(夏井川第一発電所へ渡る橋「霜月橋」)

終日、決算特別委員会審査資料の手持ち資料を作っていました。私たちの業界では資料と称するものに2種類あります。

外部に公表もしくは提供する資料。これを通常「資料」と呼んでいます。

それから、その「資料」について質問がなされた場合の備えとしての資料。つまり、数字など的確に答えられるための、より詳細な「手持ち資料」があります。略して「手持ち」と称します。

この「手持ち」の作り方は人によって様々です。

本体の「資料」に貼付したり細かな字で書き込む人。

いわゆる「手持ち」のみの別冊編を好む人。

私は根っからの面倒くさがり屋なので、「資料」の余白や裏面にペタペタと補足資料を貼るのが好きです。

でも、今回はボリュームが格段に違う。別冊編をスタッフに作成してもらった上にさらに別冊編の余白にも補足資料を貼付することにしました。

その作成途上で愛用のテープのりが切れました。そこで、詰め替え用のテープのりをセットしました。

そのとき、この詰め替え用と呼んでいる物体を私はまじまじと見、そして考えました。なんだかなぁと。

そもそも「詰め替え」とは、シャンプー液のように毎回ボトルを買うより安いという廉価さと省資源を売りにするものです。

加えて、詰め替えられるモノとは、当該提供サービスの主であり、本質であるべきなのです。今回の場合、「テープのり」。

シャンプーを例に取ればシャンプー液が主であり、ボトルは従です。

その論理に従えば、テープのりの詰め替えられるべき唯一のものは、のりの付着した「テープのみ」との結論が導き出されます。

ところが、詰め替え用テープのりは、完成品のテープのりと見かけ上ほとんど変わらない。言うなれば、詰め替え用と言いつつも、カバーも半分は付属しています。

ですから、職場の文房具の引き出しから取り出すとき、完成品のテープのりと詰め替え用テープのりを混同してしまうことが発生します。

要するに、テープのりの詰め替えられない部分、言わば残存部分はカバー部分の半分にしか過ぎないのです。

ふたたびシャンプーを例に挙げれば、シャンプー液とボトルの下部を総入れ替えし、ポンプとノズルだけを使い回すというイメージです。ボトルまで捨てているイメージです。

おわかりになりましたでしょうか。難しかったですね。接続詞を多用するとこうなります。

簡単なことを複雑に言う訓練を常日頃受けている賜物です。

というわけで、テープのりの詰め替え用は抜本的に改善すべきであると提案いたします。だって、詰め替え用も完成品もほとんどいっしょなんですもの。


(見えない橋脚こそ大切)

大丈夫なのかなぁという思いが日に日に募ります。ギリシアが危機に陥った以上の対GDP比の日本の債務のことです。

1000兆円という規模がどのようなインパクトを持つのか想像できません。ある日、風船のようにぱんと弾けてしまうのではないか。そんなふうに思うこともあります。

一方で、対外資産を多く持つ日本はギリシアなどと違う。しかも、日本の国債は日本人自身が保有しているので心配いらないという論もあります。

政府の将来推計人口によると2035年ごろから毎年人口が100万人減少していく時代に突入するという。比較的小さな県が毎年消滅していくインパクトは相当なものでしょう。

