(苦しくも楽しかったシンクタンク時代。かつてのオフィスを見上げながら)

出張です。JR磐越東線での移動。乗客はまばら。4人掛けボックスの窓側にひとりで座りました。神俣駅で70代後半のご婦人が乗り、対角線ではなく、私の真向かいに掛けました。

列車に乗るとき私は進行方向に背を向けて腰掛けます。

衝突や脱線の際、このほうが背中が支えとなり、安全そうだからです。反射神経が鈍いので、進行方向に向いていると飛んでいきそうです。

さて、ご婦人です。長いすではなくボックスが好きなのでしょうか。4人掛けボックスで窓側に2人が向かい合うのはけっこう窮屈です。膝と膝が時折さわっと触れます。

くすんだデニムのズボン。灰色のニットのセーター。黄土色の革のバッグを抱え、もう一つ、サンドバッグを小さくしたような黒のバッグを縦に置いています。靴も黒。

私は不思議に思いました。こんなに近接しているにもかかわらず、心臓をドキドキさせるノルアドレナリンが分泌されないのです。心拍数も平常。

やはり年齢のなせる技なのか。私の母は生きていれば、昨日74歳を迎えました。母と同じような年齢では無理からぬことか。

あるいは、着ている服の色のせいなのか。ベネトンの虹色の服だったらどうだろう。

やはり年齢なのだ。そう結論に至りました。

対象年齢を徐々に下げて、検証していきます。65歳ならどうか。60歳では。55歳...。1歳刻みで下げていきます。

自分の年齢の数歳上で針が反応しました。

吉永小百合(69歳)だったらどうか。これはじかにお会いしてみないとわかりませんとしかいえないですね。

上限はわかりました。では、下限はどうか。シミュレーションはしました。が、青少年健全育成の観点から公表は控えます。

大学1年のとき4年生の先輩が大人に見えました。女子の先輩は姉のように感じたものです。

それでいま、大学4年の女子はどう見えるか。とても子どもっぽく見えるのです。

私は、はたと膝を打ちました。

中学生のときあれほど読んでわからなかった「ブルーバックス」(講談社)の相対性理論シリーズが、いま、雲が晴れたようにわかったのです。そういうことだったのか。

ノルアドレナリンの分泌は、自分の年齢と相手の年齢の差、つまり、相対性によって説明できるということです。

ですから、30年後の私であれば、今日同席したご婦人とふたたび膝が触れれば、ノルアドレナリン(枯れていなければですが)、分泌される可能性があるのです。

舌を出したアインシュタインが微笑んでいるように感じました。

次は、量子力学を読み解こうと意気込んでいるだいこんくんなのでした。


(聴く技術って難しいですよね)

