(桜の蕾が膨らんできました。春はもうそこまで)

「地域行政論」の全講義が終了しました。学生にとってはきつかったであろう土曜午前9時の授業。半年間よく通ってくれました。感謝です。

講義は、まず新聞の切抜きの読み合わせから。今朝は朝日新聞の記事です。

本年4月から始動する年金抑制策の「マクロ経済スライド制」について。

物価が上がっても、今後30年ほどは年金額は抑えられ、目減りしていきます。物価が上がると年金も増える「物価スライド制」はもう遠い過去。

2014年度の物価上昇率は2.7%、賃金上昇率は2.3%。でも、マクロ経済スライド制により年金額は0.9%の増。

文句をいったところで、2004年度に決定した政策です。どんどん目減りしていきます。

ここで痛恨の一句。

寒風に目減り激しく髪と金

寒ざむとした筆者の境地が伝わってきます。

次に、震災復興の取組と自分自身が感じたことを述べました。

いざというときのためのシステムは、いざというときに機能しない。

非常事態とは、質の変化であるとともに、量の変化が起きることでもある。つまり、だれもが被災者となってしまう。

いわゆる要支援者(災害弱者)だけが大変な状況に陥るのではない。

そんなことをお話しました。


(久しぶりの「中華はまや」のラーメン)

大学での講義を早めに終え、津波被災地域に整備された仮設店舗「復興商店 とよ マルシェ」に学生を連れて移動。

25年前、生命保険の営業職にあったとき、中華はまやがお客様であったこと、津波で店舗が流されてしまったことなどを学生に話しました。

仕上げに隣接のお店で濃厚なソフトクリームを食べ、大満足。

学生一人、講師一人の濃厚な講義が一切終了。彼の心になにかしら残っていれば望外の喜びです。


(「マリブのさざ波」のあと発売された「霧の浮船」。中学生のとき続けざまに感動)

「優れた人とは、優れた問いを設定できる人」。市区町村職員人材育成プログラム「東京財団週末学校」で学んだことの一つです。「問いを投げかける」ことが、なぜ大切なのか、最初、理解できませんでした。

解決策を示す人こそ優れた人だと思っていたからです。

「小さい頃、嬉しかった思い出は何ですか?」

このように質問されると、幼少時のことを振り返り、嬉しかったことを思い出します。

弁護士の谷原誠氏は、問いかけられると、私たちは「まるで強制されるように思考し、答えてしまう」と述べています。質問というのは、人を動かす力があるのです。

約30年前、タイ・バンコクの学生寮に住んでいたときのこと。寮から街に出ようとすると、ロビーや庭にいる学生、守衛さんなどが「パイナイ?(どこに行くのか)」と尋ねてきました。

最初、私はまじめに行く先を答えていました。そのうち、「パイナイ?」はタイの人にとってあいさつ代わりだとわかり、適当に答えるようになりました。

人は質問されると、つい答えなければと思ってしまうものです。

「たとえば数学で超難解と言われた『フェルマーの定理』が先年証明された。この定理を解いた人は確かにすごいが、100年以上も人々を楽しませてきたフェルマーはもっとすごいと私は思う」(齋藤孝 明治大学教授)。


(参考図書です)

ビジョンが浸透している会社は、「上司は、自分の考えを伝えるだけでなく、部下の考えも尋ねている」組織なのだそうです(桜井一紀氏「ビジョンは、ビジョンを語る人に浸透する」Coach's VIEW)。

しかも、いい問いを共有することが大切だという。

「顧客に喜んでもらうために、何ができるだろうか?」という問いを共有している組織と「顧客からのクレームがないようにするために、何ができるだろうか?」という問いを共有している組織ではおのずと行動と結果が変わってきます。(長田祐典氏「対話の場をどう使うか」Coach's VIEW

つい、ああせよ、こうせよと指示しがちな私。いつかは“優れた問い”を設定できるようになりたいものだと思うだいこんくんなのでした。

なお、以下は、愚問の一例です。

「なぜできないんだ」
「いつになったらできるんだ」
「やる気があるのか」


(職場の隣にある美術館。近くて遠いです)

「心を鬼にしてほめなさい」。高校3年生のとき地元の市民会館で外山滋比古さんの講演会があり、後輩を誘って参加。当時はお茶の水女子大学の教授だったかと思います。

ある方のSNSへの投稿に外山さんのことが載っていて、当時のことを懐かしく思い出しました。

90歳を超えたいまもなお現役で英文学者、言語学者、エッセイストとして活躍。私が中学・高校のころ、国語の教科書の執筆陣に必ずといっていいほど外山さんのお名前がありました。

