(春になったら秋風舎)


「突然の電話」--- この表現に物心就いたころから理解できず、もう半世紀余経過しています。


「そのとき、突然、電話がけたたましく鳴った」


この意味を探るため反義語から考察しましょう。つまり、「突然ではない電話」とはどのような電話なのか。


まず、「突然」の字義を確認します。「前触れなしに急に何かが起こるさま」と辞書は紹介しています。


では、前触れのある、急ではなく掛けられる電話とはいったいどういう電話なのか。


黒電話時代であれば、一瞬だけ鳴る「ちりん」のことなのか。P波のあとにS波が襲ってくる、地震と同じです。「ちりん」を経て本鈴(ほんりん)が鳴る。


これが突然ではない電話。虫の知らせもこれに包含されるかもしれません。


次に、スマホ時代の「突然ではない電話」はどうでしょう。


LINE等で事前に、いつ電話したいがいいかと了承を求める行為によって掛けられるところの電話が「突然ではない電話」と解されるでしょう。


ドラマ、映画、小説等々の「そのとき突然、〇〇氏の電話が鳴った」という表現を用いる際は、上述の定義に照らして、果たしてどこまで「突然性」があるのか、検証する必要がある。


本稿の私の結論です。反論をお待ちしております。

(早春の畑。白菜は結球しませんでした。菜の花を待ちたいと思います)


こちらの方が大切かもしれない。話を聞いていて私は思いました。「巻き込まれ力」のことです。

一見すると主体性がなく、また率先垂範でもない。砕氷船のようにぐいぐい分け入って開拓する積極性があるわけでもない。

無理をしない。可能な範囲でできるときに関わる。

しかし、声がかかれば手伝う。これが地域活動に入っていくコツかもしれない。そう感じました。

その姿勢を保つとき不思議とさまざまな主体から声がかかる。巻き込まれていく。受動的でありながら、有機的かつ連鎖的に巻き込まれていく、この力こそ「巻き込まれ力」です。

(熱い仲間に巻き込まれてきました。郡山市労働福祉会館にて)


「あの人」に頼めば、と声をかけられる引力とも言えます。周囲は「あの人」をよく見ています。他人は鋭い。人は案外に自分のことがわかりません。目されていなければ、頼まれません。

ある年齢以上になったら「巻き込まれ力」に沿って動いた方が本人にとっても周囲にとっても幸せなのかもしれない。

その意味で会津にいる師匠は「巻き込まれ力」がじつに優れているように思うのです。そして、幸せそうです。

西城秀樹の曲『激しい恋』の一節に「巻き込まれたら最後さ〜♪」というのがありました。ふと思い出しました。

本稿とは関係ありません。

(タイにいたときにもよく買っていたデンファーレ)


近くに住むガラス作家をお招きしての茶話会。よく使う幹線道路沿いの気になる建物が話題になりました。


「白鳥のいるところのカーブの手前に少し前から小屋が建てられ始めたんです。初めは柱だけで何ができるのかなと思っていたら...」


「そんな建物ありましたっけ。私、けっこう周囲の変化を気にしながら運転する方なのですが気がつきませんでした」


「小川方面から向かうと見えません。平方面からだとわかります。小さな小屋です。木造かプレハブですね」


「そうですか。全然わかりませんでした」


「それで、その小屋にしっかりとした白抜きの字で『談話室』と書いてあるんです。◯◯診療所というくらいの勢いではっきりわかるように記されています」


「自分の家で使うのなら表示は必要ないですよね。しかも談話室というのが気になりますね。入って行っていいんでしょうかね」


「柱が立ち、そして建物が完成したと思ったら『談話室』なんです」


「見てみます。気になってしょうがない」


お二人が帰ったあと見に行きました。ありました。引戸のガラスに縦書きでしっかりと「談話室」と丸ゴシック太字で表示されていました。6畳ほどの大きさの小屋です。


談話とはフランス語のparleに由来するらしい。派生してできた言葉がパーラー。わいわい話をする場所・部屋。パチンコ店の名前に使われることもあります。


まさに私が目指すところのものです。我が執務室こそ「談話室」にほかなりません。



(お客様にカオマンガイを作りました。水菜、ブロッコリー、おひたしの小松菜は自家製です)

