(最近、湖池屋をよく買うようになりました)

 

読書の速度が遅くなりました。しょうがないな、と受容しています。

 

遅読となったうえに読んだことが頭に残りません。

 

母が生前よく言っていました。本は若いうちにうんと読んでおきな、と。

 

小説は特に読まなくなりました。学生時代に読んだ『竜馬がゆく』。歴史事実とは異なるとの批判はありますが、大好きな作品です。

 

でも、いま読もうという気持ちは起きません。主人公がみんな私より年下だからです。どこかに鼻で「ふん」としてしまう自分が見えてしまうから読みません。慢心です。

 

とは言え、やっぱり読み続けないと、ただでさえ不足し、かつ錆びつつある脳細胞の情報が使い物にならなくなってしまいます。

 

昨今は誰かが推薦した本を読むようにしています。悲しいことにその本を手にしたころには推薦者が誰なのかを失念しています。やんぬるかな。

 

高坂正堯著『歴史としての二十世紀』を読み始めました。講演録を基に著書にしたものなので読みやすい。

 

誰がおすすめしてくれたのか、思い出そうとして思い出せない。記憶が直腸止まりです。すっきりしません。

 

日々の生活が目の前のことの対処に追われています。いけないですね。この本は大所高所から見る眼を養えそうです。

(知人に勧められて図書館で借りました。著者は地元の出身です)


著者は「僕が意識した生き直しのコツは、『生活リズムを朝方に整える』『人間関係を取捨選択する』『しつこくなる』の3点」を推奨。

そして、訴えます。

「僕がそうであったように、人生のやり直しが『遅すぎる』なんてことは絶対にないはずだ」と。

新鮮に感じた視点が次です。著者の実体験を踏まえての言葉だけに重みがあります。人生の価値についての考察と解しました。

「ギャンブル依存によるダメージは、お金ではなく体力と時間の浪費にある、僕はそう考えている」

最近考えていることに「単体では力が出ない」ということ。私の目下のテーマの一つです。

諸橋氏の次のような言葉に惹きつけられました。

「僕は依頼や顧問契約をとるために、昔の人脈を頼ることは基本的にしていない。選挙、SNS発言、格闘技、カレー販売などさまざまな活動にガンガン飛び込んで方々で顔を売る。一つ一つの活動単体ではそこまでの成果を生まないが、継続しているうちにそれら個々の活動が有機的に結びついて相乗効果が生まれ、依頼につながっていく」

後段の「継続しているうちにそれらの個々の活動が有機的に結びついて相乗効果」の部分に共鳴しました。

また、網羅思考への反省ともとれる表現も見つけました。

「僕はヤクザだったころ、情報を集めすぎてそれらを整理できていなかった。パッと目に付いた情報に飛びついて、無駄に走り回っていた」

私も以前その傾向が顕著でした。

内田和成氏はそれを網羅思考と呼び、BCG在籍当初「手当たり次第に情報収集を行い、人一倍に分析作業を行うものの、有益な分析結果が少ない、ゆえにさらなる情報収集・分析が必要になるという悪循環に陥っていた」(内田和成著『仮説思考』)という。

諸橋氏は言います。

「競争にさらされると情報を集めたくなるが、そんな時こそ情報に踊らされないように情報収集をコントロールしなければならない。/まず大事なのは、縄張りを決めてフィールドを徹底調査すること」

『元ヤクザ弁護士』の中で最も印象に残ったくだりが次の箇所です。著者自身が執行猶予の判決を受けたときの模様となります。

「被告人質問で、『これからは、司法試験を目指します』と話した。弁護人の先生はさらっとした質問だったし、検察官の質問は覚えてすらいないけど、裁判官は『君ならできると思いますよ。頑張ってください』と言ってくれた」

司法にこのような人がいることに、そして著者がこの言葉通りに挑戦し、生き直しを果たしたことに深い感銘を覚えました。

(ちょっと一服。小島珈琲店にて)


