(ナスの苗ナスの花咲く何の不思議なけれど)

いまになって思います。タイに留学していたころは笑いの感覚が鋭敏になっていたと。

小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」をバンコク市内の古本屋で立ち読みしていたときのことです。

相原コージの4コマ漫画「コージ苑」の可笑しさに我慢ができず、ついに極まって店内で大声で笑ったことがありました。なぜか爽快な気持ちになりました。

「嗚呼、あの人は暑熱に頭がやられてしまったんだろう」と周りのお客さんは見ていたと思います。

当時、私の住んでいたバンコクの学生寮にO君という日本人留学生がいました。

経済学に秀でた学生でした。単に優秀だということに留まらず、私にわかるように噛み砕いて教えてくれる。つまり、教えることも優秀なO君でした。

ある日のこと、米国人留学生にコージ苑を見せた。そうO君が話し出しました。

「あいつにさコージ苑見せたんだよ」

「で、どうだった」

「受けてたよ。特にこの場面。日本的だって。いかにも日本人らしいっていってた」

「え、なになに」

「これだよ」

中年のおばさんが家でシャワーを浴びています。名前と年齢も1コマ目に出ていたように思います。

気持ち良さげに浴びています。

3コマ目で展開があります。お尻に付着していたものを発見。トイレットペーパーの小さな塊です。指先で弾いて洗い流します。

4コマ目で何事もなかったかのように、ふたたび気持ち良さそうに浴び続ける場面でむすびとなります。

この4コマ漫画に米国人留学生は反応したというのです。しかも「これはいかにも日本的だ」と。

日本的だといいつつも、ウケる。反応するということは米国人も日本人も同じような共鳴装置があるのでしょう。きっと経験もあるのでしょう。

ただし、通常の出来事をネタとして認識することは困難です。言語化することは至難といえます。

わかるということと言語化することは別次元の話なのです。

松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の句は多くの人がそのいわんとすることを感じます。でも、常人は言語化できない。

人がふだん認識していないものをネタとしていかに表象させ、かつ、共鳴装置に響かせる言語として表すことができるか。

そこに常人と奇人との違いがあるのでしょう。「星々のつぶやき」の挑戦もまたここにあります。

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