(Vege Herb Cafeを再訪。きょうの振り返りをします)

新社長就任の祝賀会にお招きをいただきました。これまでの社長が会長に、副社長が社長に昇格。交代は早いのではないか。新会長はまだ60代前半。

会長のあいさつを聞き、深く感銘を受けました。40代後半の若き新社長をどこまでも信じ抜き、期待する思いが伝わってきました。

ある若者が採用してほしいと会社の門をたたき、社長が直接面接。社長は一瞬で大きな可能性を見出したようです。

社長の眼差しは厳しくも温かい。「何をしてきた人か」ではなく、「何をしようとする人か」で判断。視点はつねに現在と未来に向けられています。

会長のあいさつが終わり、新社長の番です。用意してきた原稿を力強く読み始めました。頬を紅潮させ、やや緊張しているように見えます。


(カモミールが胃を優しく包みます)

会長への期待に応えんすとする決意。自分を拾い、育ててくれた会長への恩に報いようと、「あいさつ」というよりは「誓願」に感じました。

と、同時に新社長として展望を示しました。4つの柱を方針として掲げ、具体的な行動として130以上ものアクションプランを考えているという。

創業者である会長の思いを胸に抱きつつ、新しいビジョンを掲げる新社長。そこに精神の継承の麗しさを私は見ました。

祝賀の場に臨んだというより、師から弟子への伝授の場、免許皆伝の場に居合わせたかのような趣を私は感じました。

新社長は好きな言葉として「悠々として急げ」を紹介。会場では地元で活躍する書家が見事な筆致で大書するパフォーマンスを披露してくれました。

これは元々ラテン語のフェスティナ・レンテ(ゆっくり急げ)から来ているそうです。古くから使われていることわざで、初代ローマ皇帝アウグストゥスも座右の銘にしていたとか。

これを作家の開高健は「悠々として急げ」と訳し、終生この言葉を愛していたという。

というわけで、私は「悠々として」は懸命に実践中です。しかし、「急げ」に若干、いや大いに問題があります。

したがって、本日よりはアクセルを踏む練習をしてまいりたい、とほんの少し決意した次第です。いまのところ、決意だけですが。

このような得難い祝賀の席にご招待いただき、会長、社長に深く感謝申し上げます。


(グイティアオ。新宿ルミネ1のタイ料理店カオサンにて)

旧友がベトナムとカナダからそれぞれ来日。2週続けて上京しました。

ベトナムの友とは新宿駅近くの居酒屋で会いました。3年前の6月以来の再会です。3年前のときも、その前のときもこちらがご馳走になり、今回もまた払わせてもらえませんでした。

会うたびに職業を尋ねるのですが、いつもはぐらかされてしまいます。教えてくれません。変な裏稼業をしているのでは、と勘ぐってしまいます。

出会いは、33年前。同じ学部学科で、すぐに仲良くなりました。ボートピープルとして来日。9歳年上には見えない若々しさがありました。

今年還暦を迎えたとのこと。驚きました。私の年齢に9歳を加えるのですから、60歳になっているのは当たり前なのですが...。信じられません。いまもなお溌剌としています。

授業の教科書や歴史・政治・文化・時事・小説など幅広い分野の書籍の読み合わせを在学中毎週のようにやっていました。

言葉の意味はもちろんのこと、著者の言わんとすることに対する疑問などについても議論をしました。ときには見解が相違し、夜を徹しての熱い語らいになりました。

当初は日本語を教えてほしいという友からの依頼で始まった読み合わせ。

言葉の意味や用法を「外国語としての日本語」という視点に立って考える貴重な機会となりました。いまとなっては教えていた側の私の方こそ感謝の思いでいっぱいです。

いにしえの聖哲の言葉が蘇ります。「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」

カナダの友とは京王プラザホテルの地階の一角で再会。16年前の来日以来です。そもそもは22年前に研修のためモントリオール大学に派遣されていた際に知り合いました。

英仏両方の言葉に堪能な彼に英語の個人教授をお願いしました。彼の自宅やカフェで英作文の手直しを中心に教えてもらいました。いまでは懐かしい思い出です。

ホテルのロビーで出会った瞬間、お互い同じこと言葉を発しました。

「変わらないね」

抱き合いながら旧交を温めました。

使っている鍬は光る。裏を返せば、使わなければ錆びれる。それが言葉です。

「震災後のいわきの状況はどうか。人々はどうしているのか」

言いたいことはたくさんあるのに、出てこない。もどかしい。

でも、私たちには言葉を越えて分かり合える何かがあります。夾雑物(きょうざつぶつ)はない。

彼はいま第二言語としての英語をフランス系住民に教えているという。彼にぴったりな立場だと思いました。

午前零時になろうとしたとき、警備員が私たちの座っている陶器のテーブルセットに近づいてきました。そしてテーブルの上の紙製の説明書きをとんとんと叩くのです。

よく見るとそれは値札でした。私たちがくつろいでいた陶器のセットは売り物で、100万円を超える値が付いていました。

ちょうどいい頃合いです。再会を約し、固いを握手を交わして別れました。


(カフェ&Gallery 結)

別に忙しくしているわけでもない。むしろゆったりと生きていると思っています。それでもふりかえりの時間を持ちたいと思うものです。

選んだ場所は好間川の渓流沿いに静かに佇む「カフェ&Gallery 結」。こんなところにこんな素敵なカフェがあるのだ、と思うような場所にあります。

カウンター席はまるで緑の屏風絵のよう。唐招提寺の屏風を飾る東山魁夷の作品を彷彿とさせます。スマホのカメラでは雰囲気を伝えられないのが悔しい。


(和室からも樹々の緑が目に沁みます)

和室を覗かせてもらいました。オーナーのセンスがそこかしこに感じられます。棚には販売も兼ねた陶器が飾ってあります。

畳に座って食べるのも一興だと思いました。何時間でも居られる。そんな心落ち着くカフェです。

しばらくすると注文したキーマカレーの香辛料の香りが漂ってきました。


(グラスに入った水を写すのが好きです)

和室とメインの部屋の間に薪ストーブが置かれてあります。外には冬に備えてなのでしょう。薪が積まれていました。

紅葉の季節に薪の燃える音を聴きながら、コーヒーを飲むのも、これまたいいなぁなどと、つい妄想の世界に入ってしまいました。

ここはできれば人に教えたくない。静謐を保ちたい。そんな勝手な欲望がもたげてきます。


(キーマカレープレート)

キーマカレープレートが運ばれてきました。厨房はオーナーお一人。お料理から手作り感が伝わってきます。器の彩りも美しい。

香り立つ香辛料が食欲を一層増進します。塩麹で漬けたパプリカが美味しい。フルーツゼリーと季節の果物が食後に清涼感を与えてくれます。


(庭の向こうは渓流が流れています。せせらぎの聞こえるカフェです)

食後の飲み物を飲んでいると一組のお客さんが来店。60歳前後の男性と一回り歳下の女性です。貸切状態が破られました。ちょっと残念。

二人は飲み物だけのようです。夫婦とは異なる雰囲気を醸し出しています。まったく会話がありません。気持ちだけが交差する息苦しさというのでしょうか。何かを感じます。

初めての出逢いなのか、はたまた別れを切り出そうとしているのか。などと、お節介にも想像力を豊かにしていたら、無言のまま二人は席を立ち、会計を済ませてしまいました。滞在時間20分ほど。

私の探究心が察知されてしまったのかもしれない。息詰まるようなあの二人の距離感はいったい何なのだろう。何しにここに来たのでしょうか。


(結yuiと呼びます。レンズに光が入ってしまいました)

気を取り直して今週読んだ本のふりかえりをします。感銘を受けた一節を留めおきましょう。

「人は『誰と出会ったか』ということがとても大切で、それがその人の人生観や価値観をつくっていく」(藤原美保著『発達障害の女の子のお母さんが、早めに知っておきたい「47のルール」』)


(和室の小窓から庭を望む)

