(パスタって塩分ないんですね。びっくり)

半端とは、「あるまとまった量・数がそろっていないこと」「どっちつかずであること」(デジタル大辞泉)。用例として、「半端が出る」「半端な気持ち」が挙げられます。

よく耳にする「半端ない」とは、半端の否定形ですので、本来であれば、「どっちつかずではない」という意味になるのでしょうか。

実際はかなり違いますが。

車内ではM係長とその半端をめぐって話が弾みます。

「床屋でのあの半端なマッサージって困りもんですよね」

「わかるわかる。あの半端感がいやだよね。気持ち、こもってないし。さわさわって感じ」

「もう少しやってほしいと思うときに止めちゃう、あの半端感。力も入れてくれない」

「係長は、肩、凝るほうげ?」

「すんげー凝るんですよ、俺」

「いまちょうど通ったとこの右側に見える整体屋さん、いいよ。おススメ。60分、2500円だもの。けっこう強く押してくれるし」

「安いっすね。相場は、10分で千円ですよね。それ考えれば安いっすね」

「んだから予約しないとだめ。担当の人は女性が多いんだけど、そこだぁ〜っていうところをほんと強く押してくれんの」

「やっぱ痛いくらい押してほしいっすよね。案外、女性の整体師さんのほうが力、あるんですよね」

「そう、痛いくらいがいいよね。でも、最近、なんだか整体の翌日、すっげーだるくなるんだよね。もみ返しっていうのげ」

40代男性の車中会話は、さながら山奥の湯治場で繰り広げられるだべりに似ています。

これが50代になると話題の中心が薬に変化していきます。


(パスタ、好きです)

M係長との外勤。車中でのたわいない会話に花が咲きます。ネタの熟成のためにも有益です。

「M係長、田んぼ、どう?青々してきたげ?」

「青々してきましたよ」

「毎朝、駅まで行くのにあぜ道を歩くんだけど、カモのよく来る田んぼとまったく寄り付かない田んぼがあるんだよね。不思議だよね。田んぼやってるM係長はどう思う」

「そうすっねぇ...。やっぱ、あれじゃないすか。コンビニにも入りやすい店と入りにくい店ってありますよね。それですよ」

「うん、あるある。なるほど。んで、カモって来てくれたほうがいいの?田んぼにとって」

「苗を植えたばかりのころだと、苗を食べるやつがいるんです。だから、必ずしもいいとはいえないんです。ところで、課長、こんど、スタバ、来ますよね」

なんの脈絡もなく、違う話題にいとも簡単に移るところに、たわいない会話のよさがあります。

「スタバ、来る、来る。楽しみだよね」

「でも、例の場所なんですよ。わかりますか」

「そうそう、例の場所。あそこって、古くは中華料理があって、肉団子がうまかった。そのあと、天ぷら屋、そんで、すし屋にもなって、またつぶれたんじゃなかったっけ」

「なんども出店してはつぶれる場所ってありますよね」

「あるある。なんていうか、根付かない場所ってあるよね。地元の人は、みんな皮膚感覚でわかってるってやつ」

「スタバだって、マーケットリサーチ、やってるんでしょ?」

「やってるはずだけど、商圏調査くらいなんじゃないかな。出店予定地がなぜ空いているのか、前になにがあったのか、その前には...と追跡し調査して、分析しないとだめだよね」

「ですよねぇ」

かつて、コンサルタントの仕事をしていた際、商圏調査にかかわり、いかにその調査がいい加減か、私は知っていました。

「で、本当は皮膚感覚で知っている地元の人に聞くべきだよね。ここにあったらいいなって場所」

やはり、国内で1千店、全世界で2万数千店を展開するスタバにとって、日本の地方のたった1店舗の出店場所にそこまで気が回らないのでしょう。

今回のたわいない会話のキーワードは、「田んぼ」「カモ」「スタバ」「出店場所」「地元」「皮膚感覚」といったところでしょうか。

期せずして、無意味な言葉の羅列ではないところに、この種の会話の面白さがあります。

ユング心理学でいうシンクロニシティ(共時性)を感じます。

なんだか、生クリームを大盛りにしたスタバのアイスカフェモカが飲みたくなってきました。


(店先で見つけました。可愛い)

