(守谷サービスエリア下り線にて)

カフェの店内に掲げてある額縁に惹きつけられました。見ると書道家・武田双雲さんの作品。

右側の壁に篆書体(てんしょたい)で「星」、そして対面の壁には行書体で同じく「星」と書かれていました。見事な大書です。

星乃珈琲店で私は友人と向き合い、話に耳を傾けました。

学生時代、文字通り同じ釜の飯を食った仲です。

いまその彼が苦境にあります。うつを患っています。

「この苦しみはドアのないサウナのようなものだよね」

ひと通り話を聞き終えてから私がいいました。私も10年ほど前にうつを発症。死ぬことまで考えました。

「ドアのないサウナ?」

「そう。サウナはドアがあっていつでも出られるとわかっているから、あの暑苦しい中で耐えられる。でも、もしドアがなかったら苦しみが永遠に続くと感じると思う」

「なるほど」

人はどんなに苦しくても、それがいつまでなのかがわかれば心は軽くなる。乗り越えられます。

サウナもあと5分で出て、次に冷水風呂、そして上がったらビールだ、と思えばこそ、苦しみもまた楽しみになります。

心を込めて私は友人に語りました。

「必ず必ず薄皮をはがすようによくなっていくよ。調子のよいときもあると思う」

でも、と私は続けました。

「それを基準としないことが大事。そして、調子の悪いときも、同じく、それを基準としない。波があるのは当たり前ということ」

調子のよいときは、これで治ったのかと思ってしまいがちです。一方で、調子の悪いときは、もう治らないのかと落ち込む。

「復職に向けて大事なことは、波があるということを知っておくことだと思う。必ず良くなるよ」

かといって、うつの真っ最中は己を達観するなどということはできないものです。ただただ苦しいだけ。

思考の視野狭窄が進み、自分自身を俯瞰(ふかん)できないところにうつの辛さがあります。

いま私の胸には山本周五郎著『樅の木は残った』の主人公・原田甲斐の言葉が蘇ってきます。

禅僧・快川紹喜の辞世をめぐって鬼役(毒見役)に向かう丹三郎に対して甲斐が言います。

「(前略)火中にあって、心頭滅却すれば火もまた涼し、などというのは泣き言にすぎない、けれども、その泣き言を云うところに、いかにも人間らしい迷いや、みれんや、弱さがあらわれていて、好ましい、私には好ましく思われる」

うつにおいては、どうしても周りにどう見られるかが気になります。

しかし、この弱さをさらけ出せる友を持つこと、寄り添う友の存在こそが肝要です。

自分自身のときもまさに寄り添う友によって救われました。

当初まったく予定になかった今回の語らい。お互いが引き寄せ合い、星と星が出逢ったかのようです。

まさに星々のつぶやきにふさわしい。

1

Calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM