(圧倒的な読後感)

酒縁の友からお借りしていた夢枕獏作、谷口ジロー画『神々の山嶺』。この連休前半で一気に読むことができました。主人公の羽生丈二がエベレスト南西壁冬季無酸素単独登頂を目指す物語です。

エベレストの登頂は通常、春季の南東稜ルート(ノーマルルート)。ある登山家によると南東稜ルートと南西壁ルートとは、東京タワーを内側の階段から上るか、外壁を登るかほどの違いがあるのだという。

しかも、冬季に無酸素で単独です。山頂付近の気温はマイナス30度から40度。しかも強風が吹きつけます。読んでいる私ですら寒さによる幻覚に襲われそうになりました。

この感覚には疑似体験があります。そうです。新田次郎著『孤高の人』。やはり『孤高の人』を読んでいる最中に軽いめまいを覚えました。

これらの作品は湯上りにソファーでジャージ姿で読むことが憚(はばか)れる作品です。著者に対し失礼であり、何よりも主人公を冒涜(ぼうとく)するものです。

真冬に窓を開け放ち、扇風機(強風)を我が身に当て、30キロの重量のリュックを背負って立ったまま読む。これが二宮尊徳も推奨する、あるべき姿でしょう。

あるべき姿と実際の行為に相違があることを乖離(かいり)と言います。その意味では私はいつも乖離しています。

さて、『神々の山嶺』を読み終え、我が家にも登攀(とうはん)すべき山嶺があることに気づきました。そう、断捨離です。

廊下の踊り場に重なった段ボール箱は、さながら冬の槍ヶ岳。六畳間壁面いっぱいの天井まで伸びる書庫は、エベレストの次に高さを誇るカラコロム山脈最高峰のK2(カラコロムNo.2)です。

そして、三畳の納戸の整理こそが私にとってエベレスト南西壁冬季無酸素単独登頂と言っても過言ではありません。床面積こそわずか三畳。しかし、パッカー車よろしく、ありとあらゆるモノがうずたかく押し込まれているのです。

圧倒的な体積、否、堆積が私に迫ってきます。高校生のときにもらったタイの女子高生からの数十通の手紙をはじめとする郵便物。懐かしい折々の色紙。未読の書籍。職場の各種送別会等の集合写真。

思い出の品々が魔軍となって襲ってきます。「捨てるのだ」との厳父の声と「捨てちゃだめ」との慈母の声が幻聴となって交錯します。

もう山頂登攀はおろか、ベースキャンプさえ築くことができません。

ともあれ、『神々の山嶺』で心に残った言葉は、なぜ山に登るのかとの問いに対する主人公の答えでした。

「そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ」

連休後半、おれはここにいると叫びつつ、納戸無酸素単独整理に挑戦します。


(静謐の庭が語りかけてくる)

「最も重要なことに集中せよ」とドラッカーは言う。第9回いわき学びカフェはP.F.ドラッカー著『経営者の条件』の第5章です。

「成果をあげるための秘訣をただ一つだけ挙げるならば、それは集中である。成果をあげる人は最も重要なことから始め、しかも一度に一つのことしかしない」

本当か。本当にそんなことできるのだろうか。章の冒頭からストレートに攻めてきます。

ドラッカー先生、私もわかっちゃいるんです、と愚痴とも嘆息とも言い難い独り言を言いながら事前の読み込みを進めます。

「集中のための第一の原則は、生産的でなくなった過去のものを捨てることである」

先生、それができたら苦労しないのです。

「いくつもの球を操ることは曲芸である」

先生はそうおっしゃる。北の元帥様も並進路線をやめるという。

でも、私は並進路線はおろか、上海雑技団の皿回し並みに同時多発的にいくつものことに取り組んでいます。

当面落ちそうにない皿は放置し、落ちそうになる皿に遠心力をかけ、落ちた皿には相応しい言い訳を考える、そんな曲芸です。

「古いものの計画的な廃棄こそ、新しいものを強力に進める唯一の方法である。アイデアが不足している組織はない。創造力が問題なのではない。せっかくのよいアイデアを実現すべく仕事をしている組織が少ないことが問題である。みなが昨日の仕事に忙しい」

