(やがてはこんな高層のセンターも)

からつづく)

「大人元気センター」のもう一つの目玉は個室型安眠室です。文字通り安らかに眠る部屋。ただし、1時間を限度とします。宿泊施設にはしません。

大広間に雑魚寝は見た目もよくない。子どものころよく目にしたヘルスセンターの猥雑な大広間を思い起こします。

座布団を半分に折って座卓のわきに横になる。あまりにも日本的です。常磐ハワイアンセンターでも日常茶飯な風景でした。

目覚めたときに頭や足を座卓の天板にぶつける。あの、他に責めを求めることのできない痛さは不甲斐ないものです。

さて、個室型安眠室は、“和風シエスタ”ともいうべきコンセプトに基づき設計されます。

枕カバーをはじめ、布地は、最高級の麻であるアイリッシュ・リネンです。湯上り後の清涼感を心ゆくまで味わえます。

壁は呼吸する壁といわれる珪藻土(けいそうど)。適度な湿度と防音性を保ちます。

ヒノキの香りが漂う安眠室は身体を横たえた瞬間から脳内のアルファー波が増大。深い眠りを約束します。静養こそが最良の治癒といわれます。

幼いころ、午後の昼寝の目覚めときに、いまが朝なのか、夕方なのか、そしてどこにいるのかわからなくなるくらいの、マリアナ海溝のような深い睡眠を経験しました。

それを大人にも味わわせたい。私の切なる願いです。

思わず翌朝を迎えたのか、と錯覚するような目覚めを安眠室はお約束します。

というわけで、大人元気センターは入浴後のくつろぎに力を入れています。

防音性に優れた個室型居酒屋、多種多様なマッサージを味わえるマッサージコーナーもプライバシーに配慮しています。マッサージ後のまどろみタイムも確保。

そして、前後不覚となるほどの深い眠りと目覚めを約束する安眠室を設置しています。

「大人元気センター特区」。おしりを決めて速やかに進めてほしいものです。


(レトロなカフェが好きです)

(上よりつづく)

「大人元気センター」構想への要望が読者から寄せられました。マッサージコーナーも個室化を図るべき、と。

確かにむべなるかなと私も思います。揉まれている姿を人に見られるのが嫌だという。

そういった羞恥心を私は元来において持ち合わせていません。しかし、マッサージ中にうつぶせ状態で顔面を支える開放部分から唾液を床に垂らすという実績を私は持っています。

“垂涎(すいぜん)記録保持者”としては、やはり隔離してもらったほうが断然いい。マッサージコーナーは個室化を図りましょう。

ただし、男女が二人きりになることによるリスクもあることから、目立たないよう監視カメラを室内に設置したいと思います。

ところで、このごろ物事において余韻というものの大切さを感じるようになってきました。むしろ、余韻こそ「主」であり、余韻に至るまでは「従」なのではないか、と考えるようになりました。

齢(よわい)五十路に至ると心境も変化するものです。

そこで、揉んでもらったあとに即座に退出を促される、あの余韻のなさを改善したい。もう少しベッドでまどろみたい。

「大人元気センター」ではそんな余韻を楽しむ時間を設けたいと思います。

1時間のマッサージにはその半分の30分間のまどろみを、40分コースの場合は20分間のまどろみタイムをセットとします。

さらに私の場合は床にソラマメに似たステンレス製の膿盆を置いてもらいます。安心してまどろむことができます。

もう一つ、当センターでは、トイレの質を限りなく高めたい。TOTOとLIXILによる夢の共同開発によって最高級のシャワー付きトイレを設けようと思います。

肝(きも)はシャワーの機能の高度化です。

最高品質の洗浄はもちろんのこと、新たに「便意促進機能」を付与します。シャワーには洗浄以外の力が秘められています。

水勢や角度、温度の最適化を図り、シャワーが便意を促進し、初期排泄後にさらに二次、三次と横行結腸付近に滞留しているものまでをも促すのです。

おなかがすっきりすると頭も心もすっきり。心も元気になります。

一流のアスリートは、試合において食事の摂取以上に排泄に神経を使うといわれます。おなかをすっきりさせることでメンタルを最適に保つのです。

心の元気といえば、当センターではこれまでにない機能を設けます。詳細は(下)にてお話します。

(下へつづく)


(あさの風景)

「大人元気センター」こそ必要なのではないか。この思いが日に日に強くなっています。

先日、シンガーソングライターの弾き語りを聞く機会がありました。

彼曰く。若者を元気にするためには、大人が元気にならないといけないと思う、と。

我が意を得たり。私は己の膝を打ち、彼の肩を叩きました。彼に私はいいました。

「子どもは大人の鏡です。大人こそ元気にならねばなりません」

そう、私はかねてから心ひそかに「大人元気センター」の構想を温めてきました。

まず入館の条件。

18歳未満は入れません。入館禁止です。お子ちゃまな雰囲気を一掃することで大人の世界の静謐(せいひつ)を保つのです。

センターの中核施設はやはり温泉。もちろん私の好きなサウナも充実しています。

4〜5人が入れる個室風サウナも複数設けます。室内では好きな動画を選択でき、番組は10分程度で完結するお笑い動画を中心とします。

画面は近眼者がメガネをはずしても見ることができるよう330インチのワイドスクリーン画面。つまらない既存のテレビ放送を垂れ流すことはやめます。

入浴後はマッサージコーナーにスムーズに移行できるよう予約状況がわかるよう浴室内にリアルタイムで表示。

マッサージコーナーはいわゆる整体のほか、あん摩、針灸など多種多様な業態を配置。お客様の多様なニーズに応えます。

湯上りの楽しみはなんといっても、干からびたのどを潤すビール。

完全個室の居酒屋を館内のど真ん中に設けます。

なんといっても防音性にこだわった設計。隣室の話し声がまったく聞こえないように随所に工夫を凝らします。

あくまでも気の置けない者同士の会話を心ゆくまで楽しむ。個室内においても音の反響は抑制した作りになっています。

居酒屋での私の最大の不満は雑音です。目の前の人の話が周りの雑音によってよく聞き取れない。楽しみを半減させています。

星々のつぶやきコンサルタントによると居酒屋での不満の第1位は「周りの雑音」、第2位は「従業員の接客態度」、第3位は「料理の内容」となっています。

まるで山里の一軒家でくつろぎながら飲んでいるような雰囲気。それを私は再現したい。

)へつづく


(アリが蜜を吸っています)

職場では始業前に朝礼があります。私がいまの職場に就職したころは朝礼はありませんでした。

私の課では毎日当番で職員があいさつをします。しかし、月曜日だけは課長が毎週あいさつする習わしになっています。

理由はわかりません。週の初めだから気合を入れる意味合いがあるのでしょうか。

そのようなわけで月曜日は毎週ひとこと、私が語らなければなりません。これがけっこう憂鬱です。

愛読者の皆様はご存じのように私は月曜日が非常に苦手です。

「星々のつぶやき」では、私のポリシーとして「非常に」や「とても」等のいわゆる“程度副詞”を基本的に使いません。

しかしながら、こと月曜日に関しては「非常に苦手」なのです。

前日の夕方から気分が下降。「笑点」のラッパが鳴ると、起立時に後ろからひざの裏を一撃されたときのように心が沈鬱になります。

さらに、「サザエさん」のエンディングの間奏に至った瞬間、とどめを刺すかのように浮上困難な憂鬱さに満たされます。

月曜日が苦手なことは、当ブログでもたびたび言及している通りです。

というわけで、月曜日の私のあいさつは称賛の言葉から始まります。

「皆さん、よくぞ出勤してこられた。これ、ただごとにあらず」と。

雪中行軍(せっちゅうこうぐん)で誰ひとり落伍せず目的地まで踏破したときの隊員を見る、上官の眼差しになっています。

金曜日をプレミアムにする前に月曜日対策を講じてほしいと切に願っています。

月曜日は午後からでいいんじゃないでしょうか。いっそのこと月曜日を廃止してほしい。


(火力発電所を望む)

子どものころ一艘のボートがありました。ソーダアイス色の手漕ぎボートです。

購入したものか、もらいものなのか、いったいどういうわけで我が家にボートがあったのか。

入手の経緯は思い出せません。おそらく父が拾ってきたのではないかと思います。

拾ってきたといえば、学生時代に自転車に乗っていたら職務質問を受けました。

自転車は故郷の山中で父が拾ったものを修繕して私に送ってくれたものでした。拾得物横領罪の疑いで八王子警察署稲荷坂交番に連れて行かれました。

交番から実家に電話が行き、両親が慌てふためいていました。いまとなっては懐かしい思い出です。

さて、当時、火力発電所の社宅の脇を流れる鮫川の河口は少し変わっていました。ストレートに太平洋に向かって流れるのではなく、蛇行していました。


(蛇行していた鮫川の河口)

大腸が真っ直ぐな下行結腸からS状結腸に曲がり、最後に直腸に至って、また真っ直ぐになる。鮫川はそのような河口を形作っていました。

したがって、河口から海は直接見渡すことができず、河口の向こうには砂浜の岸がありました。その岸の向こう側に太平洋があったのです。

河口の陸地側からボートに乗り、向こう岸に遊びに行きました。陸地側とは植生が一変し、いかにも海辺という雰囲気に満たされているのが不思議でした。

地を這うように淡いピンク色のハマヒルガオが一面に咲き乱れ、ところどころにハマボウフウが生えていました。

寄せては返す波、むせるほどの濃い潮の香り、通奏低音のように絶え間なく響く波の音...。私たち家族のほかはこの真っ白な浜辺に誰もいません。

この浜辺の波の音を私はテレビの「砂の嵐」状態のボリュームを上げ下げすることによって再現することに成功しました。

ざるで小豆を動かす音より、よほどリアリティーがあると当時の私は信じていました。

得意になって家族に披露。が、誰も興味を持ってくれませんでした。ボリュームの調整が、もはやつまみではなくなったいま、あのときの感動は蘇りません。

別世界に来たような感じの向こう岸への小さな旅。文字通り、此岸(しがん)から彼岸(ひがん)に渡ったのだと思います。

あのときの高揚感は「浜辺の歌」とともにいまもなお胸奥に残っています。

というわけで、けさ、通勤時に映画「昼顔」のポスターを見て、遠い昔のヒルガオを思い出した次第です。

私のヒルガオはかくも美しい。大腸のたとえを除いて。


(「響きの宿」にて)

県立高校で実習船の教官を務めている友人にずいぶん前に尋ねたことがあります。以前から疑問に思っていたことをぶつけてみました。

「船の衝突事故ってニュースになりますよね。あの広い海でさほど高速でもない船がなんでぶつかるんですか」

「そう思いますよね。船はぶつかるんです。原因は何だと思いますか」

「さあ、見当もつきません」

「居眠りなんですよ。居眠り」

「居眠りですか」

「もちろんすべての原因が居眠りではありませんけど居眠りによる衝突事故が多いんです」

「へ〜初めて知りました」

「海は広く往き交う船も見えないこともあります。そんなわけで油断が生じ、うっかり眠ってしまうんです」

「居眠り運転ならぬ居眠り操船ですね」

「居眠りはよくあることですけど、海は広いのでふつうは船同士が出会うことはありません。ところがまれに居眠り操船同士でぶつかってしまうんです」


「そうなんですか」

「ひどい事例では居眠りしたまま島に乗り上げるなんていうこともあるんですよ」

というわけで、居眠りは重大事故の元だということがわかりました。

私は昼休みに居眠りして午後の始業のチャイムに気づかずにそのまま口を開けて天を仰いでいたことがあります。疲れていたのでしょう。

気がついたとき赤面するとともに痛いほどに視線に耐えられませんでした。事故の元ですね。


(飛行機雲に見惚れていました)

