(歩行者天国の銀座)

アメリカの心理学者デイビッド・C・マクレランドが提唱したモチベーション理論。人には、「達成」「権力」「親和」「回避」の4つの主要な動機ないし欲求が存在する、というものです。

人は、生来の傾向性として、無意識のうちに4つの動機のいずれか、あるいは複数の動機を持ちながら行動する、と理解することができます。

当初、私は、4つのうち「権力動機」と「回避動機」について、可能であれば、持つべきでない動機と思っていました。

「権力動機」については、その名称からしてネガティブなイメージを抱きました。そのような振舞いをすることはよくないことだ、と。

ところが、組織の長になってわかりました。仲良く接するだけの「親和動機」だけでは組織のマネジメントはできないということを。

ときに、議論が分かれながらも、期限が決められ、判断が迫られる案件など、強制力が必要なときがあります。

また、緊急事態で有無をいわさず動いてもらわなければならないときもあります。

ですから、「権力動機」とは、それ自体、善でも悪でもない。大切なことは、成熟化だということです。

権力の持つ強制性のメリット・デメリットを十分に認識しながら、それを活用する、成熟した「権力動機」が求められることを理解できるようになりました。

一方、「回避動機」もときに有効といえます。うつを経験した者として私は確信します。

自分の大切ないのちを守るため、一時的な退却である「回避」を選択することは重要なことだということです。

「回避」を受け入れるべきときもあります。「回避」は、けっして人生そのものの負けではありません。後ろめたいものでもけっしてありません。

ただ、回避の期限がときに見えない苦しみがあります。いつまで続くのか、と。

現に、私の周りでも、心の病からいつ脱することができるのか、もがいている友がいます。

寄り添う人の存在が大切です。ここでの詳述は割愛します。

このように4つの動機を俯瞰する自我、いいかえれば、大我に立ったとき、生来の傾向性としての動機から、成熟し、意識した動機へと止揚されていくのではないか。

いいかえれば、動機をコントロールする自我が確立したとき、“成熟した”といえるのではないでしょうか。

動機ということについて、自分の体験を交えつつ、もう少し深掘りして、論考としてまとめてみたいと思います。


(雨が続くと憂鬱になります)

NHK特集「二・二六事件 消された真実〜陸軍軍法会議秘録」の動画を横になってイヤホンで聞いていたら寝入ってしまいました。夢の中で事件の渦中に巻き込まれ、どっと疲れました。

目を覚ますと鬱陶しい雨。雨といえば傘。

以前は傘を忘れても、どこに置き忘れたかを覚えていました。数年前からどこに傘を忘れたのかが思い出せなくなり、少し前からは、忘れたことさえ忘れるようになりました。

加齢なる忘却現象です。

ふと、傘忘れ防止機能IC付きの傘が開発されないかなと思いました。柄の中にICチップを埋め込んでおくのです。

スマホと傘との距離を設定し、傘とスマホが規定以上の距離となるとアラートで知らせてくれる傘です。

このアイデア、いかがでしょう。名付けて、「リマインド・アンブレラ・システム(RUS)」。

100円程度のアプリで購入できるようにしてはどうでしょうか。

ところで、欧米の映画で雨の場面で登場人物がレインコートを着ていることが多いような気がします。濡れたレインコートを玄関先で脱ぐシーンを見かけませんか。

カナダ東部のケベック州に住んでいたとき、雨に濡れて歩く人が多いことに驚きました。傘を差さないのです。

濡れることへの非抵抗感が日本人より強いと感じました。理由は不明です。

日本の天気予報は雨の場合、傘のマークがなじみですけど、当地では見かけなかったような気がします。傘が嫌いなのでしょうか。

ちなみにiPhone付属の天気アプリは、“雲に雨降り”のマークです。

というわけで、この日本でRUSアプリを開発し、不労所得を得られないか、ひそかに企んでいます。


(TOTOミュージアムに行きたい)

