(「草野心平と小川をまとう」。来年はこのワークショップに参加したい)

御嶽山が噴火しました。国内に110ある活火山。活火山の定義は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」とのこと。

自然を相手とする場合、1万年という長遠な単位が必要なのですね。

ちなみに、電気事業連合会によると「高レベル放射性廃棄物は(中略)数万年以上にわたり人間の生活環境から遠ざけ、管理する必要」があるとし、「日本には火山や地震、断層活動の影響が少なく、今後10万年にわたって安定していると評価される地層が広く存在することが明らかになって」いるそうです。

10万年も安定した地層。しかも、広く存在。国内にそんなところがあるとは知りませんでした。これで安心です。枕を高くして眠れます。

ところで、親友のブログによるとテレビ放映の「仮面ライダー」が変質するという。

第16作目(10月5日放映開始)となる仮面ライダーのシリーズ名が「仮面ライダードライブ」になるというのです。キャッチコピーは、「この男、刑事で仮面ライダー!!」。

設定が異色づくめです。シリーズとしては初めて自動車を運転。しかも、仮面ライダーが刑事で、ドライブ側の登場人物は全員警視庁所属の人物。

以前「星々のつぶやき」でお話したように、幼いころ仮面ライダー変身ベルトを鳴らしていた筆者としては、この変容ぶりを悲しく思います。石ノ森章太郎さんも草葉の陰で泣いているに違いありません。

以下、3点にわたって抗議します。

一つ目は、言語学的な観点からの矛盾です。

ライダー(rider)は、馬やバイクなど、“またぐ乗り物”を乗っている人を意味します。一方、ドライブ(drive)は駆り立てるといった意味もありますが、現代英語では、基本的に車の運転を意味する動詞です。

ですので、自動車を運転するのであれば、「仮面ドライバー」が妥当でしょう。ワゴン車の中でバイクにまたがるのなら別ですが...。

二つ目は、バイクを捨てた「仮面ライダー」は、もはやヒーローではないという点です。

バイクの機敏性と即応性。敵の攻撃に直接さらされるリスク。寒風に一人走るライダー、炎熱の中で砂埃を巻き上げながら疾走するライダー。

そんなライダーが自動車という鋼鉄の箱に守られていいのでしょうか。

いつの間にか巻かなくなった真っ赤なスカーフ。第16作目への布石だったのでしょうか。快適な車内のエアコンの風でスカーフをなびかせば、ファッションにはなるでしょうけれど。

少し脱線しますが、「水戸黄門」の風車(かざぐるま)の弥七は、あくまでも風車で相手の動きを封じるからこそ、風車の弥七なのです。風車の代わりに携帯式対戦車ロケット弾で攻撃してしまったのでは物語が崩壊してしまいます。

二輪から四輪への変更はタイヤの数が倍になった以上の衝撃があるのです。仮面ライダーは改造の原点、つまり、“昆虫(バッタ)”であることを自覚すべきです。

三つ目は、仮面ライダーは一匹狼かつアウトロー的存在であるべきだということです。

それが、権力機構の一員になってしまったのでは、“強きを挫き、弱きを助ける”侠客の心が失われてしまいます。

警察は、法令に違反した人間を取り締まる組織です。仮面ライダーをそんな狭小な組織の一員にし、集団戦法の手駒としていいのでしょうか。

敵は、世界征服をたくらむ超法規的な存在なはずです。国家権力をもってしても倒せない、人間の力ではいかんともしがたい、悪(怪人)に、ただ一人立ち向かうヒーローであってほしい。

そこに少年少女の心を躍らせる、手に汗握る「仮面ライダー」の正義と醍醐味があると思うのです。「ドライブ」気分とはおよそかけ離れた真剣勝負の世界が展開されなければなりません。

というわけで、久しぶりに力んでしまっただいこんくんなのでした。


(親友にいただいたトマトジュース「芳珠」。半端な価格ではありません)

(からつづく)

脱線したついでに、フランスを意味する場合、「仏国」は「ふつこく」と読みます。「ぶっこく」と読むと、仏のいる国土を意味します。

なお、当地では「ぶっこく」は、「放屁」を意味する動詞となることもあり、「くっせぇ。おめぇ、ぶっこいだっぺ」「おれ、やってねぇよ」のように使用します。

さて、「四門出遊」型マンションとはなにか。それは、老人、病人、死者、修行者に配慮した集合住宅です。

老人=介護施設併設、病人=病院併設、死者=墓地併設、修行者=学びの場(部室)併設ということです。

先日、日経新聞に室内墓地の広告を目にしました。承継者(墓守)が将来いなくなっても管理者がしっかりと守ってくれると謳っています。ついに室内墓地の時代が到来したのです。


(室内墓地の広告)

火葬のあり方も変わってくるでしょう。日本の火葬は骨の形状を維持した焼き方です。姿形を残したまま火葬する技術の集大成である火葬炉は、じつは特許のかたまりです。耐火煉瓦の組合せにも工夫が施されています。

一方、欧米では粉骨し、パウダー状にして遺族に渡すのが通例です。日本でも東京都内の火葬場でパウダー状に粉骨するサービスが10年前から始まりました。納骨の容積も小さくなり、室内墓地の環境整備が進んできているといえます。

四門出遊に出てくる「修行者」についてはもう少し説明が必要でしょう。「修行」とは、換言すれば「学び」といえるのではないでしょうか。

なお、「花嫁修業」というときは、「修業」を用います。「修行」は終わりのない学びの「行」ですが、「修業」には「卒業」があります。「花嫁修行」と書くと、生涯にわたって花嫁の行に励むことになります。

松本すみ子氏は「これから定年を迎える団塊世代も、多くが学びの場へ向かうだろう。まさに、“第2の就学期”とも言うべき現象が生まれている」と述べています。(2006年7月13日、松本すみ子の団塊消費動向研究所

児童生徒にとって部活動は、課外活動であり学校活動の本体ではありません。しかし、シルバー世代にとって各々の好きな学習活動(部活動)こそが生活の本体です。

基地好きなシルバー男子にとって「部室」は、郷愁を呼び起こすこと請け合いです。お茶好きなシルバー女子にとっても加齢臭男子の入室禁制のおしゃれな「部室」は、将軍のいない現代の大奥、あこがれのサロンとなるでありましょう。

これからは「大人の部活」の時代です。

「四門出遊」型マンションは、上下の空間移動により、介護・医療・埋葬(墓参)・修行を可能とする、少子高齢社会に完璧に対応した居住空間となります。

近々、「四門出遊」型マンション研究会を立ち上げようかなと思案しているだいこんくんなのでした。


(耳鼻咽喉が弱点の筆者を慮って親友からいただいたのど飴)

最近、中心市街地に次々とマンションが立ち並ぶようになりました。住宅需要の高まりを感じます。特にシニア世代の関心が高いようです。

職場から徒歩2分のところに市内初の免震構造のマンションが建設中です。クリニックも併設されるという。モデルルームは盛況なようで見学は予約制です。

仮にそのマンションが自宅となったら、出勤は午前8時20分でも余裕があります。帰りは午後5時20分に玄関着。午後5時半からのNHK教育のアニメ番組「はなかっぱ」を楽しめます。

ちなみに、「はなかっぱ」のおとうさんの頭にはヒマワリが、おかあさんの頭にはタンポポが咲いています。主人公の「はなかっぱ」の頭には“とりあえずの花”が咲いていて、汚れた空気や水に入るとしおれたりしてしまいます。

職場から徒歩数分のところに居を構えれば、周辺に誘蛾灯のように赤提灯がぶらさがっていることですし、“とりあえずのメタボ”が“本格的かつ不可逆的なメタボ”になること必定(ひつじょう)です。

ところで、日経ビジネスは9月22日号の特集で「隠れ介護1300万人の激震 エース社員が突然いなくなる」と題し、企業が競争力を維持するためには社員の介護リスクに早急に対応しなければならないと提言しています。

