(久しぶりのカフェ「讃香」)

感度が鈍いのか。あるいは傲慢になったのか。長編の名作を読んでも感動しなくなりました。友にそのことを言うと、同じだと言う。

「あのさ、いま司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでるんだけど、学生時代に読んだときのような感動が蘇ってこないんだよね」

「わかります。おれも同じです。だから脳科学の本とか実務の本ばかり読んでます」

「わがる。おれもハウツー本の方が面白いって感じるもんね」

「小説は読まなくなりましたね」

「亡くなった母がね、私が子どもの頃、小説は若いうちに読みなさいって言ってたんです。今になってわかるね、その意味が」

「なんなのでしょうね」

「やっぱさ、主人公がおれらより若いって言うのがあるよね。下に見ちゃうというか。要は傲慢になってんだよね。傲慢さが原因だね。おれもひとかどのことをやってきたというか。そんな慢心があると思う」

「なるほど」

「でもね、すごいなって思うのは、『レミゼラブル』とか、『モンテクリスト伯』とか、こういった長編の小説って著者が結構な年齢になってから書いているんだよね。そこがすごい」

と言いながら、必要があって『坂の上の雲』を無感動のまま読み進めています。かつての感動はなんだったのか。テストステロンの涸れも影響しているのかもしれません。

シビレエイは自らが痺れているから痺れさせることができる。そんな寓話があります。


(久しぶりのあんみつに感動しています)

感動も同じことかもしれないと思う。人を感動させるには自らが感動していなければ成し得ない作業なのでしょう。

その意味で文豪や巨匠たちは、晩年に至るまで燃える何かを自身の胸中にたぎらせていたのでしょう。

燃えるものはあるか。燃えているのか。厳しく自らに問い質しています。

燃えているのはへその上のカイロだけです。最近のカイロは小さくてもけっこう長持ちします。


(父子合作によるなんちゃってケーキ)

「人は言葉によって自分自身を知り、他者を知り、生きる勇気と誇りを手にすることが出来る。言葉は、人を自由にするのです」(岩波書店『広辞苑』第7版ウェブサイト)

10年ぶりに『広辞苑』が改訂されて第7版が発刊されるという。

若き日、『広辞苑』を枕にして読書をする癖をつけました。意味不明の言葉に遭うと、いとわず『広辞苑』をひもとく。理解した言葉を数回新聞紙に書く。そんな習慣です。

もともと扁平な後頭部が扁平の度合いに拍車がかかりました。

いま「星々のつぶやき」を綴る上でも『広辞苑』の「自序」の言葉は私の羅針盤です。

「とにかく 、簡明にして平易、広汎にして周到」

何十万という言葉の大海原。その大海の中で己の知り得る数は限りがあります。

「竹馬の友」

ずっと「たけうまのとも」だと思っていました。「ちくばのとも」だとわかったのは最近のこと。

しかも、中国由来の「ちくば」と日本の「たけうま」とは似て非なる遊びであることも。「ちくば」は竹を跨いで馬のようにして遊ぶものらしい。


(愛用の第4版『広辞苑』)

『広辞苑』と言えば、タイ滞在中に相原コージ著『コージ苑』にもお世話になりました。珠玉の四コマ漫画です。

異国で読む、あまりにも日本的なシュールで時にシニカルな諧謔(かいぎゃく)に腹を抱えて笑ったものでした。

というわけで、『広辞苑』第7版を購入すべきかどうか、迷っています。文章書きにとっては歳時記のようなもの。

第7版のあとは第8版が出る。第8版のあとは...。スマホもiPhone6で我慢しているし。

Amazonで普通版9180円。ん〜。


(駅前の再開発ビル「ラトブ」)