小谷賢著『日本インテリジェンス史』(2022年、中公新書)を読んでいます。


月初めに手嶋龍一/佐藤優著『ウクライナ戦争の嘘』(2023年、中央公論新社)を読了。インテリジェンス関連を読み続けています。両著者の講演会にそれぞれ行き直接話を聞きました。


リチャード・J・サミュエルズ著『特務(スペシャル・デューティー) 日本のインテリジェンス・コミュニティの歴史』を買おうかどうか迷っています。買い物かごに入ったまま 。3,300円です。


さて、ラストボロフ事件です。『日本のインテリジェンス史』から備忘録として抜粋します。


同事件はソ連の対日工作でした。


戦前にソ連が日本国内に築いた情報網はゾルゲ事件が発覚し一網打尽となりました。再構築に迫られたソ連は内務人民委員部(NKVD、のちのKGB)からユーリー・ラストボロフを派遣します。表向きの役職は駐日ソ連通商代表部二等書記官。


太平洋戦争中にソ連国内にいた日本大使館書記、朝日新聞社モスクワ支局長、毎日新聞モスクワ支局長、海軍駐在武官らは日本への帰国と引き換えにソ連への協力を要請されスパイとなります。


また、日本人捕虜収容所で500人以上の協力者を獲得。5年から20年は潜伏させ「ほとぼりが冷めた頃に指示を与え」たという。


スパイの中には元大蔵官僚で池田勇人の側近で宏池会の事務局長を務めた田村敏雄もいました。日米外交交渉や米軍の軍事情報までソ連側に筒抜けになっていたそうです。


外務省欧米局第五課事務官でスパイだった日暮信則は逮捕される1954年まで外務省の資料を提供し続け7,000ドル(現在の貨幣価値で数億円)を受け取っていたとされるとのこと。


日本・米国両国の防諜網に引っかからずこれほどの情報網が構築できたことは不思議です。


なぜ事件が発覚したのか。札幌でのスピードスケートの国際選手権大会がきっかけでした。


詳しくは同書をお読みください。

(雑草を畏敬の念をもって見るようになりました。すごいぜ雑草!)


久しぶりに心打たれる本を読んでいます。間もなく読了。印象に残った個所を備忘録として記します。


農学博士/静岡大学教授 稲垣栄洋著『雑草という戦略』(2020年、日本実業出版社)。


日ごろから雑草と戦い、雑草に倦み、雑草の脅威に打ちひしがれる日々にあってこの書籍は雑草に対する見方を一変させられました。


「いつ草取りされるかわからない。踏まれることもある。草刈りされることもある。つまり、『予測不能な激しい変化が起こる場所』なのである」


「木が森林に生えるわけではない。草が草原に生えるわけではない」「木が有利な場所に木が生える。草が有利な場所に草が生える。そして、そこが森林となり、草原となるのだ」


「雑草は弱い植物である。まともに戦ったのでは、勝ち目がない。そこで、競争力を求められない予測不能な変化の起こる場所を選んでいるのである。雑草は弱い植物だから、競争のない場所を選んでいるともいえるし、逆説的に捉えると、雑草と呼ばれる植物は、『変化に対応する』というコア・コンピタンスで勝負することを選択しているのだから、競争力を高めることに力を注ぐ必要はないということもできる」


「(前略)弱者は逆境を恐れてはいけない。むしろ弱者は逆境を歓迎しなければならない。強者が力を出すことのできない逆境にこそ、弱者が勝利するチャンスがあるのである」


「踏まれるという逆境の場所では、踏まれることに強い雑草が生える。草刈りをされる場所では、草刈りに強い雑草が生える。草取りをされる場所では、草取りに強い雑草が、耕される場所では、耕されることに強い雑草が生える」


「戦う場所はしぼる 武器はしぼらない」


「(前略)オナモミの実の中を開いてみると、種子が二つ入っている。/一つは早く芽を出す『せっかち屋』の種子である。もう一つの種子は、なかなか芽を出さない『のんびり屋』の種子である。この二つの種子は、どちらが有利だろうか」