その通りだなと得心しました。先週の近畿をめぐった旅の出逢いもまたそれを裏付けるものでした。

店を去った二人が気になります。が、「結(ゆい)」の店名にふさわしく、無事に結ばれてほしいと願いました。

もしや、結ばれてはいけない仲だったりして...深入りはいたしません。人生いろいろです。


(極上の、本物の抹茶アイスクリーム)

「串かつだるま」で満腹。こてこての大阪の新世界を脱し、大和路線(やまとじせん)で京都府唯一の村である南山城村に向かいます。

人口3千人弱、面積64平方キロほど。宇治茶の産地として知られる小さな村です。

南山城村を知ったのは7年前。2011年5月21日、東京・虎の門の東京財団においてでした。当時、村役場の魅力ある村づくり推進室長であった森本健次さんと出会ったことがきっかけです。

市区町村職員研修プログラムである「東京財団週末学校」にともに応募。29名が研修生として選ばれました。北は北海道、南は沖縄県の全国から集った研修生の一人として森本さんと私は同じ歳の最長老として参加することになりました。

研修は5月から10月まで9回にわたり週末を中心に行われました。国内調査と米国オレゴン州ポートランド市での国外調査を含みます。

国内外の講師陣による講義、国内外の調査費用、虎の門までの往復旅費・宿泊費のすべてを東京財団が負担する画期的なプログラムでした。

毎回、震災業務をやりきっての参加。しんどいと思うときもありました。原発事故の収束が見えない中で、全国から集ってくる仲間と会えることが希望でした。

その中でひときわ大人(たいじん)の風格を漂わせつつ、確固たる信念を感じさせていたのが森本さんでした。

2013年1月に南山城村を初めて訪問。森本さんに村内の廃校を利活用した施設などを案内してもらいました。同年8月には森本さんが遠く福島まで足を運んでくれ、息子さんとともにいわきの夏を楽しんでもらいました。

京都で一番小さな自治体である南山城村。主産業であるお茶も、後継者不足や高齢化の問題が押し寄せる。そのような中にあって森本さんはどうすれば「魅力ある村づくり」ができるか、日夜考えてきたという。

宇治茶で紅茶が作れないか。業界からは邪道、異端などといわれなき非難を受ける中で、2015年に日本茶AWARDに初出品し審査員奨励賞を受賞。森本さんのすごさは結果を出すところにあります。

長年の構想の末、村にお茶を主体とした道の駅を立ち上げることになりました。当時、村ではハード整備による財政難が続き、箱モノ行政への不信感が高まっていたそうです。

村職員のまま森本さんは第三セクターである株式会社南山城村に代表取締役として出向。


(道の駅について熱く語る森本さん=右側)

断じて結果を出してやる。あえて退路を断つため、出向ではなく、森本さんは役場を辞めるという選択をしました。その報に接したとき、驚くとともに森本さんらしいと私は思いました。

昨年4月にオープンした道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」。オープン時には国道163号線が大渋滞を起こし、全国ニュースにまでなりました。

今月13日、レジ通過のカウント(販売・レストラン合計)が50万人を突破。来場者総数はその倍はあるのではないかと推測します。

道の駅オリジナル商品のアイテムは100を超えるという。「お茶」で一点突破全面展開です。どれもが濃い。レストランで考案し、それがスピンオフとなって商品化した物も。

森本さんにおススメの「抹茶パウンドケーキ」。帰宅して、1本しか買ってこなかったことを深く後悔。誠に遺憾であります。

上品な抹茶の香りが口中から副鼻腔にただちに香り立ちます。生地そのものも手作り感が伝わってきます。しっとりとした生地に抹茶がこれでもかというほど練り込まれているのがうれしい。

一番の目当てであった「むらちゃプリン」こと抹茶プリン。嗚呼、贅沢なまでに濃すぎる。

抹茶プリンというより、プリン抹茶と言った方がいいかもしれない。一口食べた瞬間、多幸感が脳髄を突き抜けました。

むらちゃプリンの抹茶は南山城村産の春摘み「オクミドリ」を100%使用。牛乳は三重県の北川牛乳の低温殺菌牛乳。玉子は同県のみなみのたまごの新鮮な卵。ゼラチン不使用で低温で蒸し焼き。とにかくこだわる。

