(会津若松市内の福西本店で開催)

 

いにしえの倣いからすればむしろ反対ではないか。

 

徳の高い優れた人物は、嘆いたりしないはず、と。仁者不憂たるゆえんです。

 

しかし、よくよく考えれば、標題の通りで、この世の騒擾(そうじょう)を見て「少憂」であるならば、むしろ徳のない人であると判ぜざるを得ません。

 

まともな人間は多憂である、との師匠ならではの警句なのであろうと勝手に推察しました。

 

聖哲の言葉に「賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く」とあります。

 

賢い人は世の中が安泰に見えても未来の危険性を鋭敏に感じ、愚かな人間はこの危うい社会にあって見せかけの安穏に身を浸す、との意です。

 

というわけで、会津若松市の福西本店で掛け軸の展示会です。大好きな会津の、しかもお気に入りの福西本店での催し。

 

行きたい。都合を調整中です。

(ほうれん草の芽が出ました🌱)


第770回花ホテル講演会(リンク先YouTube1時間25分)の要旨です。


「被」とは何か ――― 被った。害を受けた。つまり、受動的に負に遭遇したことと定義します。その受動性からどう能動的に思考を転換するか。そこが災厄に処する際の肝なのではないだろうか。本講演の結論です。


奥会津で「小さな宿の勉強会」と銘打ち、二十数年前から「花ホテル講演会」が連綿と催されています。

第770回の講師として招かれました。テーマは「『被』からの転換! 〜長崎、水俣に学ぶ災厄への処し方〜」。 2011年4月4日午前8時20分。避難所で出会った2人の長崎市職員。昼夜通して3人の運転手が交替で大型バスを運転しいわきまで来たという。


「原発事故がどうなるかわからない状況で不安はなかったのですか」


「私たちは放射線教育を受けています。不安はまったくありません」


業務で応援に来ているという以上の何かを2人の姿から私は感じました。大変な地に勇んで行こうとするその心は、何によって育まれたのか。長崎を自分の目で見たいと思うようになりました。


長崎を2度訪れました。人と対話し、文物に触れる中で私の考えに変化が起きました。災厄というものへのものの見方が違う。「苦しみを止揚する」とも言うべき姿勢を感じました。


長崎市では毎年3月11日午後2時46分にサイレンを吹鳴するという。遠く長崎から東北を思う心があることに驚きを覚えました。


長崎歴史文化博物館を訪れた際のことです。展示のトップがいわき芸術文化交流館アリオスで催された「祈るように語り続けたい 吉永小百合朗読会 ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマ」だったのです。



(柳津町にて)

長崎の人々がふくしまを思うほどに自分は長崎を考えたことがあるだろうか。否、ありませんでした。


爆心地に近い旧城山国民学校校舎の資料館で出会った被爆一世の女性。ウクライナでの戦争に心を痛め、「長崎を断じて原爆最後の地としなければならない」と訴えていました。


この侵攻をそのような視点で私は見たことがありませんでした。


城山小学校では1951(昭和26)年から毎月9日に平和祈念式を行っています。毎月、平和について学習しています。同小学校のウェブサイトには「通算862回目の平和祈念式を5月9日(火)に行いました」との記事が閲覧できます。


東日本大震災を70年後にも私たちは学び、伝えることができるだろうか。


災厄から長崎はたゆまず学び続け、他者の苦しみに思いを寄せる「同苦」の心を持つようになった。私はそのように推察しました。「被」からの転換です。


私は水俣の人々とも対話を重ねました。地元学で著名な元水俣市職員の吉本哲郎さんは言います。


「覚悟してことにあたること」「人の噂は止められないと覚悟し、本物のモノやマチをつくることだ。それは水俣の経験から言えることである」「自分たちでやりとげる力を身に付けること。地域の持っている力、住んでいる人の持っている力を引き出すこと」である、と。


2年前、マグニチュード7.3の福島県沖地震が発生。長崎市職員一同からお菓子とともにメッセージが届きました。


「大変な苦労をされている中、私たちは県職員を仲間として暖かく迎えいれ復興業務の輪に加えてくれました」「東日本大震災から10年という節目の年に再び大きな地震の被害にあい、復興に尽力されているいわき市職員の皆さんに、両市の絆として何かできないかと考え…」


私はいやむしろ逆だ、と思いました。


「両市の絆として何かできないか」と考えなければならないのはこちらの方だ。 自分の苦しみをそれだけに終わらせず、昇華して他者への眼差しを持つ。自分の住む地に誇りを持つ。私もそうありたい。


