(Uluruのワッフルは絶品)

 

30年余の旧知の友が家族で来訪。しかも、タイ・バンコクから。嬉しさ百倍です。

 

日系企業に勤め、タイ在住30年近くになる友です。時期は若干ずれるもののバンコク市内の同じ大学に留学していました。

 

盛り上がる共通の話題は独房のようであったと私たちが口をそろえる学生寮の生活。

 

天井から落ちてくるヤモリ、見事なタキシードを身にまとまった夜の徘徊の王者・ゴキブリ。キノコの生えるロッカー。

 

「タイも変わった部分、変わらない部分があるよね」

 

「あの頃、エアコンのない2バーツ(十数円)がありましたよね。ちょっと荷物を持って立っていると座っているお客さんが荷物を持ってくれたりしました。いまはもうそういう習慣はないです」

 

(アンティーク調のUluru)

 

「そうだったね。みんな、優しかったね」

 

「変わらない部分と言えば、料理に髪の毛が入っていて指摘すると、毛をその場と取り除き満面の笑みで『マイペンライナ(大丈夫だね)』で言うことですね」

 

「そうそう。あの笑顔はたまらないね。ぴゅって髪の毛を料理から抜いて最高の笑顔を見せる。そうだよ、その手があったかと思わせる仕草だね」

 

旧友は13年前の東日本大震災時もバンコクに滞在。当時の様子のわかる伝承施設や展示を案内しました。

 

旅の最後にワッフルの美味しいカフェ「Uluru」で歓談。次回はバンコクのチャオプラヤ川沿いのレストランで再会することを約しました。

(小川郷駅は仙台支社管内なので仙台ナンバーの工事車両が目立ちます)


体力温存のため、午後2時過ぎに早退。駅近くで行方知れずとなっていた知人と出くわしました。元気そうでよかった。


6番線ホームにディーゼルカーが入線していました。


対面の1人掛けの椅子に座ります。


廊下を挟んで4人掛け対面ボックスには70代と思しき婦人が脚を伸ばしています。


常磐ものでしょうか。膝の上には寿司が広げられ、美味しそうに召し上がっています。


時間は午後3時半過ぎ。遅い昼なのか、早い夕食なのか、はたまた単なるオヤツなのか。判別がつきません。


車内の客はまばらです。4人ボックスを1人で占めてもまったく支障がありません。年間7億円を超える赤字を計上して運行されています。


乗合バスにしろ鉄道にしろ路線廃止となると反対運動が起きます。反対の声を上げる人にはぜひ当該路線を使ってほしいと願っています。それが路線維持のいちばんの近道となるからです。


この脱力した、まるで居間という空間が延長したような車内の空気は笠岡駅近くの笠岡港から北木島行きのフェリーの船内に酷似しています。井戸端と形容していい雰囲気が漂っていました。


グリーン車しか使わないという私の友人はグリーン車は家庭の匂いがしない、と以前言っていたことを思い出しました。その意味で磐越東線の車内は家庭の団欒の場そのものです。


勤労者、高校生、旅人などなどのそれぞれの思いの交錯したゆうゆうあぶくまラインこと磐越東線。ひたすら赤字が拡大していきます。


最寄りの駅舎は建て直しが進み、間もなく竣工です。

(北千住にて)


初めて食べたチョコレートはロッテか明治か覚えていませんが、板チョコだったことは確かです。


テレビ番組『がんばれ!ロボコン』でロビンちゃんが生まれて初めてチョコレートを食べ感激する場面があります。当時、ああわかるぅといたく共感した覚えがあります。


ロビンちゃん扮する島田歌穂さんとはその後出逢いがありました。


学生時代に『レ・ミゼラブル』を帝国劇場に友達と見に行きました。エポニーヌ役で出演していた生の歌穂さんを遠くから見ました。時下りて、いま住んでいる地元の市民会館で歌穂さんの公演を手伝うこととなり、身近に接する機会を得ました。