「抹茶は変色しやすいため、ここでその都度茶葉を挽いています」

抹茶アイスクリームを私に渡しながら、森本さんはこだわりの秘密を明かしてくれました。

ここ南山城村は、京都の中心部・洛中から見れば辺境の地かもしれません。しかし、南は奈良市と接し、北に滋賀県甲賀市を臨み、東に三重県伊賀市に通ずる、交通の要衝とも言えます。

2017年、村は転出者より転入者が多い「転入超過」となりました。これはものすごいことです。

道の駅「お茶の京都 みなみやましろ村」を中心にこれまでにない胎動が起きているように感じます。

そのど真ん中にいる森本さん。本物の人です。戦っている人は清々しい。お会いできて勇気づけられました。

今回は道の駅のレストランで食事する暇(いとま)がありませんでした。次回は空腹状態で、いや飢餓状態となってたどり着き、レストランの料理と物販のスイーツを総なめする予定です。


(串かつ発祥の地)

芦屋のギャラリー樹をあとにし、新今宮駅に正午過ぎに到着。雨脚が強くなってきました。ほどなくして友人のS君が通天閣口(東口)にやってきました。6年ぶりの再会です。

前回は2012年3月17日。大阪南港にあるメディカフェ(Medi-CAFE)で奥様と1歳になる娘さんも交え昼食。大学の学生食堂でありながら、健康に配慮したこだわりの食材を使った素敵なカフェレストランです。

S君は私にとって恩人。初めての出会いはいつだったのか。思い出せません。学内で共通の友人を通してたまに会話を交わす程度だったように思います。

30年前(1988年)、私がタイ・バンコクに留学中、S君は遊びにやってきました。その後、S君は環境経済学を学ぶため茨城県内の大学院に進学。私はバンコクでタイの大学院進学の準備をしていました。

しかし、私の両親が相次いで病に倒れ、やむなく帰国。地元で生命保険の営業職に就いて悶々と仕事をしていたころ、S君が大阪府庁を目指していることを知りました。

「あのさ、先輩に誘われて市役所の試験を受けようと思うんだけど、ぜんぜん勉強していないし、無理だよね」

「もったいないよ。あきらめちゃだめだよ」

「あと2か月後だよ。間に合うかな」

「憲法と経済学はやったほうがいいよ」

「そうなんだ。わかった」

S君も、そしてS君の助言のお蔭で私も採用試験に合格。就職祝いと称し、お互い入庁する前月に香港・マカオをともに旅しました。26年前のことです。

堺の出身で、実家は元々家具屋さんだったというS君。でも、言葉遣いも振る舞いも大阪人らしくない。

香港で海辺を散策していたときのことです。身の上の窮状を切々と訴える怪しげな人にS君は耳を傾けています。そして、驚くことにお金を差し上げてしまいました。

「あの人の話、絶対にインチキだよ。騙されてんだよ」

「いいんだ、いいんだ。たいしたお金じゃないし」

さて、今回は私の要望を事前に伝え、こてこての大阪を味わうことになりました。


(串かつ。絶品でした)

元祖串かつ だるま新世界総本店。L字型のカウンター席のみです。混んでいます。濡れた傘を置く場所を探すのにも苦労します。

串かつ発祥の地と標榜するくらいですので有名店のようです。S君は初めての来店だという。お通しで出されたキャベツをソースがたっぷり入ったステンレス製の器に入れようとしたときです。

「あ、お客さん、箸は使わないで、手でつまんでソースを付けてください。二度付け禁止ですからね」

「すみません」

異国の地で習慣がわからず恥じ入るように縮こまってしまう私。

「キャベツは手でつかむんだぁ。おれも箸でいいと思ったよ」とS君。

50年以上大阪にいるのに地元の習わしを知らないように見えます。ふとS君を見ると、股間にソースがだだ漏れしています。そういう私も垂らしていました。似た者同士のようです。

