(藍の波を立てる鮫川)

だんだんと気持ちが柔(やわ)になってきた。そう思います。以前は抗(あらが)う精神がありました。ナイフのようにとがっていました。

30年来のなじみの理髪店に行くたびに言われます。

「最近ずいぶんと髪の毛が柔らかくなってきましたよね。特に頭頂部がほら」

頭頂部と太陽は直視できない、とはだいこんくんの箴言(しんげん)です。

頭髪の柔らかさと心の強靭性は相関関係にあるのでしょうか。頭頂部も心も脆弱性を示し始めました。

以前、「総ぐるみ」という言葉に抵抗がありました。特に「◯◯総ぐるみ運動」といった表現が苦手でした。

“総ぐらまれたくない”と思ったものでした。「総ぐるみ」とは、思考停止状態で行われる集団行動に思えたのです。是非を論ぜずお上や周囲から言われるままに行う行為に見えたのです。

そして何よりも、「総ぐるみ」に否と意思表示をするマイノリティに対して冷たさを感じたものです。少数派を排除する運動に思えたのです。

議論して皆が納得しての総ぐるみ運動であるならばいいのです。総ぐるみで行うことそのものに意義を見出す思考様式に嫌悪感を持っていました。

杉本良夫氏は言います。

「『日本人をやめる』というのは、広い意味では、日本文化のなかにある束縛的なしきたり、日本社会の非民主的な枠組み、日本人の日常生活を支配する非人間的な構造にアカンベーをする人間になるということである」(杉本良夫著『日本人をやめる方法』)

さらに氏はその「日本人をやめる」ことの厳しさについて次のように述べています。

「地球時代にあって、日本と関わりあいながら、なにがしかの社会変革を志す人たちにとって、『闘争』と『逃走』は盾の両面である」と。

上述の引用中の「日本と」を「地域と」に置き換えてもよいでしょう。

というわけで、美味しい干し芋を食べたい、濃厚な和栗モンブランケーキを食べたい、ぷりっぷりの海老チリを食べたい、等々の欲求に抗し難く、人間が柔(やわ)になってきました。

闘争など無縁となり、もはや逃走を超え、遁走(とんそう)するばかりです。

総ぐるみの軍門に下るとそれなりに楽だということに気づいた今日この頃のつぶやきでした。


(海老チリを作ってみました)

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」 --- 室生犀星の抒情小曲集の詩句。この抒情は第一に物理的距離があり、そして心理的距離があることを前提としている。そう私は思います。

東南アジアに留学した息子。寮の部屋はWi-Fi環境が整っています。

3人部屋で共同のトイレ、水のシャワーだという。東京で暮らしていたよりは不便な生活になったようです。

たしかに遠くには行きました。が、心理的距離が離れていない。SNSで無料いつでもつながります。動画でも会話ができる。

これはよくないのではないか。やはり「ふるさとは遠きにありて思ふもの」です。

「むかしは」と言うのは避けたいと思いつつ、やっぱり言いたくなるのです。

30年前の私のタイ留学時代。薄暗い独房のような部屋。ヤモリと巨大ゴキブリとの共生。もちろん水のシャワー。電話なし。

実家との連絡手段は手紙でした。5日間程度の“時差”が心を豊かにしたような気がします。赤と青のストライプに囲まれたエアメールの封筒が届くとき、心躍りました。

さだまさしの「案山子」の歌詞のような母の文面。思えば遠くに来たもんだと思いました。

人生は「いないいないばあ」の姿勢が必要なのではないか。最近つくづく思います。「いるいるばあ」ではなく「いないいないばあ」というところが深い。

離しつつ、見守っている。あるいは、離れつつ見守る。完全にいないのではない。かといって常時いるのではない。それが「いないいないばあ」なのです。

いつかはいなくなる親という存在。たくさんの「いないいないばあ」のシャワーを浴びた人は親亡きあとも“見守れ感”が心の中に残るような気がします。

というわけで、飛行機の航路をリアルタイムで追跡するアプリを捨てられずにいる私こそ「いないいないばあ」が必要だと思う昨今です。修行が足りません。

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