(水の織りなす風景が好きです)

子どものころ、社宅の前の河口で潮干狩りをしました。干潮時にボートで中州に渡り、夢中でシジミやアサリを採ったものです。

潮の満ち引きは静かにひたひたと来きます。気がつくと、中州はほぼ水没。慌ててボートに乗ることもありました。

静かにひたひたとやってくる事象ほどやっかいなものはないのではないか。近ごろ、そんなふうに思っています。

大型客船を例にとりましょう。

暗礁に乗り上げるなどして、急に浸水する場合も、もちろん危険です。

ただ、そういった場合、船員は総出で、一丸となって対策を取ろうとします。対策が功を奏すれば最小限に被害は食い止められるでしょう。

ところが、ほんのわずかずつ浸水する場合はどうでしょう。


(木々が織りなす風景もいいですね)

危機が徐々に迫っていることは、みなわかっています。わかっていながら、静かなる危機に対しては、議論百出、責任の押し付け合いが起きます。

誰もが危機を論じ、そして、誰もが対策の必要性を声高に訴えます。

にもかかわらず、なにも有効な手を打たれないまま、沈没していってしまうのです。

誰もがその危機を知っているのに、我が事ではなく、他人事として捉えてしまう。

静かなる危機は、ひたひたと静かなるがゆえに、日常のルーティンのマネジメントで対応してしまいます。

そこに落とし穴があるのです。

むしろ、静かなる危機こそ、勇敢にして成熟した強制力を伴うリーダーシップによって対処しなければならない。

そう強く思う今日この頃です。


(髪の毛が「人」で胸の文字が「KEN」。法務省の人KENまもる君)

スーパーの見切り品ワゴンにコイケヤ・ポテトチップスが無造作に置かれていました。救出、いや、買ってあげなくては、との情が湧き、購入。

社長が地元出身で母校の先輩ということも思いの中にあったのかもしれません。あるいは、タイ文字に惹かれたのか。

エキゾチップス「マンゴーカレー味」

「芳醇なマンゴーの甘さとココナッツミルクのまろやかさ。甘さと辛さの絶妙なバランスがくせになる、タイテイストなマンゴーカレーの味わいに仕上げました」(株式会社湖池屋サイト)


(マンゴーの甘みとココナッツミルクのまろやかさが絶妙)

ひと口食べました。いい味付けです。現地の味覚そのものといってよいでしょう。タイでは売れる。そう思いました。

ただ、あまりにも忠実なタイテイスト。大丈夫なのか。

エスニックブームとはいえ、ココナッツミルクの入ったマンゴーカレーに魅力を感じる日本人はどれほどいるのか。

売れてなんぼの世界が商売です。

商売といえば、以前から疑問に感じている商品があります。

田舎の小さな八百屋の店頭に並ぶ、袋に入ったタネ。パパママストアでも見かけます。

野菜を中心に種類は意外に多く、縦5×横5のカゴ状の雛壇に陳列されています。

でも、その袋の多くが日に焼けて変色しているのです。ホウレン草やオクラの瑞々しい色が、茹でたあとのような色に。

とても残念です。

滞留在庫といってよいタネ袋たち。店主は果たして売る気はあるのでしょうか。

炎熱の夏にも、厳寒の冬にも、店先に並べられているタネ袋たち。風が吹けば、かさかさと乾いた音を立てます。

空気のような、ほとんど忘れられた存在。

興味がないので、私は救出しません。

もう一つ気になる商品に精肉店に鎮座している和牛のブロック肉があります。減りもせず、いつもあります。不思議です。

紙幅の関係で詳細は割愛します。なお、以前「歩留り(ぶどまり)」で少し触れています。

というわけで、売れるということ、売るということについて思索を深める必要を感じる今日この頃です。


(秋深し)