講演の内容は、ほとんど忘れてしまいました。とにかく面白く、大笑いしたことだけは記憶に残っています。大学教授というイメージからは想像つかない先生でした。

「みなさん、子どもはほめなければ成長しません。ほめることが大事です。たとえ、我が子にほめるところがなくても、心を鬼にしてほめなさい」

“心を鬼にしてほめる”という軽妙な表現に場内は爆笑。ただ、その本当の意味が自分自身わかるようになったのは最近のことです。

「ほめるところがなくても、心を鬼にしてほめる」−−− 言うは易く、行うは難し。文字通り難行です。大笑いしている場合ではありません。

ところで、ほめられた思い出というものは、いつまでも心に残るものですね。

小学4年生とき図画工作の授業で描いた絵を担任の鈴木先生にほめられ、とてもうれしかったことを覚えています。

季節は中秋のころ。先生が大きな花瓶に萩やすすき、栗の枝などを飾り、それをクラス全員で写生しました。

桃色の萩の花の一つひとつを丁寧に描いたのがよかったようです。廊下に貼りだされ、金賞をもらいました。

絵に付けられた金色のリボンは、大きな励みになりました。

現在の家に引っ越すまでその絵を保管していたのに散逸してしまいました。物置のどこかに眠っているのかもしれません。

数年前、鈴木先生にほめていただいた絵のことや近況を認(したた)め、お手紙をお送りしました。有難くもご返事をいただきました。

というわけで、絵画の才能は、開花することなく退縮し、五十路の旅に片足を入れ始めました。

さまよえる羊男の羅針盤として、いまふたたび外山先生の著作に触れようかなと思うだいこんくんなのでした。


(ブルボンのビスケット、美味しいです)

2014年度の社会保障給付費115.2兆円(約半分の56兆円が年金)のうち、財源として保険料で賄っているのは64.1兆円(55.6%)だそうです。残りは税金と借金、資産収入。

大丈夫なのか日本、と思ってしまいます。

5年ほど前に厚生労働省の年金の担当係長の講演を聞く機会がありました。

質疑応答でのこと。「保険料未納者が増えているが、年金財政は大丈夫なのか」との質問に、「未納の人は、その分、年金がもらえないので(年金財政は)大丈夫です」と。

保険料を納めなければ、年金はもらえない。だから、未納の人が増えても年金財政には影響しない。なるほど、と私は思わず膝を打ちました。スマートなシステムです。

前職時代、私は生命保険の営業の仕事をしていました。25年前のことです。研修で保険商品について学んだとき、年金が「保険」であることを初めて知りました。

保険とは、「万が一」の際にお金がもらえるサービスです。「万が一」には、じつは、2種類の意味があります。

万が一亡くなった場合と万が一生きてしまった場合です。年金は、万が一生きてしまった場合の保険、つまり「生存保険」なのです。

サザエさんの連載が始まったころ(1946年)の平均寿命は約50歳です。

「磯野波平」は、定年前の54歳で設定されています。じつは、郷ひろみ(59歳)や安倍晋三(60歳)よりも年下なのです。

波平さんのそよぐ髪の毛を見ながら思うに、年金とは、まさに万が一長生きしてしまった場合に備える「年金保険」として制度設計されたのだと気づきます。

「保険」とは、万が一になっていない人が万が一になってしまった人を支える相互扶助の仕組みです。収入(保険料)と支出(保険金)は均衡するはずなのです。

保険会社には「株式会社」ではなく「相互会社」の形態をとっている会社があります。日本生命の正式社名は、「日本生命保険相互会社」です。

支え合うのが「保険」なんですね。

ただ、年金については、長く生存することが「万が一」ではなくなっている現在、保険制度で運用することがいいことなのかどうか。悩ましいところです。

支える人が少ないのに、もらう人が大勢いるなんて、いつかおかしなことになりそうです。


(粉工房 まるた小屋)

SNSなどで素敵なカフェや気になるお店を見つけたとき、私はiPhoneのアプリ「リマインダー」に店の名前と位置情報を入れておきます。設定で「指定場所で通知」をオンに。

