(心のオアシス「草野心平記念文学館」)

タイ・バンコクの有名なシルクの店「ジムトンプソン」で絹の反物を私は物色していました。歯学部に通う女子学生にプレゼントするためです。

中国系の白い肌に似合う純白の反物を選びました。少しフォーマルな厚めの生地でした。プレゼントしました。

その次に会ったときのことです。

「贈ってもらった生地で仕立てた服を着てきました」

30年前のこの出来事はいまでもよく覚えています。私は舞い上がらんばかりに喜びました。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」

ユリウス・カエサルの言葉として塩野七生氏が『ローマ人の物語』で語らせている言葉です。

そう、私は勘違いをしたのです。

私が贈った生地で仕立てた服を着てきた。即、願いが叶った、成就した、と。事実は多少異なっていました。いや、多少ではなく大いに違っていました。

単に贈られた生地で仕立てた服を着てきたというだけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。贈り物へのせめてもの答礼であり、「礼儀」のレベルであったのです。

太平洋戦争中の軍人の生きざまを描いた小説の一節を思い出します。

下士官が上官に対して「この戦争は負けます」と言います。上官は「貴様は勝とうと思わないのか」と。下士官は「勝ちたいです。しかし、勝ちたいということと、勝てるという事実は違うのです」と答えます。

「願い」と「事実認識」を冷徹に分ける眼識を持ちたいと私は思うのです。

希望を持つことは大切です。希望を託すことも大切です。しかし、希望を託すに足るものを持っているのかどうか。

まさに希望と認識を峻別する目を持たなければ、純白の服に目がくらんだ30年前の私と同じになってしまうでしょう。

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