また、昨日、NHKラジオを聞いていたら墓守のいない無縁墓が急増し、この10年で2倍に増えているといった話が紹介されていました。

昨今のこれらの動きを考えると、これからのマンションは、「四門出遊型」でなければならないのではないか。喫緊の必要に迫られていると私は考えています。

四門出遊(しもんしゅつゆう)とは、釈迦がまだ太子の時、王城の東西南北の四つの門から郊外に出掛け、それぞれの門の外で老人、病人、死者、修行者に出会い、人生の苦しみを目のあたりに見て、苦諦に対する目を開き、出家を決意したという伝説です。(出典:Wikipedia)

蛇足ながら、釈迦は当時、妻も子もいました。財もあり、大邸宅に住んでいたといわれています。

それは「出家」ではなくて「家出」だったのではないか。ふと旅情に誘われたのではなかったのか。私はそう思うのです。

萩原朔太郎はうたいます。

「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し せめては新しき背廣をきて きままなる旅にいでてみん」と。

(へつづく)

※徒歩所要時間は「不動産の表示に関する公正競争規約施行規則」により道路距離80mにつき1分間を要する(時速4.8km)ものとして算出した数値を表示することとされています。1分未満の端数は切り上げ。

※「ふん」と入力すると、「糞」が第一候補で上がってくるのには我ながら不甲斐ない気持ちでいっぱいです。


(スーパーのフードコートでノンアルコールを飲みました)

ベルトが苦しいのか、お腹が苦しいのか。おそらく両方とも難儀しているのでありましょう。最近、腹圧が高まってきて、ちょっとつらいです。

ところで、トンネルのシールド工法というものが約200年の歴史があることを最近知りました。てっきり最新のテクノロジーだと思っていました。

シールド工法は、フランス生まれでイギリス育ちのマーク・イザムバード・ブルネルによって開発され、彼とトマス・コクランによって1818年に特許を取得。

シールド工法によって世界で初めて建設されたトンネルはイギリスのテムズトンネル(テムズ川の川底)です。1825年に掘削を開始し、1843年に開通しました。現在、地下鉄が通っています。

ちなみに、日本最初のシールド工法は、1917年(大正6年)に起工し7年後に竣工した秋田県の羽越線・折渡トンネルです。

ブルネルがシールド工法のアイデアを思いついたのは、造船所で働いていたときに見たフナクイムシ(船食い虫)だったと伝えられています。

フナクイムシは、虫ではありません。水中の木質に穴を開けて、木の中に棲む二枚貝の一種です。ミミズのような体の先端にヤスリのような殻を持っています。その殻で木を穿孔(せんこう)し、内壁を石灰質のコーティングを施す面白い生き物です。

木造船時代、フナクイムシは船の天敵で、沈没を引き起こす害虫としておそれられていました。

そういえば、「世界の果てまでイッテQ!」でタイのマングローブに棲息するフナクイムシに似た貝を森三中が生で食べる場面がありました。お腹をこわさなかったのでしょうか。

かつて私はタイに住んでいましたが、通常あのようなものは食卓にのぼりません。

さて、水中の木材に単に穴を開けただけでは、すぐに周囲の木材が膨張し穴が狭まってしまいます。その木材の膨張圧に負けないにようにするため、フナクイムシは石灰質を内壁に施し、単なる「穴」ではなく、いわば「トンネル」として維持しているのです。

まさにトンネル工事は、土圧(地圧)との戦いです。

たとえば、新潟県の鍋立山(なべたちやま)トンネル(全長9,116.5m)は、猛烈な土圧(地圧)により、着工(1973年)から完成(1997年)まで22年近くを要しました。

土圧の解決法をブルネルはフナクイムシの開けた穴の石灰質にヒントを見出したのです。

というわけで、私の腹圧も胴回りに石灰を塗れば、なんとかなるのではないか。明るい希望を持ち始めただいこんくんなのでした。


(100円ショップのビジネスモデルは抱合せだという)