個人や家計だったらとっくに破綻しているのに国家は破綻しない。それは未来の先食いをしているから。

未来の人々が享受する利益を未来の人々から断りなしで前借りしているようなものです。

その未来の人々が減っていく。どんどん減っていくのです。

私たちはそんな未来に過度に依存しています。にもかかわらず、未来の人々との対話もせず、了解を得る努力も、考慮もしていません。

現在と未来とは力において極めて非対称的であり、暴力的でさえあります。未来の人々は今の私たちに物言うことができません。

私は思うのです。

未来からの使者である今の子どもたちに対して丁寧にわかりやすく説明する義務を負っているのではないか、と。

負担を軽減するための「無償化」という名の未来の先食い。「軽減」という先食い。「配慮」という先食い。

私たちが主権を行使して選んだ政府が行おうとしている施策について、最大の努力と工夫をもって未来の人々に説明すべきではないか、と。

「大型補正」という言葉が政治家の口から出るとどきりとします。公共事業で景気を刺激という語り口を聞くとひやりとします。

いつかは湯から上がらなければならないことを知っている露天風呂のニホンザルたち。サルでさえいつまでも湯に浸かっていられないことを自覚しているのです。

というわけで、近々極楽湯に行ってきます。「先憂後楽」ではなく「先楽後憂」です。湯上りは定番のコーヒー牛乳。

こうやって私もまた未来の先食いに加担する戦犯の一人です。


(夕暮れの自宅前)

都市の名前というものは不思議です。イメージができてしまっている。偏見であることは百も承知の上。でも、フィリピンのマニラには危ない響きを感じます。

なぜなのか。中村敦夫著『マニラの鼻』のせいなのか。

であれば、同氏の著作『チェンマイの首』でタイ・チェンマイに同じ印象を抱いてもよさそうですが、そうではない。

そんなマニラに息子が留学するという。心配です。

顧みて思います。私が30年前にタイ・バンコクに留学したときの親の思いはいかに、と。

当時、両親は何も言わずに私を送り出してくれました。

連絡手段は基本的に手紙です。1週間の時差で日本から届く母の手紙。日々の生活が楽しく、私はあまり返事を書きませんでした。

ある日、寮の公衆電話に母から電話が掛かってきました。数百人はいる学生寮の唯一の電話が公衆電話でした。1階フロアの中央の階段の脇にありました。

雑音の混じりの不明瞭な母親の声。特に用はなかったようです。生存確認の電話でした。

公衆電話なので、電話が鳴っても気が付かない場合がありますし、誰が取るかもわかりません。

母曰く、部屋の番号と私の名前を必死に何度も叫んだとのこと。野口シカの鉛筆書きの手紙をつい連想してしまいます。

タイ人の学生が私の部屋に来てドアをたたき、「電話だよ」と教えてくれましたのを覚えています。

タイから日本に電話するためにはバンコク中央郵便局まで出向く必要がありました。

相手方の電話番号を申告し、しばら待ちます。タイ国内の他県に掛ける長距離電話も同様でした。繋がると小さな個室に呼ばれて通話が始まります。

海を越えて繋がっているという実感の湧く仕掛けでした。

今となって思います。もう少し頻繁に親に手紙を書き、電話をしておけばよかった、と。30年経ってからの後悔。あまりにも遅しであります。

というわけで、手紙自体はよく書いていました。長距離電話もしていました。ただし、歯学部の女子学生宛にでしたけど。お蔭でタイ語の力が伸びました。

必死さは語学習得の要なり。タイ留学中に会得した教訓です。


(秋空に屹立するマンション)

前号「マイナンバーカード」で同カードの身分証明書としての効力について触れました。意外に稀薄だったということです。

マイナンバーカードは身分証明書にはならない。本籍地記載の住民票を提出するように、と息子が通おうとしている自動車教習所から言われました。

身分証明書にはならないマイナンバーカードを使ってコンビニで住民票を取得しました。不思議な気持ちです。親分はダメで子分はいいということでしょうか。

そのような中で発見がありました。

第一に地元のコンビニでマイナンバーカードを使って住民票等の各種行政証明書が交付されることを知りませんでした。どこか先進自治体での話だと思っていました。職業柄、お恥ずかしい。