P.F.ドラッカーの片言隻句(へんげんせっく)は触媒のようであり、プリズムのようでもある。ドラッカー著『経営者の条件』の読書会に参加しての感想です。

参加者各人が日々感じていること、思い悩んでいることや新たな発見をドラッカーの言葉を通して共有する場。それが読書会であると思っています。

一人での読書では味わえない魅力があります。

ドラッカーの同じ言葉に共鳴しつつも、その捉え方は必ずしも一様ではありません。そこがまた面白い。読書会の醍醐味と言えます。

中華料理店で働くTさん。2回目の参加です。

「われわれの顧客とは誰か」

この言葉がTさんを捕らえて離さないようです。「顧客」とは単にお店に来店するお客さんのみならず、いっしょに働くスタッフもまた「顧客」であると思うになったという。

「周りの人すべてが顧客であると思うようになったんです。そうするとスタッフもまた顧客であると捉えられるようになりました。そこで発見があったんです」

どのような発見なのか。皆が耳をそばだてます。

「いっしょに働いているミャンマー人の留学生が下げ膳の食器を私に渡す際、汚れていない方を向けて手渡すことに気づきました。彼もまた私を『顧客』と捉えているのだろうと思いました」

読書会初参加の建設機械メーカーに勤めるSさんが反応します。

「その振る舞いに気づくTさんもまた素晴らしいと思います」


(読書会の様子)

その通りだ、と私も思いました。

私が今回最も感銘を受けたドラッカーの言葉を紹介。

「通常、成果をあげるうえで最も重要な人間は直接の部下ではない。他の分野の人、組織図上では横の関係にある人である。あるいは上司である。それらの人と関わりをもち自らの貢献を利用してもらい成果に結びつけてもらわなければ、いかなる成果もあげられない」(『経営者の条件』31頁)

「足下を掘れそこに泉あり」

現実社会では足下に泉はないのです。

私の職場は、横の関係にある企画部門、財政部門の了解なしには成果をあげることはできません。

カフェを始めたいと思っているTさんに私は言いました。

「カフェの経営においても経営者とスタッフだけの力では成果をあげることは難しいでしょう」

加えて私は例えを述べます。

「いいコーヒー豆を使いたいと思えば、仕入先の協力が必要ですし、そのほかのことでも外部の力をお借りしなければ、成果はあげられないと思うのです。横が大事です」

2時間の読書会は、巧みなファシリテーターの促しによって横同士がつながり、あっという間に時間が過ぎていきました。

次回のドラッカー読書会「いわき学びカフェ」は正月松の内に開催。迫りくる忘却力と戦いながら、明年は一歩成長したい、と叶わぬ願望を抱いています。

「星々のつぶやき」は文字通り「備忘録」なのです。


(「時季の森」にて)

「成果をあげる者は、新しい活動を始める前に必ず古い活動を捨てる」(P.Fドラッカー著『ドラッカー名著集1 経営者の条件』)。これができたらなぁと思う。

「集中のための第一の法則は、生産的でなくなった過去のものを捨てることである」(『経営者の条件』)

ドラッカーは何か事を始める前にまず捨てることを勧めています。

これができない。まったくもってできないのです。特に私の所属する組織は至難の業(わざ)です。

創業は易く守成は難(かた)し、と言う。事業を起こすことは維持することと比べれば簡単だ、ということを意味しています。「貞観政要(じょうがんせいよう)」に記されている言葉です。

だが、意図的に事業をやめることはもっと難しい。そう私は実感しています。事業廃止のエネルギーは膨大です。


(「時季の森」にて)

これまで「学校の廃止」、「生活バス路線の廃止」、「火葬場の廃止」の3つの廃止を経験してきました。

大変でした。語り尽くせぬ辛労があります。

思うのです。起業家より“廃業家”が必要なのではないか、と。

事業をストップさせるエキスパートです。事業を廃止させるマネジメントとリーダーシップに長けた仕事師です。

人口減少、課題山積、債務増殖のこの日本には、「事業仕分け」の仕分け人を超越した事業廃止に邁進する斬り込み隊長こそ必要である、と私は訴えたい。

「トップ本来の仕事は、昨日に由来する危機を解決することではなく今日と違う明日をつくり出すことであり、それゆえに、常に後回しにしようと思えばできる仕事である」(『経営者の条件』)