知人のお悔やみがありました。車に乗ったあと手拭き(ハンカチ)を忘れたことに気づきました。

頻便(3 times a day)の私は手拭きは必須アイテム。いわゆるハンカチではなく、起毛したハンドタオルが好きです。

我が家にたった一枚だけ「Made in 今治」のハンドタオルがあります。愛媛県の今治タオルは肌触りと吸水性が断然違います。

死ぬ前に一度でいいから全身今治タオルで包まれてみたいと願っています。

そうそう、私はスーパーなどのトイレに備え付けの電動のエアタオルを使いません。あの吹き飛ばされ具合がどうも嫌なのです。細菌がエアロゾルとなって飛び散っているように感じます。

ハンドタオルにも雑菌はあるのでしょうけど、自家製の雑菌はさほど気にならないものです。でも、他人の雑菌は苦手です。自分の屁と他人の屁の関係と似ています。


(なんとなく紫外線が出ているようなので殺菌はしているのでしょう。たぶん)

1976年に米国ペンシルバニア州フィラデルフィアのあるホテルで米国在郷軍人の集会が開催されました。この時、原因不明の肺炎がホテルの従業員や集会参加者、ホテルの近くにいた人に集団発生(患者225名、死者34名)しました。

原因はホテル屋上の冷却塔から発生していた微細な水滴(エアロゾル)に含まれていたレジオネラ菌だったのです。

というわけで、100円ショップでハンドタオルを買いました。店内を見回すと面白そうな品物がたくさん。自分でも目がとたんに輝き出すのを感じます。

100円ショップの品物の原価率というのはかなり幅があって、数円の物から売値と同じ原価、つまり原価率100%の物まであります。

蛇足ながら、100円ショップのハサミは面白いですね。左利き用やらCDなどの硬プラスチックを切れるハサミやらじつに多種多様なハサミがあります。30種類くらいはあるでしょう。

お客さんが目的の物を一品だけ買って帰ってしまったのでは、100円ショップの商売は成り立ちません。そこがコンビニのビジネスモデルがちょっと違うところです。

100円ショップでは必ず余計な物を買わなければならないのです。いろいろ買ってもらって原価率を平準化するわけです。

「郷に入っては郷に従え」で、私はハンドタオルのほかに「大阪なにわでうまれた ほんま、うまいこつぶやで! まあ いっぺんたべてっ!!」という加工黒糖を買ってしまいました。美味しいです。

ちなみにコンビニのハンドタオルは国産といったこだわりがあり、付加価値のあるものが300円〜500円程度で売られています。

ダイソーの店内に置いてあるハンドタオルはすべて同社のプライベートブランド。ダイソーは商品の約8割がプライベートブランドです。

ナショナルブランドのものも100円ショップ向けに商品開発をしているものが数多くあります。

私の好きなハウス食品の「フルーチェ」は100円ショップでは「プチフルーチェ」という商品で売られています。スーパーでは販売されていない100円ショップ専用の商品です。

プチフルーチェは150gで100円(税抜)。一方、フルーチェは200gで180円(メーカー希望小売価格 税抜)。プチフルーチェは原価率が高いことがわかります。

ということで、100円ショップに行ったら、なにはなくても買い物かごを持ち、余計な物を買いましょう。あなたの町の100円ショップは永遠に不滅です。


(実りの秋)

(よりつづく)

引き続き糞の話です。

脱線したついでに、映画「ラストエンペラー」で検便係が皇帝の便のにおいを嗅ぐ“検便”のシーンが印象に残っています。素晴らしい器に皇帝のモノが盛られていました。

その後、皇帝が捕らえられ牢屋でバケツに排尿する際、音が出ないようにバケツの側面に這わせすよう命じられる場面は切なくなります。

狼煙の話から映画「ラストエンペラー」まで、さまよえる湖「ロプノール」のように彷徨(ほうこう)してしまいました。

そうそう、オオカミといえば、30年前、学生のとき一般教養科目の「文化人類学」で貫伝松(ぬきでんまつ)教授が「アマラとカマラ」の話をしてくれたのを思い出します。

アマラとカマラは、1920年にインドで発見されたとされる2人の孤児の少女のことです。孤児院を運営するキリスト教伝道師ジョセフ・シングによって保護、養育されました。

