(「きょうの目標」。ワークショップのファシリテーターを務めました)

「この子はおとなしいね。しゃべらないね」--- 当時、私は3歳。畳屋さんからのその言葉がきっかけで母は私の聴力に疑いを持ちました。

耳鼻科を受診。このままでは聴力が低下し、小学校6年生になるまでに聞こえなくなるとの診断を受けました。

母はショックだったようです。気が動転し、どうやって自宅に戻ったか覚えていないと生前語っていました。

私は幼いころ、ほとんど言葉を発していなかったため、赤ちゃん言葉がなかったそうです。

このままでは言葉を覚えないままになってしまう。まだ聴力があるうちに本の読み聞かせをしよう。母は考え、実行しました。

毎晩、母は必ず読み聞かせをしてくれました。読み聞かせで特に記憶に残っているのは図鑑です。

さかなの図鑑、ちきゅうの図鑑、ほしの図鑑などなど。それから、日本の昔話やアンデルセンの童話。50年近く経ったいまでも、そのいくつかは持っています。

最初に覚えた単語は、ほしの図鑑の「たいよう(太陽)」であり、さかなの図鑑の「えいよう(栄養)」でした。

当時、家族や叔父叔母にサケの稚魚のお腹のオレンジ色の部分を指さし、得意げに「これ、えいようだよ、えいよう」といっていたのを覚えています。

医師の勧めに従い、少しでも聴力を改善するため、手術もしました。小学校に上がる前、アデノイドという鼻腔の奥にあるリンパ組織を切除。

まぶしい照明。はさみのような器具。口を開けさせられました。心臓は高鳴り、とてもつもない恐怖に襲われました。

何をされるかもわからない。しかも、局部麻酔の手術。口の中に器具が入れられ、組織を切り取るのです。拷問です。

泣き叫び恐怖のうちに手術が終わりました。

口に器具を入れる縁はその後も続き、高校2年生のときに扁桃腺を摘出、33歳のときには肺がんの検査で気管支鏡を飲みました。

当時、弟が幼かったからでしょう。父が付き添い、看病してくれました。夜中に氷を交換してくれたことを覚えています。

どんな思いで父は私のことを見守っていたのでしょうか。訊いておけばよかったと思っています。

現在、私は両耳に補聴器を付けています。

それでも聞き取れない言葉もあり、失敗や赤面することがあります。

聞き間違いをしてよく涙ぐんでいた子どものころ。齢を重ね面の皮が厚くなったからでしょうか、最近は以前ほど気にしなくなりました。

いま思います。時が解決してくれることもたくさんあるのだ、と。

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