嗚呼、私は後回しのプロフェッショナルであり、先送りのエキスパートである、と思う。

廃業党が設立されないでしょうか。総選挙のたびに、ひたすら廃止する事業を公約として掲げるのです。

人気がないでしょうね。


(徒歩通勤の風景。稲刈りが終わりました)

杉本良夫著『日本人をやめる方法』を読んでいたら、旅情に襲われました。外国に行きたい。

萩原朔太郎の「旅上」を口ずさみたくなります。


ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに

「純情小曲集」より


(徒歩通勤の風景。白鷺が橋をくぐろうとしています)

かつて住んでいたカナダ・モントリオールの町を想います。モントリオールの秋は清新です。

日本の紅葉とは違う。大きな葉による協奏曲。はっきりと色を訴えているように見えます。

ロリエ通りのローストチキン専門店にもう一度行きたい。丸ごとの若鶏をフォークで掻き出しながら、シンプルに塩胡椒でほおばる。


(徒歩通勤の風景。河岸の樹々も色づいてきました)

繊維の間から湯気立つ鶏肉。ふうふう言いながら、食べます。後にも先にも鶏肉であれほどの多幸感を味わったことはありません。

どこまでもジューシーでかつ歯ごたえがある。あの深い旨みは香菜によるものなのか。

というわけで、私の「われひとりうれしきことをおもはむ」はローストチキンのことでした。

来年には初めて東京とモントリオールが直行便で結ばれます。早く日本人をやめたい。


(野ねずみが朝日を浴びて目を閉じていました)

幼少期に母にたくさんの絵本を読んでもらいました。聴力がやがて失われると診断された息子に母は必死に読み聞かせをしてくれました。

絵本はいまでも好きです。でも、絵は上手く描けません。

中学2年生のときです。自分なりに一生懸命に描いた絵。それを美術の先生に「なんだこれは。描き直せ」と言われたときはショックでした。

河川で砂利を採取するキャタピラー式の重機を描いたつもりでした。

いったい何の絵なのか先生に理解されなかったようです。悲しい思い出です。この種の重機は私のトラウマです。

それからさかのぼること数年、小学生のときには「音痴」と家族に言われ、やはり心に傷を負いました。

感じていることをそのまま当人に伝えることはときに危険です。否、多くの場合、危険を伴います。

率直に伝えることのリスクを自身の体験から私は学びました。

事実は、事実という理由によって告げていいのか。もちろんウソを言うことはよくない。

しかし、事実もまた必ずしも伝えていいとは限らない。そう私は思うようになりました。

かように「事実」と「伝える」ことには、千尋の谷ほどの乖離があります。

ですから、大声で「ハゲー」などと言う人は非情な心の持ち主だと思います。たとえ事実であったとしても。

とともに、言葉の持つ不思議な力を子ども心にも感じました。言葉はまさに呪文です。

いったん「音痴」と称されてしまうと、自分もそう信じ、その呪縛から解き放たれないのです。

閑話休題。

ずいぶん遠回りしましたが、本日の本題は、絵本のことです。このごろ、絵本を書いてみたいという思いがふつふつと湧いてきます。

家の周りには野鼠、狸、狐、ハクビシン、雉、川鵜、鴨、鷺といった小動物が棲んでいます。

彼ら彼女らを登場させて物語が作れないか。そんなことを夢想しています。

ま、夢想しているうちが花なんですけどね。


(川内村のカフェ・アメイゾンにて)