赤飯、メロン、シイタケ、ナスが苦手だという友人。ゆっくりと話をしたのは卒業以来。約30年ぶりです。宮崎から出張でこちらに寄ってくれました。

赤飯は、わけもなく嫌いらしい。前世はアメリカ人だったのではないか、と本人は勝手に思い込んでいます。

肴で運ばれてきたナスの揚げびたしをどんなに勧めても、強く拒絶されました。

「こんなにおいしいナス、なんで食べられないの。カブトムシみたいに見えるから?」

「皮と中身のギャップがいやなんだよ」

友人曰く。メロンとシイタケとナスには共通したものがあるという。

「ぶよぶよとした部分がいやなんだよ。口が受け付けない」

「ぶよぶよ?へ〜」

同じ寮に住み、同じゼミだったのに。

友人が赤飯、メロン、シイタケ、ナスが苦手だったなど露知らず。友人のことをまったく知らず、申し訳ない思いです。

いかに当時の私は殻に閉じこもっていたか。いかに周りの人のことを考えていなかった。

そういうことだと思います。

寮のコンパで一芸を披露した際、先輩のSさんからいわれた「己を捨てるんや」との言葉。いまふたたび胸中に蘇ってきます。

私の芸は、憑依した霊媒師でした。トランス状態になり、己を捨てて演じました。

映画監督として活躍するSさんの詳細は「谷グチ夫妻」を参照。

「人生に必要な知恵はすべて学生寮で学んだ」

私の偽らざる実感です。

職業柄、そして、職階も上がり、コスチュームもそろそろ卒業したほうがいいのではないか。そんな心の声も響いてきます。

が、着ると別な人格を発見できる快感がやめられません。

忘年会シーズンの到来間近とあって、新たな着ぐるみの物色に余念のない今日このごろです。




(ハクチョウ。迷わず毎年来るところがすごい)

「意味するところ」と「その対応」は異なります。「危」や「毒」の表示のある車両。意味するところはわかります。が、では、いったい私たちはどうすればいいのでしょう。

自動車は、ある意味すべて危険なものです。毎年何千人もの人がこの文明の利器によって命を失っています。

「危」の表示は、事故を起こすなど危険な運転をする車両にこそ付けるべきではないのか。そんなふうに思います。

蛇足ながら、震災前のこと。夜遅く、黄色地に黒色三つ葉の放射能標識の付いた大型車の後ろを走ったことがあります。

なにを積んでいたのでしょうか。わかりません。

「危」や「毒」の表示はありませんでした。あくまでも安全だということなのでしょう。

ところで、「よろしくお伝えください」(以下、「よろ伝」と略)と託されたとき、その伝達率はどの程度なのでしょうか。

「わかりました。お伝えします」といいながらも案外、伝達率は高くないかもしれません。

仕事とは無関係の異業種のセミナーに参加するのが好きな私。その後の交流会で名刺交換する場合があります。

私の上司は顔が広いため、名刺交換などの際、「○○部長さんによろしくお伝えください」と上司への「よろ伝」をお預かりすることが少なくありません。

そういった場合、翌日、その方の名刺のコピーを上司に渡しながら、「よろ伝」を伝えるようにしています。

「よろ伝」をないがしろしない職場、あるいは家庭。きっといい雰囲気になることと思います。

小さなことですけど。


(いろいろ巻かれていて美味しい。新潟にて)

バカリズムの升野英知さんのセンスに膝を打つことが多々あります。「トイレの水を流すときの『大』と『小』の表示はおかしくないか。『多』と『少』ならわかる」。なるほどと思いました。

大だからといって必ずしも「大」を選択する必要はない。そこに本来は判断という脳作業があってしかるべきだ。

そういいたいのだと思います。

その意味で、あのレバーは単に水の量の多寡を表示すればいいという結論になるのでしょう。人によって、あるいは、その日の出具合によって、当然使う水量は異なるはずだ、と。

バカリズムは優秀です。

ところで、星々のつぶやきの読者からぜひ読むようにと勧められた記事があります。

小学校のトイレはなぜいまだに和式なのか? 戸惑い、我慢しちゃう子も…」(2015.10.18産経新聞)

「臭い、汚い、暗い…。学校のトイレに悪いイメージを持っている人は少なくない」との出だしで始まる興味深い内容です。

見出しを拾ってみます。

・「足を突っ込んじゃった」

・和式だとうんちを我慢?

・耐震化を優先「予算がない」

・健康に関わる問題

・和式トイレの自主トレ!?

