- 2018.01.07 Sunday
散華の儀式
(サザコーヒー 大洗店)
「時間の供給は硬直的である。(中略)簡単に消滅し、蓄積もできない。永久に過ぎ去り決して戻らない」(P.F.ドラッカー著『経営者の条件』)
50歳を過ぎ時間の有限性をつとに感じます。コアな部分にこの時間という限りある資源を投入しようと決意しています。
いただいた年賀状を整理します。年賀状はコアな部分の一つだと思うようになりました。
なにせ忙しい年末あるいは年始にはがきに住所を記載し、投函するという作業を行うのですから。有り難いことです。
宛名は手書きですが、住所録はエクセルで管理しています。来年の年賀状に備え、その住所録に時点修正をするのが今ごろの作業となります。
番地が変更となっている場合があります。こちらの転記ミスなのか、あるいは筆界の変更によるものなのか、とにかく修正が必要です。
うっかり名前を間違って記載していることも発見します。あってはならないことです。申し訳ない限りです。
「裕」と「祐」、「己」と「巳」等々、老眼の進行によってますます発見が困難になっています。
以前、配偶者の名前が変わっていることに気づいたこともありました。永久不変はないのです。
住所録には、お子さんの名前も入力しておきます。お会いする機会があったときに話題に出せるように留めておくためです。
「近くにお寄りの際はお声掛けください」「また会いたいですね」
社交儀礼もあるのでしょうけど、添え状に込められた思いを大切にしたい。今年は一つ一つ実現したいと思っています。
もちろん交友関係を広くしていく工夫も大切です。他方で、限りある時間を考えたとき、今ある人間関係を濃くしてみるのも善なるかなと思うのです。
というわけで、本日、約200枚の年賀状を辞書のごとく完璧に五十音順に並べ替えました。畳からテーブルに持っていこうとしたその瞬間、まるで散華(さんげ)の儀式のようにはらはらとはがきが散り落ちていきました。
このやるせなさ、不甲斐なさ、情けなさ。柱に足の小指を打った瞬間に似た気持ちです。
こんなとき私は「大漢和辞典」の編纂途上に起きた空襲による原版焼失事件を思い起こすようにしています。
編纂者は返ってすっきりしたという。より完璧な辞典を作ることができると思った、と。
こちらはたかが200枚です。ファイト一発!
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- by だいこんくん