そうなんです。過去の始末ばかりなんです。先生は本当によくご存じだ。でも、変えられないのです、私には。

「実は、本当に行うべきことは優先順位の決定ではない。優先順位の決定は比較的容易である。集中できる者があまりに少ないのは、劣後順位の決定、すなわち取り組むべきではない仕事の決定とその決定の遵守が至難だからである」

やらないと決めることほど難しいものはない。痛感しています。では、どうすればいいのか。

「(前略)最も重要なことは分析でなく勇気である」

そっかぁ、勇気かぁ。勇気はないものなぁ。胃カメラを飲むのがマックスの勇気ですもの。


(あっという間に咲いて散る桜)

「大人の学び場」と題する読書会に参加。ファシリテーターのほか4名の陣容です。教材は、落合陽一著『日本再興戦略』(2018年1月、幻冬舎)。

課題図書を事前に買わず読まずで参加可能だという。どういうことなのか。

「参加者みんなで読書から得たことを対話形式で共有・学び合うことで、ただインプットするだけではない、アウトプットを通じて自分の血肉にすることを目指す」

ファシリテーターから趣旨説明がありました。と、同時に本を手に取り表紙をはぎ取り、さらに本を章ごとに手切りで分けてしまいました。

見事です。これは新鮮な驚きでした。

本は私にとって信仰の対象ではありません。が、少なからぬ神聖さを感じてきたのも事実です。割くという行為に衝撃と禁じ手から解き放たれたような快感を覚えました。

読書会の中で最も刺激的な瞬間でした。次回は私にやらせてほしい。

ファシリテーターが言うように、肝要なのは本を通して学びを得ることであり、血肉とすること、すなわちインカーネーションです。

本の表紙を見て思います。いかにデザイン性に優れた美しい装丁が施されていたとしても、中に書かれている文章に訴えるものがなければ意味をなしません。

とは言いながら、装丁に惹きつけられて購入することも少なくありません。馬子にも衣裳ではあります。

次元は異なりますが、フルートの演奏会案内のポスターに写る奏者はみな美しい女性ばかり。本来、フルートの音色と容姿は無関係なはずです。

木管楽器と言いながら、宝飾品にも似たフルートの特性がそうさせるのか。

勝負処はそこではないだろう、とかねてより思っていました。音そして奏法だろう、大事なところは、と。

容姿といういかんともしがたい事情により、沈む夕日を眺めながら涙をのんだフルーティストがどれほどいたか。島崎藤村ならずとも、たぎり落つ異郷の涙に暮れた淑女もいたことでしょう。

失礼しました。つい、熱くなり脱線してしまいました。

要は、本は飾りではありません。見てくれではなく内容です。

中身を理解し、血肉化してなんぼの世界です。読後、己が行動にいかなる変容ももたらされなければ、無読に等しい。行動がどう変わったのか、そこがポイントです。

その意味で、割り当てられた各章を読み、6枚ほどの用紙に要旨をまとめ、発表し共有を図る。さらに、ディスカッションを通してアイデアを磨き深め合う。この営みは新鮮で面白い。

身は切り裂かれようとも、著書の一文によって読み手の人生を変えたならば、これぞ本たるものの本懐の姿と言うべきでしょう。

とは言うものの、誰か「星々のつぶやき」を綺麗な装丁で書籍化してくれないでしょうか。よろしくお願いします。


(郡山駅ビル内 ダイニングバー「もりっしゅ」の利き酒セット1500円税込)

「優れた人事は人の強みを生かす。弱みから何も生まれない。結果を生むには利用できるかぎりの強み、すなわち同僚の強み、上司の強み、自らの強みを動員しなければならない」(P.F.ドラッカー『経営者の条件』102頁)

「いわき学びカフェ」に参加しました。月1回のドラッカー読書会。今回で8回目。4〜5人の小さな集いです。

「人に成果をあげさせるには、『自分とうまくいっているか』を考えてはならない。『いかなる貢献ができるか』を問わなければならない。『何ができないか』を考えてもならない。『何を非常によくできるか』を考えなければならない」(同105頁)

「自分とうまくいっているか」--- 振り返れば、人間関係の良し悪しで職場をとらえていた私。上司とうまくいくかどうか、まさに“馬が合うかどうか”ばかりを気にしていました。

自分との関係性で考えていたということです。

先年、株式会社スキルアカデミーの「公務員働き方改革プロジェクト」を実地に研修を受けてから考えが変わりました。興味のある方はeブックで手ごろに学ぶことができますのでアクセスしてみてください。
こちらから

「強みを手にするには弱みは我慢しなければならない」(同121頁)

ミスや遅滞などスタッフの「できない」面が気になってしまいます。そうではいけないのですね。この「弱みは我慢しなければならない」とは、単に目をつむれと言っているのではないようです。

ドラッカーは言います。

「できることではなく、できないことに気をとられ、弱みを避けようとする者は弱い人である」(同103頁)と。

弱みと向き合いつつ、強みを生かすことを中心に据えるということでしょうか。

「成果をあげるには、上司の強みを生かさなければならない」(同127頁)

この発想は正直私にはありませんでした。上司の強みを生かすことが成果を上げることだ、とドラッカーは訴えているのです。

上司という存在が苦手な私にできるだろうか。でも、このような思考法を知っただけでも上司と向き合う姿勢が変わるような気がします。

ドラッカーの思想は、ハウツーもののような即効性はありません。でも、じわじわと効く漢方薬のような効能があります。

前号では「脂身」について言及しました。今号は「強み」についてでした。

小さなきっかけ」以来、どうにも「み」が気になってしょうがありません。


(久しぶりのカフェ「讃香」)

感度が鈍いのか。あるいは傲慢になったのか。長編の名作を読んでも感動しなくなりました。友にそのことを言うと、同じだと言う。

「あのさ、いま司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでるんだけど、学生時代に読んだときのような感動が蘇ってこないんだよね」

「わかります。おれも同じです。だから脳科学の本とか実務の本ばかり読んでます」

「わがる。おれもハウツー本の方が面白いって感じるもんね」

「小説は読まなくなりましたね」

「亡くなった母がね、私が子どもの頃、小説は若いうちに読みなさいって言ってたんです。今になってわかるね、その意味が」

「なんなのでしょうね」

「やっぱさ、主人公がおれらより若いって言うのがあるよね。下に見ちゃうというか。要は傲慢になってんだよね。傲慢さが原因だね。おれもひとかどのことをやってきたというか。そんな慢心があると思う」

「なるほど」

「でもね、すごいなって思うのは、『レミゼラブル』とか、『モンテクリスト伯』とか、こういった長編の小説って著者が結構な年齢になってから書いているんだよね。そこがすごい」

と言いながら、必要があって『坂の上の雲』を無感動のまま読み進めています。かつての感動はなんだったのか。テストステロンの涸れも影響しているのかもしれません。

シビレエイは自らが痺れているから痺れさせることができる。そんな寓話があります。


(久しぶりのあんみつに感動しています)

感動も同じことかもしれないと思う。人を感動させるには自らが感動していなければ成し得ない作業なのでしょう。

その意味で文豪や巨匠たちは、晩年に至るまで燃える何かを自身の胸中にたぎらせていたのでしょう。

燃えるものはあるか。燃えているのか。厳しく自らに問い質しています。

燃えているのはへその上のカイロだけです。最近のカイロは小さくてもけっこう長持ちします。


(父子合作によるなんちゃってケーキ)

「人は言葉によって自分自身を知り、他者を知り、生きる勇気と誇りを手にすることが出来る。言葉は、人を自由にするのです」(岩波書店『広辞苑』第7版ウェブサイト)

10年ぶりに『広辞苑』が改訂されて第7版が発刊されるという。

若き日、『広辞苑』を枕にして読書をする癖をつけました。意味不明の言葉に遭うと、いとわず『広辞苑』をひもとく。理解した言葉を数回新聞紙に書く。そんな習慣です。

もともと扁平な後頭部が扁平の度合いに拍車がかかりました。

いま「星々のつぶやき」を綴る上でも『広辞苑』の「自序」の言葉は私の羅針盤です。

「とにかく 、簡明にして平易、広汎にして周到」

何十万という言葉の大海原。その大海の中で己の知り得る数は限りがあります。

「竹馬の友」

ずっと「たけうまのとも」だと思っていました。「ちくばのとも」だとわかったのは最近のこと。

しかも、中国由来の「ちくば」と日本の「たけうま」とは似て非なる遊びであることも。「ちくば」は竹を跨いで馬のようにして遊ぶものらしい。


(愛用の第4版『広辞苑』)