すると、なにかの折にお店のある地域に近づくとそのお店の存在を知らせてくれるのです。忘れっぽい私にぴったり。

ところで、このごろテレビでニュースを見ていると、特撮テレビドラマ「超人バロム・1」の「ドルゲ」を思い出すので、見ないようにしています。

ニュースによってドルゲをリマインド(思い出させる)してしまうのです。

「ルロロロロロロ、ドールゲー」という不気味な声とともに登場する「ドルゲ」。

善を憎み、愛を嘲る、地底に降り立った悪の化身。とっても怖かったのを覚えています。

特にドルゲの戦闘員の「アントマン(蟻人間という意味でしょうか)」が苦手でした。白黒ツートンカラーの全身タイツ姿。

黒地に白色の渦巻きがあり、目も鼻も口もありません。地中から不気味な笑い声を上げながら出てきます。

あの渦巻きが私には指紋のように感じ、深く印象に残っています。はっきりいってトラウマになっています。

仮面ライダーのショッカーよりも私は恐怖を感じました。

でも、いまやフィクションではなく、現実世界で似たようないでたちでテレビに登場しているのがこわいです。

いったいなにが彼らをそうさせているのか。脊髄反射ではなく、大脳を使って深掘りして考える必要があると感じています。

友達に教えてもらった「粉工房まるた小屋」をリマインダーに入力しながら、そんなことを考えました。

昭和な感じのお好み焼き屋さんだそうです。またなにかリマインドしてくれそうな予感がします。


(葉牡丹はケールの味に似ている)

葉牡丹(ハボタン)という植物がどうも好きになれません。アブラナ科の多年草でキャベツに似ています。野菜なのか、園芸植物なのか、その曖昧な風貌(ふうぼう)が嫌いです。

葉牡丹は食べることができる。

「毒性はない」という意味なのでしょう。花屋さんの友人に教えてもらったので、物は試しと、食べてみました(採取地は特定秘密情報扱い)。

友人は花芽をおひたしにして食べることを勧めてくれたのですが、いったいなにが花芽なのか、わからないため、とりあえず中心部の葉をちぎってみました。

生まれて初めての生葉牡丹。

歯応えは、キャベツよりちょっと柔らか。味は青汁そのものです。まさにケールの味。美味しくありません。

葉牡丹は江戸中期には園芸用として栽培されていたそうで、意外に歴史があるのです。

青汁といえば、思い出があります。

子どものころ、冷蔵庫に冷凍状態の青汁パックが置いてありました。自然解凍して飲むのですが、これがまたまずい。「良薬口に苦し」を地で行くまずさです。

また、一時期、両親とも豆乳に凝っていたことがありました。

小学校の帰り道、豆腐屋さんに寄り、絞ったばかりの熱々の豆乳を瓶に入れてもらい、持ち帰っていたことがありました。

まだ豆乳がスーパーなどで市販される前の話です。

豆乳は熱いままでは不味く、冷蔵庫で冷やしてから飲むのですが、それでも私は美味しいとは感じませんでした。

父も母も食べ物にはとても気を使っていました。いつもなにか健康食品を購入していたような気がします。

キチンキトサンという蟹の殻から抽出した健康食品、プロポリスという蜜蜂が樹液などから集めてきた液体(高価です)なども摂取していました。

お茶は「百年茶」という番茶を常備。

お腹の弱い私は小学生のときこの百年茶を水筒に持たせられました。結果、学校で「ばんちゃ」というあだ名を付けられたことは「番茶というあだ名」で報告済みです。

玄米も食べさせられました。よく噛む必要があるため、白米のようにたくさん食べられないこと、便通がよくなることを知りました。

というわけで、両親とも50代で他界。人間の寿命というものは、食べ物に気をつけていてもいかんともしがたく、なにか大きな定めによって決められるのではないか。

大好きなかっぱえびせんを食べながら、そんなことを考えるだいこんくんなのでした。


(祖父の一族は国鉄一家だったという)

人間ドックの際、病歴などを書き込むノートのような問診票が渡されます。両親きょうだいに加え、祖父母の健康状態・死因を記載する欄まであり、これまで適当に書いていました。

ふと、母の父、つまり祖父が何歳でいつ亡くなったのか、わからないことにいまさらながら気づきました。

祖父は、硫黄島で戦死した。そう母に聞かされていました。

硫黄島の戦いは、昭和20年2月19日から同年3月26日に行われた太平洋戦争末期の日米両軍が激突した凄惨な戦いです。

日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名。(出典 ウィキペディア)