シング氏は二人はオオカミによって育てられたものと主張。文明から切り離されて育てられた野生児の事例として世界的に有名になりました。

でも、現在は、生物学的観点などから信憑性は低いと考えられています。

一番は授乳の問題です。人間の乳児は自分で乳のあるところに行けません。母親が抱っこして、赤ちゃんが飲みやすい体勢に調整してあげて、乳首を咥えさせるのです。

そして、授乳はそれなりの時間もかかります。オオカミがじっと抱っこして飲ませてあげるというのは考えにくいと思うのです。

オオカミよりおとなしい(はずの)牛でも、大人でさえその乳首を咥えることは困難でしょうし、無殺菌の牛乳を飲むことは、七転八倒の下痢に見舞われるに違いありません。

仮にオオカミの授乳ができたとしても、大人よりデリケートな赤ちゃんのお腹がオオカミの無殺菌の乳を消化できたとは思えません。

オオカミが人間を育てたというのはローマ建国の神話のように寓話としては面白いです。が、あり得ないと私は考えます。


(ローマ建国の神話。狼の乳を吸うロームルスとレムスの像 出典:Wikipedia)

というわけで、食事中の皆様、私のブログが噴飯な話題で狼藉(ろうぜき)してしまい、失礼しました。

だいこんくんが筆者に成り代わって伏してお詫び申し上げます。

※「噴飯」の「噴」は「憤」とは違います。「噴飯」の意味は、(食べかけていたご飯を噴き出してしまうほど)おかしくてたまらないという意味です。腹立たしい、憤るという意味はないそうです。

父は食事中よくむせって散弾銃のようにご飯が飛んできました。まさに噴飯物。



(くつろぎのひととき)

今回は、というか、今回も糞の話で恐縮です。

「狼煙(のろし)」ってどうしてオオカミの煙なんだろう。ふと思いました。

古代中国でのこと。狼煙を上げるとき、天にまっすぐに煙が上がるように藁にオオカミの糞を混ぜて燃やしたからだという。

「狼煙を上げる」の意味は、煙や火を上げて合図をする。大きな事の起こるきっかけ・合図となる行動をする。また、ある行動などを起こすことを表明する、と大辞林第三版にあります。

なぜオオカミの糞なのでしょう。牛糞や鶏糞、豚糞あるいは人糞ではダメなのでしょうか。オオカミの糞を燃やして、試してみるしかないですね。

はたして煙は急速に上昇するのでしょうか。

日本一速いエレベーターは横浜にあるランドマークタワーの分速750m(上昇下降共に)。ちなみにスペースシャトルは2分間で4万5千メートルの上昇速度です。

さて、私は、これまで、糞はおろかオオカミの実物さえ見たことがありません。北海道旭川市の旭山動物園に「オオカミの森」というのがあるようです。いつか同園を訪れ、糞を採取したいと思います。

狼煙のことを調べていたら、かつて大阪(大阪城)・尾道間の250kmを狼煙(29ヶ所)で中継し新幹線と競争を行ったことがわかりました。結果は狼煙の方が10分早かったというのですから、優れた通信手段といえます。
(出典:須玉町歴史資料館

先ほど人糞が話題に出たのでちょっと脱線していいでしょうか。

江戸時代、人糞は貴重な肥料でした。江戸近郊の農家は、長屋の大家や大名屋敷と契約を結んで糞尿を買い取っていたそうです。

糞にもランクがつけられ、「きんぱん」(大名屋敷から出たもの)、「町肥」(一般の町家)、「お屋敷」(寮や留置場)、「たれこみ」(尿の多いもの)などといった具合です。当然、値段も違っていました。

ちなみに、私は頻便です。日に3度お通じがあります。現代においては環境に負荷を与えていますが江戸時代だったら、重要人物として遇されていたに違いありません。
(へつづく)