『広辞苑』と言えば、タイ滞在中に相原コージ著『コージ苑』にもお世話になりました。珠玉の四コマ漫画です。

異国で読む、あまりにも日本的なシュールで時にシニカルな諧謔(かいぎゃく)に腹を抱えて笑ったものでした。

というわけで、『広辞苑』第7版を購入すべきかどうか、迷っています。文章書きにとっては歳時記のようなもの。

第7版のあとは第8版が出る。第8版のあとは...。スマホもiPhone6で我慢しているし。

Amazonで普通版9180円。ん〜。


(駅前の再開発ビル「ラトブ」)

P.F.ドラッカーの片言隻句(へんげんせっく)は触媒のようであり、プリズムのようでもある。ドラッカー著『経営者の条件』の読書会に参加しての感想です。

参加者各人が日々感じていること、思い悩んでいることや新たな発見をドラッカーの言葉を通して共有する場。それが読書会であると思っています。

一人での読書では味わえない魅力があります。

ドラッカーの同じ言葉に共鳴しつつも、その捉え方は必ずしも一様ではありません。そこがまた面白い。読書会の醍醐味と言えます。

中華料理店で働くTさん。2回目の参加です。

「われわれの顧客とは誰か」

この言葉がTさんを捕らえて離さないようです。「顧客」とは単にお店に来店するお客さんのみならず、いっしょに働くスタッフもまた「顧客」であると思うになったという。

「周りの人すべてが顧客であると思うようになったんです。そうするとスタッフもまた顧客であると捉えられるようになりました。そこで発見があったんです」

どのような発見なのか。皆が耳をそばだてます。

「いっしょに働いているミャンマー人の留学生が下げ膳の食器を私に渡す際、汚れていない方を向けて手渡すことに気づきました。彼もまた私を『顧客』と捉えているのだろうと思いました」

読書会初参加の建設機械メーカーに勤めるSさんが反応します。

「その振る舞いに気づくTさんもまた素晴らしいと思います」


(読書会の様子)

その通りだ、と私も思いました。

私が今回最も感銘を受けたドラッカーの言葉を紹介。

「通常、成果をあげるうえで最も重要な人間は直接の部下ではない。他の分野の人、組織図上では横の関係にある人である。あるいは上司である。それらの人と関わりをもち自らの貢献を利用してもらい成果に結びつけてもらわなければ、いかなる成果もあげられない」(『経営者の条件』31頁)

「足下を掘れそこに泉あり」

現実社会では足下に泉はないのです。

私の職場は、横の関係にある企画部門、財政部門の了解なしには成果をあげることはできません。

カフェを始めたいと思っているTさんに私は言いました。

「カフェの経営においても経営者とスタッフだけの力では成果をあげることは難しいでしょう」

加えて私は例えを述べます。

「いいコーヒー豆を使いたいと思えば、仕入先の協力が必要ですし、そのほかのことでも外部の力をお借りしなければ、成果はあげられないと思うのです。横が大事です」

2時間の読書会は、巧みなファシリテーターの促しによって横同士がつながり、あっという間に時間が過ぎていきました。

次回のドラッカー読書会「いわき学びカフェ」は正月松の内に開催。迫りくる忘却力と戦いながら、明年は一歩成長したい、と叶わぬ願望を抱いています。

「星々のつぶやき」は文字通り「備忘録」なのです。


(「時季の森」にて)

「成果をあげる者は、新しい活動を始める前に必ず古い活動を捨てる」(P.Fドラッカー著『ドラッカー名著集1 経営者の条件』)。これができたらなぁと思う。

「集中のための第一の法則は、生産的でなくなった過去のものを捨てることである」(『経営者の条件』)

ドラッカーは何か事を始める前にまず捨てることを勧めています。

これができない。まったくもってできないのです。特に私の所属する組織は至難の業(わざ)です。

創業は易く守成は難(かた)し、と言う。事業を起こすことは維持することと比べれば簡単だ、ということを意味しています。「貞観政要(じょうがんせいよう)」に記されている言葉です。

だが、意図的に事業をやめることはもっと難しい。そう私は実感しています。事業廃止のエネルギーは膨大です。


(「時季の森」にて)

これまで「学校の廃止」、「生活バス路線の廃止」、「火葬場の廃止」の3つの廃止を経験してきました。

大変でした。語り尽くせぬ辛労があります。

思うのです。起業家より“廃業家”が必要なのではないか、と。

事業をストップさせるエキスパートです。事業を廃止させるマネジメントとリーダーシップに長けた仕事師です。

人口減少、課題山積、債務増殖のこの日本には、「事業仕分け」の仕分け人を超越した事業廃止に邁進する斬り込み隊長こそ必要である、と私は訴えたい。

「トップ本来の仕事は、昨日に由来する危機を解決することではなく今日と違う明日をつくり出すことであり、それゆえに、常に後回しにしようと思えばできる仕事である」(『経営者の条件』)

嗚呼、私は後回しのプロフェッショナルであり、先送りのエキスパートである、と思う。

廃業党が設立されないでしょうか。総選挙のたびに、ひたすら廃止する事業を公約として掲げるのです。

人気がないでしょうね。


(徒歩通勤の風景。稲刈りが終わりました)

杉本良夫著『日本人をやめる方法』を読んでいたら、旅情に襲われました。外国に行きたい。

萩原朔太郎の「旅上」を口ずさみたくなります。


ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに

「純情小曲集」より


(徒歩通勤の風景。白鷺が橋をくぐろうとしています)

かつて住んでいたカナダ・モントリオールの町を想います。モントリオールの秋は清新です。

日本の紅葉とは違う。大きな葉による協奏曲。はっきりと色を訴えているように見えます。

ロリエ通りのローストチキン専門店にもう一度行きたい。丸ごとの若鶏をフォークで掻き出しながら、シンプルに塩胡椒でほおばる。


(徒歩通勤の風景。河岸の樹々も色づいてきました)

繊維の間から湯気立つ鶏肉。ふうふう言いながら、食べます。後にも先にも鶏肉であれほどの多幸感を味わったことはありません。

どこまでもジューシーでかつ歯ごたえがある。あの深い旨みは香菜によるものなのか。

というわけで、私の「われひとりうれしきことをおもはむ」はローストチキンのことでした。

来年には初めて東京とモントリオールが直行便で結ばれます。早く日本人をやめたい。


(野ねずみが朝日を浴びて目を閉じていました)

幼少期に母にたくさんの絵本を読んでもらいました。聴力がやがて失われると診断された息子に母は必死に読み聞かせをしてくれました。

絵本はいまでも好きです。でも、絵は上手く描けません。

中学2年生のときです。自分なりに一生懸命に描いた絵。それを美術の先生に「なんだこれは。描き直せ」と言われたときはショックでした。

河川で砂利を採取するキャタピラー式の重機を描いたつもりでした。

いったい何の絵なのか先生に理解されなかったようです。悲しい思い出です。この種の重機は私のトラウマです。

それからさかのぼること数年、小学生のときには「音痴」と家族に言われ、やはり心に傷を負いました。

感じていることをそのまま当人に伝えることはときに危険です。否、多くの場合、危険を伴います。

率直に伝えることのリスクを自身の体験から私は学びました。

事実は、事実という理由によって告げていいのか。もちろんウソを言うことはよくない。

しかし、事実もまた必ずしも伝えていいとは限らない。そう私は思うようになりました。

かように「事実」と「伝える」ことには、千尋の谷ほどの乖離があります。

ですから、大声で「ハゲー」などと言う人は非情な心の持ち主だと思います。たとえ事実であったとしても。

とともに、言葉の持つ不思議な力を子ども心にも感じました。言葉はまさに呪文です。

いったん「音痴」と称されてしまうと、自分もそう信じ、その呪縛から解き放たれないのです。

閑話休題。

ずいぶん遠回りしましたが、本日の本題は、絵本のことです。このごろ、絵本を書いてみたいという思いがふつふつと湧いてきます。

家の周りには野鼠、狸、狐、ハクビシン、雉、川鵜、鴨、鷺といった小動物が棲んでいます。

彼ら彼女らを登場させて物語が作れないか。そんなことを夢想しています。

ま、夢想しているうちが花なんですけどね。


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