車両感応式信号機は「感知中」と表示されます。「感応」と「感知」。職場でこういった表現の差異にこだわることがままあります。

上司にそういうタイプがいるとけっこう悩まされます。

「感応式信号機っていってるのに、なんで感知中なんだ。感応式なら、感応中じゃないのか」

「いや、それは、あれでありまして、感応とは全体的なことを指しまして、感知は、その、あの、個別具体的な感知なのであります」

「さっぱりわからんなぁ。んじゃ、車両感知式信号機と呼べばいいじゃないか。そうすれば、感知中との表示との整合も図られるし」

「いえ、そこは、やはり違うのでして、感応は受動的に反応することで、感知は、能動的に信号機の方でなんらかの照射をした上で、その反射をとらえて個別的に感知するということなのです」

「受動的も能動的もないだろう。詭弁だ。超音波だか赤外線だかわからんけど、なにか出してその反射を感知するんだから、そもそも車両感知式信号機だと思うよ。わざわざ区別する意味なんかないじゃないか」

「でも、現在、車両感応式信号機はすべて『感知中』という表示になっておりまして、修繕には莫大な費用がかかりまして...」

「他市ではどうなってるの」

「他市の状況は把握しておりません」

「だめじゃないか。車両感応式信号機がなぜ感知中というのか、その根拠をきちんと調べないと。他市の状況の把握も必須だよ」

「では、国や他自治体の状況を調査しまして、再度協議させていただきたいと思います」

ところで、市内に(仮称)子ども元気センターという施設ができるそうです。

子どもも、もちろん大切です。未来の宝ですので当然です。

だが、いまもっとも求められているのは、大人の元気なのではないでしょうか。私はそう強く確信します。

というわけで、我が市に「大人元気センター」を整備してほしい。仕事で疲れきった大人を120%元気にする施設がいまこそ必要だと思うのです。

仕様は目下思案中です。皆様、どのような「大人元気センター」をご希望ですか。


(トロピカルに憧れます)

いわゆる「翌営業日」のことを私の業界では、「その日後のその日に最も近い休日でない日」と表現します。ゆっくり読むと意味することがわかります。

ちなみに、「国民の祝日に関する法律」第3条では「『国民の祝日』が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い『国民の祝日』でない日を休日とする」と規定しています。

ところで、安保関連法案を巡る参議院の委員会審議で「存立危機事態」の定義をめぐって議論が交わされています。

そこで、私自身にとっての「存立危機事態」とはなにか、考えてみました。

当ブログで再三取り上げてきているように、それは、「重篤な不可逆性の下痢で、かつ、周辺に適切な排泄の施設が見当たらない事態」といえましょう。

まさに、存立危機事態です。他国はおろか、他人からの支援もない、孤立無縁の状態で自衛の措置を講じなければなりません。

「存立危機事態」の判断要素を詳細に論じれば次のとおりとなります。

(1)下痢の悪性の度合い(2)事態の発生場所(3)事態の規模、態様、推移(4)周辺に害を及ぼす蓋然性(5)住民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性。

この5項目の判断要素から「私の基本的人権が根底から覆される明白な危険」があると判断されれば、それは、「存立危機事態」とみなされます。

“私の存立危機事態”にあっては、やむを得ない緊急の自衛措置として、周辺に適切な施設がない場合に限って、他人の住宅や店舗の利用が認められます。

では、存立危機事態とは、具体的にどのような事態なのでしょうか。二つの事例を見てみましょう。

まず、タイ・バンコクで市バス乗車中の例。停車場でないところで逃げるように降り、目の前の食堂に勝手に入って無許可でトイレに直行。

二例目は、仙台発福島行のトイレなしの高速バス乗車中に存立危機事態が起きたとき。一般道に入ってから人家のないところで降車。そこからが地獄。

100メートル先のガソリンスタンドにするか、途中の歩道上で自衛の措置を取るか究極の選択を迫られ、私の基本的人権が根底から覆される明白な危険にさらされました。

「歩道、いや、ダメだ。歩道で、いや、それは..」。心の中でダメ男君とたえる君が激しくもみ合い、結局....。

というわけで、周辺に害を及ぼす蓋然性を腹に抱えながら、私はつねに最高度の警戒態勢を取っています。


(こちらの方がほしい。LAWSONにて)

「鴨が葱を背負って来る」。このことわざ、知ってはいますけど、使ったことがありません。あさ、鴨を見たときにふと思いました。

「鴨が葱を背負ってくるとは、うまいことが重なり、ますます好都合であることのたとえ」と意(出典 故事ことわざ辞典)。

直接その相手に対して使うのは失礼にあたります。誤用例を挙げます。

「鴨が葱を背負って来て下さったようなお話を頂いてありがとうございます」

ところで、私は、たまに変なことを考えます。

約8000万台の自動車が走る日本で、タイヤの摩耗したカスってどうなっているのだろうか、と。

夜眠れないほどの悩みではないのですけど、疑問を抱いたまま今日まで生きています。

自動車1台あたり数10グラム摩耗していくとすれば、年間で数千トンというタイヤ粉塵が生じているはずです。

ディスクブレーキの削りカスもそう、摩耗したアスファルトも同様です。すべて摩耗粉塵となって大気に消えていくのか。

そもそも、それらの粉塵は無害なのか。環境への影響はないのか。

結局、海に流され、希釈されていくのでしょう。海という希釈力の偉大さに抱擁されていくのだろうと思います。

なお、希釈力については、以前、当ブログで「希釈力」と題し、つぶやいていますのでご参照ください。

あっ、できればなんですが、読まないでください。

というわけで、涼しくなったことでもあるし、久しぶりに「そば処 大石」の鴨南蛮そばが食べたくなってきました。


(タイの屋台。好きです)

なにか適切な形容がないだろうかと思っている現象があります。蛍光灯の点滅のことです。

蛍光灯の寿命が尽きようとするとき、蛍光管の両サイドが苦しそうに不規則に点滅します。

輝きのない白色を基本としつつ、ときに卵の黄身を薄くしたような色になる場合もあります。

人里離れた道の街灯でくすんだ点滅を見ると、なんともいえない感情に襲われます。この点滅は、さびれた郷愁を誘います。

寂寥感とも違う、虚無感でもない。もののあわれに似た、うらびれた感じです。この“うらびれ感”の負のパワーは、強い。

たとえば、たった一本、この“点滅蛍光灯”が宴会場にあるだけで、雰囲気が暗くなること請け合いです。

もう終わりなんだという、蛍光灯の断末魔の点滅。点滅し始めたら最後。その不可逆性から、蛍光管を交換するしか、なす術がありません。

さて、蛍光灯といえば、はじめてタイを訪れたときのこと。蛍光灯を縦に設置していることが多いことに軽い驚きを覚えました。

屋台などでは緑色と赤色の蛍光管を縦にして照明としているのです。

なぜ、横ではなく縦なのか。と、当初疑問に思いました。

が、郷に入っては郷に従えで、縦がおかしいと考えることがおかしいのだと、思うようになりました。

近年、我が国では、LEDがもてはやされています。

10年は持つという長寿命のLEDが突然切れたことがありました。電気店に苦情をいいに行くと、

「LED自体は長寿命なんですが回路の基盤が持たないこともあるんです」と。

それって、おしかしくないか。回路が持たないのでは意味がないのではないか。

というわけで、やっぱり、断末魔の点滅の起きる蛍光灯に親しみを感じてしまう、旧い人間です。


(世代臭。iPhoneで一発変換することにびっくり)

未明に下腹部が痛くなりました。トイレに行くと、照明がやけに明るく感じます。部屋に戻って、かけてあったタオルケットがないことに気づきました。

タオルケットは、寝床から4〜5m先にあり、意図的な移動が伴わなければ、あり得ない場所でした。不思議です。

眠りに就いてずいぶん時間が経ったような気がしました。が、まだ午前2時半でした。

ところで、小学校5年生の終わりごろ、吹奏楽部に入りたい。そう思うようになりました。

同じ社宅に住む友人のN君やI先輩のトランペットを吹く様子を見て、あこがれを抱くようになったのです。

脱線ながら、N君は教室で放屁したことがきっかけで、“へ”と呼ばれていました。現在、高校で数学を教えています。

あだ名と将来の人生とは、関係のない証左です。

さて、吹奏楽部のことを親に話すと、音痴なのだから、やめなさいといわれました。通級していた「ことばとひびきの教室」の先生にも「音痴だからなぁ」と賛成してくれませんでした。

