(夕暮れの自宅前)

都市の名前というものは不思議です。イメージができてしまっている。偏見であることは百も承知の上。でも、フィリピンのマニラには危ない響きを感じます。

なぜなのか。中村敦夫著『マニラの鼻』のせいなのか。

であれば、同氏の著作『チェンマイの首』でタイ・チェンマイに同じ印象を抱いてもよさそうですが、そうではない。

そんなマニラに息子が留学するという。心配です。

顧みて思います。私が30年前にタイ・バンコクに留学したときの親の思いはいかに、と。

当時、両親は何も言わずに私を送り出してくれました。

連絡手段は基本的に手紙です。1週間の時差で日本から届く母の手紙。日々の生活が楽しく、私はあまり返事を書きませんでした。

ある日、寮の公衆電話に母から電話が掛かってきました。数百人はいる学生寮の唯一の電話が公衆電話でした。1階フロアの中央の階段の脇にありました。

雑音の混じりの不明瞭な母親の声。特に用はなかったようです。生存確認の電話でした。

公衆電話なので、電話が鳴っても気が付かない場合がありますし、誰が取るかもわかりません。

母曰く、部屋の番号と私の名前を必死に何度も叫んだとのこと。野口シカの鉛筆書きの手紙をつい連想してしまいます。

タイ人の学生が私の部屋に来てドアをたたき、「電話だよ」と教えてくれましたのを覚えています。

タイから日本に電話するためにはバンコク中央郵便局まで出向く必要がありました。

相手方の電話番号を申告し、しばら待ちます。タイ国内の他県に掛ける長距離電話も同様でした。繋がると小さな個室に呼ばれて通話が始まります。

海を越えて繋がっているという実感の湧く仕掛けでした。

今となって思います。もう少し頻繁に親に手紙を書き、電話をしておけばよかった、と。30年経ってからの後悔。あまりにも遅しであります。

というわけで、手紙自体はよく書いていました。長距離電話もしていました。ただし、歯学部の女子学生宛にでしたけど。お蔭でタイ語の力が伸びました。

必死さは語学習得の要なり。タイ留学中に会得した教訓です。

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