 

新鮮でした。間違いを一切指摘しないのです。

 

皆が発言する雰囲気に満ち満ちているため私も思わず手を挙げて発言しました。

 

すると教授は「Why do you think so?(どうしてそう思うのか)」と尋ねてきました。一瞬私はドキッとして口ごもりました。まずいことを質問してしまったのだろうか。

 

そういう意図ではないことを後に覚ります。

 

モントリオール大学での授業では教授からミスを指摘する場面に遭遇した記憶がありません。

 

作文の授業。あるテーマが出されます。手が挙がり、黒板に学生が一文を書きます。教授がいいねぇと言いながら促します。

 

「もっと美しく書けないだろうか」

 

するとまた誰かが書き足します。

 

「いいねぇ。もっと美しく!」

 

次々と学生が出てきては書きます。じつにのびのびと自由闊達に授業が運ばれていきます。

 

(庭先のふきのとうを天ぷらにしました。春の香りがします)

 

結局、正解というものは教授から示されません。正しいのか間違っているのか白黒させてほしい私はいつも不満が残りました。

 

先日、ホールで人前でフルートを演奏しました。恐れていたのはミスです。間違って吹かないだろうか。

 

私たちの住む社会はミスに厳しい。音楽の世界もそうです。間違わずに演奏することが優れていることの証しのように思われています。

 

本来、音楽は感動を与えるものであり、多少のミスはその感動の有無とは関係がないと言えます。にもかかわらず、私たちはミスを気にする。

 

減点主義の弊害はDNAレベルにまで浸み込み、国家レベルにまで価値を毀損している。そんな目に見えない窮屈さが社会の閉塞感と諦念に結びついているように思うのです。

 

と、演奏のミスを棚に上げる思考実験をしてみました。舞台入場の際は昨年のように甲子園初出場入場行進の球児の歩き方にはならず右手には左足が出ました。

 

一歩前進です。

(ガソリンスタンド併設のドトールコーヒー)


これまでと何が違うのか。自問自答して思うに変身したわけでも急成長したわけでもない。にもかかわらず以前とは異なる自分がいる。


他と伍することができるようになったのは頭脳が明晰になったわけでもなく、脱皮したわけでもない。ただ胆力を持つと決めただけです。


鐘楼の釣鐘を耳かきで撞けば音は微か。撞木で打てば大きな音が出ます。


人間も釣鐘と同じで撞木で突けばそれなりの音が響くようになるのです。いい音かどうは別として。


腹というものは本来に内在しているものなのです。特別な人だけが持っているものでもない。みんな所持しています。ただ機縁がないと顕現しないだけの話です。


胆力とは結局のところ想定されるあらゆる厄介に責任を持つことの異名です。あらゆる厄介にはとんでもないことまで含みます。


「ちょっといいですか」という挨拶とともに持ち込まれる案件でいいものはまずありません。当然のことです。なので、「ちょっといいですか」案件はいつも歓迎態勢です。

(朝一番に職場近くのマクドナルドで勉強)