音痴は楽器を吹いていけないのでしょうか。憤りを感じました。

音痴に対する人権侵害について、私たちは関心を高めるべきだと思います。

結局、吹奏楽部に入部。ユーフォニウムという穏やかで美しい音色の出る楽器を担当することになりました。

私たちは、顧問のO先生のことを陰で“アデ”と呼んでいました。髪が薄く、アデランスが必要だという理由です。

日曜日も練習がありました。体育館で朝9時から午後3時までです。自分で弁当を作って持って行きました。

コンクールの課題曲は「若人の心」、自由曲は「ランドマーク序曲」。

昼休みや休憩時間になるとアデ先生は「ランドマーク序曲」の模範演奏のテープをセットし、どこかに姿を消すのが習わしでした。


(「ろくむし」)

アデ先生がいなくなるや否や、私たちは、当時流行っていた「ろくむし」という遊びに興じました。

渡り廊下に見張りを付け、アデ先生が戻ってくるのを監視。姿が見えると大きな声で「アデ、来た!」と叫び、おのおの楽器を持って自席に戻るのでした。

というわけで、「ろくむし」について説明しようとイラストを描いたのですが、ややこしいので割愛します。申し訳ありません。

「ランドマーク序曲」を聞くと楽しかった「ろくむし」を思い出します。


(湖畔の静かなカフェ)

懐かしい友人が夢に出てきました。震災前に心臓発作で亡くなった友人です。3歳ほど年上で私にとって兄のような存在でした。

「これ、おれなんだよ」

「ほんとすか。怖すぎます」

昔のアルバムを指差しながら、得意になって見せるNさん。神奈川で暴走族のリーダーだったという。

剃りの入ったパンチパーマ。斜めにしゃがんで睨みつけています。上半身は裸でさらしを巻いています。ゴールドの長いネックレスが妙に凄みを与えています。

私の知っているNさんとはまったくの別人です。


(アイスコーヒーの木星の模様のような感じが好きです)

「この当時のNさんに会っていたら、怖くてしゃべれないです」

「そんなことないよ」

喘息持ちで、気管支拡張剤をいつも携帯していました。

「この薬はね、心臓に負担をかけるんだよ」

「そうなんですか」

Nさんの言葉が漠然と胸の奥で気にかかっていました。

NさんのカローラLevinの助手席のドアポケットに山羊の首にかけるような鈴がありました。カーブを曲がるたびに優しい音が響いていたのを覚えています。

ちなみに、私の母はLevinのことをレービンと呼んでいました。Levinは古語英語で稲妻の意。

さて、突然の訃報を受け、その日にご自宅で対面しました。Nさんは眠っているかのような、穏やかな表情でした。

嗚咽をこらえながら、いろんな思いが込み上げてきました。


(蕎麦畑が広がっています)

ゆうべの夢の中で。

なぜか高級スナックでお互い極道者として酒を酌み交わしています。話題は、跡目をめぐってだったような気がします。

煙草を吹かしながら、Nさんはにこにこと話しかけてきました。

夢の中とはいえ、会えたうれしさが余韻となって胸に残っています。


(秋の七草)