「雑草が生えるのは、予測不能な変化が起こる環境である。何が正しいかわからないのであれば、両方、用意しておく方がいい」


「野菜や草花の種子を播けば、すぐにそろって芽を出してくるが、雑草の種子がそろって芽が出てくることはない。色々な性質を持った種子があるから、次から次へと芽を出してくる。そのため、雑草は全滅することはない。草むしりをしても、除草剤をまいても、次から次へと芽を出してくる」


んだもん、いくら草刈りやっても出てくるわけだ。負けた、と私は思いました。雑草に完敗。


著者は訴えます。


「種子の性質がバラバラであるという『多様性』が雑草の武器なのだ」

(通勤途上の平中央公園。蝉が鳴いています)


4コマ漫画が好きです。最近は読まなくなりました。


通勤途上、公園脇に差し掛かると蝉の合唱に迎えられます。動かなくなった個体が道に落ちているのを見ると想起する4コマ漫画があります。


第1コマ

虫かごに蝉を入れた少年がお母さんといっしょに入院中のおじいちゃんを見舞います。


第2コマ

おじいちゃんは孫に言います。「蝉をかごから放してあげなさい。可哀想ではないか」と。


第3コマ

孫は「どうして可哀想なの」と不満げに問います。「だって蝉は1週間の命なんだぞ。逃してあげなさい」とおじいちゃんは促します。


第4コマ

しぶしぶ蝉を放つ少年。母親に言います。「お母さん、おじいちゃんもここから出してあげようよ。だってあと1週間なんでしょ」。ハッとするおじいちゃんの顔と青ざめる母親の表情が秀逸でした。


子どもは上手に嘘を言えません。私もそうでした。


もう記憶は定かではありませんが、叔父や叔母と会う局面で事前に母から「◯◯って言うんだよ」と念押しされていたにもかかわらず私は演じることができませんでした。


大人になるとは嘘が上手になる過程と言えるかもしれません。大人になりきれず、私は野菜の被り物を着用して童心を発散しています。

(廃校を活用したRoots INAWASHIRO)


自分自身のつらかったときからの回復を追体験するかのような読後感でした。心に沁み入る本を読みました。抜粋を紹介します。


臨床心理士の東畑開人著『聞く技術 聞いてもらう技術』(2022年、筑摩書房)です。


「氷に触れると手が凍る。孤独に介入しようとする人は孤独になる。だから、孤独対策は孤独な人の支援だけでなく、支援する人の支援もしなくてはいけない」


(廊下に薪が重ねられていました)


「政治とは人々の生きづらさを解消していくために、社会を動かしていく営みです」


「メンタルヘルスの本質って、結局のところ『つながり』なんですね」


「脳の研究がすさまじく進み、心の仕組みについて膨大な論文が書かれているわけですが、なんだかんだ言って、善きつながりをもてることが心の健康には不可欠だというシンプルな現実があります」


(教室がカフェです)


「みんなが心配している。そして、本人もしばしその心配に頼ることができる。これが心の回復の核心です」


「時間って不思議ですよね。/時が経てば経つほど事態が悪化していくときもあれば、時間をかけることで事態が好転していくこともある。/その分岐点は、その時間を他者と共有しているか否かです」


「心の変化は弱火でとろとろと煮込むように、ゆっくりと起こります」


(薪ストーブの温かさが好きです)


自分を助けてくれた人の顔が思い浮かびました。当時のことを思い出しました。


「善きつながりをもてることが心の健康には不可欠」ーーー 本当にその通りです。私もまたそのつながりの小さな節の一つになりたい。

(憩いの空間。平中央公園)


ヒトデのエピソードが印象に残りました。柳田邦男著『悲しみは真の人生の始まり』に紹介されている逸話です。


イギリスで子どものためのホスピスを運営している方がシンポジウムで話したエピソードです。


小児がんや難病で亡くなっていく、そういった子どもたちをケアするホスピスについて、一部の子どもしか救えないのではないか、といった批判に対する反論として、譬喩としてヒトデの話を紹介し「たとえ一匹のヒトデでも」救うことに意味があると訴える内容です。