過ぎたるは猶及ばざるが如し。12年前、福島市で濃い黒酢ドリンクをストローで飲んだとき、猛烈に咳込みました。呼吸ができなくなるかと焦りました。

希釈も大事ですね。

ところで、「骨太」ってなんでしょう。どんな意味があるのでしょうか。

言葉というものは、「である」という場合と「であってほしい」の2種類のメガネで見る必要があります。

さらに、「であってほしい」には、「ではないが、であるよう見てくれ」という、いささか誤魔化しのたぐいのものも含まれます。

「民主主義」や「共和」といった名称を冠する国は、ほとんどの場合、「である」ではなく、「ではないが、であるよう見てくれ」といえます。

出生届の際、子の命名は、当然「であってほしい」という願いによってです。そのため、長じて、名前と現実が乖離し、名前負けという事態が生じる場合があります。

言葉の持つ力は、不思議です。名は体を表すこともある一方、名前負けを起こすこともあります。

さて、「骨太」です。

先日、「骨太の方針」の素案が明らかにされました。

骨太というと、なんだかすごそうです。史上最大の恐竜「アルゼンチノサウルス」(体長30メートル)の骨格を想起させる勢いを感じます。

でも、地方の現場に降りてくるときは、「○○に鑑み、遺漏なきよう、執行されたい」といったような紙文書で終わりです。なぜなら、「である」ではないからです。

私は思うのです。

方針を待つのではなく、地方政府が中央政府に「骨太の要求」を出すようにすればよいのです。課題は現場にこそあり、その解決策も現場にあるのです。

でも、「骨太の要求」は、受け入れてもらえないでしょう。

なぜなら、「骨太の要求」は、間違いなく骨太になりますから。

「である」「ではあってほしい」「ではないが、であるよう見てくれ」

この三者の違いをよく見極めないと、つまらないことでつまずいてしまいます。


(草野小学校絹谷分校)

「もっと美しく!」。作文の授業でモントリオール大学のジョン先生は学生に何度も呼びかけます。

まず、テーマに沿って誰かが黒板に文章を書きます。この先陣を斬る役が、なかなか大変です。私はいつもしとやかに着座姿勢を保持。

書かれた文章を指し、ジョン先生は、この文章をもっと美しくできないか、と皆に改善を求めます。

すると、勇者がぽつりぽつりと前に出て行き、書き直しをします。私はあくまでも椅子に根を下ろしたままです。

もういいんじゃないかと思っても、ジョン先生は「もっと美しく!」と声高に叫びます。先生自らは解答を示しません。

どこまでも、学生の力を引き出しながら、「美しく」という一点で文章を磨き上げていくジョン先生。

「正しく」に慣らされた私には新鮮でした。

ところで、気になる日本語表現に「行けたら行く」と「知っている人は知っている」があります。

言わんとすることは、わかります。が、同語反復は美しくありません。

松島やああ松島や松島や

これは松尾芭蕉の作ではありません。俳聖が季語も入れず同語反復するはずがないのです。

話を戻します。「行けたら行くの」は、当たり前であり、「知っている人は知っている」のも当然です。

「大雨の日は天気が悪い」や「未成年の小学生に酒を売ってはいけない」という文章以上に上述の文章は美しさに欠けます。

では、どうすれば意味を維持したまま美しくできるのか。

風呂の中で考えていたら、いつの間にか読書中の本のしおりが湯船に落ちて、妖怪の一反木綿のようになってしまいました。

美しい「行けたら行く」は、夏休みの宿題にしたいと思います。

なお、「行けたら行く」といった場合、実際に行くのは約32%です。(筆者調べ)


(給食センターの蒸気釜)

給食を試食しました。見た目以上にカロリーが高いことにびっくり。700キロカロリー以上ありました。

給食を食べながら、切なかった小学校時代を思い出しました。

小学1年のとき、算数のたし算が難しく、難儀しました。周りのクラスメートができて、自分はできないため、いつも涙ぐんでいました。

7+5や8+3など、答えが二桁になる計算ができませんでした。

算数をはじめ勉強のできない私を見て、母もまた人知れず涙を流していたそうです。

涙ぐみながらも、なんとか答えを出そうと私なりに工夫しました。

消しゴムを細く切り刻み、7つの削りカスと5つの削りカスを作り、それを一つひとつ数えて12という答えを導き出しました。

設問が多いときは、削り切ってしまっては、消しゴムがなくなってしまうので、机に擦り付けて、糸ミミズの痩せ細ったやつをたくさん作りました。

漢字もまた苦手中の苦手で、とにかく覚えられず、苦しかったのを覚えています。

2年生のときだったと思います。

ある日、「親」という字を何度書いても覚えられず呻吟していました。

母は「たちぎみちゃんって覚えなさいっ!」とほぼ絶叫調で私に向かって叫びました。

「たちぎみちゃん」とは、親の字のつくりを分解して、「立ち」「木」「見」としたものです。“ちゃん”の意味は不明です。

母の即興のアイデアだったのだと思います。母も必死だったのでしょう。

親という字を見ると、たまに「たちぎみちゃん」と読んでしまうことがあります。

仕事で学校を訪問することがあります。

勉強がわからず、難儀している子どもを教室で見かけると、かつての自分の姿を見ているような気持ちになります。

つい、こっそりと声援(秘術)を送りたくなってしまいます。

「たし算がわからないときは、消しゴムを擦り付けて使えば、だいじょうぶだよ」と。

というわけで、人生、遡及すればするほど、切ない思い出いっぱいで、涙ぐむばかりです。

大人になって本当によかったと、いま胸をなでおろしています。


(幼いときを思い出すたまごボーロ)

組織にとって、終わりの始まりとは、慢心が起こり、構成員がそれに気づいているにもかかわらず、瀰漫(びまん)していくときです。

組織が崩壊するときは、おかしいぞと感じている人が意外に組織内に多数いるものです。

アラートを発していますし、叫んでいるのです。

にもかかわらず、傲慢という病原菌に抗する力学が働かなくなっていき、じわじわと瓦解していきます。

さて、生前、母は鉄線の花が好きでした。母と庭の手入れをしていたとき、枯れたように見える鉄線の蔓(つる)を私が切ろうとしました。

「枯れたように見えるけど、鉄線は翌年にまた花を咲かすんだよ。切らないでね」

いかにも枯れて死んでしまったように見える鉄線。花を咲かせていない時期は、名の如く、鉄の線のように無骨な植物です。

鉄線をめぐる母との思い出については、以前、ブログでも触れました。

18年前、カナダ・モントリオールで日系人の句会に参加していたとき、次の句を詠みました。

去年(こぞ)の蔓(つる)蘇らせて鉄線花

枯れたように見える鉄線も翌年になると蘇生の悦びを溢れんばかりに花を咲かせます。

ところで、先月、うつ気味だという後輩に会ってきました。

思うのです。

私たちは、いつも生き生きとしているとは限らない。ときに深く落ち込むし、枯れたように意気消沈することもあります。

現に私自身、7年前、うつを患い、苦しみました。

でも、密接なつながりではないものの、静かに見守っている人がいれば、より正確にいえば、見守っている人がいると感じることができれば、鉄線のように蘇ることができる。

私はそう思うのです。

大人になってからの人間関係は、鉄線のようなつながりを作っておくことが、大切なような気がするのです。

蘇りのあるつながりとでもいうのでしょうか。枯れても切れていない関係です。

当ブログ誌上で一時「希釈力」が話題になりましたが、これからは「鉄線力」だと一人合点しています。


(ふつうは有機溶剤に浸して抽出。全量絞るのはまれです)