(思い出の「チョコあ〜んぱん」が駅の自販機に登場)

先週から風邪を引いて陰鬱な気分です。特に鼻づまりがひどく、富栄養化した池の鯉のように口呼吸になっています。

私の耳鼻咽喉は、大脳に次いで弱点部分。iPhoneのライトニングケーブル並みに脆弱です。

幼少のころ鼻づまりになると、スライスした玉ねぎを母に鼻に突っ込まれた思い出があります。効き目があったような、なかったような...。もちろん、使用後の玉ねぎは食用にはしませんでした。

ところで、中学3年の息子に尋ねられました。

「どうして『有言実行』って辞書にないの」

ときおり枕代わりにしている広辞苑第三版を開いてみると、なるほど見当たりません。最近愛用の枕は、ご存じいま話題の「ダチョウ枕」です。

辞書に載っていない理由は何か。それは、「有言実行」という四字熟語は「不言実行」をもじったパロディーだからです。格式ある広辞苑では「不言実行」のみが掲載されています。

確かにパソコンの漢字変換でも「不言実行」は一発変換です。ですが、「有言実行」は「有言」と「実行」に分けられてしまいます。

「で、なんで『有言実行』なんて言葉、調べてるの」と私。

「生徒会役員の選挙立会演説で『私のスローガンは』って入れなくちゃいけないんだ」

「スローガン?なんのスローガンなの」

「自分のスローガン」

「スローガンっていうのは、それを掲げて人や組織を動かす標語だよ。おかしんじゃない。自分のことを言うんだったらモットーだよ」

結局、息子はどこから見つけたのか、「獅子奮迅(ししふんじん)」という言葉に決めました。

「獅子奮迅」でも「石綿粉塵」でも、使うのは大いに結構。でも、言葉を聞いてみんなわかるだろうかと私は疑問を投げかけました。

「んじゃ、『私のモットーは獅子奮迅です』っていうから、獅子奮迅になにか説明、加えて」と息子。

私が提案した「獅子奮迅」の能書きは次の通り。

「獅子は蟻の子を捕るときも、大きな獣を捕るときも全力で立ち向かう。僕もそのように取り組みます」って言えばいいんじゃないの、と。

「つまらないことでもバカにしないで取り組むっていうことだよ」

「わかった」

というわけで、生徒会「会計」の立会演説において息子は「私のモットーは獅子奮迅」と訴えることとなりました。

「原稿が仕上がった」と聞いたとき、時計は午前3時になっていました。

無投票なのにまさに獅子奮迅。
ここで一句。

「演説は獅子奮迅の無投票」


(結び方次第でバッグにもなる風呂敷)