少し長くなりますが、同書からそのまま引用します。



(学生時代、柳田氏の著書をよく読みました)

大波で、浜辺に何万匹というヒトデが打ち上げられていた。そのヒトデは放っておけばやがて砂浜で死んでしまう。そこで、ある青年が、自分ができる範囲内でヒトデを拾っては海に投げて返してあげる。死なないように、生きられるようにと。


そこへ、ある年配の人が来て、「ここに何万匹ものヒトデがいる。お前が、その中の何十匹かのヒトデを救ったからといって、それは、どんな意味があるのかね。まったく意味がないよ」と言ったんです。


するとその青年は、「いや、意味があります。数は少なくても、この救われたヒトデにとっては、生きるという大きな意味があります。全部のヒトデがまったく意味を持てずに死んでしまうのか。その中のたとえ五十匹であっても、あるいは一匹だけであっても、救われる海に帰れたヒトデは、子を産み命をつないでいける。それは大変大きな意味のあることです。それら二つの例には大きな違いがあります」と言ったんです。

(久しぶりのプラスベストカフェでのランチ)


月例のドラッカーオンライン読書会。宮崎県の同業の知人も参加してくれました。新しい風が入ると刺激が増します。


ドラッカーの言葉はじつに鋭い。日々私たちの目にする現実を言い当てています。普遍的視点を持っているからなのでしょう。


「だがエグゼクティブの目に最もよく見えるものは、常に組織の内部の世界である。また急を要するものが存在するのも、組織の内部の世界である。常に耳にするものは、組織内部の人間関係や摩擦、問題や課題、反対や噂である」(『経営者の条件』)


顧客への関心よりも何倍もの関心と注意とエネルギーを私たちは組織内部に払うものです。本来であれば顧客の意向や満足度といった外部の動向こそ真に知るべきであるはずなのにそれが難しい。


ドラッカーは言います。


「したがってエグゼクティブたる者は、外部の現実の世界に直接触れるべく特別の努力を払わないかぎり、組織の内部に焦点を合わせることとなる。しかも地位が上がるほど、外部の出来事よりも内部の問題に注意が向く」(同)


心していかなればならないと思いました。


数日前夢を見ました。人事異動の夢です。


「正面玄関前の植木に水をやる係を命ずる」



(可愛いデザートに心躍らせる私)

ユングは夢の中こそ心の原初的な性質を表していると述べています。意識と無意識とは補償し合う関係にあるという。


さらに、何が原因でその夢を見たのかではなく、どのような目的からその夢を見るのか。ユングは目的論に立ちます。


補償と目的論から私の見た夢を分析すればどのようになるのでしょうか。


人が行き交う正面玄関。

その植木に水をやる。


陰と陽を感じます。賑わう場にあって人を癒しつつも目立たない植木の存在。それを支える陰の人である水やり係。


水をやりながら行き交う人々と挨拶を交わす存在。挨拶を返さない人もいるでしょう。植木の存在を認知しない人もいるかもしれません。それでも日々水をやり続ける。そういった係です。


示唆に富む夢です。ドラッカーのいう外部と繋がる立場でもあります。私の意識に不足しているものを補完し、未来に向けて気づかせる目的をもった夢であると自己分析しました。

(監修・辻信一『ハチドリのひとしずく』)


使い古しのスーツケース。内側にある固定用のベルトの四隅の一つが外れていました。慣れない手つきで縫い付けました。


長年使ってきた折り畳み傘。フレームから外れた部分が4箇所ありました。やはり針を使って繕いました。


年始にいただいた贈答品の箱。古紙として出すため、平たく分解しました。ちょっとしたところに付着しているセロテープを丁寧に剥がします。面倒です。


ユニクロで買った衣服。タッグのナイロンを切り落としました。ハサミを入れずに無理に引っ張ると生地がほつれます。面倒くさがり屋の私にとって苦手な作業です。切片がカーペットに落ちると探すのがまた厄介。タッグはプラごみに分別します。