・大切なのは我慢しないこと

記事によると、「入学前の説明会などで、『和式便器のトレーニングを』と保護者に呼びかけているという。小林製薬の調査でも、約6割の保護者が入学前に和式便器のトイレトレーニングを実施していた」という。

「安心してトイレができるように、色々なトイレがあると教えてあげることが大切」(東京家政大学の佐藤暁子准教授)

トイレ環境の改善を訴える、NPO法人日本トイレ研究所(東京都港区)の加藤篤代表理事はいう。

「耐震化も大切だが、排泄は日常の生活に関わる大切なこと。食育だけでなく、排泄についても家庭と学校で取り組む必要がある。うんちを我慢しながら、勉強したり、給食を食べたりは無理な話。トイレの改修にもコストをかけるべきだ」と。

というわけで、食育の次は「トイ育」だと膝をぱーんと打った今朝でした。それにしてもNPO法人日本トイレ研究所が気になります。


(苦手なヤツデ。特に花がダメです)

クスリや栄養剤に「○○○○○ン1000mg配合」などと謳っているものがあります。大概、末尾に“ン”が付く成分です。

「配合」なんていうとなんだかすごそうですけど、要は「入ってる」というだけの話。しかも、単位がせこい。

たとえば「タウリン3000mg」。三千という語感に惑わされてはいけない。たかが3ccです。

ところで、温めたものを取り忘れると、少しの間、電子レンジは警告音を鳴らしてくれます。1分おきに5回ほど鳴ります。

ちょうど電話があったり、来客があったりして、電子レンジで温めたことを忘れてしまうことがあります。

警告音の有効時間が過ぎてしまうと電子レンジは沈黙します。うんともすんともいいません。

温めたものがあるのを知っているにもかかわらず、食べ物が冷えていくのを知らぬふりをする電子レンジ。

ここからが大事だと思うのです。5分間鳴らせば、私の役目は終わった。このお役所仕事のような電子レンジの根性が許せません。

ITの時代です。いまこそ電子レンジの進化のときだと私は思います。

スマホと連動させ、画像付きで、設定した一定時間後に通知するというのはいかがでしょうか。

「あっそうだ。牛乳を温めてそのままだった」という具合に。

20分後くらいならもう一度温め直して飲めます。でも、2時間後に気づいたときは、その気持ちは萎えてしまいます。

こういった事例による食べ物の廃棄量は国内で年間約200トンにのぼるといわれています(シンクタンクだいこんくん推計)。

というわけで、スマホ連動型温め置き忘れ防止機能付き搭載の電子レンジの開発が待たれます。


(行くぜ、東北...か)

市役所8階食堂にお弁当27個を注文。東京から来る大学生の昼食です。学生の負担を少しでも軽くしようと400円(税込)でお願いしました。

「27個ですね。27人の年齢層を教えてください。どのような集まりですか」

「大学生の視察です。引率の先生以外は大学生です」

「かしこまりました。男女比はどうですか。なにか入れてほしいおかずはありますか」

「女性は数人です。おかずはおまかせいたします」

大手の弁当チェーンの原価率は5割強といわれています。弁当は他の外食産業と比べると原価率が高い。

たかが400円の弁当。されど弁当です。

年齢層、男女比、どのようなシーンでの食事なのか、なにか好みのものはあるか。

客の立場に立って市役所8階食堂の担当者は考えてくれました。

通常、職員向けに380円(税込)の日替わり弁当を提供してくれています。

プラス20円の400円であれば、お客様に出しても大丈夫だろう。400円で作ってくれればいい。そう軽く考えていました。

私は自分の姿勢を反省しました。

作り手は真剣です。小さなことに全力投球する、プロフェッショナルを感じました。大事なことを学ばせてもらいました。

視察当日、弁当を開けてみると、冷製のあえ物あり、ボリューム有りの美味しいお弁当でした。

もちろん、学生さん方も喜んでくれました。

市役所8階食堂については、「ナポリタン 350円」と題し、以前つぶやいています。併せてお読みいただければ幸いです。


(無人駅のハロウィンカボチャ。窓になにか写っているような)