「まえがき」から心にずっしりとくるものがありました。高原のカフェで夏苅郁子著『人は、人を浴びて人になる』を読み始めました。私以外客は誰もいません。

この本と出会った経緯については前号「人は、人を浴びて人になる」で紹介しました。

冒頭、著者は綴っています。

「この本は、重い精神の病気になった母親に育てられ、青年期に自身も精神科の患者となり、後に精神科医となった私と、私を助けてくれた人たちの物語です」

次の文章に私は釘づけになりました。そして、胸が重苦しくなっていきました。

「人生は、基本的には不公平だと私は思っています」「過酷な体験は、その人の風貌にも人格にも影を落としてしまいます」

著者は語ります。

「私は青年期になると、父も母も殺したいと思うようになっていました。不公平の元凶を消して自分も死んで、私の代でこの家族はいなくなればいい・・・・・本気でそう思い、いつもカバンに出刃包丁を入れて歩いていました」

なぜカバンに包丁を入れていたのか。

「包丁を持っていると、ほっとしたのです。結局は親を殺すことはできず、その刃は自分に向けられました」

「まえがき」に続き「序章」、「第1章」と読み進めるうちに、ごつごつした険しい岩場を登っていくかのような辛さを感じました。

ところが、読み終えたいま感じることは、違います。不思議な安堵感であり、ある種の爽快感です。

心の中の長く暗い嵐が過ぎ去り、日の光が輝き出しました。滴の美しい音が聞こえます。

著者とともに半生を追体験したかのような、そんな読後感を持ちました。


(「私を回復に導いたのは『薬』ではなく『人』だった」)

「あとがき」で著者は述べています。

「いつもと同じ日々、何気ない平凡な日々を今日も送れたことに、穏やかな幸せを感じる。こんなにも平和な時間の中に自分が今いることが夢のようで、信じられない。こんな未来が待っていようとは、30年前の私は想像もできなかった」

著者は訴えます。

「人は、人との出会いで変わることができる」と。

どんな出会いが著者を変えていったのか。人が回復するとはどういうことか。

その物語が、著書の副題にある「人生をつないでくれた12の出会い」です。

秋の夜長に虫の声を聞きながら、もう一度じっくりと読もうと思います。


(蕎麦畑。これから真っ白になります)

んだよなぁ、んだよなぁと何度も思いました。ドラッカーの読書会に参加してみての感想です。

「時間を無駄に使わせる圧力は常に働いている。何の成果ももたらされない仕事が時間の大半を奪っていく。ほとんどは無駄である」(『経営者の条件』。以下同じ)

「誰でも事情は変わらない。成果には何も寄与しないが無視できない仕事に時間をとられる。膨大な時間が、当然に見えながら実はほとんど、あるいはまったく役に立たない仕事に費やされる」

ドラッカーはよくわかっているなぁ、と思いました。

「私の観察では、成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。時間が何にとられているかを明らかにすることからスタートする」


(読書会の会場に至る階段)

日々の仕事で何をしているか分単位で記録することを勧められました。私も書き出してみよう。

「ほかの人間をマネジメントできるなどということは証明されていない。しかし、自らをマネジメントすることは常に可能である」

結局、隗より始めよなんですよね。周りが悪い。環境がああだこうだと言っていても始まらない。

自分を変えることはできる。ではどう変えるのか。まずやることは何か。

「する必要のまったくない仕事、何の成果も生まない時間の浪費である仕事を見つけ、捨てることである。すべての仕事について、まったくしなかったならば何が起こるかを考える。何も起こらないが答えであるならば、その仕事は直ちにやめるべきである」

それがなかなかできない。わかっちゃいるけどやめられない。なんてたって寄与しないが無視できないものですから。

「組織の中に成果は存在しない。すべての成果は外にある」


(読書会のあと空を見上げると月が西に光っていました)

内部で忙しそうにしていても、じつは、成果につながっていないことが多い。

外に成果が表れていなければその仕事は、する必要のない仕事なのかもしれません。

ドラッカーは訴えます。

「本当に行うべきことは優先順位の決定ではない。優先順位の決定は比較的容易である。集中できる者があまりに少ないのは、劣後順位の決定、すなわち取り組むべきでない仕事の決定とその決定の順守が至難であるからである」