近代に入って我が国最大の被害を出し、赤十字活動における世界初の平時救護活動となった磐梯山の噴火。その山を宝の山と仰ぐふくしまだからこそ「被」からの転換を成し遂げられる。


そう私は強く確信します。

(思索の安住の地。小島珈琲店)


講師の依頼を受けました。 1時間の講話です。本年度3度目となります。


テーマは特に指定はなく、私の仕事に関連してとのことです。これが難しい。


単に担当業務を列挙して概要を伝えるだけではつまらない。想像しただけで明らかです。


課題を踏まえて何か未来に向けて語りたい思う。とはいえ、公約のように「こうします。ああします」とも言えない。


悩みます。


というわけで、思い返してみました。


(ホットサンドが毎度楽しみです)


この4月から半年余り。どう感じてきたのか。異動前に想像していたこととの違い、課題として見えてきてことは何か。 それはいわき特有のことなのか、他の自治体にも共通したことなのか。一方で強みとして何が見えてきたか。


課題解決に向けて強みを生かしながらどのような方策があるのか。どうしようとしているのか。どうしたいのか。


そのような問いかけを自らに投げかけることで徐々に脳内の酒袋が熟成してきてきました。加えて、聞いて得した、あるいはよくわかったという情報を一つ提供したい。そのように企んでいます。

あとは文字に表現する作業が残っています。


この連休に草刈りと資料作りの二刀流で乗り切ります。

(思索の場でもある「小島珈琲店」)


学生との意見交換の場を設けてほしい。お願いをして機会をいただきました。


自分なりには準備をしたつもりでした。


でも、所詮は「つもり」だったのです。油断がありました。猛省です。


わくわく感を抱くような意見交換の場としよう。私の今回の目標でした。


アイスブレイク(心のコリをほぐす仕掛け)の時間も設けました。「おススメの市内のレストラン」や「市内の好きな場所」を自己紹介と合わせて話してもらい、盛り上がりを見せました。


いい感じになるかも...ほくそ笑む私に慢心の魔が忍び寄ったのです。


テーマは「『こどもまんなか社会』とは何か?」に設定。議論の端緒を開く問いとして2つ投げかけをしました。



(このホットサンドが本当に好きです)

「『子どもなんだから大人の言うことを聞きなさい』についてどう思うか」


「『子どもにとって安心して生きる』とはどういう状態か」


対話をするはずであったのに、いつしか講義調となり、教え垂れてしまったのです。まずかった。非常によくなかった。意図せず渋柿を食べたあとのような忸怩たる思いになりました。


このところの数回の講演に気をよくしていたのでしょう。慢の籏鉾をしっかりと倒すべきだったのです。


何らかの具体的事例を示すことができればよかったのではないか。学生に事前に関心事は何かを尋ねるべきだったのではないか。時期や時間は適切だったのか。


小事が大事。神は細部に宿る。

(福西本店ギャラリー)


異なる主体が時にぶつかり、そして寄り添い、ああでもないこうでもないと呻吟して作り上げたものは単体でやるよりも断然良い。


この歳になってわかってきたことの一つです。というわけで「しつらえ」でご紹介した大下邦弘・門馬寛子二人展を鑑賞してきました。


(生けてあることでこれもまた一幅の名画)


今秋で3年目の開催となる福西本店での「二人展」は全館を使っての展示です。


見せる意図が明瞭な作品に加えて、あたかもその床の間のために以前から飾ってあったかのような自然さゆえに、いい意味で素通りしてしまう作品もあります。あまりにもはまり過ぎているのです。


(ワイングラスが花瓶に)


まさに「しつらえ」として置かれているといった感じです。


ガラスというものがこれほど福西本店という空間に馴染むものとは思いもしませんでした。しかも今回はプロデュースした吉田孝さんの選定による掛け軸との協業が加わりました。


(秋です)


硝子作家の大下さんご夫妻もまた吉田さんの仕掛けに応えんと試行錯誤。掛け軸の主題に沿ったものを作り、時に主題から着想を得て展開した作品とするなど、掛け軸とガラス作品との対話に注目するのも一興です。


掛け軸に精通し天眼を持つ吉田さんだからこそ可能となった展示だと心の底から思いました。その吉田さんの思いを受けて今回のために全力で作品を作り上げた大下さん・門馬さんのエネルギーにも感服しました。


(彼岸花には濃い緑が合います)


