(鳩摩羅什の辿った道を歩いてみたい)

「いけない状態」と「いけない」は同じ意味だと思うのですけど、その効力はぜんぜん違うようです。

ところで、震災のとき、福島県沿岸部の町がテレビに映し出されていました。ずいぶん前にその町を離れ、現在は東京に住む友人が変わり果てた故郷の様子を沈痛な面持ちで見つめていました。

犠牲者がつぎつぎと発見され、花が手向けられています。

基礎だけになってしまった家の跡に、電柱の根元に、仰向けになった車のそばなどに。

花屋さんに勤める友人は、画面に映し出される花を見て思いました。花を買い求めに来たお客さんに花を売った花屋さんはどんな思いだったろう、と。

花が飾られている。それはすなわち、花の買い手と売り手がいるということです。もっといえば、花の作り手や運送に従事した人もいます。

自明のことではありますけど、普段、花を見て、私たちは売り手の花屋さんの心中まで思いやることはありません。

でも、花屋さんである友人は違いました。

故郷で自分と同じく花屋さんを営む同級生の心中を慮(おもんぱか)りました。

先日、友人は久しぶりに故郷に戻って同級会に参加しました。

東京でフラワーコーディネーターとして活躍する友人のことを花屋さんを営む同級生がことのほか喜んでくれたそうです。

そして、震災のときのことを語って聞かせてくれました。

「妻がやっと見つかりました」

「お陰様で息子が発見されました」

同級生の花屋さんは身を切られるような思いで、死者に手向ける花を包み渡す日々が続いたそうです。お店をたたんでしまおうかとまで考えたといいます。

小さな町です。みんな知合いです。切ない毎日が続きました。

そんなある日、男の子が来店しました。

「お母さんの誕生日にお花を贈りたい」と。

その男の子のひとことが、ぱっと心の中を明るくしてくれました。ものすごくうれしくて涙が出たそうです。

花は不思議ですね。喜びにも悲しみにも寄り添うことができます。

しんしんと更ける深夜のもつ焼き「大統領」で友人の語りを聞きながら、私の心の中にも温かい灯がともりました。

なんだか旅に出たくなりました。そんなわけで、宮本輝『ひとたびはポプラに臥す』を読み始めただいこんくんなのでした。


(飲茶の美味しい「Le Parc」)

子どものころ、家に1メートルの竹製の物差しがありました。飴色の古びたもので、なぜかカーテンレールの上が定位置でした。

物差しの表側には10センチ間隔で惑星の公転軌道のような丸印が刻まれていました。

母が裁縫で採寸をするとき、
照明の笠に風船が上がってしまったとき、
たんすと壁の隙間に鉛筆が転がってしまったとき、
そして蒲団叩きにも使われていた我が家の物差し。

物差しと定規はどう違うのか。正直私もよくわかりません。

たぶん余白があるかどうかではないでしょうか。1メートルの物差しは端から端までの長さはぴったり1メートルです。

でも、定規は少し余白があります。30センチの定規は30センチと8ミリくらいあるはずです。


(Le Parcの店内)

ところで、先日ふた回り歳上のご婦人と会食いたしました。正確にいうと、飲茶をご馳走になりました。タイ・バンコクの飲茶専門店に勝るとも劣らない味です。

背筋をしっかりと伸ばし、歩く姿が凛としています。そのことを正直に申し上げました。

「歩くお姿が背筋がぴんと伸びていらっしゃいますね」

「それは母のお蔭です」

その方は子どものころ猫背でお母様に背中に棒を入れられて姿勢を直されたそうです。

そのときふと、昔、我が家にあった飴色の竹製の物差しのことを思い出しました。

このようなことを書いていたら私の弟から顕微鏡の画像が送られてきました。


(プランクトンなどを見ていた顕微鏡)

私が小学生のとき父に買ってもらった顕微鏡が物置から出てきたというのです。じつに懐かしい。40年近く前のものです。

古びた物差しと顕微鏡。

父母の在りし日を思った振替休日でした。


(ロングブレスピロピロ。1mは長い)

(よりつづく)

車の運転中に友人は突然の腹痛に襲われました。周りにコンビニや適当なトイレがない状況下で友人が選んだ究極の選択とは。

アメ横のもつ焼き「大統領」での語らいのつづきです。

「お腹の圧迫感を解消しようとガスだけ抜こうとしたんですけど、もう全量出そうな感じでした」

「よくわかります」

友人は運転したまま炸裂することもやむを得ないと考えました。


(決して大統領は来るはずのない「大統領」。惚れ惚れする筆致です)