現在、S君は大阪府庁で政治に近い部署で仕事をしています。

大阪の政界、府議会内の与野党の関係、女性議員の比率、中央(東京)との政治力学等々、興味の尽きない話を聞くことができました。

今後の私の振る舞いにおいても参考になる視点を与えてくれました。そして、勇気と元気をもらいました。

食後、場所を変え、昭和な雰囲気が漂う「喫茶スター」でコーヒーを飲みながら、ふたたび話題は政治をめぐって深い話に。S君の透徹した眼力に唸らされる私。

持つべきは“ソースの友”だと思いました。

新今宮駅で別れを告げ、私は京都府唯一の村である南山城村に向かいました。道の駅を運営する社長に会うためです。


(テラスが涼しげです。ギャラリー樹にて)

芦屋を訪れるのは2回目です。前回は6年前の3月。出張でした。芦屋市保健福祉センターでその運営状況について伺いました。

今回は絵画の個展を鑑賞するため。21年前、モントリオール滞在中に知り合った尼崎出身の画家・横山雄二さんの作品です。

阪急線芦屋川駅を降りると雨が降り出していました。ギャラリーまでは1キロほど。雨雲レーダーを確認。濃い雲が来襲してくるようです。

ふと周りを見ると構内に善意の傘が置いてあることに気づきました。傘入れに注意書きがあります。

「使った傘は元に戻してください」

次の移動ではJR線芦屋駅を利用するため、元に戻せません。

「何本もあるんだ持って行ってしまってもいいじゃないか。しかもビニール傘だし」

悪魔の声がそうささやきます。私は答えます。

「そういうことはできないのだ。見ていようがいまいが、やっていけないことはいけないのだ」

駅前にはタクシーが並んでいます。タクシーで初乗り運賃で行けるはず。帰りもタクシーで芦屋駅に行くとなると往復で1300円程度だろう。

待てよ、1300円だったら軽量の折り畳み傘が買えるではないか。

タクシーで楽に行くか、あるいは払った対価がしばらく温存できる折り畳み傘の購入にするか。悩みます。

このようなどうでもいいことを真剣に考えてしまう私。結局、駅前のローソンで折り畳み傘を買いました。

さて、時計の針を1997年4月23日木曜日の夕方に戻します。

快晴です。大学の授業が終わり、モントリオール・ダウンタウンのフォーボーグと称する商業複合施設を私は散策していました。催事スペースを覗くと日本人画家による個展が開かれていました。

そこで初めて横山雄二さんとお会いしました。

当初、油絵を描いていた。現在は、パステルを使った作品が中心となっている。絵画以外にもシナリオライターとしても活躍している。そんな話を伺いながら、会話が弾みました。

「横山さんの絵を見ていると日本画家の東山魁夷の作品を連想します」

「東山魁夷は私の最も好きな画家の一人です」

翌月、ご自宅に招かれ、手作りの関西風のすき焼きをご馳走になりました。海外でいただく手製の日本料理は格別のものがありました。心に深く刻まれています。

今回は所用のため横山さんご自身にはお会いすることは叶わず、残念でした。

その代り、ギャラリー・オーナーのご婦人とお話をしました。話題は自然と、23年前の阪神淡路大震災、7年前の東日本大震災、そしてつい最近の大阪北部地震をめぐってとなりました。

辛い思いを経験した者同士は瞬時に心が通うものです。

ギャラリーに暇を告げ、友人に会うため通天閣のそびえる新今宮に向かいました。


(師匠宅の庭先で可憐に咲く花)

からつづく)

鮨屋、串焼き屋とめぐり、締めはスナック「茶色の小びん」。店名の由来は、アメリカの往年のジャズナンバーの一つ「茶色の小瓶」をオーナーが愛していたからだという。

店の前まで来て、まざまざと私は思い出しました。15年前にもこの店で師匠と飲んだことを。日誌には7月11日金曜日とありました。

その際、私は飲みすぎて店外のフェンスにもたれて夜風に吹かれていました。いつの間にか師匠がそばに寄ってきて、覗き込むようにして尋ねました。

「○○○さん、戦ってる」

思っても見ない質問に私は答えに窮しました。いや、正確に言えば、戦っていない自分が恥ずかしく答えられなかったのです。

いま思えば師は戦っている渦中にあったのだ。15年の月日が過ぎ、顧みてわかります。

長所と短所、言い換えれば、光と闇を、他との比較においてではなく、師は透徹した眼であくまでも己を俯瞰します。自身に才能あることを客観視すると同時に闇の部分にもあえて目を凝らします。