チョコレートに話を戻します。チョコレートが好きです。バレンタインデーは贈られる意図の如何に関わらず、義理でも推しでも何でも、いただけるのは有難い。


いまもコーヒーを飲みつつチョコレートを食べながら綴っています。


これまでで最も美味しいと感じたチョコレートはOGGIの「ショコラデショコラ」。特にオレンジピールが美味しい。高価なのでこれまでで口にしたのは2回。


OGGIの素晴らしさを伝えたところ、栄養士の友達が模して作ってくれました。それがまた絶品でした。


模すことができるというのはすごいことだと思いました。再現力は生きる上で極めて大切な力です。


私は何を模すことができるのか。iPadにタイ語で話しかけたら正確に文字に変換されました。可愛いと思いました。

(本年1月末でイタリアンダイニングが閉店となります。アリオスにて)


旧知の社会保険労務士の方との語らい。どのように糧を得ているのか尋ねました。私はけっこう失礼な人間です。


業務を請け負うことでの報酬の単価は自由契約であるという。では、都度払いなのか。


「生々しい話なんですが、報酬は決められているのですか」


「いや、単価は決まっていないんです」


「では、一定の請負に対して報酬を都度受け取ると..」


「最近はそういう方もいますが、うちは古いタイプの事務所なので業務があってもなくても月額で定額でいただいています」


「なるほど、サブスクですね」


「そうですね。サブスクですね」


「私思うんです。世の中でほんと設けているビジネスはサブスクである、と」


「ほう」


「使っても使わなくても一定額身銭が入る。この仕組みほど安定したものはないんです」


電気やガス料金は定額と従量制を組み合わせています。その方法も有効です。


「確かに都度払いは安定していませんものね」


「そうなんです。税金は対価としてのサービスが得られるかどうかにかかわらず、課金(課税)されます。これもある意味でサブスクに似ています」


ただし、税は対価とサービスに不均衡がありますし、サービスの選択に枠がはめられていることが多い。


「以前の職種は都度払いでの業務だったので、飯を食うために仕事をする。ライスワーク(rice work)でした。いまはいい仕事、生活をするために仕事をしているのでライフワーク(life work)となりました」


「いい言葉ですね。私も保険の営業職時代はまさにライスワークでした。とにかく、IT関連の巨大企業もよく見ると基本はサブスク、つまり一定額を顧客に払わせる仕組みで成り立っています。これが一番儲かるんです。薄く広くです」


居酒屋にもサブスクが導入できないだろうか。毎月5千を払うと、毎回の飲み代が2割引きになる、と。事業者も顧客も ウィンウィンになるのではないだろうか。


※サブスク=subscriptionは「下の方に署名すること」が原義のようです。要するに契約してずっと利用するという意味から現在のサブスクの意味として使われるようになったと解されます。

(ガソリンスタンド併設のドトールコーヒー)


カフェで時間を過ごしていたところ、背後に座っている高齢の男性が勉強をしているように見えました。


その男性は小一時間ずっと書物に向かっていました。食器を返す際に一瞥すると『英検2級対策』と書かれています。軽い感動を覚えました。


私も負けられない。年頭に掲げた「実用タイ語検定試験準2級」への挑戦に真剣に取り組もうと思いました。萎えていた気持ちに張りが出ました。


聞く、読む、書く。テキストを何度も何度もこの三拍子で習得する。時期は6月上旬。あと4か月です。


準2級まではペーパーとヒアリングだけ。2級と1級は面接試験もあります。緊張しやすい私は面接は苦手です。


ともあれ、劣化しつつある脳細胞に鞭打ち、上半期の目標を勝ち取りたいと思います。

(ほうれん草を株分けしました)


地位が人生を決めるものではない。旧友はそのことを十分に理解しています。


しかし、毎日の現実に直面したとき心は揺らぎ、憂鬱になります。


「上司は自分の年下。同期はみな出世している」


旧友はかつて上司から恒常的なパワハラを受け、うつ病を発症。休職ののちに現在は何とか通勤できる状況にまで回復したものの、服薬は続けています。


「地位」をめぐって当ブログの愛読者からこのようなメッセージが届きました。


「地位があってもなくても為すべき目の前のことに打ち込むことが大事。(中略)どんな立場でもやれることはあります。その、おかれた立場だからこそできることもあります。その立場だからこそ助けられる人もいます」


その通りだ。腑に落ちました。


メッセージを送ってくれた友人は正規職員ではない現在の立場について「コンプレックスに思うことも多々ありますが、あまり考えないようにしています」と現在の心境を吐露してくれました。


加えて、「今の自分の立場だからできることや、支援できる人のことを考えて仕事をするように」しているとし、「人間なので人を羨ましく思うことはたくさんありますが、私には私にしかできないこともあるはず、と自分を励ましている」という。


おそらくは我が旧友も頭ではそういったことをわかってはいるのでしょう。でも、執着から離れられない。


地位は待遇面にも直結しているので簡単に割り切れるものでもない。地位は「やる気」の最たるものの一つであることも事実です。


ここは徹して添え木となって旧友を支えていきたい。そう思いました。理を尽くすのではなく、受容することが大切なのであろう、と。

(賓客をもてなすのはここ「わらさ」。小川郷駅前にて)


初めての出逢いはカナダ東部モントリオールでした。27年前。季節は冬。


共通の知人宅ですき焼きをいただきました。モントリオール在住で画家として活躍している方です。異国で食べる日本の味は思い出深く、その真心とともに胸に残っています。


以来、親交を重ねてきました。旅先から年に数葉はがきが届きます。旅情を掻き立てる文面を見るにつけ羨ましさが募ります。


基本的に旅先での移動は公共交通機関を使うという。話題は北海道新幹線のことをめぐって...


「函館・札幌間で意外に距離がありますよね」

※筆者註:318km


(二次会は「ハッピーオーラ」にて。「わらさ」から徒歩数分)


「ありますね」


「新幹線を札幌まで通したとして東京まで何時間でつなぐことになりますか」


「5時間です」


「千歳から飛ぶ飛行機との優位性はどうですか。5時間では厳しんじゃないですか」


「ところがそうでもないんです」


「というと...」


「雪です。雪で千歳空港が閉鎖になることがあるんです。多いときで週に一回。空港が閉鎖にならなくてもアクセスに支障が生じてたどり着けないこともあります」


「なるほど。それは考えたことがなかった」


(磐越東線です。これも採算が厳しい)


「ただ、道内の鉄道は採算が厳しく基本的に廃止の方向です。新幹線と札幌周辺だけを残して撤退ではないでしょうか」


「北海道自体は外国人も含めて観光客の入りはありますよね」


「たしかにありますけどみんなレンタカーを使いますね」


次回札幌で再会することを約して別れました。薄いけど長い付き合いが不思議と続いています。

語らいに夢中で磐越東線最終の3分前に店を出て最後はダッシュで車両に乗り込みました。ぜいぜいと息を切らす二人。いわき駅に向かう途中小動物に衝突し立ち往生しました。

「北海道ではエゾシカに衝突して車両が壊れることがあります」

「へぇ〜っ!」

(Pique + Niqueにて)


オンラインで一対一のミーティングを行いました。メールで数回やり取りしただけの関係です。


不思議なものです。画面越しでも、ものの数分でこの人は合う人だ、と感じました。直接会ってみたい。そう思いました。


直接業務に関わる案件ではありません。


マネジメントやリーダーシップの分野で導入が増えている「コーチング」のスキルについてです。日本でも草分けの企業であり、グローバルにも展開しています。


ぜひ習得したい。しかし、懐具合が...。というわけでの相談でした。


社会人になってしばらくして、私は「問い」を立てることの大切さを学びました。それまでは、いかに「解く」かに視点が集中していたように思います。


「正解」がすぐに見つからない社会。立場によって「正解」が異なる社会。「正解」が得られたとしても、それで終結しない社会。


「社会」は「組織」と言い換えても構いません。


(アリオスにて)


そのような社会にあって大切なのはいかに適切に「問い」を設定できるか、であると痛感します。良質な「問い」は人を気づかせ、やる気にさせ、元気にさせます。勇気を与えてくれます。