さて、祖父はいつ亡くなったのか、何歳だったのか。

それを知る母も20年以上前に亡くなっています。祖父の妻(祖母)も同じように20年近く前に他界。母の兄もすでに鬼籍入り。

手がかりは戸籍です。まず、私の亡父が筆頭者となっている両親の除籍謄本を取りました。その後、いくつか謄本を取り、祖父の戦死した日付まではたどり着きました。

「昭和20年3月17日 戦死」

硫黄島の戦い(昭和20年2月19日〜同年3月26日)の日付と符合します。

戸籍は、戦死については「戦死」と記載することを初めて知りました。私の母が4歳になってすぐの出来事だったということです。ということは、母の母(祖母)が30歳。

胸が痛みます。「父親の面影が思い浮かばない」と母が生前語っていたことを思い出します。

いつ戦死したのかはわかりましたが、祖父が何歳で戦死したのか、つまり、生年月日がわかりません。

祖父の父が昭和25年に他市から転籍したため、それ以前に死亡していた祖父は転籍前の戸籍に出生が記載されているようです。

戸籍を見ていると不思議な気持ちになります。

自分の親に親がおり、その親に親がいる。さらに、その親に親が...。当たり前のことですけど、連綿と続くいのちのつながりに畏敬の念を禁じ得ません。

祖父の転籍前の戸籍のある市役所に行くには車で2時間弱。春になったら行く予定です。祖父が没して70年となる3月17日の前に。

そして、いつか硫黄島にも行ってみたいと思っています。

先の大戦から70年経ったいまも地上に戦火が絶えないことを憂います。


(はがきっていいですね)

いただいたお年玉付き年賀状、約200枚。当選の期待を膨らませながら番号を確認しました。1等、2等は当たらず。3等(切手シート)が2枚でした。

3等の当選確率は100枚に2枚ですので、その半分の確率でした。残念。

宝くじとか懸賞などといったものとまず縁がありません。当たらないものですね。食あたりはよくあるのですけど...。

唯一記憶があるのが、小学校3年生のころに当たったプリマハムの懸賞品「でかでか地球ボール」。

当時、家に届いたとき、とてもうれしかったのを覚えています。

どんなボールか。直径1メートルの地球模様のビーチボールで、大雑把な大陸図が描かれていました。

映画「独裁者」の中で独裁者扮するチャプリンが風船状の地球儀とたわむれるシーンがあります。まさにあのような感じで遊びました。

「でかでか地球ボール」には、いい加減な大陸図に加え、不思議なことにツチノコやネッシーなどの未確認生物(UMA)が描かれていました。

怪しげな世界に惹かれていた私は興奮しました。

私は本気でツチノコの存在を信じ、見つけたいと思っていました。ツチノコ関係のテレビ番組があれば必ず見ましたし、本も読みました。

それにしても、なぜプリマハムはあのような懸賞品を作ったのでしょう。いまとなっては謎です。

同社の沿革を見ると、1965年に社名を「竹岸畜産工業株式会社」から現在の「プリマハム株式会社」に変更しています。

ということは、小学校3年は1975年ですので、プリマハムになって10周年だったということです。その記念キャンペーンだったのかもしれません。

というわけで、プリマハムにお世話になったにもかかわらず、私は日本ハム派です。

理由は、日本ハムは、合成保存料のソルビン酸を使用していないこと、シャウエッセンの“ぱきぱき感”が好きだからです。

ベーコンはハムの一種だと思い、最近までふつうに生で食べていただいこんくんなのでした。


(海鮮四季工房 きむらやの一品)

子どものころ、不思議に思ったことの一つ。スーパーの試食コーナーで食べて美味しいと思い、母に買ってもらいました。ところが、家で食べてみると、試食の際に感じた美味しさが再現されないのです。

これはいったいどうしたことか。当時、私にとってかなりの不思議というか、謎でした。家で食べると感激がないのです。

もしかすると試食用は特別に美味しいもので、売られている商品は別物なのではないか。そう思ったりもしました。

内側は銀色、外側はエンジ色の小さな長方形の容器に盛られた試食品。楊枝やプラスチックのフォークが添えられていました。


(この器に入れると美味しくなる?)

長じて、塩気や酸味のある少量の食べ物は、食欲を促進する働きがあることを知りました。あの「少量」にこそカギがあったのです。

フルコース料理の前菜(オードブル)も少量です。

ちなみに、オードブルとは、「食事に入る前に、食前酒と共に出される食欲を促進させるための軽い食べ物。オードブルのオーは外、ウーブルは料理という意味で、献立にない料理、番外料理を指す」。(出典 日本ホテルスクール公式サイト

ですので、エビフライがのけぞっている、まるでメイン料理のようなオードブルは本来ありえないのです。

こう考えると、会席料理の美味しさは、少量多種にあるのだと思います。珍味というものも、希少だから価値があります。

私は思うのです。
催事出店でスーパーの入口でたらいに山海の珍味をてんこ盛り(見事な円すい形になっていることも)で売っていることがありますが、購買意欲をそぐのでやめたらいい、と。