第二にコンビニのマルチコピー機の仕掛けになるほどと思う発見がありました。思わず膝を打ちたくなりました。

セブンイレブンいわき駅前通り西店。入口を入って左奥にマルチコピー機があります。

この店ではときおり東南アジア系のアルバイトさんを見かけます。日本語を完璧に使いこなす姿に感銘を受けています。

30年前にタイ・バンコクに滞在していた私。当時の語学力で屋台で働くことができたか、と我が身に置き換えて考えると彼らのすごさを感じます。

さて、マイナンバーカードをカードリーダーに置きます。いつもはコピーの支払いの際、nanacoを置く場所です。

画面で「行政サービスメニュー」から「証明書交付サービス」をタッチ。そのあと、同意事項が続きます。この「同意事項」をまじめに読んでいる人の割合ってどのくらいなのだろう、とふと思います。

次に「お住まいの市区町村の証明書」を選択し確定。ここで暗証番号を求められます。この暗証番号を入力したあとの手続きが秀逸。

「カードを取り外すと、次の画面に移ります」

これは素晴らしいアイデア。カードを取り外さないと手続きが進まない。称賛に値する発想です。

システム開発に当たって侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論があったに違いない。マイナンバーカードの取り忘れをいかに防ぐか。

音声で案内する。
画面で警告する。
等々、さまざまなアイデアが出されたことでしょう。

会議室にしばしの沈黙が漂います。そのとき若手のスタッフが発言します。

「部長、カードを取り外さないと手続きが進まないというのはどうでしょう」

「それだ。それで行こう!」

私の勝手な妄想、ここまで。

というわけで、セブンイレブンのコピー機でふつうにnanaco(記名式)をうっかり置き忘れた経験のある私。後日店に行くときちんと保管してくれていました。

ま、残高はいつも低空飛行なんですけどね。


(秋深し)

教習所での話。息子が講習受講の手続きに身分証明書としてマイナンバーカードを持って行きました。もちろん写真付きです。

「窓口でこれは保険証と同じで身分証明書になりませんって言われたよ」

「で、何が必要だって?」

「住民票を持って来るようにって。本籍地記載の住民票だって」

「写真付きのマイナンバーが身分証明書にならなくて、住民票が身分証明書になるんだ。へ〜」

ということで、私はマイナンバーを使ってコンビニで住民票を出力。息子に手渡しました。

総務省のウェブサイトによると「マイナンバーカードは、本人の申請により交付され、個人番号を証明する書類や本人確認の際の公的な身分証明書として利用でき」ると記されています。

が、ただし書きがありました。

「マイナンバーカードを身分証明書として取り扱うかどうかは、最終的には各事業者側の判断となりますので、一部の事業者では利用できない場合があります」

道理で保険証と同等の扱いなのですね。身分証明書としての法的効力はないのです。

そもそもマイナンバーカードは、身分証明書として作成されたものではない。「マイナンバー」という番号が記載された顔写真付きのカードと覚えていた方が間違いないでしょう。

「社会保障、税、災害対策の分野で効率的に情報を管理し...」と総務省はマイナンバー導入の目的の一つとして効率的な情報管理を掲げています。

結局、行政の効率化が大きな目的なのです。結果として住民サービスの向上が図られるということです。

だからなのでしょう。住民人口に対するマイナンバーカードの交付率は全国平均8.4%、福島県7.6%、いわき市7.0%と低調です(2017.3.8現在)。

それにしても、公安委員会所管の自動車教習所でマイナンバーカードが身分証明書に使えないとは、軽いショックでした。


(朝方の田んぼ)