「処方せん薬局」。処方してくれない薬局に見えます。目がおかしいのでしょうか。老眼の進行ですね。

ところで、「大きい」と「大きくなった」の違いを考えています。すんごくつまらないです。頭の整理体操のために綴ります。

「大きい」は、国語でいうところの形容詞です。問題を次のように設定します。

形容される対象は、中学1年生の女子生徒。形容する人は、その女子生徒を知っている人。

Aさん:大きいね。

Bさん:大きくなったね。

どのような相違を感じるでしょうか。

「大きい」という言葉は、比較対象となるものが複数なければ成り立たない言葉です。

では、「大きいね」と「大きくなったね」では、どのような比較対象が想定されるのか。

Aさんがいう「大きいね」は、中学生の複数の女子生徒が対象として想定されています。その中で比較した結果、「大きい」という形容をしているのです。

「大きい」という形容詞は、形容した人が主体であり、形容された人が客体になります。

あくまでも形容した人の心に起きた「うわっ、大きい」という驚きに似た感情の表出です。しかも、他人と比較考量された結果です。

一方、Bさんがいう「大きくなったね」という形容詞の連用形は、なにを比較しているのでしょうか。

それは、ときの流れです。対象は、たった一人のその女子中学生の成長です。

主体は、その中学生。逆に客体は形容する自分です。

「いつの間にか、こんなにも大きくなったんですね」と健やかな成長への喜びの表現といえるでしょう。当の本人に対してはもちろん、親へのまなざしも感じます。

そして、自分自身がまぎれもなく歳を重ねていることを実感させられるのです。

と、こんなことをセブンの「カリカリ梅入り海苔佃煮おにぎり」を食べながら考えてみました。

そうそう。ついでに、言葉の使い方で納得がいかないことを付記します。

「静かな」と「小さな」です。昔から疑問に思っています。

「静かな池」と「小さな池」はいいでしょう。
「その池は静かだ」は表現できて、「その池は小さだ」はいえない。

国語の先生は品詞が違うといいます。いまだに納得がいきません。


(知ってます。が、突然の下痢もこわい)

腸弱シリーズ。「デンタルフロス」のつづき。少し長いです。

2006年10月30日。午前8時10分、地域団体の視察研修の添乗で福島県西郷村(にしごうむら)に向けてマイクロバスで出発。トイレのないマイクロバス。

出発前からいやな予感がしました。

「またこの話題ね」と思われた方はここで引き返してください。まだ間に合います。

「さわやか高原公園都市」を掲げる西郷村は、調査研究機関に在籍していたとき、総合振興計画の策定などまちづくりにかかわらせていただいた自治体です。

人口約2万。村内に新幹線の駅と高速道路のインターがある交通の要衝の地。そして、那須町に隣接し、村内に日光国立公園がある風光明媚な村です。

さて、午前10時15分、アクティブセンター西郷に到着。高原の冷気を感じます。地域団体の代表からお話を聴講。

ちなみに、敷地内に温泉健康センター「ちゃぽランド西郷」があり、雄大な那須連峰を眺めながら温泉に浸かることができます。

近くの新甲子(しんかし)温泉「五峰荘」に移動。阿武隈川の源流を望める宿です。村の観光振興計画を策定した際、社長さんにお世話になりました。

午前11時45分、宴会場に案内され、予算の数倍はあると思われる豪勢な料理に驚嘆。社長さんの真心が沁みわたりました。

食事中から下腹部がごろごろと鳴り始めました。高原の風でお腹が冷えたようです。でも、次の休憩場所まで持つだろうと思いました。

帰路、バスの中で猛烈な痛みと腹圧に見舞われました。油断です。急襲です。

休憩兼買物場所である「JAしらかわ農産物直売所 り菜あん報徳店」まであと数キロ。

国道289号線のうねる道をうらめしく思いながら、ひたすら耐えます。握りこぶしに力が入ります。

到着までの数分がとても長く感じられました。直売所裏手に離れのトイレがあることを私は知っていました。

でも、お世話係であり、まずは、みなさんを店に案内しなければなりません。

この直売所は「ポテトまんじゅう」が有名で、ここでしか買えない等々。

少ししてからトイレに向かいました。これで危機を脱せる。

と、思いきや、2つのボックスともに紙がないのです。「あ」に濁点を付けた叫びを心の中で上げました。

これぞ危機。管理などまったくできない危機です。集合時間になり、やむなくバスに乗車。態勢の立て直しを図ります。

「村役場に用事があるので回ってください」

運転手さんに虚偽のお願いをしました。役場まで約7キロ。道もお腹も下り坂。持つだろうか。

役場の知人に遭わずに最短距離でトイレに行けるルートを考え、到着と同時に私一人が降車。非常口にダッシュ。

木製のトイレ下駄がじつにまどろっこしい。しかもサイズが小さい。

ボックスは空(あ)いていました。紙もありました。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。バスは、これだからこわい。

追記 り菜あん報徳店の「ポテトまんじゅう」はとても美味しいです。温めて召し上がってください。


(東京ばな奈キャラメル味。美味しい)