というわけで、あすは劣後順位の決定について考えてみようと思います。

ただ、ドラッカーに「至難」と言われてしまうと、もう戦意喪失。弁当作り(息子と自分の合わせて3つ)で精一杯な感じです。

月曜日と秋は急にやってくるので嫌いです。


(コーチ・エィ取締役の粟津恭一郎さんの本です)

意識せずとも日に何度も私たちは質問を投げかけています。自分に対してもです。

夕餉の食卓。元暴走族だった人が学校の先生になった。群馬の人だという。すごいねと高校生の息子たちが賞賛。

すかさず私が質問します。

「暴走族でない、いわゆるふつうの人が勉強して教員になったことと元暴走族の人が教員になったことは、先生ということの評価は同等じゃないの」

「いや違うよ。元暴走族の人が先生になるってすごいじゃない」

「じゃ、人間はいったん悪に染まってから先生になる方が素晴らしいってなっちゃうんじゃないの」

「そういうことじゃなくて」

「じゃ、刑務所から出所してきた人が先生になるのはどうなの。背中に絵が描いてあって小指がない人だけど」

「それはダメでしょ」

「なんでダメなの」

「だって犯罪を犯してるもん」

「犯罪を犯した人はダメなんだね。再起しちゃいけないってこと?」

「元暴走族の人が先生になることはすごいことで、犯罪を犯した人が先生になるのは許されない。この違いはなに?」

「ん〜わかんない」

「過去との対比も大事だけど、いま目の前の姿において評価することの方がより大切だと思う。いま何をしているのかという視点」

息子たちは耳を傾けています。

「もちろん元暴走族の人が先生になるには大変な努力が必要だった思う。けれど、そのことと人間の評価は別物と考えた方がいい。まっとうに努力した人も同様にすごいことなんだ」

というわけで、食卓での親父の意地悪な質問は食感に影響するということがわかりました。


(ヒルガオの淡いピンクが好きです)

当地は8月7日が七夕。街はさぞ賑わっているのでしょうね。何ほどのこともないのに祭りは人を惹きつけます。

きょうは「積ん読」ままだった本を読んでいます。まもなく3冊目を読了します。

篠田桃紅著『百歳の力』(2014年、集英社新書)。ページに付箋をたくさん貼ってしまいました。

やはり人生というのは難しいから、どこかで折り合いをつけてやっている。太宰治は、「生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ」と『斜陽』に書いていますね。(30-31頁)

若いときは、私にも悩みが押し寄せることがずいぶんあったけど、このごろは、自分が悩む人間のように思うこと自体、思い上がりじゃないかと思いますね。みんな苦しんでるんじゃないかしら。誰だってその人はその人なりに。(36頁)

年甲斐もなくという言葉があるけど、やっぱり、この年にならないとできなかったんだという、年甲斐のあるものができれば、たいしたことですよね。(176頁)


というわけで、きょうから一泊二日の人間ドック。読了した本は『百歳の力』のほか、高良倉吉著『琉球王国』。まもなく読み終えるのが富山和子著『水の旅 日本再発見』。

そして、これから読むのが佐藤勝彦著『ますます眠れなくなる宇宙のはなし 「地球外生命」は存在するのか』です。

静まり返った人間ドック病棟。職員の方は誰もいません。

夜は長い。明日は大腸内視鏡検査です。内視鏡そのものよりもあの2リットルの下剤が苦手です。毎度頭痛がします。

みんな苦しんでいるのでしょうね。私だけなんて思うのは思い上がりです。

そういえば、前回のドックでは宮部みゆきの『模倣犯』を読んで、怖くなり風呂に入れなくなりました。人気(ひとけ)のない広い浴室。地球外生命がいたら嫌なので、明朝シャワーを浴びることにします。


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