職業柄、オフのときにも友人・知人や地域の方々から相談を受けます。

ただ、自分の業務外であったり、かつて在籍していた部署の業務であっても制度が改正されるなど即答できないことが多い。どうしても後日連絡することとなります。

オフのときとは、土日や夜間です。以前は依頼内容を聴き、記憶し、出勤してから思い出して対応していました。

しかしながら、近ごろ、脳細胞に何らかの変化が生じているのでしょうか。

太陽が昇るとともに前日受けた依頼内容はおろか、ひどい場合、依頼を受けたこと自体を忘失するようになりました。

言い換えれば、日の出とともに記憶をリセットする能力を獲得するに至りました。

嫌な記憶も消去されるメリットがある一方、冒頭に述べたような相談内容まで忘れてしまうのはいただけない。防衛策を取る必要に迫られました。

依頼を受けたときにメモを取ればよいではないか、と思われるかもしれません。しかし、そのメモを取ったことすら忘失の彼方にいってしまうのです。

素晴らしき忘却力。

というわけで、改善を図りました。相談を受けたその場でスマホに簡潔に打ち込み、メールを職場の自分のパソコン宛に送るようにしたのです。

これにより記憶し続けるという難行苦行から解放されました。安心してリセットすることができます。情報技術のお蔭で心の安寧を得ました。

仮に金曜日の夜、宴席で相談を受けても、心置きなく、脳内のアルコール殺菌作業に集中できるようになったのです。

週明けの月曜日、パソコンを開くと、自分宛に自分のメールが届いています。さすがに「何だこれは。どうして自分のメールが届いているのだろう」というようなことには今のところなっていません。

相談を受けた事項への対応は原則としてその日の午前中に担当課に照会したりするなどして、相談者に連絡します。

昨夜は小学生のお孫さんがいじめに遭って不登校になっているとの相談を受けました。けさ相談窓口を調べ午前中のうちにお祖母さんに連絡しました。

お祖母さんに連絡したことについては日誌に書き留めておきます。

こんなふうに脳細胞の劣化と日々対応しております。皆様はどのような工夫をされているのでしょう。

あっ、失礼しました。皆様も脳細胞が劣化しているものだと勝手に推量していました。深くお詫び申し上げます。


(夜のドトール)

じつに器が小さい。そう思います。もちろん自分自身のことです。

職場の給湯室で弁当箱を洗います。洗い始まってすぐに後ろが気になります。待たせていないかと見返り醜男をついやってしまいます。

ATMでも同じです。現金引出しだけならそう気になることはありません。

でも、振込みとなるとまたもや見返り醜男を演じてしまいます。

ホールのトイレでも同様のことが...。

コンサート後の小用は嫌です。いよいよ自分の番になってチャックを下ろすも、後ろに並ばれると気になって尿道周りの括約筋が緊張してしまうのです。

いったんしたふりをして再度並ぶこともあります。じつに情けない。

私は思うのです。

ATMで何件も続けて振込みをしても見返ることもなく、堂々たる操作を行うご婦人のようになりたい、と。

私は何も悪いことはしていない。したがって一礼する必要もない。そんな泰然自若の威風を身につけたいのです。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
給湯室デモATMデモトイレデモ
フリカエラヌ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


(職場の背後のクレーンが気になる)

知的財産管理技能検定3級試験の模擬試験を受けました。4割しか正解できませんでした。

予習も復習もせず臨んだ結果です。甘受せねばなるまい。

それにしてもいやらしい出題ばかり。根性のいやらしさを感じました。

〈問〉ア〜ウを比較して、商標権の発生と効力に関して、最も適切と考えられるものはどれか。

ア 商標権者は、その商標権を侵害した者に対して差止請求等の民事的措置をとることができるが、その侵害者が刑事罰を科されることはない。

イ 商標権は、登録査定が送達された日に発生する。

ウ 商標権者は、指定商品若しくは指定役務についての登録商標に類似する商標の使用又は指定商品若しくは指定役務に類似する商品若しくは役務についての登録商標若しくはこれに類似する商標の使用をする権利を専有しない。


(来年春に受験します)

正解はウ。はずれました。というか、そもそもウの日本語が理解できません。

一つの文章に「若しくは」が4回、「又は」が1回登場した上に、末尾が否定形です。とことんひねくれていると思いました。

多くの設問でこのいやらしさにつられました。

こんなのは知的財産ではなくて痴的財産じゃないか、と悪態をつきたくなりました。

というわけで、疑うことをせず素直に生きてきた結果なのであると自分を慰めています。来年3月に東京若しくは仙台又は日本のどこかで受験する予定。


(あさから青椒肉絲を作ってしまった)