子どものころ、我が家のすき焼は、豚肉でした。すき焼が牛肉を焼くものだと知ったのはかなりあとのこと。

両親は、生卵が好きで、すき焼のときも卵を器に溶いていました。

子どもは、親のすることをまねします。

生卵を割って、器に落としたあと、両親は、白いひも状のものを箸を使って懸命に取り除いていました。蛇蝎(だかつ)のようにきらっていたように見えました。

特段、親に理由を聞かされたわけではありません。

でも、いつしか私は、この白いひも状のものは体によくないもの。口に入れてはいけないものなのだ。

そう認識するようになりました。食べたら具合が悪くなると信じていました。

私は、生来、不器用で白いやつをなかなか取り除けませんでした。

第一にとらえることが難しい。上手くとらえても、除去に至る道のりは困難を極めました。

器のへりまで引き上げられたと思いきや、白身の張力により、つるんと引き戻されてしまう。

器の壁面に対し箸を約30度で突き立てるのですが、ずり上げては滑り落ちる。これを数回繰り返して、ようやく成功。

取り除いた白いやつが箸の先に付いて離れないときなど、背筋に寒いものが走りました。

この作業をすればするほど、このひも状のやつは有害物質なのだ、と私は思い込むようになりました。

じつは、これ、「カラザ」とれっきとした名前があるのです。

しかも、カラザは、有害どころか、シアル酸という人体に有益な成分が含まれています。

害はまったくありません。カラザは、ふつうに食べていいものなのです。


(出典 株式会社フード・ペプタイド)

シアル酸は、母乳にも含まれており、出産後10日までの初乳において含有量が多い。健康と美によいとされる高級食材「ツバメの巣」にもシアル酸が豊富です。

シアル酸は、脳の発達にも関わり、脳や中枢神経系に特に多く含まれています。また、インフルエンザウイルスの増殖を抑制するとも。さらに、シアル酸には抗がん作用の可能性があるとの研究報告もなされています。(理化学研究所報道発表資料2010.3.2

というわけで、いまさら、脳の発達に関係すると知ったところで、どうしようもない五十路の手前。

近年は、ただ、めんどくさいというだけで、カラザを除去せず食べているだいこんくんなのでした。


(佐藤可士和さんの本は面白い)

財布のお札入れと小銭を入れるチャックが平行な位置関係にある方はお読みにならないでください。つまらないです。垂直関係にある方は読み進めてください。

「大きい方から千円、2千円、3千円。残り、800円です。お確かめください」。スーパーなどで、1万札などの紙幣で支払った場合、釣銭はお札から先に渡されます。

この渡す順序を選択制にできないだろうか、と思うのです。硬貨から渡してもらうということです。

というのは、次のようなケースがままあるからです。

「お買い上げ、1232円です」

財布を覗くと5千円札があります。小銭は32円はそろえられます。5032円を払うことにしました。

ちょっと脱線しますが、認知症の初期症状に、端数などの細かな計算できなくなるというのがあります。買い物の際、紙幣しか出さなくなるのです。

ですから、高齢者でお財布が硬貨でぱんぱんに張っている方がいれば、認知症を疑う必要があります。

さて、5032円を払って、レジで私の硬貨入れの口は、開いたまま。釣銭の800円を待っているのです。

ところが、「大きい方から」と千円札が先に3枚渡されあとに硬貨の800円が渡されると不都合が生じます。

つまり、お札入れと小銭入れの口が垂直関係にあるため、お札を入れようとすると、万有引力の法則にしたがって硬貨の雨嵐が起きます。

ですから、あとに渡される硬貨を入れ、チャックを締めてからお札をしまうことになります。

硬貨を入れるとき、左手の人差し指と中指の間に千円札を挟み、待機の態勢を取らざるを得ません。

このように、10数秒という短い時間ではありますが、レジにおいて、私の手には「口の開いた財布」と「スーパーのポイントカード」と「お札」と「硬貨」という4種類ものものを、同時にしかも器用に保持しなければならないのです。

不器用な私は、ときにその保持に失敗し、硬貨の自由落下、それを拾おうとしての複数のカードの落下。ほとんどピタゴラスイッチ状態でいろんな連鎖反応が起きます。

というわけで、セブンのnanacoの便利さに感謝しつつも、端数の計算が前期高齢者になる前にできなくなるのではと懸念しているだいこんくんなのでした。

※nanacoの反応はもっと速くていいですね。のんびり屋の私ですら、あの“ピロロッ”にイラっときますから。


(うれしいことにトムヤムの復活です)

民主主義という制度は、卓越したリーダーを輩出することを保証する仕組みではない。そう感じます。優れた人もまれに出てきます。が、それは制度とは直接関係ありません。

逆にいえば、愚かな人もリーダーになれる制度でもあります。そして、愚かな人がリーダーになると、うまく回らない仕組みになっています。

ペリクレス施政のアテネを見に行ったローマの視察団は、なぜアテネを模倣しなかったのか。紀元前5世紀のことです。

記録に残っていないので理由はわかりません。

ペリクレスは、無産階級にまで参政権を与えて、アテネに歴史上最初の完璧な直接民主政を実現した人物です。

卓越したリーダーで、圧倒的な市民の支持を受け続けていました。

でも、ローマは真似しなかったのです。

ローマは、共和政を経て、帝政へと移行。アテネを凌駕する長期の政体を維持しました。民主政は採用しませんでした。

『ローマ人の物語』の著者、塩野七生さんは推察します。

民主政というのは、ペリクレスのような卓越したリーダーがいてはじめて回る仕組み。

ローマはそれを見抜き、卓越したリーダーが出ずとも、国家が運営できるシステムを作ろうとしたのではないか。

輝きを見て、その輝きには無理があると見抜いたローマ人はすごいなと思います。

優れた人ではなく、優れた仕組み(システム)に永続性のカギを見出したのがローマ人だった。そうともいえます。

「『システムは何か』っていうと『替わりがきく』っていうこと」。

尊敬する加藤哲夫さんの言葉を思い出します。(『市民の日本語』2002年、ひつじ書房)

ふと、そんなことを考えながら、夜遅くにセブンプレミアムの北海道産黒豆を食べてしまいました。


(曇りも趣きがあります)

母の足指の爪は、いつもくすんだ緑色をしていました。

子どものころに、ふすまかなにかが両足に落下し、それ以来、爪が正常に生えなくなったのだそうです。

母の爪に対し私は気味の悪い感じを持っていたのを記憶しています。

小学生のころ、夏休みに母といっしょにプールに行くのがなんとなくいやでした。

いま思えば、当人がいちばん気にしていたのではないか。そんな母も霊山(りょうぜん)ではきれいな爪になっていることでしょう。

ところで、パソコンのキーボードを打つ際に爪が触るのがいやで、私はこまめに爪切りをします。

で、いつも思うのです。爪が飛ばない爪切りってないのだろうか、と。

小学生のころまでは父をまねて新聞紙を2面分広げて爪を切っていました。中学生くらいになったときにカバー付きの爪切りが登場。

これはいいと最初思いました。

しかしです。切った爪が約3割の打率(筆者調べ)でワニ口に入らず外野に飛んでいってしまうのです。けっこうな飛距離です。

切った爪というのは、案外見つけにくいものです。しかも、人差し指の爪を切り終えたあとは、つまむのにも一苦労。

のんびり屋の割に私はこういうことに頭に血が上ります。

そして、拾った爪をワニ口に入れるときの寒々としたしぐさが切ない。うまく入れられず、また落としてしまう。

この虚無感の連鎖反応をなんとしてでも食い止めてほしい。解決できないものだろうか。

昨日(2015.2.22)の日本経済新聞に「核廃棄物が貴金属に」と題する記事がありました。放射線廃棄物を希少資源に変える試みだそうです。

政府が5年間で計550億円を投じる大型研究プロジェクトの一環として、世界でもほとんど例のない試みが2014年度から始まったと報じられていました。

そういった研究も大事でありましょう。重要性は私も認めます。

でも、爪切りも大事なのです。

飛び散らない爪切りが開発できれば、生活の質(QOL)の向上に大きく寄与することは間違いない。世界に冠たる爪切り王国を樹立できる。

そう私は確信します。

550億円の1%の5億円もあれば十分でしょう。

物理学、人間工学、摩耗学の専門家と刃物の職人さんの英知を結集すれば、必ずや爪が飛び散らない爪切りを開発できるはずです。

目指すは、ワニ口内野打率9割9分9厘の爪切りです。


(東京タワー。好きです)

ぜひ行ってみたい美術館が神戸にあります。横尾忠則現代美術館です。横尾氏はY字路をモチーフにした作品を多数手がけています。

「Y字路」というものに私は迷いと選択を感じます。人生そのものが無数のY字路といえなくもありません。

ところで、「メニューをお下げしてよろしいでしょうか」とそば屋さんで訊かれました。疑問形を取りつつ、半ば承諾を強要しています。

私は、この“メニューお下げコール”がきらいです。「あ〜持って行かないで」といつも心の中で叫んでいます。

声に出す勇気がなく情けなく思います。

メニューが下げられるとき、客船が出航する際の見送りのテープが切れる、あのときの淋しさに似たものを感じます。

ちなみに見送りのテープの習慣は日本人が始めるようになり、世界に広まったそうです。

ところで、メニューをなぜ下げなければならないのか。

客が持って帰ると思っているのか。それとも、汚れるからなのか。テーブルが狭くなることを避けるためなのか。

客からすれば、注文後もなお逡巡の余韻が残っているのです。注文したからといって晴々とした心境でいると思ったら大変な間違いです。


(さすが伊藤園。抹茶アイスが美味しい)

ざるそばでよかったのか。おろしそばも捨てがたかった。ミニ天丼セットもお値打ちだったけど、人間ドックの結果がよぎる。デザートも食後に食べたいな...等々。

このようにメニューを選択するということは、じつに数多くの変数が大脳に入力され、そして捨象された上での結果なのです。

ここ数日の食事内容に始まり、気温や体調(私の場合、もっぱらお腹の調子)、そして、懐具合というシビアな条件を踏まえながら、最も食べたいものを注文する行為がメニューの選択なのです。

それでも迷いは残るもの。人間だもの。

その迷いを払拭する手段として、注文後のメニューの観察があるのです。

次に来店した際に注文したいものを心に刻んでおく(大概忘れてしまいますが)。

予算が許せば追加注文という選択肢もある。

また、別腹でのスイーツも参考情報として視野に入れておきたい。

なので、手元にメニューを置いておきたいのです。だめなのでしょうか。どうしてお下げしてしまうのでしょう。

客も喜び、お店の売上にもつながる。こんないいことはないと思うのですが。

また一つ悩みが増えました。


※英語圏で「メニュー」とは、あのノート状の物体のことであって、料理を意味しません。

「美味しいメニューがない」という表現はないのです。食べられませんから。


(操縦してみたい)

硬質プラスチック製の冷却された洋式トイレに着座する瞬間、その覚悟は、サウナの冷水風呂に浸かるときに酷似している。と、ふと思いました。

ご安心ください。今回はトイレネタではありません。

フェイスブックなどSNS上では、金言、名言、格言といった、いい言葉が無数に紹介されています。また、書籍も出版されています。

私自身、名言の類いが好きです。自省や自戒、励みのきっかけになります。

いま読んでいる『鈴木敏文の「統計心理学」』(2006年、日本経済新聞社)の巻末には、同氏の金言集がまとめられていて、うれしい。

金言10「ハウツー本は読むべきはない」(261頁)

これが金言なのかどうかはともかく、どきっとします。

(一度お会いしてみたい)

とかく、私たちは「言葉のプレゼント」を周りの人にするのが好きです。

金言を投稿するとき、言外には「これ、いいでしょ?」という思いが込められているといえます。

また、悩んでいる人や困っている人がいると、ともすると私たちは、激励やアドバイスといった「言葉のプレゼント」をシャワーのように贈ることが多い。

贈る側は、いま抱える問題の解決に資することを期待し、その言葉を贈ります。

でも、私は思うのです。

「つまずき」が少なくない春だから思うのです。

簡単に解決できないことが多い世の中だからこそ思うのです。

「言葉のプレゼント」を与えるのではなく、悩みに耳を傾け聴くことこそ大事なのではないか、と。

共感と共有が私たちには必要なのではないか、と。

解決法を探っているようで、私たちは共感を求めていることが多い。

ここで、私は「受信力」を提唱したい。

「発信力」が強調されることが多い中、「受信力」こそ私たちに求められているのではないか。

この「受信力」という力は、「発信力」に倍する努力と工夫と忍耐を要するという意味において、容易に身に付けられるものではありません。

「口は一つだけど耳は二つある。これには意味があるんだよ」。誰かがいった言葉が忘れられません。

当人の苦悩に共感する他者がいて初めて相田みつをさんの「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」も生きてくる。そう私は思います。

現にいま、つまずいている人に「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」という言葉だけを送っても大きな力にはならないでしょう。

十分に体温と同化した便座に座りながら、そんなことを考えただいこんくんなのでした。

※「つまずく」は一般に「ず」ですが、相田みつをさんは「づ」を使用していることを申し添えます。


(デンタルフロス。ミントの香りがします)

「歯間に糸を通すだけでけっこう違うんですよ」。歯科医院からデンタルフロスをいただきました。実際にやってみると、なんだか気持ちがいい。爽快です。

ただ、両方の手指にフロスを巻き付け、歯間に糸を通して引っ張る様子は、人に見せられるものではありません。

ところで、この歯間にフロスを通す爽快感を「1デンタルフロス」とします。

耳かきの気持ちよさは、10デンタルフロスくらいでしょうか。温泉に入ったあとのマッサージは、100デンタルフロス。

これまでの人生で最大級の「デンタルフロス」度は、バス乗車中に腹痛に見舞われ、それが解消されたときです。

とてつもない腹痛に襲われたのは、2004年と2006年の2回。

2004年は、仙台から高速バスに乗車し福島駅前に向かうときでした。

仙台・福島間の高速バスは、1時間ほどなのでトイレなし、休憩なしです。

嫌な予感がしました。

東北自動車道の国見町あたりから案の定、不安が的中。下腹部が痛みだしました。

福島飯坂インターを降り、国道13号線を走行中、強烈な腹圧の高まりと痛みに襲われました。全身から脂汗が滲(にじ)みでてきます。

うぅ苦しい。痛い。

このまま福島駅前まで耐え難きを耐えるか。そもそも耐えられるのかどうか。途中で降りるべきか。降りたとして、どうするのか。救いはあるのか。

思考停止。もうだめだ。降りよう。

国道13号線の信夫山トンネルの手前で私一人が降車。

夕闇の中、見渡すと周りには救いのコンビニやスーパーがありません。閑散とした風景です。

約200メートル先にガソリンスタンドがあるのがわかりました。遠いけど、行けるかもしれない。

と、思った瞬間、猛烈な腹圧と痛みが走り、「もう、いま、すぐ、ここで」しなければ死ぬというまでの苦しみに襲われました。

巻き舌でRight now here!です。

当時、私は公的な調査研究機関に所属しており、「研究員」という役職を持っていました。

「もうだめだ。でも、おれは研究員だ。どうしよう」。私は激しく煩悶。

道沿いでもいいのではないか。まさに緊急事態。人影はいない。いや、空き地を探そう。

適地を物色しているときに腹圧がふとゆるみました。これは歩けるかもしれないぞ。

直腸の括約筋に意識を急速に集中。内股にして小幅で、かつ、速く、歩きました。途中、腹圧が高まりながらも、騙し騙しでスタンドに到着。

「トゥオ、トイレを貸してくださいっ」

ベルトを緩める前に暴発しないように、神仏に祈るような気持ちでトイレに駆け込みました。

このときの安堵感、爽快感、幸福感は、「1万デンタルフロス」はあったでしょうか。いまもこのときの感覚は刻印されています。

2006年の事件はまた後日。いつもこんな話題ですみません。


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