温泉旅館で朝風呂に入り、朝食を食べ終わって部屋に戻ったとき、私は不思議と気だるさに襲われます。このとき、どこにも出かけずそのまま布団に寝てみたい。

一生のうちにやってみたい私の七つの夢の一つです。

庭の見える和室にふかふかの布団。窓外から小鳥の声や清流のせせらぎが聞こえ、そよ風が顔を撫でます。

このまま辞世の句とともに霊山に旅立っても、思い残すことはたぶんないでありましょう。最高の贅沢です。

ところで、先日、地元の呉服店のご主人主催の「風呂敷講座」に参加しました。

講座が始まってすぐに風呂敷の角と角を合わせるコーナーがありました。

そのときふと思い出しました。小学校6年の夏、福島県相馬海浜自然の家(当時、福島県海浜青年の家。震災被害により施設廃止)で研修を受けたときのことです。

当時、県内には「少年の家」があったにもかかわらず、我が母校は、より訓練の厳しい「青年の家」を選びました。

ちなみに古代中国では人生の時期を色と季節の組合せで表しました。すなわち、玄冬、青春、朱夏、白秋です。幼少期は未来が見えないので黒い冬(玄冬)なのだそうです。

さて、「青年の家」ではベッドの毛布の畳み方がきちんとなっていないと施設から退所許可がおりません。担任から事前に何度も注意を受けていました。

朝起きたとき私は神経質なまでに毛布の角と角をぴったりに合わせました。同室のクラスメイトも必死でした。毛布の畳み方のことで私は熟睡できなかったことを覚えています。

夜の集いで歌う「遠き山に日は落ちて」や「燃えろよ燃えろ」の事前練習にも私たちは余念がありませんでした。

そんな玄冬時代を風呂敷講座で思い起こしていました。いまも毛布を畳むときは角をぴったり合わせないと気が済みません。

話を戻します。今回の風呂敷講座での最大の成果は「真結び」を学んだことです。2本の紐をふつうに結ぶとき、一度よじって縛ったあともう一度結びます。

私は生まれてこのかた、いわゆる「縦結び」だけをしていたのです。一度目の結び目に対して直角(十文字)になってしまうということです。

いままで靴紐の蝶結びが真横にならず疑問に思っていました。真結びをすべきだったのです。これで氷解しました。

真結びのすごいところは、引っ張りに強いにもかかわらず、ほどくときは手品のように簡単に解けるのです。

真結びを知らず半世紀近く生きてきた経済的損失は計り知れません。

というわけで、近ごろ知らないことにますます出逢うようになってきました。学びの喜びを味わっています。

いまこの時間に放送中の「NHKスペシャル▽臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」は眠れなくなるおそれがあるので、昼間に録画で見ることにします。


(通勤経路上の店先の彫像。トーガにしては変な結び方です。本文とは関係ありません)

いまから約40年前、私が小学校3年のとき父は痔ろう(痔瘻)を患い入院しました。市内では治療できる医師がいないといわれ、三枝(さいぐさ)先生という痔ろうの名医を訪ねて父は静岡まで行きました。

母と祖父(父の父)が交代で静岡に通って看病しました。夏の1か月近く父は家にいなかったと記憶しています。

「三枝クリニック・肛門科」のサイトを見ると三代にわたって肛門科を専門としているとあります。昭和3年に「三枝肛門科医院」設立とありますから、80年以上の歴史があるのですね。おそらく父は二代目の三枝純郎先生にお世話になったのだと思います。

同サイトの院長の「あいさつ」のページには気迫のこもった和歌が二首掲載されています。

「憎らしき 複雑痔瘻の古狸 今ぞこの手で打ちのめさんや」

「たとい身は 糞にまみれて朽ちるとも 魂や患者のおしりや治さん」

我慢強い父にとっても相当につらい手術だったようです。父は治療を終え、自宅に戻ってきてからもしばらくの間、カレーライスは見たくないと言っていました。思い出すからでしょう。

だれの発案だったのでしょうか。兄弟の声をテープに吹き込んで入院中の父に届けようということになりました。

弟は「たなばたさま」を歌った後、童謡「かっこう」の曲を笛で吹き、その後「幼稚園の本を買ってね」とおねだりしています。

私は、かなりの長時間、意味不明の早口の言葉を発し、その後「川風吹けば、花びらが...」と聞いたことのない歌を得意の音痴で歌い、最後に「図鑑、買ってね」と言い終えています。

中学1年の姉は、「早く元気になって」と言った後、「浮気しないでください」と、入院中の父に向かって釘を刺しています。肛門を切られた人間にかける言葉なのか。

このテープを持参して、おそらく祖父が父に届けたのでしょう。私たちの録音の終わる部分から、今度は父が私たち兄弟一人ひとりに対して返事の吹込みをしてくれました。

そのカセットテープを持っている弟から10年ほど前に音源データを送ってもらいました。

聞いていて懐かしさがこみ上げる前に「君、大丈夫なのか」と自分に声をかけたくなるほど、私の奇矯さが目立っています。

最近、「星々のつぶやき」の内容が匂いを伴うものばかりだとのご指摘をいただきました。

次回から軌道修正しようかと思いつつ、「臭いものに蓋」をするのはよくないのではないかと思案中のだいこんくんなのでした。


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