もう一歩知ろうとする努力が足りなかった。痛切に思いました。子どものときから目にしていたのに名前を覚えようとせず今日まで来てしまいました。

外勤に出るたび、スタッフに「この雑草の名前、知ってる?」と尋ねるも、「わかんないですね」と誰からも返答がありません。

みんな知らないんだ。覚えるまでもない。そう心の中で決めていたように思います。

電柱を支えるトラ色のワイヤーカバーにからまったり、あちこちで繁茂し、セイタカアワダチソウのように、悪さをする外来種だとずっと思っていました。

じつは、子どものころ、うさぎを飼っていたとき、この雑草を餌にやっていました。うさぎが好んで食べるのを知っていました。

冬になると巨大なクローバーのような葉が枯れ、カサカサとさみしげな音を立てて寒風に舞い上がります。

ふと、土手を歩いていたとき、この雑草を見ながら、もうそろそろ名前を調べてもいいのではなか。心の中でそんな声が聞こえたような気がしました。

ネットで「雑草」を画像で検索。なかなか出てきません。次に「雑草 つる」で検索したところ、画像がありました。

どきどきしながら、10文字ほどのさぞ変わった名前が出てくるのだろうと、ページを開くと...。

「クズ(葛)」。マメ科のつる性植物。

え?こ、これが葛なのか。

私の好きな葛湯の葛。風邪を引くと飲む葛根湯の葛。吉野葛の葛。

雑草だと思っていたものが、じつは古くからある葛だったとは。48年間も知りませんでした。恥ずかしい。

葛だと知ったとたん、この草を見る目が変わりました。大げさにいうと世界観が変わりました。秋の七草の一つなのだそうです。

目にしているのに、知ろうとしなければ、知らないままで終わってしまう。人を見る目も同じことがいえるかもしれません。

毎日、いっしょに仕事をしているスタッフのことも、まだまだ知らないことだらけ。もう一歩、深く知ろうとする心が必要なのではないか。

耐震化工事で執務室に漂う強烈なシンナーのにおいに酔いそうになりつつ、そんなことを思いました。

スネークマンショーの「シンナーに気をつけて、壁塗んなぁ。わかりました。親方ぁ」という声が脳内に響いてきました。



(コウモリ除けなんだそうです)

Mさんとの会話。役職はプライバシー保護のため省略します。

Mさんと久しぶりの外勤。アサガオからシュークリームまで、車中会話の話題は川面に漂う浮き草のようにとりとめもなくつづきます。

「課長、アサガオってどう思いますか」

「アサガオ、好きだよ。特に琉球アサガオはいいよね。長持ちするし」

「おれのうちの近所にアサガオにやたら水をやっている人がいるんですよ」

「水をやるのはあたりまえじゃねぇのげ。アサガオって琉球アサガオげ」

「ふつうのアサガオなんです。ただ、夜中に水をやるんですよ。夜中に電気点けてですよ。おかしくないすか」

「確かに」

「しかも、雨が降っていても水をやるんです。気味が悪くて、この前、地元の駐在さんが訪問調査に来たときに、よほど訴えようかと思ったんです」

ここで、たまたま当地を代表する銘菓Jを製造販売する店Mの前を通り、話題はJに。

「Jはさ、でかくて重いし、めっちゃ甘いよね」

「Jも、おれが子どものときとくらべればずいぶん甘さ控えめになったんすよ」

「そうなのげ」

「お菓子っていえば、S屋のシュークリームに対抗して、同じY町内の菓子舗Tが張りあってんですよ。Y第一小学校の前にあるんすよ」

「菓子舗Tげ、初めて聞くね。S屋の巨大シュークリームはすごいよね。熱帯に咲くラフレシアのようだよね。カスタードクリームじゃなくて、生クリームってのがいい」

「そうなんすよ。底に薄〜くカスタードを塗って、上は生クリーム。その生クリームも、ごってりした動物性じゃなくて、植物性の感じがいいっすよね」

「うん、そうそう」

「で、課長、知ってます?菓子舗Tの豆大福がうまいんです」

「知らね〜なぁ。豆大福っていったら、U駅近くのF屋だっぺよ」

「F屋ももちろんいいんですけどね、菓子舗Tの豆大福は甘さ控えめで、男に人気なんです」

夜中に水をやるアサガオおじさんの存在が気になりつつ、結局、食べ物の話で終わる車中会話なのでした。

どうして、夜中に、しかも、雨が降っていても、アサガオに水をやるのでしょう。

気になって、眠れそうにありません。


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