(真夏の雲)

「寂しいお盆になりました」。なぜ、そう声をかけられるのか、当初わかりませんでした。

大学を卒業した年の9月に父が亡くなり、翌年、新盆を迎えたときのことです。

来る人、来る人が同じことを言うので、当地の挨拶だということにようやく気がつきました。特段寂しくもなかったものですから、いぶかしく感じていました。

新盆回りは、回る人も、迎える人も大変です。

通夜や葬儀も、もちろん喪主は大変です。が、時間が限定されています。短時間に大雨が降るスコールのようなものです。

特に昨今は、葬祭場で行われることが多いため、通夜においても終わる時間が決まっています。

父が亡くなったときは自宅葬でした。通夜は夜遅くまで縁側を開放し、弔問客に備えていたのを覚えています。

もうそのような通夜は見なくなりましたね。

一方、新盆は様相を異にします。少なくとも3日間、葬家では朝から夕方まで連日弔問客に応対しなければなりません。

葬儀のときのような悲しみの急性期は過ぎ、多くの場合、肉親の死を受容した心理状態にあります。

弔問客への対応といっても、特段、難しいことはありません。

が、横になるわけにもいかず、かといって、かしこまっている必要もない、なんとも宙ぶらりんな身構えです。

そこで交わされる会話は、なかなかにしてうつろです。急性期を過ぎているとはいえ、笑いをとるような面白い話や盛り上がる話題はご法度です。

「寂しいお盆になりましたね」

「暑い中、わざわざありがとうございます」

「もうお盆ですものね。早いものですね」

「そうですね、早いですね。そうそう、お飲み物はビールがいいですか」

「いやいや、車で来ましたので...」

「奥さんが運転すればいいでしょう。お飲みになってはいかがですか」

「いやいや、これからもう少し行かないといけないところがあって...」

「では水ようかんなら召し上がれますね。どうぞ召し上がってください」

気の抜けたサイダーのような会話が、ときに間を置きながら、さみだれのように断続的に続きます。

扇風機が首を振っているのをちらっと眺めます。

蚊取り線香から煙が立ち上り、風鈴の音が遠くから響いてきます。

そうこうするうちに玄関の呼び鈴がピンポーンと鳴ります。

「では、そろそろ」

「もう少しいらっしゃればいいのに」と言いつつ、お返しの品をお渡します。

何か打合せするのでもなく、決定するのでもなく、相談を聞くのでもない。時候の挨拶に毛が生えた程度の会話を音楽のテンポでいえばラルゴで行う。

それがお盆の作法です。迎える方も、回る方も疲れます。


(ネジバナ)

経験則は確かなエビデンス(挙証データ)に基づいているものではない。にもかかわらず惹きつけられる何かがあります。

研修会や勉強会でなるほどと思う経験則を二つほど学びました。

一つ。家庭内で虐待があるかどうか。

家庭訪問でまず見る場所が水まわりだという。台所、トイレ、浴室などの水まわりを見ればその家庭がどんな状況にあるかわかるのだ、と。

これまで何百という事例を見てきての専門家の言葉には重みがありました。

水まわりと虐待にいかなる関連性があるのかわかりません。証明することもできないでしょう。

しかし、私にはすとんと腑に落ちるものがありました。水まわりがきれいな家で虐待は想像しにくい。うまく説明できないのですが、そんなふうに思います。

一つ。おならのくさい人にはお金を貸してはいけない。


(置物が可愛い。「時季の森」にて)

実家が江戸期、庄屋を務めていたという講師の話です。庄屋ですので村人にお金を貸すこともあったのでしょう。

家訓としておならのくさい人にお金を貸すとお金が戻ってこないと言い伝えられてきたのだという。

おならがくさいとは腸が健康ではないことを示している。腸が健康ではないことは身体が頑健ではないことを意味する、と。

いまでこそ大腸は腸内フローラと呼ばれ数百種類600兆個の菌が花畑(フローラ)にように生息していることがわかっています。

腸内フローラの状態は健康や病気に直接間接に関係しているのだそうです。

というわけで、貴重な経験則を二つも学ぶことができました。半世紀生きてきて自分も何か会得(えとく)した経験則はないものか、己の大脳皮質に照会してみました。

残念ながら何もありませんでした。

ただ、本日、水まわりの一つである浴室を丁寧に掃除。しつこいカビを取り、すっきりしました。

学んだ経験則によって重い腰が動きました。脅されると動くタイプです。


(「時季の森」。遠くに石森山が見える)

自宅から車で10数分。森の中に入って行くとカフェレストラン「時季の森」があります。高原の風が吹いています。

クヌギが高く繁り、様々な広葉樹に覆われています。

金土日のみの営業です。今週、気にかけていた仕事が無事に終わりました。


(抹茶アイスクリーム入りクリームあんみつ)

ふと自分にご褒美を与えてもいいのではないか。そんな甘いささやきが視床下部から聞こえてきました。大脳皮質も賛同し即行動。「時季の森」に向かいました。

人生の幸福は糖質で決まる、とは私がかねがね訴えているところの法則です。

身体に良くないのかもしれない。けれど、多幸感に最も寄与するのが糖質であると私は確信します。


(自然の風合いの木道が好きです)

その速効性においても糖質はずば抜けています。舌で喜び、胃が歓喜します。

抹茶アイスクリームのほのかな苦味と餡の甘み、そして黒蜜。寒天が甘さを中和しながら妙なる甘味のハーモニーを奏でます。

今週、嫌なこともありました。一方で、嬉しいこともありました。森を眺めながら反芻します。

嫌なことをどう捉えるか。その嫌なことはきっと意味があるのだ。つまり、「我が身の肥しなり」と思えるかどうかが、価値ある人生への登攀(とうはん)のY字路なのかもしれない。


(イングリッシュガーデンに咲く花)

間も無く人間ドック。にもかかわらず、糖質過多の道を邁進する我が身です。我が身を肥やしています。

(盛り付けは戦いであると思う)

やればできる。そう思いました。朝起きと月曜日と桜餅が苦手な私が早起きして弁当を作るようになりました。

息子2人に自分の分を含め3個。革命に近い出来事です。いや、革命と言ってよいでしょう。

庭先に実ったミニトマトやナスを早朝に収穫するなど、朝の惰眠を貪っていた過去の私からは想像すらできません。

朝起きはいまも苦手であることに変わりありません。

でも、いざ包丁を握るとスイッチが入ります。3口のガスコンロをフル稼働させながら、出汁巻玉子、メインのおかず、味噌汁を作ります。

弁当箱にご飯を入れ粗熱を取ります。

前夜に作っておいた一品も加え、盛り付けをします。この盛り付けが意外に時間がかかる。面倒この上ない。ときにカーッと頭に血が上ります。

箸が床に落ちる。ソースが股間に滴る。「あっ」に濁点の事態が次々に発生します。


(庭で採れたミニトマトを添えて)

弁当作りの一連の作業、つまり、材料を刻む、焼く・揚げる・煮る、盛り付けるを行う中で脳が活性化されていくのを感じます。覚醒です。

時間と戦いながら、調理し、順番をよく考え、最終形の盛り付けを思い描く。

これほど脳を創造的に働かせるものはないのではないか、と思い至るようになりました。

昼休みに己の作った弁当をおもむろに開けます。

鬼役(毒味役)のように神妙な面持ちで食べます。見た目はどうか。味はどうか。触感はどうか。腐敗はしていないか。

反省すべきは反省し明日につなげます。特におかずの沈下は意外な落とし穴です。貧弱に見えてしまう。たゆまず改良にチャレンジしています。

最大の反省点は股間に付着したソースやタレに気づかないまま職場に行ってしまうことです。

でも、心配いりません。アルコール入りウェットティッシュをデスク脇に常備しています。拭くはいっときの恥です。


(羽田クロノゲート)

夏は暑い。この言葉は私にとって格別の意味があります。暑い、暑いと嘆いても、涼しくなるわけではない。つまり、解決には結びつかない。

「夏は暑い」という前提に立つこと。当たり前として受け入れることが大事だということです。

仕事の師匠に教えていただいた言葉です。私の心の深層でセルフコントロールのキーワードとなっています。

さて、暑い季節になると暑い国に滞在していたことを思い出します。30年前のタイです。

面積は日本の1.4倍。約1年の滞在のほとんどをバンコクで過ごしました。

お気に入りの場所がありました。タマサート大学経済学部の食堂です。

チャオプラヤー川沿いの建物の2階にその食堂はあります。母なる大河を行き交う大小さまざまな船。

エンジンをむき出しにした高速船、対岸を往復するだけのはしけ船、貨物を満載しゆっくりと走る船、観光用のクルーザー等々。

渋滞で有名なバンコク。当時はスカイトレイン(BTS)も地下鉄もありませんでしたので、船を使ってバンコク市内を移動することもしばしばでした。

コーヒー色に濁った川面を浮き草がぷかぷかとゆっくりと川下に流れていきます。

経済学部の食堂は空調のある部屋と川のすぐ脇のオープンエアのエリアに分かれていました。空調のないベランダ風の川脇の席が私は好きでした。

流れゆく浮き草を見ながら、ぷりぷりとしたエビ入りチャーハン(カーオパットクン)を食べるとき、得も言われぬ幸福感を感じたものです。

長粒種(インディカ米)のパラパラとしたご飯とエビの組み合わせが絶妙。エビのためにご飯があり、ご飯のためにエビがある、と叫びたい気持ちになります。

チャーハンには半分に切られた小さなライム(マナーオ)が添えられています。ぎゅっと絞ってご飯にかけます。

その数滴の天のものなるライムの汁は鼻腔を伝って私の胃を刺激します。塩気の強いナンプラー(魚醤)を振るのもよいでしょう。

ところで、経済学部食堂から対岸まで約200メートル。シリラート病院という有名な病院があります。先年まで前国王が入院していました。

病院の敷地内にはホルマリン漬けの死体博物館(正式には「法医学博物館」と「解剖学博物館」)があります。当時、複数の友人に誘いを受けました。

けっこう執拗でした。私に何を期待したのでしょうか。

医学部に通う女子学生にも誘われました。

デートコースとして選んだのでしょうか。お断りしたので、その後、何の誘いもありませんでした。

もう一歩の勇気が必要でした。


(夜の表参道)

「夢と現実にギャップがあるとき、本人にどう接したらいいのか」 --- 会場からの質問です。講師から明確な答えはありませんでした。

就労支援に関する勉強会でのことです。誰が講師であったとしても難問だろうと思います。

先日、私の職場で働く6名のチャレンジ就業員のみなさんに私の就職の体験を話しました。

大学を卒業する少し前、タイの大学院に進学するため、バンコクに滞在。両親が重病で入院したため、留学はあきらめ、卒業と同時に帰郷。

その後、就職をせず、両親を看病しながら、自動車学校に通う日々を半年。

家の中では「無職のブルーレット」※と呼ばれる。自動車学校で出会った年配の男性に「語学の勉強は断じてあきらめるな」と激励を受ける。

父が亡くなり、生命保険会社の地元の営業所に就職。数か月後、保険のお得意様である市内の電子部品製造会社へタイ人研修生のための通訳の手伝いをするよう所長から指示を受け奮起。

と同時に保険の顧客である塾経営者から夜に講師を務めるよう依頼を受け、週に数日高校受験の中学生を指導をするように。

生命保険の営業職を1年半務めたのちに、地元の市役所に就職。母も死去。5年目のときにカナダ・モントリオール大学に1年間派遣研修生として留学。

市役所に入庁して四半世紀。

千客万来とまではいかないまでも、タイからお客様が頻繁に来市。今春、約30名のタイの青少年が研修のため当市に50日間滞在。年年歳歳、タイの人々と交流を重ねている。

そのような体験談をチャレンジ就業員のみなさんに語りました。

「タイに行きたいという夢はいまも持っているのですか」

「いい質問です。夢はいまも持っています。毎朝出勤時にタイ語のリスニングをしています」

夢は基本的に実現しません。夢は打ち砕かれるものです。現実は厳しい。

でも、その打ち砕かれた夢のかけらに次の可能性が秘められています。

超新星爆発のかけら(ガス)から新しい星が形作られるように夢のかけらを拾い集め、大切にしていきたいと思うのです。夢のかけらから違う形となって夢の星が生まれてきます。

「夢と現実にギャップがあるときどうすべきか」との問いに私はこう答えるでしょう。

「ギャップがあるのは当たり前。夢は打ち砕かれるもの。でも、その打ち砕かれた夢のかけらを捨てないでほしい」と。

好きな道を行くのではなく、行く道を好きになることもまたできるのです。

※当時、小林製薬から「無色のブルーレットおくだけ」という製品が発売され、それにかけて無職の私が揶揄されていたもの。祖母には「げーぶん(外聞)わりぃ」といわれました。


(「きょうの目標」。ワークショップのファシリテーターを務めました)

「この子はおとなしいね。しゃべらないね」--- 当時、私は3歳。畳屋さんからのその言葉がきっかけで母は私の聴力に疑いを持ちました。

耳鼻科を受診。このままでは聴力が低下し、小学校6年生になるまでに聞こえなくなるとの診断を受けました。

母はショックだったようです。気が動転し、どうやって自宅に戻ったか覚えていないと生前語っていました。

私は幼いころ、ほとんど言葉を発していなかったため、赤ちゃん言葉がなかったそうです。

このままでは言葉を覚えないままになってしまう。まだ聴力があるうちに本の読み聞かせをしよう。母は考え、実行しました。

毎晩、母は必ず読み聞かせをしてくれました。読み聞かせで特に記憶に残っているのは図鑑です。

さかなの図鑑、ちきゅうの図鑑、ほしの図鑑などなど。それから、日本の昔話やアンデルセンの童話。50年近く経ったいまでも、そのいくつかは持っています。

最初に覚えた単語は、ほしの図鑑の「たいよう(太陽)」であり、さかなの図鑑の「えいよう(栄養)」でした。

当時、家族や叔父叔母にサケの稚魚のお腹のオレンジ色の部分を指さし、得意げに「これ、えいようだよ、えいよう」といっていたのを覚えています。

医師の勧めに従い、少しでも聴力を改善するため、手術もしました。小学校に上がる前、アデノイドという鼻腔の奥にあるリンパ組織を切除。

まぶしい照明。はさみのような器具。口を開けさせられました。心臓は高鳴り、とてもつもない恐怖に襲われました。

何をされるかもわからない。しかも、局部麻酔の手術。口の中に器具が入れられ、組織を切り取るのです。拷問です。

泣き叫び恐怖のうちに手術が終わりました。

口に器具を入れる縁はその後も続き、高校2年生のときに扁桃腺を摘出、33歳のときには肺がんの検査で気管支鏡を飲みました。

当時、弟が幼かったからでしょう。父が付き添い、看病してくれました。夜中に氷を交換してくれたことを覚えています。

どんな思いで父は私のことを見守っていたのでしょうか。訊いておけばよかったと思っています。

現在、私は両耳に補聴器を付けています。

それでも聞き取れない言葉もあり、失敗や赤面することがあります。

聞き間違いをしてよく涙ぐんでいた子どものころ。齢を重ね面の皮が厚くなったからでしょうか、最近は以前ほど気にしなくなりました。

いま思います。時が解決してくれることもたくさんあるのだ、と。


(虫喰いの葉っぱが仮面のよう)

顔認識力が乏しい。以前から感じていることです。私の欠点の一つ。

駅前の再開発ビル内の無印良品でたまに会う女性から何度か挨拶されます。

が、どこの誰だか思い出せない。しゃべると覚えていないことがバレるので毎回会釈未満で済ませています。

「あのときは大変にお世話になりました」

そんなふうに知らない人に街中で声をかけられることもあります。いったい誰なのか、何をお世話したのか、いや、私がお世話になったに違いない。

そう思いつつも記憶を呼び覚ますことができません。数多くの方にご無礼をしているはず。この場をお借りしてお詫び申し上げます。

一方で、人間はおろか牛などの動物の顔を何頭も識別できる友人がいます。すごいなぁと思います。

ところで、3年前に港区六本木にある研究機関で10日間の研修を受けました。全国から18名が参加。

顔認識力の弱い私は10日間の研修で参加者の顔と名前を一致させることができませんでした。

そのOBOG会が六本木で催されます。こんなこともあろうかと研修最終日の発表会の際に一人ひとりのお姿を写真に納めておきました。

大統領警護隊がブラックリストの写真を目に焼き付けるように、いま写真を見ながら脳内に各人の名前をタグ付けしています。

このOBOG会、なぜか集合場所は羽田クロノゲート。最新の物流について学んで夜の部に突入するようです。

来世は歌唱力があって顔認識のできる人間として生まれたい。そう願っています。


(自宅西側の風景)

東山魁夷は、作品の中で背景となる闇を「豪奢な黒」と称しています。黒はけっして無ではありません。

あえて派手に訴えないからこそ、黒はその存在意義を際立たせているといえましょう。それを豪奢と呼んだのかもしれません。

ところで、動画サイトの多くのCMが大音量とともに派手な色彩と動きで視聴者を引き付けようとしています。

見てくれ、頼むという制作者の強い思いが返って私たちを遠ざけます。ときには見ろよと言わんばかりの乱暴さを感じます。

次元は異なりますが、街宣車のがなり声も胸に響きません。傍点だらけの文章もまた強調しているようで、見づらいだけです。訴求効果がありません。

訴えようとすればするほど、伝わりません。

一方、静寂から始まるCMはつい見てしまいます。「静」に潜む期待と可能性。そんなところでしょうか。

「伝える」ということと「伝わる」は異なります。

目立つように伝える人は数多くいます。自分だけが一方的にたくさんのことを訴える人も散見されます。

でも、はたして伝わっているのか。顧みる姿勢が必要です。

本当に大切なことは静かに訴えた方がいい。いや、訴えるよりもずっとよく伝わる方法があります。それは相手のことに耳を傾けることです。

不思議なことに傾聴することによって、こちらの思いも伝わっていくのです。


(蚊取り線香を焚きながらデッキでゴロゴロしていました)

光陰矢の如し。昨夏決意したはずだったのに、時はめぐり、また夏が来てしまいました。

「決意」とは、年に1度の同業者同士の卓球大会に事前に練習をして臨む、というものでした。

第41回を迎える本年の県下都市職員交歓卓球大会。開催地は南相馬市でした。昨年は地元市での開催。

あれから1年が経ってしまいました。口惜しさいっぱいだったのに。絶対に練習しようと思っていたのに。決意したはずなのに。

のにを言う人の心に甘えあり。

けっきょく、1年間、ラケットを握らずにまた大会に臨んでしまう失態。負けたときの口惜しさはいったいどこに行ってしまったのでしょう。

数年前、男女混合の個人戦で年齢が一回り上のご婦人と対戦し惨敗。「最近卓球を始められたのですか」と心優しい問いかけをいただきました。

思わず「あ、はい」と答えたときの屈辱。

昔の光いまいずこ。

中学時代、市・県で団体優勝。個人戦においても市大会優勝(中体連)、県大会準優勝(学年別)の実績を積むも、練習せずんば廃れるのみ。

おごれる人も久しからず。たけき者もついには滅びぬ。

喉元過ぎれば熱さを忘れるの格言の如く、「交歓」という名の夜の宴席で泡沫(うたかた)の決意はアルコールといっしょに蒸発していきます。

ラケットを握るのは従、ジョッキを握るのが主。昼は手段、夜が目的。

気が付けば、嗚呼、我、雪山(せっせん)の寒苦鳥となれり。

夜は寒さに苦しみ、昼はその温かさに苦しみを忘れ、遊びほうける。「明日は必ず巣を作ろう」と鳴きながら一生を終える寒苦鳥。

というわけで、寒苦鳥だっていいじゃないか、人間だものと言い聞かせながら、2日目の筋肉痛に呻吟(しんぎん)しています。

それにしても五十路の筋肉痛はどこか違う。

2日目にピークが来て、筋肉痛とともにインフルエンザの治りかけのだるさにも似た、倦怠感に襲われます。

ともあれ、あれほど汗をかいたのに体重が増えたのは不可思議この上ない。


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