夢想するのが好きです。勝手に理論らしきことを妄想するのも私の性癖です。


そこでサツマイモ理論の登場です。サツマイモそのものではなく、あの形状が私に示唆を与えてくれます。


両端は細く途中は太い、いかにもの典型的なサツマイモの形です。


一人の人の誕生。最初は存在感は薄く、少年少女となり成人を迎え大人となる。最も太い部分です。やがて年老い、死を迎える。


言わば生老病死が私にはサツマイモの形に映るのです。企業や国家といった組織も同じ。繁栄と衰退といった消長もみなサツマイモの形。


人との出会いも多くはサツマイモの太い部分がぶつかり合って価値を生んだり、反目したりなどする。夫婦もそう。職場もそう。太めの部分が擦れたり、協力したりしている。


でも、太い部分はやがて終わり細くなっていく。


朝(あした)に出勤し昼に弁当を食べ、夕べに帰る。日常の当たり前のように思う日々の出来事はまたと来たらざる稀な出来事であることに気がつかない。


この日常が永続するかのような、サツマイモの太い部分がいつまでもあるかのように思うのは錯覚です。永遠に太いままだと勘違いしてしまう私たち。あっという間に己れのサツマイモは細くなり終わるのです。


野菜を収穫していて私は感じました。最盛期のちょっと前に、一番美味しい時期に頂戴している、と。サツマイモ理論で言うところのいままさに太くなろうとしている部分です。


人は旬のところで出会っている。


人との出会いも高度1万メートルで旅客機同士が音速ですれ違うように一瞬のことなのです。最も太い部分同士が同じ空間を共有するのは稀有の出来事だと後々にわかります。


という、どうでもいいようなサツマイモ理論を昨秋掘り起こした甘薯を見ながら思いました。以上は何らの科学的根拠もないフィクションです。

(私は劇場スタッフのように立っています)


もしトラがいよいよほぼトラになるのではないか。いや、ガチトラになると私は見ています。


30年近く前にカナダに1年滞在していました。


米国の隣国にあって控え目な国です。アメリカ人の中にはカナダを自国の一つの州だと思っている人もいるという話を聞いたことがあります。


真偽のほどはわかりませんがおとなしい国ではあります。でも、魅力的な国です。社会全体が学習する国です。失敗からも学びます。学び続けるので静かに発展しています。


隣国から米国を見ていると、特に政府の振る舞いにあっては傲岸不遜さを感じました。でも、その傲慢さが国の力になっていることは間違いない。


あの傲岸不遜を解毒し、エッセンスを抽出すると矜持になる。そう私は思っています。そしてこの矜持こそ、言い換えれば無毒化した傲岸不遜さこそが我が国に必要なのではないか、と。


私の所属する業界では◯◯◯計画というものをよく作ります。冒頭に記載する「趣旨」に枕詞のように「国の動向を見据えて云々」と一段上のレベルの潮流に言及するくだりがあります。


国家レベルの計画においても「世界の潮流を捉えて云々」があります。


ところが、そういった感覚が米国にはない。自国が潮流そのものであり、周りがどうこうではない。周囲とか上の存在とか、そのようなことは気にしない。


◯◯したい。したいから◯◯する。


証券市場も同じです。日本の場合はニューヨーク証券取引所の動向に左右されます。規模の違いももちろんあります。が、根底には意識の差があるように思います。


もしトラがほぼトラになり、ガチトラになったら、いい意味での傲岸不遜さを持ちたい。いや、持つべきと思います。でなければただ右往左往するだけです。


温暖だからと言って当地を「東北の湘南」などと称し他人のふんどしを借りるのではなく、逆に「東海のいわき」と他地域に言わしめるくらいの傲岸さがほしい。


私が中心なのだ、というくらいの解毒された驕りを持ってもいいのではないか、とガチトラ時代を見据えて、世界の潮流を踏まえて私は思うのです。

(一番だと思っています。蕎麦処たじま。自宅から車で数分)


心の中のひとりごと。


時間が有限であることを感じる昨今。来し方と比較して今後元気に動ける年月(としつき)はあっという間に過ぎ去っていくと思う。


できれば、「したい」と思うことをやりたい。「すべき」や「ねばならない」は避けたい。


とは言え、仕事のほとんどは「ねばならない」で占められている。


ではどうするか。


まず、仕事以外の時間に「したい」を増やしていく。これは誰もが思いつく、しかも実現性の高い方法です。


土いじり、横笛吹き、カフェめぐり等々はまさにその好例です。


でも、これでは限界があります。余暇はさほど増やせないからです。おそらくはあと10年以上は仕事はすると思うのです。


であれば、この仕事を変換するのです。仕事の中身を「すべき」から「したい」に変化させていく、もしくは「すべき」と「したい」を融合させていく。


(たじまの外観)


