(今朝のお弁当。手作りにこだわっています)

世界史は嫌いでした。ローマ帝国の歴代の皇帝の名前が出てきた時点でもうお腹いっぱいになりました。トゥスだのウスだのアヌスだの、何とかしてくれよ、という思いでした。

ところが、齢(よわい)半世紀を経て、世界史、特に近現代史を学び直しておかないといけないのではないか。そんな思いに駆られるようなりました。

なぜか、それはまたの機会にお話します。

遅きに失した感があります。が、佐藤一斎の言葉を銘にして、学びの歩みをカタツムリの速度で進めたいと思います。今号は、というか、今号もつまらないです。オチもありません。

「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり壮にして学べば、則ち老いて衰えず老いて学べば、則ち死して朽ちず」

というわけで、死して朽ち果てても一向にかまわないのですが、ロシア革命についての私の備忘録です。

ドイツのウィルヘルム2世はロシアを内部から崩壊させようとしていた。ロシアの革命家たちに100万ルーブルもの資金援助をしたことがドイツ財務省の電報として残っています。

一方、日本もやっていました。

大佐の明石元二郎がヨーロッパを中心にロシアの革命家たちと通じ、革命を支援していたのです。

日露戦争当時の日本の国家予算は約2億3千万円。その中で参謀本部から100万円(現在の貨幣価値にして400億円以上)ほどの工作資金が与えられていました。山縣有朋の指示です。

つまり、日本もロシア革命を焚き付けていたということです。知りませんでした。

10月革命ののち、レーニンが国民に約束した憲法制定議会選挙はレーニンの期待を裏切るものであった。第一党になったのは農村で力を得ていた革命勢力エスエルで410議席。レーニン率いるボリシェビキは175議席だった。

それで、選挙に負けたレーニンは何をやったか。議会を武力で封鎖し解散させました。いわばクーデターです。レーニンは述べています。

「国家に関わる仕事は省庁や官房などで行われており議会では庶民の目を欺くことを目的に駄弁を弄しているに過ぎない」(レーニン著『国家と革命』)

革命によって地主から解放された農民は都市への穀物の供給を止めました。その結果、首都では食料が不足し飢餓が発生。レーニンは事態を打開するため食糧徴発部隊を農村に派遣。抵抗する富農を追放しました。

豊かな土壌で富農の多かったタンボフでは農民が反乱。3万人に膨れ上がった反乱軍を抑えるため、レーニン率いる赤軍はタンボフに対し毒ガスを使用。森に隠れていた多くの農民が呼吸困難で死亡しました。1万4千人もの農民が殺され、反乱は鎮圧されました。

現在、ロシアの学校で「ロシア革命」という言葉は使われないという。ソビエト時代は「偉大なる10月社会主義革命」と称されていました。いま歴史の授業で「1917年10月の出来事」と教えられています。

“出来事”なのですね。そのように教えているロシアの教育力に私は期待したいと思います。

結びに私の問題提起です。100年前のレーニンの言葉「議会では庶民の目を欺くことを目的に駄弁を弄している」は現在も有効でしょうか。

「駄弁」とはくだらない話の意。だべると同義です。なお、「星々のつぶやき」は私の駄弁です。いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。

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