(アンコール・ワット。行ってみたい)

美術館で開催中の「神々の彫像 アンコール・ワットへのみち展」を観てきました。同じ仏教でもこれほど違うのか。

30年前に初めてタイの寺院を訪れたとき、軽いショックを受けたことを思い出しました。

違いをどこまで受け入れるのか。あるいは、違うということをどこまで主張できるのか。

けっこう私たちは悩まされます。

以前お仕えしたS課長といっしょに採用面接の仕事をしたことがあります。

「上司と意見が異なるとき、あなたは、どうしますか」

面接の際、S課長は必ずそう質問を投げかけました。

当時、私どもの部長はこわい方でした。怒ると瞬間湯沸かし器のようになります。ここでイニシャルを出すのもはばかります。

部長協議の際、部長と意見が異なるとき、S課長は「じつは、部長、それはこういうことなんです」と、やんわりと意見を伝えるのが上手でした。

その部長は、本来、温かい人で、熱血漢、そして優秀です。意見をいえば、耳を傾けます。

「そうだな、S課長のいうとおりだ。そうしよう」と即座に決断できる方でもありました。

でも、ほとんどの人は、怒られたことで、萎縮してしまい、だまってしまいます。そのだんまりが、さらに部長の怒りを増長させているように見えました。

ところで、幸田シャーミンさんがハーバード大学ケネディースクールで勉強していた際、社会人の軍人や社長も学んでいたことに驚いたそうです。

大学院で勉強している理由をある社長に幸田さんが尋ねたところ、「周りの重役がイエスしかいわなくなった。これは私に問題があると思って学び直そうと思ったのだ」と答えたそうです。

違いをどこまで受け入れるのか。また、逆に、違うということをどこまで主張できるのか。

上に立ったとき、あるいは、下の立場にあるとき、それぞれにおいて大切なことなのだと思います。

この9月に実質的に日本の総理大臣を選ぶ選挙が行われます。無投票の公算が大きいとか。

異なることをいえない雰囲気が組織に漂い始めたとき、微笑のファシズムが忍び寄ってきます。

あっそうそう、前出の部長にいつも怒られていましたが、私は尊敬していますし、大好きです。でも、イニシャルは出せません。



(尊徳さんも暑そうです)

中国江蘇省の鎮江にかかる橋が「鎮江大橋」と命名されるそうです。政治的意思を感じる名称です。これぞ権力闘争。「国家安康」の故事を想起します。

ところで、動画サイトでよく任侠映画を見ます。業界用語にもピンとくるようになりました。

シマ、シノギ、カチコミ、スジ、タマ、タイマン、チャカ、センソウ、サツ、カタギ、ダイモンなどなど。

一部、串焼き屋のメニューに似ている言葉もありますが、違います。

ちなみに、タイマンとは、一対一の喧嘩で、多くの場合トップ同士が体を張って勝負するときに使われます。

「タイマンでケリつけようじゃねーが」

「望むところだ。お前らは手を出すんじゃねーぞ」

そこで、白木の日本刀が出てきます。たいがい、どちらかが2本用意していて、敵に1本、投げ渡します。

子分たちは、チャカを構えつつ、親分たちの勝負を見守ります。

鞘が投げ捨てられ、カランカランと白木の乾いた音が鳴ったら、勝負開始です。

任侠映画では、センソウという言葉もよく出てきます。

しかし、センソウとはいうものの、ナポレオン戦争以前の白兵戦と同じです。近代戦で使われる重火器はほとんど使われず、ミサイルや戦車も出てきません。

ハリウッド映画に出てくるような大量破壊兵器も使われません。

そこが任侠映画とハリウッド映画の違いです。

最近、新聞報道で「戦争」という文字を見かけることが多くなりました。

太平洋戦争時に売れに売れたのが新聞です。一部の新聞が大衆のムードを扇動し、戦意を煽った事実は歴史に刻印されています。

大衆のムードに合わせたとき、新聞は読まれます。「そうだ、そうだ」と思わせることによって、新聞は売れます。

その意味で、新聞は、戦争主義でも平和主義でもありません。大衆主義です。

その大衆のムードが、結果として正しいときもあります。

が、報道の存在意義を考えれば、敢えて大衆のムードに抗(あらが)い、あるいは、離れ、そして、独自の視点で現状と課題を分析し、深掘りしてほしいと願います。

真の問題は、那辺にあるのか。

増幅するだけのアンプだったら不要です。


(苦しくなるから、逃げる)

郡山市内の比内地鶏の店でとろっとろな親子丼を食べました。炭火であぶったもも肉と比内地鶏の卵を溶いた親子丼。

玉ねぎは入れず、純然たる親子のみ。鶏肉と卵だけの直球勝負です。

卵のミディアム加減が限界ギリギリ。生卵以上、高級ホテルのスクランブルエッグ未満のふんわり感。


(やむなくハーフサイズにしました)

食べ終えて幸福感に満たされながら、膀胱を軽くするため、トイレに行きました。小用をしながら、ふと正面を見ると、これです。

「逃げるから苦しくなる」

啓示を受けたようにドキッとしました。射抜かれた感じです。絞りきったあともしばし見つめていました。

ところで、難題や大きな悩みに対して、“乗り越える”という言葉を使うことがあります。また、乗り越えることが推奨されます。

私自身は、壁を乗り越えたことが、たぶん、ありません。乗り越えようとしたこともないような気がします。

では、どうしているのか。

壁の前でひたすらうろつくのです。壁を乗り越えることはできないけど、壁からは逃げない。離れない。壁と対話し、壁と向き合う。

そうすると、壁の薄いところがわかったり、周りの人が教えてくれたりします。

壁を乗り越える勇壮さは持ち合わせていなくても、壁の前をしぶとくうろうろしていると、壁の方が参ってきます。

比内地鶏の店のトイレの壁前でうろつきながら、そんなことを考えました。

厠上(しじょう)は貴重な思索のひとときです。


(友人のお嬢さんがだいこんくんを描いてくれました)

「己を捨てるんや」。30年前、寮の部屋コンパでSさんの吐いた言葉です。殺気を感じるほどの勢いでした。

己を捨てて、私は霊媒師の役を全力で演じました。

Sさんの魅力は、なんといっても「語り」です。何時間聞いても飽きない、その引き込まれる語り口。

Sさんが「すごいんや」と発すれば、どう、すごいのか、期待値がぎゅっと上がります。

さて、30年前の“部屋コン”は、現在の合コンとは違います。「違う」という言葉では説明不可能な、異次元の世界です。

12人部屋という集団生活を営む、男子寮生のみによる、寮で行う不定期開催のイベントです。12人の内訳は、2年生3人に1年生9人。

1つの棟には、12人部屋が14室。各部屋は、連邦制を敷く、米国の各州のように高い独立性が保たれていました。

「人生に必要な知恵はすべて学生寮で学んだ」--- 実感です。

勉強部屋とベッドルームをつなぐ、幅2メートル、長さ8メートルほどの廊下が臨時の宴会場兼演芸場に早変わり。

費用は1人500円。上級生からは少しご芳志があったのでしょうか。

1年生は一芸を披露して上級生を笑わせなければなりません。なかでも高い質を求めてきたのがSさんでした。

私が一芸で披露したのは、憑依してトランス状態になった霊媒師。Sさんに受けたのかどうかは、不明です。

そのSさんが春に私の故郷に来てくれました。30年の年月を感じさせない学生のときのまんまの魅力で私に迫ってきました。

映画監督・脚本家のSさんは、語ります。

「悶々として脚本が書けない。打合せまでもう1時間しかないという瀬戸際に急に展望が開け、一気に書き上げて、それがOKになったんや」。

Sさんの生き様は、文豪・吉川英治の「苦に徹すれば珠と成る」を想起させるものがあります。

というわけで、7月28日(火)23:25-23:55、NHK Eテレ・ジャッジでSさん演出・脚本の「谷グチ夫妻 新作SP」。出演は、岡田義徳、遠藤久美子。

不思議と心の奥底で共鳴する短編ドラマです。過去の動画はこちらから。


(穂肥の季節です)

田んぼの畦道から最寄り駅までの徒歩通勤での出来事。気になるのがミミズが道に干からびてミイラ化していることです。けっこういます。

この現象は以前から不思議に思っていました。ネットで調べると様々な説が出ています。

月の満ち欠けと関係があるとか、舗装道路のせいだとか、降雨と関係があるなどなど。

ミミズ研究の第一人者でもあるダーウィンもまたこの現象に注目していたようです。

ミミズを見ていると白く変色している環帯(かんたい)が腹巻きに見えて、可愛らしく思います。

この歳になって、なぜ、バカボンのパパが腹巻きをしているのか、なぜ、鼻毛が風にそよいでいるのか、わかるようになりました。

不思議というものが解けるとうれしいような、さみしいような気持ちになります。

ところで、ネギの不思議です。

売られているときは、白い部分に価値を感じ、青い部分はおまけに見えます。

現に、スーパーでは青い部分の先端は切り落とされていることが多いものです。

でも、讃岐系のうどん屋などで見かける青ネギの刻みの山は、光り輝いて見えます。我こそネギの本道を歩んでいるのだ、と訴えているかのようです。

ここで白ネギの刻みに登場されたのでは困ります。主客転倒。

売られているときと使われるときの価値が違うって面白いですね。もしかすると、東西でネギの価値観が違うのかもしれません。

ネギについて造詣の深い(造詣という言葉自体によく知っているという意味があるので「深い」は不要かも)方からのご所見をお待ちしています。


(イワナを釣る筆者)

「雨天開催」や「雨天実施」あるいは、「雨天催行」ではだめなのか。雨天決行という言葉に違和感を覚えます。

雨が降ったくらいで、なぜ、「決行」などという悲壮なまでの気合いを入れる必要があるのか。

「決行」という言葉には、なにがなんでもやる。ヘルメットに鉄パイプ姿で放水車の抵抗をもろともせず匍匐前進(ほふくぜんしん)していく敢闘精神が感じられます。

「雨天」と「決行」の文字の間には、大きな隔たりを感じざるを得ません。

まして、「小雨決行」など論外。小雨ごときで決行などといってはいけないのです。

もともと気合いの入った催しでもないのに、雨が降るとなると、ヘルメットに鉄パイプの気合いが入る。納得がいきません。

私のイメージする「決行」はこんな感じです。

古代の地球のように硫酸の雨が降っても盆踊り大会を開催する。まさに「雨天決行」の言葉にふさわしい。

この場合、小雨でも効き目がありますので、小雨決行でも結構です。

そうそう。ケッコウって意外に同音異義語があるんですよね。決行のほか、結構、欠航、それから血行など、紛らわしい。

エベレスト登頂を控えた登山隊が最後のベースキャンプから風速80メートルのなか、登頂に向けて、登山を決行する「暴風決行」も正しい使い方です。

凧揚げ大会も「暴風決行」が使えます。

というわけで、今後、気合いの入っていない催しについては、「雨天決行」ではなく、「雨天開催」ないしは「雨天催行」を使うこととしたいと思います。


(給食センターで見かけたオリジナルゆるキャラ。地名の常磐が読み取れる)

「課長!行って来ましたよ。紹介された整体。いでぇのなんのって。でも、いいっすね」

保護者と児童が参加しての給食体験ツアーが一段落して、カレーを食べながらの会話です。

「んだがら効くべ。ツボの奥まで届く痛さ。たまんねべ」

「でもちょっと痛すぎないっすか」

「我慢しねで、いでぇどきはいでぇっていわねっきゃだめだっぺよ。ところで、田んぼはどうだい」

「いまちょうど大事なときなんすよ。この漢字、なんて読むかわかりますか」

「ホヒっていうのげ」

「穂肥(ホゴエ)って読むんすよ」

「へ〜。ホゴエ!この辺の言葉げ」

「全国共通の表現ですよ。稲作の言葉です」

(確かにiPhoneでも出てくる)

「ところで、穂肥ってなんなの」

「窒素を肥料として入れるんです。でも、入れすぎると穂が伸びすぎて穂が垂れてしまうんです」

「実るほど頭を垂れる稲穂かなっていうくらいだから、垂れてだめなのげ」

「垂れるというより、倒れてしまうんです。かといって、窒素をやらないとお米が美味しくならないんです。加減が難しいんす」


(通称“千人釜”で作ったカレー。美味しい)

「カミナリが多い年は豊作だっていうけど、空気中の窒素が放電で固着すっからげ」

「よくわかんないっす」

「わがんねのげ。この時期って水加減も難しいべ。稲作は雨降りと日照りはどっちがよくないの」

「これからは、暑すぎるのはだめなんです。暑いと稲が熱に耐えるためにデンプンを自分で消費しちゃうんです。そのために田んぼに水をどんどん流すんです」

「へ〜。水で冷却するっていうことげ」

「さすが、課長っすね。農作物は暑いだけじゃだめなんです。暑さと寒さ。寒暖の差が激しいほうが美味しくなるんです」

汲めども尽きぬ係長の語りに稲作の奥の深さを感じながら、鼻水が満々と湛える副鼻腔に悩まされるだいこんくんなのでした。


(セフジトレンピボキシル。誰が名付けたのか)

職場では、いま、耐震補強工事の真っ最中。窓際に座る私の後頭部に低周波のドリル音が断続的に響いてきます。鼻水が止まらない身として、すごくつらいです。

ドリル音が副鼻腔に共鳴し、ぐぁんぐぁんと鈍痛が頭全体を覆います。

そんな訳で、昨日、仕事を早退して駅近くの耳鼻科に行きました。初めてのクリニックです。

「どうしたんですか」

「先週の金曜日に熱が出て、鼻水、痰、咳がひどいんです」

「耳をまず見せてください。おっ、右耳の奥が耳垢でふさがっていますよ。取りますね」

(「頭を後ろに押さえて動かないでくださいね」と看護師さん)

幼いときから数えきれないほど受診してきた耳鼻科にもかかわらず、器具が入れられる段になると、とたんに肩に力が入ります。手も握りこぶしになります。

「これ(耳垢)、すごいでしょ」

高校2年生のとき、総合病院で扁桃腺を摘出した際にもドクターは、取ったモノを見せたがりました。

これは、耳鼻科の流儀なのでしょうか。

「レントゲン写真を見てください。ほら、ここ白くなっているでしょ。副鼻腔が炎症を起こしています」

「ほんとですね」

そう、いいながらも、私にはレントゲン写真はどれも白っぽく見えるので患部とそれ以外の区別がつきません。

お医者さんってすごいなと思います。

「ところで、アルコールは?」とドクターが尋ねます。

答えようとした瞬間、ドクターは、胸の前で腕をクロスし、「2週間バツ」ですよと告げました。

クロスした両手指の反り具合を見て思いました。

目の前のドクターは、私と同世代、いい換えれば、「オレたちひょうきん族」視聴世代に違いない、と。

ひょうきん懺悔室”の神様の腕のクロスと酷似していたからです。

薬局で「セフジトレンピボキシル」という薬を処方され、恐竜の名前のようだなと思いながら、帰路につきました。


(並んでいます)

「いいがぁ、交流は、電気が1秒間に50回、行ったり来たりしてんだがんな。蛍光灯、ちらつくべ。そのせいなんだ」

発電所に勤めていた父は、子どもの私に電気の話をするのが好きでした。直流と交流の違いは、学校で習うより先に父から教わりました。

とはいうものの、いまだにその仕組みはよく理解できません。

電気が行ったり来たりするってどういうことなのか。なんでまた、そんな面倒くさいことをするのか。

もう少し父から教わっておけばよかったと思っています。

その父は、夏になると家の中ではランニングシャツとパンツ姿を常としていました。そのような父の姿に私の姉は眉をひそめていました。

が、いまになってわかります。

ランニング&パンツは、暑い夏を過ごすための、合理的かつ快適かつ最良なコスチュームであるということを。

人生、あとになってわかることって多いですよね。

ポスト印象派の代表的画家ゴッホは、生前に売れた絵は1枚だけだったといわれています。

鬼籍に入り25年。愚息ここに至ってようやく父の偉大さに気付き始めました。

ところで、交流の商用周波数(東日本50Hz、西日本60Hz)は、人間に最も有害な周波数なんだそうです。

感電しやすい周波数帯だということです。心電図が100Hzくらいの周波数をモニターしているのと関係があるのかもしれません。

50〜100Hzより低いか高ければよいのですが、電気の普及ののちに有害だということが、わかったのだそうです。

ちなみに、電気メスも身体を局所的に感電させて切開したりしますが、高周波なので、身体に有害ではありません。もちろん、基本的に心臓にも影響ありません。

スタンガンも高周波ですので、身体に害はありません。害があったら武器になってしまい、法で規制せざるを得ません。護身用に所持できるゆえんです。

というわけで、きょう久しぶりに苦手な耳鼻科に行って、高校2年生のとき電気メスで扁桃腺を摘出したのを思い出しました。

当時の術後のドクターとの会話。

「切ったの、見っけ?」

「けっこうです」

ドクターの表情が残念そうでした。


(UFOのような体育館)

算数の問題に、私、引っかかりました。マグロとタコのにぎりを合わせて1100円。マグロはタコより1000円高い。さて、マグロの値段はいくらか。正解は最後に。

ところで、このところ少し緊張しています。というより、戦々恐々としています。

近々、ある施設に行って、課員みんなで片付けをすることになっているのです。

「課長、廃止した施設なのでトイレが使えません。注意してください」

「えっ?でも、朝から夕方まで片付け、やるんだよね。小はともかく、大のとき、どうすればいいの」

山深い場所にあるその施設。周りにはコンビニはおろか、人家もありません。

「車でトイレの使える廃校に行ってください。10分くらい走ります」

「その廃校ってトイレ、使えるの?」

「井戸水をくみ上げているので流れます。大丈夫です」

以前、ブログでなんどかお伝えしているように、トイレがない環境や閉鎖された場所にいると、なぜか下腹部が痛み出す私。

トイレのない恐怖が下腹部を刺激し、その刺激がさらに恐怖を倍増し、倍増した恐怖が一瀉千里にシビアアクシデントに向かっていく。まさに負のスパイラル。

大のときは、廃校のトイレ。車で移動。しかも、ひとりで。ちょっと嫌な感じです。

簡易便座を持参すべきか、あるいは、前日から絶食をするか、目下、真剣に検討中です。

マイトイレットペーパーの持参は当然のこと。トイレ付き自家用車の開発が待たれます。

さて、マグロの値段はおわかりになったでしょうか。

マグロ(  )−タコ(  )=1000円になった方は正解です。


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