下痢歴47年の私でさえ選択したことのない厳しく険しい道です。

「洗えば済むと思ったんです」

友人の達観した覚悟に私は感銘を受けました。諦念(ていねん)の境地といってよいでしょう。

「で、どうしたんですか」

「軽トラは荷台が幌で覆われているんです。そして、荷物を入れていた空箱を積んでいることを思い出しました」

「やったんですか」

炎天下の真夏。

車を青梅街道の路肩に止め、圧迫される下腹部を押さえながら、荷台の幌をひらりと捲り上げる友人。

周りに人がいないか一瞥(いちべつ)し、幌を閉じる。

あとはもう空箱にまたがるだけ。

「人に見られたらどうしよう。ただそれだけが気がかりでした」

「さぞ安堵したことでしょう」

私は戦友を思いやるような同志愛が込み上げてきました。

いつしかオープンエアの「大統領」に冷たい夜風が入ってきました。このままでは腸の弱い私が危機的状況に陥ってしまいます。

場所をアメ横の中華料理「揚子江」に移し、友人がもやしラーメン、私は五目ラーメンを注文。

なぜ五目ラーメンに伊達巻きが入っているのか、しばし議論したのちに人生の危機をいかに乗り越えるのかの語らいを終えました。

今年もあと1か月余り。もう少し頑張ってみようと思っただいこんくんなのでした。


(アメ横には気宇壮大な名前の店があって好きです)


(操縦士は腸も強くないと)

アメ横のもつ焼き「大統領」での友人との語らい。人生最大の危機は、突然の下痢という点で意見の一致をみました。

下痢とゲリラは突然にやってきます。相手の出方が読めない中、全身全霊を駆使してその対処に当たる点でも両者は類似しています。

この突然の下痢に見舞われるおそれが多分にあることから、私は次の職業は最初から選択の対象外でした。

単独のパイロット、バスの運転手、ワンマンカーの電車の運転手、宇宙飛行士、議員(街頭演説中の対処ができない)などなど。

宇宙飛行士は複数同乗しているのにとお思いの方がいるかもしれません。操縦におけるオペレーションは問題ないと思うのですが、宇宙空間ではやはり「固体」が基本なのだろうと。

こういった職業の方々はどのように大腸をコントロールしているのでしょうか。秘訣を聞きたいものです。

さて、「大統領」での語らいは佳境に入っていきました。友人の話す迫真の体験談に引き込まれていく私。

「それは炎熱の夏。青梅街道を幌付きの軽トラで走っていたときのことです。急に下腹部が痛み、我慢できない状態になりました」

「コンビニに寄ればよかったのではないですか」

「青梅街道はコンビニが少ない上に、店があったとしてもトイレなしの店があるんです。店員はどうしてるんだって突っ込みたくなるけど...」


(友人へのクリスマスプレゼントとして検討中)

友人は厳しい選択に迫られたというのです。腹腔圧が高まり、ガスだけを排出しようと思ったものの、気泡だけのベントで済むのかどうかの確信が持てないという状況に陥りました。

運転当初は冷房であったエアコンも腹腔圧の上昇を促進するとして暖房に切り替える始末。全身の毛穴から嫌な汗がにじみ出てきます。

路肩に車を止めて、友人はいま置かれている状況をすべてプロットして究極の選択をします。
(へつづく)


(通勤で乗り降りする駅)

トイレットペーパーをめぐる心理的峠」で中東問題のことに触れました。

イスラエルはエルサレムを首都と宣言していながら、日本政府をはじめ現在もなお多くの国は認めていません。国際連合も首都として承認していません。

私はそのことを最近知りました。

ですので、エルサレムには各国の大使館・領事館が一つもありません。日本外務省も在イスラエル日本大使館をテルアビブに置いています。

長い歴史に刻まれたさまざまな出来事、思いが問題を複雑にしています。

だとしても、解決の糸は、「トイレットペーパーをめぐる心理的峠」で触れたようなちょっとした気づかいと腹の据わった政治家同士による決断なのではないかと思うのです。

ところで、私の好きな楽曲の一つにヨハン・ゼバスティアン・バッハの「G線上のアリア (Arie auf G)」があります。「げーせんじょうのありあ」と呼びます。

「アリア」はイタリア語でしょうか。日本語では「詠唱」と訳されるそうです。英語では、「Air on the G String」と表記。

歌を歌うには空気を震わせますから、そんなところから「空気」が「詠唱」を意味するようになったのかもしれません。

元々はバッハの『管弦楽組曲第3番』BWV1068の第2楽章「アリア」。

曲名は、19世紀のヴァイオリニスト、アウグスト・ウィルヘルミによる編曲からきています。ウィルヘルミの編曲後の曲は、4本あるバイオリンの絃のG線だけで演奏することができることが由来です。

バイオリンの絃は、音調の高い方から、E線、A線、D線、G線(えーせん、あーせん、でーせん、げーせん)とドイツ語で呼びます。

「げーせん」と聞くと、てっきり「ゲームセンター」かと思いますよね。

ゲームセンターにアリアさんという人が電子音をぴこぴこ鳴らしながら対戦ゲームに興じている、そんな曲かと勘違いするのは私だけでしょうか。

「G線上のアリア」を聞くと、その静謐の中にも伸びやかで美しい旋律が私を過去に誘(いざな)い、懐かしいまちがまぶたに浮かびます。

Youtubeでおすすめの「G線上のアリア」の動画が二つあります。

一つは塚谷水無子のパイプオルガン。静謐で神秘的な雰囲気が漂います。

もう一つは吹奏楽によるものです。荘厳で包み込むような響きがあります。どちらも大好きです。

というわけで、30歳のときモントリオール大学の学生寮1階フロアのゲームセンターで格闘型対戦ゲームで20歳前後の日本人留学生を打ち負かしていた栄光の日々を思い出す“ゲーセン上”のだいこんくんなのでした。

酔拳(すいけん)が得意だったなぁ...。


(ただいま必死に復習中)

日本経済新聞社のオンライン記事の見出し「トヨタ、燃料電池車『ミライ』を12月発売 723万円」を見て、一瞬「ミイラ」に見えてしまいました。

ミイラをコンセプトにした自動車とはなんだろうと目を疑ってしまいました。

疑うべきは文字通り我が目でした。燃料電池車も眼球も排出される液体は水。水素社会は水がキーワードになりそうです。

ところで、見たいと思っている映画があります。

イギリス・イタリア合作「おみおくりの作法」(監督・脚本・製作 ウベルト・パゾリーニ)です。主人公ジョン・メイは、ロンドン市ケニントン地区の民生係の公務員で、孤独死した人を弔うことが仕事です。

勤続22年、44歳独身。毎日同じ背広を着て出勤し、毎日同じ質素な昼食、夕食。そんな彼が人員削減のため解雇されてしまう。

ちょっと脱線します。

「解雇」という言葉を初めて聞いたとき、その読みから、私は浜辺で採れる貝だと思いました。

私の住む地域では貝のことを単に貝(かい)と呼ばず、「かいこ」と称します。もちろん、生糸の原料を吐き出す蚕(かいこ)のことではありません。

ちなみに、蚕は野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物で、人間が面倒をみないとすぐに死んでしまいます。桑畑に放してやっても自分で生きていけません。

ですから、野生には全く存在しない昆虫です。

昆虫の話が出たついでに。

私はいまも蠅(はえ)のことをハエメと呼んでいます。しばらくの間、それが正式名称であると思っていました。

ハエメの「メ」がいらないということを高校生のとき英語の先生に教えてもらいました。たぶん、flyの訳だったのだと思います。

国内にハエは約3,000種いるそうです。けっこう豊饒な世界を築いているのですね。

このように私の日本語はかなり怪しいので「星々のつぶやき」をお読みの方は、その点、ご留意ください。

さて、話を映画「おみおくりの作法」に戻します。

2015年1月、シネスイッチ銀座ほかロードショー。地元で上映館がなければ東京に行ってみようと思います。期待できそうな予感。

任侠映画を3本くらい見て、肩をいからせて歩くようになったところで、「おみおくりの作法」をじっくりと鑑賞する計画です。


(朝粥の会)

学生時代に感銘を受けた山本周五郎著『樅の木は残った』。江戸時代前期に起きた伊達騒動を描いた作品です。

作中で主人公の原田甲斐が一族や友人を招いての「朝粥の会」を催す場面があります。いまも深く印象に残っています。

その「朝粥の会」にちなんで地元のワシントンホテルで友人と二人で美味しい朝食を共にしながら意見交換をしました。

5千円かけての夜の懇親もいいでしょう。

でも、朝、ホテルで1,200円のビュッフェを味わいながら会話を楽しむのも、また格別の趣があります。

話題に上ったのが、頻繁に会っていない人との“ゆるいつながり”の大切さです。

株式会社コーチ・エィ取締役の粟津恭一郎氏は、コラムでマネジメントの研究者ダニエル・レビン教授の実験を紹介しています。

「『以前は頻繁に会っていたけれど、現在は連絡をとっていない人たち』との関係を『復活』させるとどのようなことが起こるか」という実験を実施。

実験の結果、「休眠状態のつながりからもらったアドバイスの方が、現在進行形のつながりからもらったものよりも価値があった」のだそうです。

「休眠状態のつながりは自分自身の大きな財産」と粟津氏は述べ、「休眠状態だけれど、連絡してみたい人」のリストの作成を勧めています。

というわけで、しばらく休眠状態に入ろうかと思案中のだいこんくんなのでした。


(小学1年生の作品。上手です。市役所ロビーにて)

タイ語学習のCDを聞きながら横になっていました。いつしか寝入ってしまい、自分の大きないびきに驚いて目を覚ましました。「加齢」という二文字を重く受け止める今日この頃です。

ところで、職場のトイレットペーパーは再生紙です。がざがざとした紙に一個ずつ包装されています。

トイレットペーパーの残量と自動車のガソリンの残量って、その受け止め方の感じが似ていませんか。

少ないと心が落ち着きません。清掃の方に交換してもらった、逆三角形に先が折られた、下ろし立てのトイレットペーパーに出逢うとうれしい。

素っ気ないステンレス製のカバーががっくりと落ち込んでいるときは、トイレットペーパーの紙厚が気になります。

1cm厚なら、なんとかいけそうです。完結できます。

そんなとき、ちょうど使い切るかどうかで終わるときがあります。もう少しで剥離して芯が見えそうな終わり方です。からからと5回転ほどすれば芯がむき出しになります。

ここで葛藤が生じます。

紙があるのだから、そのままでいいのではないか。いや、紙を引っ張り出し、芯を取り換え、新しいペーパーに交換してあげるべきだ。

1分もかからない動作であるにもかかわらず、私たちは“面倒くさい”という心のブレーキとの戦いを強いられます。

少なくとも紙が残っているのだから、誰も見ていないのに、次の人のことなど...。

以前にも取り上げた話題ですが、希薄となった再生紙トイレットペーパーの交換の心理的峠(分水嶺)について触れる人が少ないので、再度、問題提起した次第です。

このような心理的峠を乗り越えることができるならば、中東問題やウクライナ問題、東シナ海の領有権をめぐる問題も一歩前進するのではなかろうかと思案するだいこんくんなのでした。


(カメの絵柄が可愛い)

親友のブログで可愛いランチョンマットが写真の背景に登場してきます。可愛いなぁ。ほしいなぁと思っていました。

ネットで検索してACTUS というインテリア店で売られているようだということを突き止めました。

同店の本社に問い合わせたところ、そのカメの絵柄のランチョンマットは「DANICA」というカナダ・バンクーバーのキッチンテキスタイルメーカーの商品であることを教えてくれました。

しかし、残念ながら製造停止とのこと。余計にほしくなっています。最近、市内にACTUS の商品を扱うLibretto with Actus が出店してきたので類似のものがないか見てみたいと思います。

なんというのでしょう。うまく表現できないのですけれど、親友の人柄を表しているような、温かみのある絵柄なのです。


(辛かった。ネパール人が経営するインドカレー店。市内に2店舗あります)

換気扇を回しての浴室の換気は、窓をきちんと閉めておかないと効果がありません。閉め切って減圧することによって引戸のスリットから脱衣場側の空気を呼び込み、浴室に対流を起こすのだそうです。初めて知りました。

ところで、ここだけの話といってこれまで再三お伝えしてきたように私は任侠映画が好きです。

任侠映画では親分や兄貴分がたばこを吸おうとするとき、若い衆がライター差し出して火を点けるシーンが出てきます。

あれってなんなんでしょうね。「たばこに火を点す」あの行為を一般化した言葉が思い浮かびません。

「介助」でもないし、「もてなし」でもない、「服従」でもない。

いうなれば、「気づき」と「忠誠」と「もてなし」が織り交ざったような行為です。

極道の親子分や兄弟分同士で酒を飲むとき、子が親に酌をする、弟が兄に酌をするとともに、反対に親が子に、兄が弟にすることもあります。

でも、たばこに火をつける行為は親が子にというのは見たことがありません。

たばこを取り出すまでは、自らの行為として行い、火を点けようとする寸前に周りの人間(若い衆など)がぬかずくようにさっと点すのが肝要です。

このタイミングを逸すると、「なにぼけっとしてんだぁっ」と叱責が飛びます。あのたばこをくわえようとする瞬間を逃してはいけません。

第三者がたばこに火を点け、そのたばこを誰かに渡したのでは、「介助」あるいは「介護」の世界になってしまいます。

「すまねぇのぉ」という言葉が漏れてきそうです。

ふとそんなことを考えているだいこんくんなのでした。


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