「こちら側のどこからでも切れます」。タレ袋にそのように記載されているにもかかわらず、切れないとき、ちょっとイラッとします。

ところで、民間会社を経験してきた部下と交渉術について会話しました。10数年前のことです。

「係長、交渉っていうのは、所詮、脅すか、おだてるかのどっちかしかないっすよ。これ俺の結論っす」

大柄な彼の顔は、微笑みながら、目は笑っていません。

「ほんとに?」

「どっちかというか、その両方を組み合わせて交渉するんです」

彼は、数々の修羅場を潜り抜けてきたのでしょう。

彼のいう「脅すか、おだてるか」は、アメとムチと言い換えてもいいかもしれません。

「いうとおりにしないと、大変なことになりますよ」というのは、脅しです。

脅しの材料は、生命そのものから、財産や平穏な生活、地位などいろいろあります。

一方で、「この話に乗ると、こんないいことがある」というアメもまた交渉術の一つ。

が、これも、裏を返せば、この話に乗らないのであれば、損しますよという意味で、脅しに通ずるといえます。

交渉術はつまるところ、「脅し」に集約されるのかもしれません。

ところで、「給食費3カ月未納で給食停止 通知後、支払い急増 埼玉」(朝日新聞デジタル2015.6.25)を興味深く読みました。

「学校給食費を『払えるのに払わない』とみられる未納が相次ぎ、埼玉県北本市立の中学校4校は、3カ月未納が続いた場合は給食を提供しないことを決めた」という。

その結果、「該当する保護者43人のうち、納付の意思を示さない保護者は3人に激減」。

まさに交渉術の王道。感服しました。

朝日もこのような記事を書くのだと別な意味でも感銘を受けました。変わりましたね。

というわけで、交渉には、たぐいまれなる胆力が必要で、お腹の弱い私にはできないなと思った次第です。


(福島市のイタリア料理店「麦畑」。ミステリーサークルはありません)

報道によると地震保険の保険料が最大で5割値上げとのこと。保険会社は、損しないよう、保険金の支払い可能性、つまり「確率の変化」に誰よりも敏感です。

地震発生の確率が上がってきているようです。

ところで、私は、子どものころから空飛ぶ円盤こと、UFOに心躍らせ、ときに恐怖におののいてきました。

矢追純一UFOスペシャルは欠かさず見ていました。

UFOにただならぬ興味を抱いて40数年。振り返って、いま思うに、3つの疑問が浮かんできます。

第一に、なぜUFOは、あそこまで恥ずかしがり屋なのか、ということです。

どのUFOにも共通して、人だかりのするところを嫌います。

なにか訴えたいことがあるのであれば、浅草寺の門前とか、エッフェル塔の前とか、バンコクの王宮前広場とかに着陸して堂々とパフォーマンスすればいいのです。

第二に、なぜ、あそこまで空を飛ぶことに執着するのか、ということです。

静かな湖面でカッコウの鳴き声を聞くのもいいでしょうし、湘南海岸でホバリングした円盤の下でくつろぐのも、またよろしからずやです。

でも、UFOは、あくまでも飛ぶことにこだわります。

高高度をジグザグに飛ぶやつもいます。なにをしたいのでしょう。

ジグザグに走行するバイクの多くは自分の存在を誇示したいからだといわれています。

UFOもなにかを誇示したいのでしょうか。

また、現れたり消えたりするやつもいます。

母親は、「いないいないばあ」をすることによって、乳児期の母子関係の絆を確認します。

UFOも我々となんらかの関係性を確認したいのでしょうか。

じっとしていることが苦手のようで、大概の場合、スズメのように多動的です。

第三に、トイレはどうなっているのか、ということです。


(私の想像するUFO内のトイレ)

UFOになんらかの生命体がいるとすれば、エネルギー源を摂取し、排泄が行われているはずです。

であれば、トイレはどうしているのか、どのような形態のトイレなのか、掃除は誰がしているのか、貯溜物の廃棄はどうしているのか、次々と疑問が湧いてきます。

というわけで、かつては、社宅から外にある共同浴場までの夜道でUFOにさらわれるのではないかと、恐れおののいていました。

以前、「多感だった時代『金平糖石けん編』」でお伝えしたとおりです。

しかしながら、近年、UFOとの遭遇の確率は、下がってきているように感じます。残念です。


(イギリスからエッグセパレータが届きました)