また、文字通り縁の下の力持ちとしての木製の台座や支えにも心が込められています。作品一つひとつに合わせて(安定的に支えるという物理的な意味と、主題に合わせるという芸術上の意味で)オリジナルのものとして木材を削り、磨き、塗るという、ガラス作品と同じくらい心血を注いだものとなっています。


目に見えないものにどれだけ力をかけるか。本物と偽物の違いはここにあると私は思います。


(フラスコ風の作品。これにはススキだと先生があとで用意してきたとのこと)


加えて、今回特筆すべきは地元の生け花の先生が参画協力したことです。


「合うように生けるのに生け花の先生は相当な花を用意したのではないですか」


大下さんに尋ねます。


(剣山が真ん中ではなくずれて置かれています。翠色はガラス本来の色。着色はしていないという)


「そうなんです。ガラス作品と聞いて先生は洋物の花をたくさん用意しました。ところが(作品を見て)和とよく調和すると気づき、和の花を揃えてくれたようです」


「花が生けてあることで作品がより生き生きとなっていますね」


(月や月光を表現した作品。台座は太陽の運行を模しています)


「これは剣山が真ん中ではなくずれたところに置かれていますが...」


「そうなんです。先生が『この皿の真ん中は見せたいのでしょ?』と言われ、見えなくなってもいいと思っていたのですが、先生が意を汲んでくれて、あえてずらしていただいたんです」


(よく見るとトンボが剣を持っています。掛け軸は百舌鳥をモチーフに。百舌鳥は獲物を突き刺す早贄の習性を持つ)


本物の人とは違うものだ。芸術家の心中まで読み解くのだ、と私は感銘を受けました。


ガラス作家、展示会をプロデュースする人、生け花の先生。これら三者が共鳴し、昇華した世界が「現代のしつらえ 〜道と硝子〜 大下邦弘・門馬寛子 二人展」(福西本店ギャラリー及び各床の間)なのです。今月15日(日)まで。



(会期中にもう一度行きたかった)

14日(土)及び15日(日)にはガラス作品(茶碗や柄杓など)を使っての作家本人による呈茶があります。参加できず残念です。


美しさのあまり見惚れて、ガラスの柄杓を撮るのを失念してしまいました。

(福西本店で開催です)


「しつらえ」とは漢字で「室礼」または「設え」と書きます。響きの良い言葉です。


元々はお供えを飾りつける作法であったという。


京都市公式ウェブサイトによれば「室町時代に入って、建物のお客さま用の部屋に床の間がつくられます。この特別な部屋をかけじくや花、香炉などで飾り、お客さまを迎える用意をしつらえ」と呼ぶようになったとのこと。


「しつらえ」はモノを介してその先に人がいるのを感じます。しかも、特別な人が。季節や場面に合った最高の演出をし、喜んでほしい。


その心の表れが「しつらえ」です。心は目に見えない。見えないからこそ、形にする必要があります。


自分のためだけであれば、「しつらえ」ではなく、「整える」で済むことでしょう。整理整頓の「整え」です。


人のために、と思うとき人は一所懸命になれます。その人のために表現の場を提供し続ける福西本店(会津若松市)で大下邦弘・門馬寛子 二人展が催されます。


「現代のしつらえ 〜道と硝子〜」と題し福西本店ギャラリー及び各床の間で。10月7日(土)から15日(日)までの1週間です。


今年もどんな作品に出逢えるか楽しみです。

(カボチャが畑にゴロゴロ)


本年2回目の講演は柳津町での「花ホテル講演会」。テーマは「『被』からの転換! 〜長崎、水俣に学ぶ災厄への処し方〜」としました。


私の専門外ではあるものの、ずっと心の中で温めてきたテーマです。これから話の骨格を決めていきます。


先日の講演と同じようにまずはキーワードの収集と整理から始めます。素材としては過去のブログ記事から抽出しましょう。


「された」ではなく「する」、つまり「被」からの転換をどうするか。長崎についてまず言及します。嫌なこと、特に災厄に遭うと私たちは害を被ったという意識から離れられなくなります。言わば「偏執」です。


記事としては「『被』からの転換」です。


「被」からの転換を深掘りしたものとして、自身の実体験を踏まえた「苦しみを止揚する力」を取り上げます。()()()の3回にわたって問いかけます。


さらに、長崎の人々の振る舞いからの学びについて触れたのが「しまった」という記事です。本当にしまったと思いました。


次に水俣です。「もやい直し」について()()の2回にわたってご紹介します。災厄の中で利害の相反する人とも、もう一度つながりを確認する作業です。この中ではもう一つ重要なキーワード「のさり」についても触れます。恵を意味します。