フェイスブックの友達リクエストはメッセージを一言添えるべき、と私はずっと思っていました。

いまもその考えに基本的には変わりはありません。

が、ある方のプロフィールに書かれていた言葉を見て脳内で何かが弾けました。

「友達申請はメッセージなしでオッケーです」と宣言しているのです。なんだかすがすがしい。

こうすればメッセージなしのリクエストが届いても気にならないのではないか。自らそう宣言しているのだから。

そして、リクエストが届いた場合、友達として承認するかどうかは別途判断すればいい。

リクエストはメッセージを添えるべき、といつも「べき」の旗を心の中に立てている私。無言リクエストが来るたびに心理的なつかえが発生。

またか。不快だな、と。一言添えれば考慮するのに...。嫌な思いが募ります。

ところで、岩手県では横断歩道を渡る歩行者が停車中の車に向かって一礼するという。

本来、歩行者こそが優先されるべきで、一礼する筋合いはないはず。でも、岩手県で見られる風景は、違います。

「止まっていただいてありがとうございます」と歩行者が一歩へりくだった姿勢なのです。「べき」の旗を歩行者が下ろしてしまっていると言えます。

そのことによって車を運転する人も歩行者も優しさに包まれているように見えます。

夏目漱石の『道草』。夫と妻の心のすれ違いを描く作品です。

ある時、夫の健三がアルバイトしたお金をもって帰る。少しでも家計の足しにしようと思ってのこと。

しかし、お金を渡したとき、妻のお住は特段うれしそうな顔もしなかった。

お住「若し夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った」

健三「若し細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた」

夫婦ともに「べき」の旗を高く掲げているゆえに、すれ違ったままです。

そういう私も「べき」の旗が心の中に林立しています。燃やしてしまおうかしらん。


(いい字だなと思います)

初めて路上ライブをやった報告を高校3年の二男から受けました。

「プロも来たんだよ」

「へ〜。いっしょに歌ったの?」

「いっしょではないけど」

「上手だった?」

「上手だったよ」

「名前はなんていうの?」

「○○○○っていうんだって」

調べてみると、NHKの「うたのおにいさん」を務めたことのある人のようです。息子は興奮気味に語ります。

「で、終わってからその人とご飯食べに行こうってなって」

「へ〜。どこに行ったの?」

「駅の半田屋」

大衆食堂の半田屋は、ときおり私もひそかに利用しています。

豚汁がこれまたひそかに美味しい。いろいろとおかずの皿をトレーに載せるとそれ相応の金額になります。注意を要します。

「で、ご馳走になったの?」

「いや。ご馳走する?って訊かれたけど、いいですって言って、350円で食べた」

「ふ〜ん。ご馳走する?って、その人が訊いてきたんだ」

おそらく、息子も何か違和感を感じたのでしょう。自腹は正解だったかもしれません。

ご馳走することを疑問形で表現するのはプロフェッショナルではないかもしれない。と、勝手な考えがよぎりました。

すでにセルフサービス兼事前精算の半田屋を選択した時点で予防線は張られていたと言ってよいでしょう。

ふと、四半世紀前の出来事を思い出します。

後輩たちを連れて新舞子浜の洒落たレストラン「ヒュッテ吉田」にランチをしに行ったときのことです。

じつは姉に勧められて初めての入店でした。

「なんでもいいよ。好きなのを頼んで」

私も遅れてメニューを見ると途端に動悸が激しくなりました。

基本的にコース料理しかなく、アラカルトは最低価格のものが1200円。

顔がほてり、耳たぶもカイロのように熱を持ち始めました。

何を食べたのか、何を言ったのか、一切の記憶がUFOにさらわれたときのように消去されて、思い出せません。

帰宅後、姉に尋ねました。

「高かったよ、あのお店。なんで高いって教えてくれなかったの?」

「私、払ったことがないからわかんない」

というわけで、プロフェッショナルはゴルゴ13のように綿密に事前調査をしなければならないですね。


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