市外の遠縁の親戚に不幸がありました。義姉も乗せて高速道路を疾走。その義姉が素っ頓狂な声を出しました。

「どうしたんですか」

「あらやだ。靴が違う」

「別な靴を履いてきちゃったんですか」

「いや、違うの。右と左で違う靴を履いてきちゃったの。どうしよう」

厳粛であるべき場で私の腹筋を暴発しかねないネタが組み込まれてしまいました。

斎場に到着。

義姉は腹が据わっています。左右の違う靴を堂々と履いたまま入場しました。

笑ってはいけない。

私は己が心を鎮圧。厳かな場にふさわしい心理状態になるようセルフコントロールに努めました。

私の地元では祭壇に向かって右側に遺族、左側に親族が八の字に並び参列者に見えるように並びます。

ここは中通り。私の住む浜通りとは違うと感じました。

遺族も含め参列者全員が祭壇に向かって座っているのです。

浜通りでは焼香の際に遺族や親族に向かって一礼します。それが焼香の前後にやります。

焼香に進む者、退く者、皆が右に左にせわしなく頭をカクカクさせます。ときに参列者同士で頭がぶつかりそうになります。

そんなことを考えながら、導師の読経を聞いていました。木魚が響きます。

遺影の両サイドにLEDのロウソクが10本ずつ立っています。その左側の中ほどのロウソクが木魚のリズムに呼応して明滅していることに気づきました。

一本だけ明らかに木魚に反応しているのです。どのような原理で起きているのか。気になって気になってしょうがありません。

木魚の音が弱くなると明滅も弱くなることも不思議でした。ロウソクを見つめているとそのロウソクの隣の一本も感染したかのように明滅し出しました。

読経が終わりました。明滅をやめたロウソクが静かに光っています。

通夜の儀が終わると浜通りでは基本的に参列者の誰もが別室での通夜振舞いに行くことができます。入退室自由のバイキングのような雰囲気です。

ところが中通りでは、遺族や近しい親族など限られた参列者のみです。特徴的なのは、そこに導師も参加するのです。

喪主のあいさつや献杯の発声もあります。

今回は棺は運ばれてきませんでしたが、以前に参列した中通りでの通夜では通夜振舞いの部屋に棺を運び入れ、文字通り、故人を忍びながらの会席でした。

所変われば違うものですね。


(自宅前を通過するディーゼル車)

その区長さんはいつも会議の1時間前には会場に来ていました。私たち職員が会場設営する前に姿を現していました。

「◯◯さん、そんなに早くいらっしゃらなくても大丈夫ですよ」

「いやいいんです」

はにかみながら、そして微笑みを浮かべつつ、静かに待つ区長さんでした。


(ナスの花。早朝に起きてアブラムシ退治のため木酢液を散布)

どうして会議開始の1時間も前に来るのだろう。いつも不思議に感じていました。

侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論をするような会議でもなく、いわゆる“会議のための会議”です。

その区長さんの行動を私は理解できませんでした。せいぜい10分前に来ればいいのにと思っていました。


(午前8時前の駅前のカフェでくつろぐひととき)

きょうは土曜日です。にもかかわらず午前5時前に起床。会津の師匠の助言を受け、栽培しているナスの葉に木酢液を希釈して散布しました。

※希釈については「希釈力」で一考を論じています。

そして、午前8時前なのに駅前のカフェでくつろぐ私がいます。主催する「中級音訳奉仕者養成講座」の開講式で午前10時半にあいさつをすることになっています。

業務開始の2時間以上も前に待機していることに気づきました。

何事に対してもぎりぎりな、いわば“ぎりぎりスト”だった私。いまやあの区長さんと同じ、いや、それ以上になってしまっている。

経年変化とは、時が経たないとわからないものです。鼻毛が白くなるだけでなく、行動様態まで変わるのですね。


(モノクロの世界も好きです)

