定していた大嘗祭も同年11月に東京で行うことが発表されました。

明治5月5月、天皇が京都に戻る際、「還幸」ではなく「行幸」と称するようになりました。

結局、政府は都を東京に移すとは一言も言わず今日に至っています。かと言って、京都に戻る(還幸)という表現も使わなくなりました。

京都は公家や政府関係者が東京に移ったことで人口が激減。疲弊していきました。

京都市長の門川大作氏は講演でこのように述べています。

明治維新は、実は京都にとって危機だった。天皇は東京へと行かれ、人口もかなり減少した。しかし、京都の人々はまちづくりとして、子供をしっかりと育てれば大丈夫と考え、そして地域に学校をつくるようにした。

その時、かまどの数に応じて、学校を建設するための費用を出し合ったのである。時に、1869(明治2)年のことで、明治政府が学校制度をつくる1872(明治5)年よりも早かった。そして、私が思うに、この精神が京都を支えてきたのだと思う。


このように、京都の町衆は、竈のある家はすべて「竈金(かまどきん)」と呼ばれるお金を出し合い、日本最初の64の地域制小学校を創設したのです。

地域が危機に瀕したときになにをなすべきか。京都の「竈金の精神」は私たちに大切なことを教えてくれます。


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