そんなことができれば、「したい」の領域が増やせるのはではないか。そう思っています。


現に、土日や夜に参加する行政や各種団体主催の講座や勉強会は仕事の色(黄色)ではなく「私事(プライベート)」の色である青の蛍光ペンで手帳に区分けしています。同じようにスマホのスケジュール管理でも色分けしています。


ですから、服装は私服です。目立たたないようにひっそりと座っています。時に上司と鉢合わせすることもありますが、「プライベートです」と一言添えるようにしています。


ふだんの「すべき」の領域と思われる仕事の中でもじつは「したい」がたくさんあります。同じ志(同じ価値観という意味ではない)を持った方々と対話をすることです。


とは言え、狭義の「したい」も本気にならなけば得るものは少ない。本気モードに拍車をかけるため、あえて自分を追い込むことも大切です。


貴金属の塊であるフルートを新調したい。もう30年以上使っているお古のフルートを買い替えたい。


下手な人こそいい楽器を使うべき。私の信念です。


人生はフルートの丈のように短い。やりたいことを悔いなくやろう。


二倍濃く生きる。これからの私のモットーです。

(いわき市医療センターにて)

 

半ドンの効用についてたびたび取り上げています。

 

4年前のちょうど今ごろも「半ドンのまち」として提案していました。

 

なぜ早春に掲載したのか。半ドンと春は私にとって切っても切れない関係にあるからです。

 

土曜日の午後に解放されるあの爽快感が最も高まるのが春だと私は思っています。詳しくは割愛します。

 

「半ドン」の魅力についての言説が見当たらないことに寂しさを感じます。週休2日制が普及し半ドン経験人口が減っているからでしょう。

 

詩人ホイットマンは謳いあげます。「寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる」と。

 

サウナの暑苦しさがあるから、その後の快感がある。

 

午前中の苦役があるからこそ、午後の楽しみが増す。

 

というわけで、半ば強制的に土曜日の午前中は畑仕事をすることにしています。ところが、返って土いじりが楽しくて午後まで延長戦がしばしばです。

 

何かいい半ドンがないか。模索中です。

(久しぶりの小島珈琲店。桜の季節が楽しみです)


失礼な言い方にはなるけれど、と前置きした上で述べました。


「豆腐とおから」の関係にたとえて私は言いました。


今回策定しようとしている指針はおからである。指針を作る過程で様々な団体や法人と意見を交わし信頼関係を構築したはずである。広く顔の見える関係を作ることができた。それが豆腐であり、こちらの方がより重要である、と。


怪訝そうな表情を見せる担当者に私は訴えました。


いざというときは結局のところ「人」である。ルールや仕組みはもちろん大事。しかし、どんなに仕組みを作っても問い合わせはくるし、例外は起きる。


そのようなときに、これまでに築いてきた顔の見える関係が生きてくる。問い合わせの質が変わっているはず、と。


「団体や法人とのやり取り、大変だったでしょう?」と私が問うと。


「大変でした」


「そこが大事なんです。やり取りで築いた人間関係が生きてくるんです」


いざというときのためのシステムはいざというときに動かない。東日本大震災で身に沁みて感じたことの一つです。


いざという事象は不定形です。ルーティンでは決してありません。だからこそ、「人」なのです。


システムが不要と言っているのではありません。システムがあれば安心という、“正常性バイアス”を排する不断の努力が必要だと私は思います。


顔の見える関係が「豆腐」であり、結果としてでき上った「システム」はおからなのです。その「豆腐」は人の手によって維持していかなければ劣化しやすい欠点を抱えています。


Calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM