(大好きな暮鳥の詩)

小学生のころ、よく学校を休んでいました。いじめられていたわけでもなく、健康上の問題があったわけでもありません。ただ学校に行きたくなかっただけでした。いまでいう不登校だったのかもしれません。

小学1年の通知票をみると欠席日数「19日」と記載されています。実際はもっと休んでいたはずです。不思議なことに現在の有給消化日数とほぼ一致します。

それで、休んだ日はいったいなにをしていたか。

まず午前8時30分から始まるテレビ朝日系列の「モーニングショー」を母といっしょに見ていました。溝口泰男さんが司会。当時6歳の私にはインパクトのある番組でした。

学校で習うより先に「じょーはつ」という言葉を覚えました。人が失踪することを「蒸発」というのだと勘違い。そういえば、最近は失踪することを「蒸発」といわなくなりましたね。

1974年(昭和49年)の警察白書によると1973年の年間の家出人捜索願の人数は9万447人。「蒸発」といわれる動機原因不明のものが約9,000人あったそうです。

当時、私の地元では子どもたちの間で海辺に行くと蒸発してしまうとうわさになっていました。海沿いに住んでいた私は靄のかかる浜辺を見つめて恐怖を覚えました。

さて、番組では「蒸発」してしまった夫を探し求め、悲痛な叫びで訴える女の人が登場しました。波打ったガラス製の衝立の向こうでハンカチで顔を覆いながら涙ながらに訴えていた姿が印象的でした。

司会の溝口さんの後ろには観客席があり、おばさんたちがやはりハンカチで目頭をぬぐったり、さかんにうなずいたりしていました。

モーニングショーは生放送。朝8時半の生番組に来ていたおばさんたちのパワーはすごいなぁと思います。

頭髪も整え、お化粧もしたうえで、おそらく放送開始1時間前には集合したでしょうから、当日は午前4時ごろに起床したのかもしれません。

昭和な時代は、朝から熱かったなと思うだいこんくんなのでした。

ぜんぜん関係ないですが、「モーニング」というヨーグルト専門店のヨーグルトが大好きです。

人件費節減なのでしょうか、いわき南店が量り売りをやめ、200グラムのパック詰めになってしまったのがちょっと残念です。


(1円で買いました)

どういうからくりなのか。いつも不思議に思っていることがあります。

ネットで書籍を注文する際、通常はセブンネットで探します。でも、少し前に出版されたものは、Amazonで中古がないかどうかを確認します。

というのは、かなり格安で良質な書籍が買えるのです。1円の値段の本もあります。

今回注文した関根眞一著『となりのクレーマー』がそうです。1円です。送料が257円。支払額の合計は258円です。連休中の私の課題図書です。

表紙全体は若干焼けている感じは否めませんが、中古とはいうものの中はとてもきれいです。

いったいいくらで仕入れたのでしょう。どうして1円で商売が成り立つのでしょう。利益はあるのでしょうか。

とにかく不思議です。

未使用の年賀状が翌年の年賀状と交換できないのと同じくらいの不思議さです(官製はがきには交換可)。先日、郵便局で私自身がクレーマーになってしまいました。

ともかく、考えると夜も眠れなくなるのでこの辺にしておきたいと思います。不思議なことは不思議なままで無理に解決しないほうがいいのです。

著者の関根眞一さんの文章は、じつに人間味があります。臨場感たっぷりです。

厳しいこともおっしゃいます。まるで私のことを注意しているかのように感じることもあります。

『となりのクレーマー』はドラマ化されたそうです。テレビをほとんど見ないので知りませんでした。

「星々のつぶやき」もいつかドラマ化されないかなぁとたわいもないことを考えるだいこんくんなのでした。


(0から3を引いた答えがわからず悩んでいるマークかと思いました)

子どものころ、「内山田洋とクール・ファイブ」という名前にちょっと違和感がありました。というのは、メインで歌っていてキャラが前面に出ているのは前川さんなのに、なぜ「内山田洋と...」なのか。

長じて、内田洋行という名の会社があることを知り、内山田洋さんとなにか関係があるのだろうかと思いました。

まったく関係がないことをあとで知りました。

「洋行」とは、中国語で外国と取引をする会社といった意味だそうで、いわば「商社」というような意味合いです。

内田洋行の「洋行」は創業者か誰か、人の名前だと私はずっと思っていました。

内田洋行は中国・大連で創業した経緯からそのような社名にしたのかもしれません。

ちなみに、同社は寺西化学工業と共同で「マジックインキ」を開発したことでも知られています。よく使う「マジック」とはブランド名なのですね。

というわけで、ぜんぜん関係がないのですが、じつに面白い政党名が誕生しました。

なかなかのセンスだと思います。大手広告会社が入れ知恵したのでしょうか。ネットで話題沸騰中です。

私も考えてみました。

「ヒレカツの党とだいこんくんとカマイタチ」

どうにもつまらないものになってしまいました。生活がかかっていて必死になって考え抜いた人には敵いません。

生活していく上では、なによりも必死さが大事である。

そんなことを思う年の暮れのだいこんくんなのでした。


(湯上がりのコーヒー牛乳って美味いですよね)

「改められたらいいなぁ」と思っていることがあります。集合写真を撮影する際のあの「あともう一枚」という習慣です。

あえて“習慣”と私はいいたい。自他ともに認めるのんびり屋の私でさえ、1枚目を撮ったあとの「あともう一枚」に移行する、あの間延びした瞬間が、なんというのでしょう、耐えられません。

今回はめずらしく1枚で終わるのかなと思いきや、やはりというか、撮影者あるいは被撮影者の誰からともなく「あともう一枚」コールがかかります。

ほとんど人が2枚目の撮影に大きな意味がないことを心の底では知っています。

でも、おまじないのように叫んでしまうのです。

1枚目と「あともう一枚」によって撮影された写真にどれほどの違いがあるのか。もうそろそろ検証すべき時期が来ていると思うのです。

おそらく両画像の相違を見つけることは、広報紙などの最終ページにある「間違い探し」より困難なのではないでしょうか。

数秒の間でクシャおじさん(本名:成田幸雄、1920-1993)のように表情を変えられる人は、そういません。

というか、いまやデジタルカメラのご時世です。撮影した瞬間に良否がわかるわけです。2枚撮影して、比較衡量の上、1枚を選択する人がどれほどいるのでしょうか。

批判するだけでは政権与党になれませんので、対案を出したいと思います。

連写モードで撮影すればよいのです。

iPhoneの標準カメラアプリでもカメラボタンを長押しすれば、1秒間に10枚撮影できます。デジカメであれば、もっと撮れるはずです。

「はいチーズ」などというカビの生えたような呪文を唱える必要もありません。連写にすれば、むしろ、2秒間に多彩な表情を写し取れると私は確信します。

日経新聞の記者の方に尋ねたことがあります。「記事を書く際、専属のカメラマンが撮影していますが、ご自分で撮影してはだめなのですか」と。

同記者がいうには、自分でも撮影することはあるそうです。しかし、プロのカメラマンには敵わないというのです。

なにが違うのか。

それは撮影する枚数が圧倒的に違うそうです。プロのこだわりは撮影枚数に現れるのです。

というわけで、「あともう一枚」コール改め「れんしゃ〜」によって、多彩な表情を2秒間で数十枚撮るという習慣に改変したいとたくらむだいこんくんなのでした。


(温暖化の影響でしょうか。スーパーにトナカイがいました)

ライバルが追随できない商品とは何か」との日経ビジネスオンラインの記事を興味深く読みました。ライオンが大きなシェアを誇っていた日本の歯ブラシ市場。

しかし、米ジョンソン・エンド・ジョンソンが「リーチ」というヘッドの小さな歯ブラシで参入し、人気を得ます。

でも、競合のライオンやサンスターはなかなか追随できませんでした。日本のメーカーは、ヘッドの小さな歯ブラシを製造できなかったのです。

それはなぜか。

ライオンやサンスターは歯磨き粉でも儲けていたからです。

米ジョンソン・エンド・ジョンソンはその辺のことも調査して、勝算ありと睨んで日本市場に挑戦したのかもしれません。強大な相手でも勝てないと決めつけてはいけないと思うのです。

私たちは思い出します。

歯磨き粉のCMといえば、なみなみと、というか、にゅるにゅると歯ブラシに歯磨き粉を付けるものばかりでした。

出し切った歯磨き粉の先は、ぴんっとソフトアイスクリームの先のようにハネていました。こんなにたっぷりつけるのだぞといわんばかりでした。

私は子どものころCMのとおりに、歯ブラシの端から端までたっぷりと歯磨き粉を付けていました。

ところで、歯磨き粉といえば、思い出があります。

チューブの歯磨き粉が出なくなり、捨てようとすると、父が「まだあるっ」といって、法隆寺の金剛力士像も顔負けの顔で歯を食いしばり、眉間にしわを寄せ、手を震わせ、うなりながら、歯磨き粉を絞り出すのです。

震える父の手に握られている歯磨き粉を落とさないように受けるのが、また一苦労でした。父のあまりにも真剣な表情と気迫に私は圧倒されました。

そんな父はクリスマスになると山林に入り、大きな樅の木を切って家に飾ってくれました。

当時、我が家は社宅に住んでおり、ほかに土地などもっていませんでした。勝手によその山から伐採してきたのでしょう。

小さな社宅に不釣合いな樅の木に日赤のマークの付いた袋から脱脂綿をちぎって、雪に見立てて飾るのが私の役割でした。

40年以上も前のクリスマスの思い出です。

そんな自分も牛乳パックから最後の一滴がしたたるまで、逆さにしたまま保つよう子どもにきつくいうようになっている今日このごろのだいこんくんなのでした。


(中学校卒業以来の給食。ナンやケーキも。見た目以上に満腹感)

「星々のつぶやき」執筆において品質を維持するために自主規制(だいこんくんコード)を3項目設けています。

1 【諧謔性】 面白いと自分自身が感じ、読者の3割程度の方にも同様に面白みを味わっていただけるものかどうか。

2 【普遍性】 なんとなく普遍性が感じられるか。時事を取り上げる場合は、今後10年程度の賞味期限があるかどうか。

3 【冷温性】 熱くなっていないか。人を教え諭すような論調になっていないかどうか。

だいこんくんコードから抜け落ちたボツネタを検証してみました。

◎ある月刊誌に一流企業の社長の横顔を紹介するコーナーがあり、どの社長もメガネのガラスにくもりがなく、ヒゲもきれいに剃ってある。なぜだろうとしばらく考えてみたものの、それが社長の身だしなみなのだろうと思うところに落ち着いた。(諧謔性の欠如)

◎腰に貼った湿布を剥がすとき、一気にめくる「急速剥がし」とじわじわとゆっくり剥がす「緩速剥がし」とでは、トータルとしての痛みはどちらが大きいか考えてみた。が、どうでもいい問題だと気づき思考を停止した。(普遍性の欠如)


◎洋式トイレタンクの水での手洗いにどの程度の意味があるのか。おそらく冷却以上の意味はなく、手水舎でのお浄めと同じではないか。冷たい水に触れることで人はなんとなくきれいになったと自己暗示をかけているのではないか。トイレネタが好きでつい熱くなります。(冷温性の欠如)

このようにボツネタ畑に累々とつまらないテーマを放置してあります。ひょんなことで再発酵するかもしれないので、天日に晒しておきます。

愛読者の皆様。ご家庭でご不要になりました面白いテーマがありましたら、取りに伺いますのでお知らせください。


(夏井川に渡り鳥がやってきました)

東日本大震災の際、海外から日本赤十字社に寄せられた義援金の額の1位は米国で29億9811万8250円、2位は台湾で29億2894万7417円、3位はタイで20億5930万8051円。

タイでは自分たちの生活が大変な中、工面して義援金を寄せた人も多数いたそうです。そのような人たちの中に山岳民族のカレン族の皆さんもいました。

そのことを知った福島・いわきの中学生たちは、教育環境が十分でないカレン族の村に恩返しとして学校をプレゼントする取組み(ワンコイン・スクールプロジェクト)を始めました。

学校建設の支援団体と協働して市内の中学生1万人が1人500円を寄付しようと生徒会を中心に運動を展開。

単にお金を寄付するのではなく、タイの皆さんも大変な中、努力してくれたのだからと、生徒一人ひとりが勉強や部活などの目標を設定し、それが達成できたら寄付するというようにしました。

このたび、ファイコン村という山中に学校が無事建設され、お礼に生徒2名と引率者2名の4名のタイ人が福島にやってきました。

彼らの住む村はチェンマイの中心部まで車で6時間かかる山岳地帯にあります。首都バンコクを見るのも初めて。

日本に来ていちばんの驚きは、雪だったそうです。福島市飯坂の吹雪に小躍りしていました。

ところで、独自の言語を持つカレン族は学校ではタイ語を第二言語として学ぶのだと引率の先生が教えてくれました。

来日する前、ビデオメッセージで彼らの話すタイ語を聞いたとき私は通訳は無理だと思いました。訛っていて聴き取れないのです。

そのとき、南アフリカ共和国のマンデラ元大統領の追悼式典でオバマ大統領の脇で堂々といい加減な手話通訳をした人のことが脳裏に浮かびました。

私は決意しました。よし、腹を括ろう、と。

約1週間の中で県内の学校訪問や家庭訪問、ラジオ出演、生徒会長サミットでの登壇など、さまざまなプログラムがありました。

(遊びを通して交流も)

旅館で、ホテルで、レストランで、ときには宿題だと称して翌朝まで作文をお願いしたり、練習をしたりするなど、質疑応答や発表のために入念な準備をしました。

ちょっと彼らにはきつかったかもしれません。

日本滞在のメインイベント「いわき生徒会長サミット実践報告会」。地元の中学生がタイの中学生にいくつか質問をしました。

質問「なぜ東日本大震災のときに私たちを支援しようと思ったのですか」

答え「皆さんは私たちの友達です。友達は友達を助けなければなりません」

シンプルでかつしっかりした答えに私は感動しました。

別れ際、将来、ファイコン村を訪問したいと彼らに約束しつつ、険路の6時間でお腹の調子が悪くなったらどうしようかといまから弱気になっているだいこんくんなのでした。


(旧友にいただいた蜜たっぷりのりんご)

イルミネーションが美しい季節になりました。近ごろ、点滅の間隔が短いものが増えてきたように感じます。体内リズムがゆっくりなせいか、1秒間に3回以上点滅するやつは、はっきりいってムカムカします。

ところで、なんだかんだいって老舗のブランドが生き残るのだなぁと最近思っています。一時は勢いのよさや珍しさに新商品になびく私たちではあります。

でも、「新○○」というように「新」を多用しすぎると、なにが新しいのかわけがわからなくなってしまいます。

「民主主義」と国名に入れている国ほど、じつはさほど民主的でないのと同じように(たぶん遠大な目標として掲げているのでしょう)、「新」を使うとかえって陳腐さが目についてしまいます。

したがって、結局のところ、消去法という積極的ではない選択にせよ、私たちは定番に回帰するのです。

定番、つまり老舗ブランドには、わくわくするような期待感はありません。奇抜さもありません。

しかし、新商品にはない安定感と安心感があります。世の中の先行きが不透明であればあるほど、私たちは心に安寧を求めるのだと思います。

というわけで、サンヨー食品「サッポロ一番塩ラーメン」(1971年9月〜)です。


(やっぱり袋麺がいい)

堂々の安定感です。安心感があります。パッケージを見ただけで、即座にあのにおいと味覚が鼻腔と味蕾(みらい)によみがえります。

私は片手鍋に生卵を落としてポーチドエッグ風にします。

サッポロ一番塩ラーメンは、どんぶりの底に残った残滓(ざんし)を吸うのがいちばんの楽しみです。生きている幸せを感じる、とびきりの瞬間といっても過言ではありません。

麺の切れ端、濃厚なスープ、白すりごま(いちばんのポイントです)、乾燥ネギ、ポーチドエッグの残骸、胡椒が、どんぶりの底で混然一体となっています。

どんぶりを45度の仰角に上げ一気に口に注ぎ込みます。

すり切れなかった白ごまを奥歯で噛みしめながら、麺の切れ端の混ざったホタテ味のスープを舌の上で転がしつつ、飲み込む。残滓にこそエッセンスがあるのではないか。

今日も生きていてよかったと思うだいこんくんなのでした。


(あまりの寒さに甲にカイロを縛り付けました)

私たちは不快を避け、快を求める動物といってよいでしょう。現在ある不快を回避するために、つまり、“今すぐの快”を求めるために、代償を未来に先送りすることがあります。

こういうのを無責任、浅慮、あるいは、脳天気と称します。

○○対策とか、○○特別措置とかいったものは、要するに、未来に代償を先送りしますよ、いいですねという呪文です。

なんとなく、私たちは、その呪文に乗っかり、容認し、いつの間にか共犯者になっています。

でも、「いつまでもあると思うな親と金」です。そろそろ先送りはやめないといけないのではないでしょうか。

露天風呂に浸かるニホンザルを見ていると、いつまでも湯から上がらない(上がれない)サルがいます。湯冷めのつらさを避けているのです。

誰もタオルで拭いてくれない。誰もドライヤーで乾かしてくれません。

寒空の下で濡れた毛が乾くのを待つのはさぞ切ないことでしょう。

でも、いずれはそれを乗り越えなければならないのです。

ところで、スウェーデン政府は、「未来に負担を残さない」という考えを国家の基本政策に据えているそうです。素敵だなと思います。

未来にほんとうに自分たちのDNAを残したいのなら、不快の代償を未来に先送りするのをやめて、不快を受け入れる矜持を持ちたい。

それが人間にとっての「真の種族保存本能」だと私は考えます。

むすびに、「快を求めることと種族保存本能」との題名から、いつになく期待値を高めた方がいらっしゃったとすれば、遺憾に思います。

だいこんくんが深くお詫び申し上げます。

今後、ご期待に添えられるよう一層精進してまいります。

ちなみに、私は足裏マッサージの好きな「リフレ派」です。

※リフレクソロジー(英: reflexology)とは、反射療法とも呼ばれ、主に足の裏(手の平などを含む場合もある)の特定部位を押せば体の特定部位に変化が起こる現象を活用し、疲労の改善などをはかる療法である。

語源は、reflex(反射)と-ology(学や論の意味を表す名詞を作る接尾辞)を合わせた造語であるとの説が有力。「リフレ」と短縮して呼ばれることもある。(出典 Wikipedia)


(栄枯盛衰の中で生き残るのはやっぱり老舗ブランドなのか)

カレーライスが好きでよく食べます。ひとつ思うことがあります。それは、福神漬けが、果たしてカレーライスに最も適した添え物なのかどうかということです。

添える方も食べる方も、共に疑わず受け入れています。これまでそうしてきたから、そうする、というのは、惰性であり、怠惰です。

常識を疑う、そのような中からしか、革命は生まれません。

もうそろそろ英知を集めて本気で検証する必要があると私は思っています。

ところで、小学校の体育館で仕事をしました。正面玄関と東側の戸が開け放たれ中で朝6時半から夕方6時までパイプ椅子に座りっぱなし。

沿岸部の観測所で零下2度まで下がりました。体育館の所在地は山沿いですので零下5度程度だったと思います。

広い体育館の中で暖房は、古典的な石油ストーブ2つ、ファンヒーター1つ、電気ストーブ1つでした。玄関からつねに風が入ってきますのでほとんど意味がありません。

体育館ってなんて寒いのでしょう。蓄冷効果抜群です。なにか利活用できそうです。

「焼け石に水」の反対の言葉を知らないのですけど、いわば「氷河にライター」といったとこでしょうか。

寒い中、感じたこと、考え方ことを備忘録として書きとどめておきます。

・体温が下がり代謝が低下すると、意識が散漫となり眠くなる。

・温かいものや温かいことばかり夢想するようになる。露天風呂やラーメン、鍋焼きうどん、南の島等々。

・新田次郎著『八甲田山死の彷徨』を再読したくなる。同作品は八甲田雪中行軍遭難事件を題材にしたフィクションです。遭難して凍死していく隊員が発狂する場面が印象的。

・頭部からの放熱が意外に大きい。

・演歌はやっぱり寒いところを題材にするのがいい。「さざかんの宿」はあっても「ブーゲンビリアの宿」はないよなぁと思った。

・ホッカイロの発熱具合が発売当初のようにあまり熱くならない。

というわけで、人間、長時間寒いところいるとおかしなことを考えるということがよくわかっただいこんくんなのでした。


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