(久しぶりのカフェ「讃香」)

感度が鈍いのか。あるいは傲慢になったのか。長編の名作を読んでも感動しなくなりました。友にそのことを言うと、同じだと言う。

「あのさ、いま司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでるんだけど、学生時代に読んだときのような感動が蘇ってこないんだよね」

「わかります。おれも同じです。だから脳科学の本とか実務の本ばかり読んでます」

「わがる。おれもハウツー本の方が面白いって感じるもんね」

「小説は読まなくなりましたね」

「亡くなった母がね、私が子どもの頃、小説は若いうちに読みなさいって言ってたんです。今になってわかるね、その意味が」

「なんなのでしょうね」

「やっぱさ、主人公がおれらより若いって言うのがあるよね。下に見ちゃうというか。要は傲慢になってんだよね。傲慢さが原因だね。おれもひとかどのことをやってきたというか。そんな慢心があると思う」

「なるほど」

「でもね、すごいなって思うのは、『レミゼラブル』とか、『モンテクリスト伯』とか、こういった長編の小説って著者が結構な年齢になってから書いているんだよね。そこがすごい」

と言いながら、必要があって『坂の上の雲』を無感動のまま読み進めています。かつての感動はなんだったのか。テストステロンの涸れも影響しているのかもしれません。

シビレエイは自らが痺れているから痺れさせることができる。そんな寓話があります。


(久しぶりのあんみつに感動しています)

感動も同じことかもしれないと思う。人を感動させるには自らが感動していなければ成し得ない作業なのでしょう。

その意味で文豪や巨匠たちは、晩年に至るまで燃える何かを自身の胸中にたぎらせていたのでしょう。

燃えるものはあるか。燃えているのか。厳しく自らに問い質しています。

燃えているのはへその上のカイロだけです。最近のカイロは小さくてもけっこう長持ちします。

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