(行きつけのカフェ「讃香」)

台風が近づいて来るとわくわくしていた子どものころ。社宅の屋上から荒れる鮫川の河口や海を見るのが好きでした。

たまに停電が起きるとさらに興奮。ろうそくを灯し、懐中電灯で自分の顔を照らすなどして遊び心を満開にさせていました。

停電が1時間程度で復旧すると、せっかくの楽しい暗がりが蛍光灯の光で白々しく照らされ、興ざめしたものでした。

停電は子どもにとって心の宴(うたげ)。宴のあとはつまらない日常が待っていました。

私は思うのです。生活に差し支えない範囲で“電気のラマダン”があってもいいのではないか、と。

自分の親や子、兄弟が当事者とならない限り、戦争ほど面白いものはない。

かつて、恩師はこのように戦争報道の本質について語っていました。

言い換えれば、当事者の悲劇は非当事者にとってのネタなのです。だからこそ、報道が成り立つと言えるでしょう。

逆に言えば、報道の99%は非当事者にとって実益はなく、日々の生活とは無関係なものと言ってよいでしょう。

大脳はつねに刺激を欲しています。大脳は退屈が苦手です。単調な高速道路での運転が眠気を誘うゆえんです。

非日常でかつ非当事者のニュースほど、私たちにとって無害であるがゆえに、食事をしながらでも安心して見ることができます。

シリアでのIS掃討作戦の様子を見ながら、納豆ご飯を食べることができますし、災害により避難所で不便な生活をしている様子を見ながら、ラーメンをすすることも可能です。

ニュースとは大脳を退屈させない刺激剤である。最近、つくづくそう思います。

大事なことは、非日常の非当事者のことに心惑わされるのではなく、地域で起きている日常の当事者の課題に思いを致すことではないかと思います。

先日、福祉関係の法人の役員の方々との懇親会に出席しました。地域で起きている驚くべき日常を知り、己の無知を知りました。

永田町で繰り広げられる悲喜劇もまた刺激的ではあります。でも、所詮はネタに過ぎません。

報道されることのない、本当の課題、シリアスな問題は、いまここで、私たちの足下で起きているのです。

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