面談してくれたコーチングのプロフェッショナルはいくつか私に「問い」を投げかけてくれました。


「〇〇〇さんが実践されている、まさにコーチングの手法でスタッフがどのように感じているか尋ねたことがありますか」


「大切だと思われているコーチングについて同僚など周りの方に必要性を説いたことがありますか」


スタッフからのフィードバックと周囲への糾合が私には不足している、と感じました。


最後に二つの言葉を贈ってくれました。


「本物のリーダーはフォロワーをつくらない。彼らは、さらに多くのリーダーをつくる」


「あなたが問題の一部でなければ、解決策の一部にはなり得ない」


あっという間の1時間でした。やっぱり正式にコーチングを受けたい、と思いました。

(畑のオクラがにょっきり)


前号の「『場』というもの」のつづきです。「場」に関しては様々な方からの知見を得ています。その一人がポートランド市役所のDさんです。


12年前、米国オレゴン州ポートランド市を訪ねました。同市は全米で最も住みたいまちとして知られる自治体です。


人口は約65万人。毎年若者を中心に数万人が移住しているという。議会は市長と4名の議員の5名で構成されています。


議会中、傍聴席からも自由に住民が発言できると聞き、驚きました。


別れ際、園芸用の手袋をDさんからプレゼントされました。


意味するところは何か。


優れたGardener(庭師)たれ!とのこと。土壌を耕し、肥料を施し、手入れをしていれば豊饒な土壌から草花がイングリッシュガーデンのように咲き乱れる。コミュニティの発展もそうあるべきだ、というのです。


あなた自身が花を植え、咲かすのではなく、土壌を耕すのだ、と。住民自身が解決する力を持っている。それを信じ、その力を引き出すのが役割である、と。


あなたはその土壌改良の庭師でなければならない、と私は言われました。Dさんから贈られた手袋。そんな願いが込められています。

(福島の夜。福島駅東口にて。大好きな赤提灯)


40年来の友と懇親。小さなお祝いの席でもあります。気の置けない親友との語らいほど楽しいものはありません。


「....子育ての支援はわかった。『子ども』そのものって考えたとき、どういうことが大切になってくる?」


「そうだね。場かな」


「場?」


「施策は当たり前のことだけど、課題の解決を目指すよね。何らかのサービスを提供して解決する。でも、それだけではない機能が『場』なんだ」


「へぇ。どういうこと」


「例えば、子ども食堂という取組がある。当初は貧困の子どもたちの食の提供を目指すものとされた。でも、いまは食事を提供する大人たちも含め、地域を結ぶ、ま、緩い形の地域再結合の場となりつつある」


「なるほどね」


「確かに食事の提供はしているけど、それでもって何かを解決するわけではないんだ」


「解決は目指していないってこと?」


「そう。わかりづらいかな。家庭って何かを解決するためにあるわけではないよね」


「そうだね。存在そのものに目的があるというか」


「そういうこと。場というのは存在が目的。行政というものはいかに解決するか、という手段に関心が集中しがちだよね。そうではないものとして『場』というものがもっと注目されていいと思っている」


「子どもにとってそういう『場』って大事だね」


「目的をもって何かの課題を解決するという肩に力の入ったものではなく、存在そのものによって安心を与える、それが『場』なんだ。子ども食堂が全国に急速に広がっているのは、逆に言えばそういう場がないからなのだと思う」


「子ども食堂以外にも『場』の取組はいろいろありそうだね」


「その通り」


場の潜在力はじつは大きい。


場がきちんと機能していれば、いわゆる課題や問題と言われるものもその場に集う緩いつながり、言い換えれば、ゆっくりとした化学反応によって方途が見いだされることもある。


すぐに解決できなくても、見守ってくれる存在が安心感を与えてくれる。


現下においては、新たな課題が生じるごとにそれに対応したサービスが求められる。そのたびに新規の施策が華々しく立ち上がる。際限なく財政需要が生じる。


果たしてそれでいいのだろうか。この頃、そんなことに思いをめぐらせています。


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