その同じ眼差しで私も射抜かれてきました。光も闇も。

店に戻ると、師匠はマイクを握って「妖怪人間ベム」の主題歌を歌っていました。

「早く人間になりたい」

師匠の思いを代弁しているのだろうか、何らかの比喩なのだろうか、師はじつは妖怪人間なのか。

歌の中でそのフレーズが流れるたびに、私は考えてしまいました。妖怪人間というよりは「人間妖怪」なのかもしれない、と。

走馬灯のように15年前を振り返りつつ、席に座りました。前回はテーブル席でした。今回は美しいママを対してのカウンター席。


(夜の会津若松)

お通しが美味です。別腹が即座に起動。冷たいサラダと郷土料理風の夏野菜の入った茄子炒りです。じつに美味しい。

この店に似合うのはやっぱりバーボン。フォア・ローゼズの水割りを飲みながら、師匠の歌う曲に耳を傾けました。

テレサテンの「つぐない」
なかなかに哀切の漂う歌い方です。ペーソスというのでしょうか、歌声から切なさが伝わってきます。

酒井法子の「碧いうさぎ」
「あとどれくらい切なくなれば、あなたの声が聴こえるかしら」。これまた胸に迫ってくる歌です。

ちあきなおみの「黄昏のビギン」
初めて聞く曲です。「雨に濡れてたたそがれの街 あなたと逢った初めての夜。ふたりの肩に銀色の雨...」。哀愁を感じます。素敵な歌詞。一つ一つの言葉が胸奥に沁み入ります。

山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」
「二人で行くと約束したが 今ではそれもかなわないこと...悲しみ深く胸に沈めたら この旅終えて 街に帰ろう」

師匠の胸には何が去来するのだろう。「かなわないこと」という言葉がたまらなく切ない。

というわけで、千鳥足で師匠宅に戻り、梨のリキュールを飲み始めたところまでは記憶しています。翌朝午前5時前に目が覚めました。シャワーを浴びて寝静まった家から逃げるように辞去しました。

サボテンの花や庭先の花を盗っ人のように撮影。じつに濃厚な会津若松の夜でした。師匠に深謝。


(師匠お手植えのデンドロビウム)

)よりつづく

二葉鮨で極上の鮨を堪能。河岸(かし)を変えて、次に向かったのは「串」。炭火で串を焼く居酒屋です。

私の師匠は古くからここに来ているらしい。いや、通っているらしい。

店は一部屋のみの小さな造り。カウンター5席に囲炉裏端は8人ほど座れそうです。囲炉裏の鉄瓶から湯気が出ています。青森から来たというお客さんが囲炉裏端を囲んでいました。

師匠と門下Aさんは地酒を注文。門下Nさんは麦焼酎のお湯割り、私は芋焼酎のお湯割り。お通しが出されるまでの間、二葉鮨でつぶやいた門下Aさんの言葉を私は反芻しました。

「多くの人の共感を得ることよりも、一人の人に深く刺さることが大切だと思います」

門下Nさんも賛意を示し、こう述べました。

「私も目の前の一人の人に理解してもらうことを心がけています」

二人の言う通りだ。一人の人を大切にしよう。そう私は思いました。

こりこりとした新鮮な鯛の刺身と枝豆が出されました。枝豆は両端が切り落とされ、食べやすくなっている。店主の心遣いを感じます。

店内が禁煙なのもうれしい。しかも師匠は今年から禁煙中。

つくねを注文。じっくりと炭火で燻され、焼かれている香ばしいにおいが漂ってきます。たれ壺につくねを通し、さらに焼きを重ねます。

洋がらしが添えられ熱々のつくねの串焼きが目の前に置かれました。

あっ、おひしぃ。たまらない。


(炭火串焼き「串」)