あの水俣病でさえ、そして水俣病をもたらしたものでさえ「恵」を与える機会と捉えていく価値転換。


合わせて、スパッと解決の方途がすぐに見つからない時代にあって、モヤモヤ状態においても生きる力、耐える力である「ネガティブ・ケイパビリティ」についても言及したい。

また、500人を超える犠牲者を出した1888年(明治21年)の磐梯山の大噴火。日本赤十字による国内初の災害救護の現場となりました。その磐梯山を敵愾心ではなく「宝の山」と仰ぐ心にも触れたい。


まだ荒削りですが大要以上のようなキーワードを用いて講演の骨子を組み立てたいと思います。

(帰り道のいわき駅)


(7)〜本編「キーワードの驟雨(中)」〜からのつづきです。


旧知の知人からの依頼を受け、お話をすることになりました。1時間の講演です。


テーマは「子育て支援はなぜ社会課題なのか〜こども真ん中社会を目指して〜」です。


講演の佳境とも言うべき「キーワードのシャワー(驟雨)」の最終回となります。


前号では自らが花を咲かすのではなく土壌を耕す「庭師たれ」を冒頭で触れました。つづいて、『失敗の本質』で旧日本軍に欠けていて米軍には機能していた「高度の平凡性」について、P.F.ドラッカーの「平凡な人間が非凡な成果をあげられるか否かである」も引用しつつ紹介。むすびに「水戸黄門に頼らない地域社会」という考えについて説明しました。


誰か特別な人にやってもらう、やってほしいという心根を変えることの必要性、そして、平凡な人たちが高度なことを成し遂げられることを強調しました。


さて、今号では引き続き関連して「自己組織化」、「ひもを結える」、「ホラクラシー」、「ノウハウ(know how)ではなくノウフー(know who)」などのキーワードについていっしょに考えたいと思います。


まず、「自己組織化」です。この宇宙がそうです。地球も、私たちの身の周りで起きていることの多くが自己組織化によるものと言ってよいでしょう。



(グラフィックレコーダーと合わせてお読みください)

「個々が全体を俯瞰して動く能力がない、あるいは外部からの指令がないにもかかわらず、各々の自律的な判断により、結果として組織が自ら統制されていく状態」です。雲の形成といった気象現象から、植物が種から芽を出し成長していくこと、受精卵が細胞分裂により身体を形成していくというような生物界の動きなどなど。


いずれも司令塔が存在しません。本来において自然界はそのような力に満ち溢れています。


「ホラクラシー」という言葉が聞いたことがあるか、聴衆に問いました。


まるで洞穴で暮らすことのように聞こえるこのキーワード。じつは自己組織化と似ています。


大企業や官庁に見られるようなヒエラルキー型組織とは異なり、役割によって紐づけられたグループが能動的に活動する自己組織型の形態です。権限と意思決定が分散され、自発能動的に動く組織です。


「ひもを結える」とは何か。仮に10本のひもが机の上にあったとします。そのままでは物を掬い上げることはできません。しかし、縦と横にひもを交差させ、結わえれば網となります。


地域のさまざまな人や団体もそのままでは大きな力とはなり得ません。しかし、つながることで課題を掬い上げ、人を救い上げる機能を果たすことができるようになります。


そこで必要なのは何か。ノウハウ(know how)ではなく、ノウフー(know who)つまり、何かを知っているかどうかではなく、誰を知っているかが重要となります。


あの人に聞けばわかる。あの人に相談すれば適切な助言を得られる。その「あの人」を縦横無尽に知り合う、そのような豊穣な場こそが自己組織化を生み出すのです。



(9)につづく。

(今朝採りの野菜。モロヘイヤ、オクラ、ナス、ツルムラサキ)

 

(6)〜本編「キーワードの驟雨(上)」〜からのつづきです。

 

旧知の知人からの依頼を受け、お話をすることになりました。1時間の講演です。

 

テーマは「子育て支援はなぜ社会課題なのか〜こども真ん中社会を目指して〜」です。

 

講演の佳境とも言うべき「キーワードのシャワー(驟雨)」の第二弾となります。前号では「場の力」を中心に学びました。

 

今号では「自己組織化」、「ひもを結える」、「ホラクラシー」、「ノウハウ(know how)ではなくノウフー(know who)」、「庭師たれ」、「水戸黄門に頼らない地域社会」、「高度の平凡性」のうち、まず「庭師たれ」をご紹介しましょう。

 