船便でゆっくりとやってきました。鶏卵の白身と黄身を分けるエッグセパレータ。鼻炎気味の鼻から白身だけが垂れてきます。

あまりにリアルなので分離中(鼻垂れ)の様子は差し控えさせていただきます。

普段の生活の幸福感の8割は食べ物から得られる。当ブログでもたびたびそのように言及してきました。

スーパーでの買い物。

それは幸福感を得るための前段階の行為。言い換えれば、欲望充足準備状況にあります。

そのため、ご近所さん、友人知人、職場の同僚などとスーパーで会ったときは、一定の距離を置きたくなるものです。

エレベーターでの密接感の気まずさとも違う、トイレで脇に連れ立っているときの距離感とも異なる、スーパー独特の感覚です。

偶然に近距離で遭遇したとしても、人様の買い物かごをじっくり見ることはご法度です。

さりげなく一瞥(いちべつ)するに留めましょう。でも、ちら見は案外見抜かれますので要注意です。

また、プライスダウン中の値札貼り替えを待つ、前かがみの姿を見つけた場合は、スクランブル発進した戦闘機がUターンするときのように、そっと遠ざかりましょう。

ところで、幸せを感じる8割の打率を上げるため私がやっていること。

それは美味しいとうわさのお店をiPhoneのリマインダーに登録することです。

思い出せる機能という意味の「リマインダー」。ふつうの使い方は、その時刻が来たこと(薬の服用など)を知らせるのに用いられます。

iPhoneにはその付近に近づいたら知らせるという位置情報と連動した機能もあります。

美味しいとうわさの市内のちょっと離れたパン屋さん、県内他市の気になる和食レストラン、隣県のまんじゅう屋さん、親友のブログで見つけた関西の飲茶のお店等々。

遠方のお店は感知する半径距離を数キロにし、市内のお店は数百メートルに設定。登録したお店に近づくとリマインダーが起動します。

というわけで、きょうは幸せを感じるひと工夫のご紹介でした。


(美味しい手作りケーキをいただきました)

「後先を考えない」というとき、「後」は過去で、「先」は未来なのでしょうか。いや、過去は変えようがないので、もしかしたら、どちらも、未来の意味なのかも。

「100年後」と「100年先」、同じ意味になるし。考えれば考えるほど、わからなくなることが世の中にはいっぱいあります。

昨日、JR東日本に勤める友人と新幹線をめぐって話をしました。

「新幹線って、開発時、スピードを出すことよりも、いかに止めるか、要するにブレーキの開発が大変だったとか」

「そうなんです。在来線はすべて600メートルと止まるように設計されているんです」

「へ〜、なんでですか」

「運転手が異物を発見できる距離の限界が600メートルなんです」

「でも、新幹線って急ブレーキをかけても、何キロも走ってしまいますよね」

「そうなんです」

新幹線の開発は、太平洋戦争時に戦闘機の開発に携わった技術者が多数動員されました。

鉄道の常識では考えられない奇抜なアイデアが生まれたそうです。

200キロで走行する車両をいかに止めるか。

先頭車両の側面にエリマキトカゲのようにエラを出して空気抵抗により減速する方法。

最後部の車両の鼻のところにパラシュートを開かせ、減速する方法。

水をまき散らして減速する方法。

さまざまなアイデアが出されたという。

「とにかく新幹線というのは、いくらでもスピードは出せるんです。いかに止まるか、止めるかが最大の問題なんです」

結局、発想の転換を図り、現在のスタイルになったという。

つまり、急ブレーキはかけないことにする。

急ブレーキをかけなくてもいいような線路にする。要するに、踏切なし、人の立ち入りができないようにする、異物がレールにあるときは弾き飛ばす、等々。

というわけで、時速300キロで弾き飛ばされた異物の行方が気になりつつ、新幹線開発にまつわる秘話を聞き、満足しただいこんくんなのでした。


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