表面も芯も熱い。いや、中の方がより高温です。遠赤外線がつくねのコアまで行き届いています。

つなぎを極力抑えているので弾力性はさほどありません。たれの甘さもひかえめ。

鶏肉本来の旨味を引き出そうとしていることがわかる、これまた極上のつくねでした。

「こんな美味しいお店が自宅の近くにあっていいですね」

私が師匠をうらやみつつ言うと店主が答えました。

「いや、健康に良くない。体を壊しますから」

一同、呵呵大笑。客の視点で考えられる店主の姿勢に私は惹かれました。

最後に出されたのが高麗人参スープ。

飴色の澄んだスープで、見た目はコンソメスープのよう。松の実、くこの実、香味野菜の刻みが入っています。3日間かけて作ったという。これには驚きました。

「コンソメスープのようにも感じるのですけど、ベースには何が入っているのですか」

「コンソメと似ているかもしれないですけど、肉や昆布、鰹節、野菜など様々なものが入っています。身体が熱くなりますよ。体温が上がるんです」

「どの味と表現することが難しい味ですね」

複雑でいて、それぞれの旨味が相殺することのない味というのでしょうか。野菜のエキスもほんのりと味覚が捉えます。まさに旨味の交響曲。名指揮者はもちろん店主です。

「このスープ作りは温度が大切です。旨味が出るぎりぎりのところまで温度を上げ、また下げる。これの繰り返しで濁りのない澄んだスープができます。温度管理を間違うと不味くなってしまう。難しいんです」

店主はどれほどの研究と試行錯誤を繰り返してきたことか。陰の労苦はけっして他の人には見えない。師匠の姿にも通ずる何かを私は感じました。

カウンターに置かれている高麗人参の焼酎漬けを眺めながら、滋味溢れる最上のスープを飲み干すと全身にエネルギーが漲ってくるように感じました。

パワーをチャージしたところで、次なる店「茶色の小びん」に移動です。着いてみるとそこは思い出の場所でした。

(下へつづく)


(広瀬川流れる岸辺)

その方の記憶力に驚嘆しました。仙台で開催された勉強会で私の自治体の隣町の役場職員と名刺交換した際のことです。

「以前、生活バス路線の補助業務を担当していませんでしたか」

「あ、はい、平成17年度から2年間担当しておりました」

「役場でお会いしていますよね。バスの補助路線の廃止のことで」

「◯◯町役場に行った記憶はありますけど、お会いしたかどうかは...」

「お顔を覚えております」

「そうですか。すごいですね。私は記憶力はほんとに弱くて、申し訳ありません。そのために日誌を付けています。職場に戻ったら確認してみます」

その職員の名前で日誌を検索。次の通り出てきました。詳細な協議が行われ、関係市町との間で合意がなされていたことがわかりました。

12年前のたった一度の出会いで顔を覚えられる。良質な部分の田中角栄的素質と言えます。羨ましい限りです。

H18年7月14日(金)
午後1時25分、○○町総務課にて同町総務課の○○○○課長、総務課企画推進係の○○○○○係長、企画推進係の○○○さん、○○町企画調整課企画係の○○○主査と○○線(○○交通)の今後の維持対策について協議。

(以下、協議内容は省略)

日誌によるとこの日の前後に数度にわたり電話でもその方と話をしていたことが判明。当時はお互い係長でした。

その方は珍しい姓です。記憶していてもよさそうなものなのですが、いかんせん脳細胞が壊死(えし)しているのではと思うほど、記憶力が乏しい私です。

日誌は不思議です。そんな私でも読むと情景がたちどころに思い浮かびます。協議をした部屋の雰囲気も思い出しました。

古池や蛙飛び込む水の音

私の日誌は松尾芭蕉スタイルで事実を淡々と綴ることを課しています。

事実を描写する写実主義こそが日誌を価値あるものにする。嬉しいこと悔しいことなど感情や思い出は一切記載しない。役職を正確に、名前は姓名を記す。指示、依頼、協議内容を簡潔に無駄なく残す。