12年前に米国オレゴン州ポートランド市を研修で訪れた際、同市の職員であるDanさんから園芸用の手袋を贈られました。

 

「あなた自身が花を咲かすのではなく、地域という土壌を耕し、肥やしをやり、雑草を取る。地域の住民自らが豊穣な土壌で様々な花を咲かす裏方に徹しなさい」

 

豊かな土壌を作るのが市職員の役割なのだとDanさんは強調していました。「全米で最も住みたい街」として知られているポートランドの魅力を垣間見た思いがしました。

 

次に「高度の平凡性」。この言葉は『失敗の本質』に紹介されています。

 

(このグラフィックレコーダーを見ながらお読みいただくと理解しやすくなります)

 

太平洋戦争で米軍にはあって日本軍に欠けていた特質として分析されています。個人の名人芸に頼るのではなく、ふつうのレベルで複雑な課題に対応できる仕組みのことを言います。レイテ海戦の分析において同書は指摘しています。

 

「各自が錯誤の余地を少なくするためには、日常的な思考・行動の延長の範囲で活動できることが必要である」

 

P.F.ドラッカーは『経営者の条件』で述べています。

 

「組織を評価する基準は天才的な人間の有無ではない。平凡な人間が非凡な成果をあげられるか否かである」

 

ドラマ『水戸黄門』。見ていてスッキリします。印籠の権威に平伏す悪人の痴態。時計の針は45分前後。荘重なパイプオルガンの音色とともに一件落着です。

 

私は思うのです。そういう“水戸黄門的なるもの”に心のどこかに頼っていないか、と。ふつうの「私たち」が地域の課題を解決する担い手となるべきではないか、と。それを「水戸黄門に頼らない地域社会」と私は名づけました。

 

次号では「自己組織化」、「ひもを結える」、「ホラクラシー」、「ノウハウ(know how)ではなくノウフー(know who)」などを学びながらキーワードの驟雨のまとめとしたいと思います。

 

(8)へつづく。

 

(畑のツルムラサキ)


(5)〜本編「漏れる利他」〜からのつづきです。


旧知の知人からの依頼を受け、お話をすることになりました。1時間の講演です。


テーマは「子育て支援はなぜ社会課題なのか〜こども真ん中社会を目指して〜」です。


講演の佳境とも言うべき「キーワードのシャワー」が始まりました。


ただ、今回の反省点としてはキーワードを詰めすぎたきらいがあります。一つひとつの言葉を咀嚼してもらう十分な時間はありませんでした。でも、とにかく心の中に何かが灯ったはずだと信じます。


さて、「漏れる利他」は美学者の伊藤亜紗さんが提唱している概念です。


「与えよう、助けよう」と意図しての利他ではないもの。お互いの余剰分が漏れ出てそれを使うことで助けられる。植物の世界ではそれがふつうに行われているという。詳しく知りたい方はNHKのウェブサイトをご覧ください。


次に「場の力」という言葉を投げかけました。豊穣な「場」があれば、地域の課題が何となく解決の方向に向かうものだという私の確信です。


行政の場合、Aという課題が惹起し、その問題が人口に膾炙(かいしゃ)するようになると、A’という施策が打ち出されます。Bという課題が出れば、B’というように対症療法的に対応することが多い。


(参加者の山野辺さんがキーワードをわかりやすく可視化してくれました)


公費が投入されるとなると、基準や認定という作業が介在し、実際の対応までに時間を要します。また、対象人数が多くなるとコンピュータシステムを構築することとなり、事務作業も増えます。


そういった公的な施策とは異なる取組みとして、私は「場の力」を提唱したい。地域にふだんから何とはなくても人が集まっている。いわゆる集いの場です。特定の目的を持った集いではない。「はちまる勉強会」のような学びの場も同様です。


そのような「場」が豊かな土壌を持つとき、身近な地域課題について気づきが生まれます。場合によっては公的支援につなげ、またあるときは地域の人々によって支援の輪が広がることもある。


「場の力」は、行政のような対応とは違い、じわじわと滲み出るものであり、保証性や継続性に一定の弱さがあります。まさに「漏れる利他」であり、「与えよう、助けよう」と意図しての利他ではない、お互いの余剰分によって助ける世界です。


次に「自己組織化」、「ひもを結える」、「ホラクラシー」、「ノウハウ(know how)ではなくノウフー(know who)」、「庭師たれ」、「水戸黄門に頼らない地域社会」、「高度の平凡性」といったキーワードを一気に紹介していくことになります。


ここには不思議と共通した、ある概念が潜在しています。



(7)へつづく。





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