日々の仕事で「自立」という言葉をよく目にします。意味はわかっているつもりです。「自立支援」というような使われ方をします。

「自立」の対義語は「依存」。

「自立」という言葉が氾濫しています。一方、「依存」も多く見かけます。

その使われる意味は、自立は、正また善であり、依存は、負または悪といえます。

でも、はたしてそうなのでしょうか。

「自立」することは目指すべき姿なのでしょうか。「依存」することはだめなことなのでしょうか。

もう一つ疑問に感じることがあります。「自立」を促す側は本当に「自立」しているのか、ということです。

子育て中の親子関係においてさえ、親もまた子に依存している。そう私は思います。

もちろん、子が親に依存しているのとは違う意味ではありますが。

患者は医師に依存しています。一方において、患者がいなければ医師という職業は成り立たないことを考えれば、医師もまた患者に依存しているともいえます。

その意味で人々は「何らかの依存症である」というのが私の結論です。きれいな言葉でいえば「共生」になるでしょうか。

私は炭水化物依存症です。脂質依存症でもあります。強く自覚しています。

一時、逆流性食道炎の改善のため、一切のおやつを食べないようにしたことがありました。

「断糖質」宣言です。3か月実践しました。

一切のおやつとは、カルビーのポテトチップス、ヨークベニマル好間店のモンブランケーキ、明治のミニガルボ、不二家のカントリーマアム(特にココア味が好きです)、亀田製菓のハッピーターン、岩塚製菓の味しらべ(私はハッピーターンと味しらべの違いが瞬時にわかります)等々。

その結果、そのストレスにより円形脱毛症を発症しました。

というわけで、良い依存をする、つまり、適度な依存関係を構築することこそが生物の本来あるべき態様であるとの結論に至りました。

それにしても、カントリーマアムはココア味だけでいいのにと思うのは私だけでしょうか。バニラ味は不要です。


(朝もやの田んぼ)

その瞬間は気になるけど、その直後、脳内で「気にならない」信号によって気にならなくなる。そんなことがあります。

まるでノイズ・リダクション(雑音軽減)のようです。

誰が履いたのかわからない旅館のぺらっぺらのスリッパ。履いた瞬間はちょっと嫌な気分です。

が、少し履いているともう自分と一体化してくる、この感覚。さっきまで別なお客さんが履いていたかもしれないスリッパなのに。

消毒などしていないはずなのに大丈夫な心理状態になります。

しかし、一方、浴室前の入口で「これは私のだぞ」と目に力を入れて、位置確認したうえで脱ぐ。が、湯から上がってきたときには、どれが自分のだかわからなくなっているときもあります。

一瞬のためらいがよぎります。そんなときでも、これぞ自分のものと確信し、いったん履き始まり数分もたてば、気にならなくなる。これは不思議。

脳内でどのような信号処理がされているのか。興味がわきます。

理髪店での耳かき。耳かきのメイン機能のしゃもじ型の部分の衛生状態も気になるところではあります。

あの、ふわふわした梵天(ぼんてん)は、いったいぜんたい消毒しているのだろうか。何十人、いや何百人の耳垢を捕捉してきているのではないかと思うのです。

これはゆゆしき問題なのではないか。と、思うものの、気持ちよさと「何かつけますか」の声がけにいつも忘却の彼方に追いやられてしまうのです。

逆に気にならないのが、お浄め塩。通夜・葬儀のあとに葬祭場では踏み台になっているものもあります。

踏んで効果があるのなら、人体そのものに塩が含まれているのだから、踏む必要なし、と思っています。

ちなみに体重60kgで身体には約300gほどの塩が含有していることになります。十分にお清めの役に立つ量ですね。

というわけで、まだ火曜日。ちょっと憂鬱です。


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