というわけで、私のよすがとも言える、この日誌のせいで余計に記憶力が減退しているのではないか。そう思い悩むきょうこの頃です。

ちなみに証人喚問で数年前のことを尋ねられたら、「記憶にございません」と挙動不審なく、堂々と言える自信があります。


(いわき陸上競技場にて)

障がい者スポーツ大会で投擲(とうてき)の表彰(メダル授与)を担当しました。投擲は投げる競技。難しい字です。「擲」の手偏の右側はどんな意味があるのでしょうか。

さて、砲丸投は直径2.135メートル(7フィート)のサークルから前方に砲丸を投げます。34.92度の扇形の内側の地面に落下したものだけが有効となります。

サークルの近くに「炭マグ」と記された白い粉の入った箱がありました。炭と書いてあるのに白い粉。なぜだろうと不思議に思いました。

滑り止めの炭酸マグネシウムの略だと知りました。通称、タンマグ。便秘薬の主成分でもあります。

最近知った漫画喫茶の略語「漫喫」とともに大脳皮質のどこかにインプットされました。

じつは、「漫喫」は、漫画喫茶での刺殺事件を報じたニュースの見出し「漫喫刺殺」から覚えたものです。凄惨な事件とその語感との乖離(かいり)。やるせない気持ちにさせられます。

閑話休題。

競技が始まると、白杖を突きながら砲丸投の円内に向かった方がいました。50代半ばでしょうか、視覚障がい者の方です。どのように方向を定めるのでしょう。見守っていました。

「真ん中に立って手を叩いてください」

扇形のフィールドに立つ飛距離計測のスタッフに向かって叫びました。

「もう一度、もう少し長く叩いてください。はい、大丈夫です」

サークルのフィールドに近い側の縁(へり)を足で確認。ここを越えてはファウルになります。その後、外縁に右足を付け、勢いを付けて砲丸を投げました。10メートルほど飛びました。

競技を終え、控えのベンチに戻る際、誘導の補助をしました。

「このあとどうされるのですか」

「帰ります」

「では、トラックの外までご案内しましょう」

左手で私の右腕をそっとつかみ、フィールド内をいっしょに歩みを進めます。誰か迎えに来ているのだろうと私は思いました。

「どちらまで帰るのですか」

尋ねると県南地方だという。こちらに来るときは、東北本線と磐越東線を乗り継ぎ、いわき駅からは路線バスを使い、陸上競技場まで歩いて来たとのこと。

「帰りは鹿島街道のバス停からバスに乗ります。競技場からは自分で行きますからここで大丈夫です」


(いわき陸上競技場にて)

「いやいや、ここからバス停までは1キロ以上ありますよ。ご案内します」

陸上競技場からバス停までは坂とカーブが続き、障害物も多数あります。人や車の出入りも激しい。

途中、側溝のふたに白杖の先端が挟まったり、グレーチングで滑りそうになるなど、私が脇にいても危ない目に遭いました。

「お料理はどうされているのですか」

「一人で住んでいますが買い物も含めて全部自分でやっています」

「ヘルパーさんの派遣は頼んでいないのですか」

「はい。身の回りのことはすべて自分でやっています」

「それはすごいですね」

「白杖を持っているということでバカにされたりすることもあります」

「そんなこともあるのですか。じつは私は軽度の難聴なのです」

「そうですか。障害者手帳を持っているのですか」

「手帳を取るほどではないのですが、仕事上では補聴器なしでは聞き取れません」

「そうなんですか」

「補聴器を付けていても会議などで頓珍漢な受け答えをすることがあります。恥ずかしいですし、落ち込みます。でも、きょうお話を伺って勇気をいただきました」

強い日差しの下、私たちは20分ほど歩いて汗をかきました。ちょうどバスが到着。私の右腕から手が離れました。

乗車券を取って、手渡し、別れを告げます。

バスが出発しました。私はいつまでも手を振っていました。思いはきっと届いていることでしょう。


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