空気中のウイルスや細菌も吸着しているんじゃないかと、いらぬ心配をしてしまいます。

加えて、嗅覚が敏感な私は、たらい群の前を通過するとき一瞬めまいがします。

少量といえば、「ゴルゴ13」の第199話「死闘ダイヤカットダイヤ」。

ダイヤモンドはじつは大量に埋蔵されているという話です。採掘される過ぎると価格が維持できなくなるため、海中にダイヤモンドを投棄する場面が出てきます。

というわけで、沖縄料理の珍味「豆腐よう」を楊枝ですくいながら、泡盛を飲みたくなりました。

※豆腐よう:島豆腐を米麹、紅麹、泡盛によって発酵・熟成させた発酵食品である。交易国家として栄えていた琉球王朝時代に明から伝えられた「腐乳」が元になったと言われている。コウジカビ発酵の効果で酒とエダムチーズを合わせたような味わいが特徴。(出典 ウィキペディア)


(赤地に白抜きの「使用中」の文字。不安感いっぱいになります)

上部内視鏡、通称胃カメラは、何度やっても切ないものです。日本で人間ドックが始まったのは1954年7月12日。7月12日は「人間ドックの日」なんだそうです。

初め「短期入院精密身体検査」と呼ばれていました。新聞記事で「人間ドック」とネーミングされたことがきっかけで現在の呼称になったという。もちろん和製英語。

ドックは、船を修理・点検する「ドック(dock)」に由来。濁音の「人間ドッグ」は「人間犬」という別な意味になります。

さて、胃カメラです。中待合室で米の研ぎ汁のようなものを100ccほど飲まされました。美味しくありません。

「一気に飲むんですか」

「いえ、ゆっくり飲んでください」

動揺して訳のわからないことを尋ねてしまいました。手のひらが蒼白です。

ドックの日は、胃カメラのことで頭がいっぱいになります。うまくいくだろうか、上手な先生だろうか。

先にやった聴力検査で「はい、次は左側を検査しますよ」といわれ、確認ボタンも左手に持ち替え、思わず苦笑。胃カメラのことで冷静さを失っています。

胃カメラの時間が近づくにつれ、緊張が高まっているのがわかります。

研ぎ汁を飲んだあと、看護師さんがスプレーで麻酔液を舌の奥に噴霧。

ふつうならここで少し待機時間があるはずなのに、すぐさま検査台(ベッド)に横になるよう指示。

これじゃ、麻酔が十分に効かないうちに黒大蛇が入ってきてしまう。そう思っていたら、先生からトドメの別な麻酔スプレーが。

「苦いですけど、ゴクって飲み込んでくださいね」

苦い。一気に舌の感覚が麻痺。「呼吸できなくなるのでは」との不安がよぎります。

横たわりながら、検査装置を見上げると黒大蛇が昇り龍のように天井に向かって屹立しています。

LEDの光が先端から点滅しています。心臓の鼓動のような規則的な音が装置から漏れてきます。私は病院の検査機器の発する音が嫌いです。

胃カメラがマウスピースから咽喉へ、そして食道へと侵入してきます。ここがつらいポイントです。

15年前、気管支鏡を飲んだではないか。それに比べれば胃カメラなど。そう自分を鼓舞するものの苦しいものは苦しい。

肩に力を入れるなといわれても、ガチガチに硬直。ウミガメの産卵時のように涙が出てきます。

しばらくしてカメラが幽門部付近をまさぐっていることを感じます。冷やっとした液体が満たされます。いったいなんの液なんでしょう。

親友がブログで書いていました。経鼻(けいび)内視鏡でも、しんどかったと。胃カメラはいずれにしても軽微では済まされないのです。

終盤にかかり、呼吸を止めるようドクターから指示。からだの硬直が進行し、足指が招き猫状態です。歯型が付くほどマウスピースを噛み締めています。

木こりは登った木から降りるとき、地上にもう一歩というときにいちばん注意を払うという。まさにそれです。

ふと、胃カメラが抜き取られる瞬間、40年前のことがフラッシュバックしました。

子どものころ、鮫川でハゼを釣り上げたときのことです。ハゼが釣針を奥まで飲み込んでしまい、取り除くのに難儀しました。

針が取れたときハゼはぐったりしていました。

というわけで、本年のドックが終わりました。ウミガメやハゼにシンパシーを感じる人間ドックでした。


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