私の最も不得意とする作業をしました。瑣末なことです。南米のハチドリのエピソードに私の姿を重ねて慰めました。


『ハチドリのひとしずく いま、私にできること』(2005年、光文社)。文化人類学者の辻信一氏がアンデス地方に住む先住民族に伝わる話を絵本にしたものです。「著者」ではなく「監修」となっています。


森が燃えていました

森の生きものたちは
われ先にと
逃げて
いきました

でもクリキンディという名の
ハチドリだけは
いったりきたり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て
「そんなことをして
いったい何になるんだ」
といって笑います

クリキンディは
こう答えました

「私は、私にできることをしているだけ」


同書はこの物語を紹介したあと各界の著名人との辻氏のインタビューが掲載されています。


そんなことをして何になるのか。そうなんです。何になるのでしょう。


でも、ダンボールのセロテープ剥がしや日々の笛吹の練習、タイ語の音読なども含め、ひとしずく的な作業の中にこそ人生の価値があると私は確信しています。

(デリカカフェキバコにて)


私にとってここ数年の中で最も心を震わせる本です。間もなく読み終えます。ハワード・J・ロス著、御舩由美子訳『なぜあなたは自分の「偏見」に気づけないのか』(2021年、原書房)。


長編小説や大作の映画にあるように最初の頃は若干退屈でした。様々な実例が挙げられ解説がなされていきます。


章立ては、「はじめに」、第1章から第8章、「おわりに」に加え、付録(タレントマネジメントにおいてバイアスを見つけ、制御するための10の対策)によって構成されています。


静かに始まった交響曲が終盤に差し掛かってクライマックスを迎えるかのように、第1章から第7章に積み上げてきた実例が広範かつ奥行きのある伏線となって第7章、そして第8章に至ります。私たちに行動規範を示します。


第7章「ギアをニュートラルに入れる」で展開される「新たな物語を紡ぐ」あるいは「物語を書き換える」との考えに私は心打たれました。


「ウィルソン(※筆者註 ヴァージニア大学教授)は、代替の物語に触れることで、潜在意識の中の物語を『方向修正』できると知った。(中略)困難な人生を生きている人は、その困難を克服した人に触れることにより、困難とのかかわり方を変えることができるという」


目の前の事実そのものよりも私たちはそれをどう見るかによって同じ事実であったとしても人によって価値判断が異なります。言い換えれば、事実そのもの以上に認知の仕方によって価値的に生きていけるかどうかが決まってしまうと言えます。


当初『なぜあなたは自分の「偏見」に気づけないのか』について私はいわゆる人種差別といった偏見や差別の問題を扱った本だと思いながら読み始めました。まさにそれこそバイアスでした。


同書は説きます。すべての人にバイアスがあり、バイアスがあることは正常なことであると。そのバイアスに気づき、いかに価値的に判断できるか。その手立てを教えてくれます。


バイアスとは人種問題や男女差別等の特定の問題のみならず、自分自身をどう見るか、といった生き様の根幹に関わってくることを同書は示唆します。


難聴という事実は子どもの頃といまと何らの変わりはありません。むしろ以前より聴力は悪化しています。


にもかかわらず卑屈に思うことがなくなりました。恥をかくことはあり、耳たぶまで真っ赤になることもたまにあります。が、難聴を恨めしく思うことがなくなりました。私の物語が書き換えられたのです。


「新たな物語を紡ぐ」とは、中国の妙楽大師が『法華文句』で説く「願兼於業」にも通ずる考え方であると感じました。「あえて願って、苦しみの姿で生まれ、その苦しみと戦い、打ち勝つ姿を見せる」生き方です。


「願って」つまり「自分の発意で」いまある状況を選択したと捉え直したとき、自分の物語が書き換えられると言えるのではないでしょうか。


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