渦が好きな友人がいます。浴槽の栓を抜いたとき渦を見続けるという。渦には不思議な魅力があると思います。

銀河系も巨大な渦です。中心部には超強力な吸引力を持つブラックホールがあるといわれています。

台風も渦です。赤道付近で生まれた空気の小さな渦がやがて大きなパワーを持つ存在にまで成長する台風。今年は大きな被害をもたらしました。

職場のトイレはときどき詰まりそうになります。水防団待機水位からいっきに氾濫危険水位まで上昇。

あわや氾濫というときに、水圧に抗することができず、断末魔の雄叫びをあげながら、吸い込まれていきます。

このようなとき滝つぼは一瞬空になり、直後に戻り水がやってきます。

ところで、最近、トイレに関する情報が様々な方から私に寄せられるようになりました。渦の中心にいる気持ちです。

提供いただいた情報によって深掘りした考察が可能になるとともに、人的ネットワークも広がっていきます。

やがて、トイレの第一人者として認知され、ますます人と情報が集まってくる。

このターボエンジンのような循環系が回り始めたとき、プロフェッショナルになるのではないか、そんなふうに考えます。

ですから、プロフェッショナルとは、渦を起こし、渦を育て、渦によって恒常的に人と情報のネットワークを築き上げていく人。そんなふうにいえるのではないでしょうか。

というわけで、トイレコンシェルジュとして小さな渦を丁寧に育てていこうと決意を固めた次第です。


(バカなトノサマバッタもいるのでしょうか)

ベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調作品67、いわゆる「運命」の冒頭に八分休符があります。「ジャジャジャジャーン」ではなく、あえていえば「ン・ジャジャジャジャーン」。

もう一つ例えていえば、歯磨き粉(粉ではないという議論はこの際置いておきます)をチューブからにゅるっと出すのが、八分休符のない「運命」。

一方、チューブに圧力をかけて、キャップがぽんと飛び出すと同時に歯磨き粉も爆発的に出るのが、八分休符のある「運命」といえるでしょう。

ベートヴェンは、あの八分休符に命を込めたといっても過言ではありません。

さて、震災以前、「福島」という名称は、耳で受け取る音としては、hukusumaに近いものでした。

ところが、世界中に知れわたったいま、fukushimaといわれるようになりました。なんだか違う名称をいわれているような居心地の悪さを感じます。


(モンブラン、大好きです。よろしくお願いします)

いちばんの理由は冒頭のfです。

fは、上の前歯の先端を下唇に軽くつけて息を吐き出す「無声唇歯摩擦音(むせいしんしまさつおん)」であるため、強い違和感を感じます。

まさに、「運命」の八分休符のように、いったん溜めがあって、吐き出されるため、これまで私たちが使いなじんできたフラットなhukusumaのたおやかさが変質してしまっているのです。

そんなことを思いながら、宮城県角田市から職場に来たケーキ屋さんからいただいたモンブランを食べています。


(旧友との語らいはいいですね)

理由はわかりません。子どものころからヤツデが苦手。祖父の家の玄関わきに大きなヤツデがありました。まず濃緑の葉っぱが嫌い。そして晩秋に咲くクリーム色の花も。

ヤツデは爬虫類を想起させます。襲いかかってくるような気がするのです。

フキノトウの花は、まぬけが感じがするのに、ヤツデの花は怪獣の目のようです。

よく無人駅の便所(ここではあえて便所といいます)の脇にあるのも嫌悪感を助長します。“便所の木”と名付けたいくらいです。

ちなみに、ヤツデの葉っぱは奇数にしか裂けないそうです。

なぜ八手(ヤツデ)と呼ぶのでしょうか。七手あるいは九手に改めるべきでしょう。

ところで、トイレットペーパーの三角折りをめぐって姉と議論になったことがあります。

「トイレットペーパーの端を三角折りするのってどう思う?」と姉。

「いいんじゃないの。ホテルみたいだし」と答える私。

「見た目はそうかもしれないけど、汚くない?」

「いわれてみればそうかも..」

「お尻を拭いた手で折るわけだよね。汚いと思うの。だから、私、三角折りするの、やめたの」

汚いかどうかという問題よりも、姉がそれまで三角折りをしていたことに私は驚きました。

米国の消防署でこの三角折りが始まったという説があります。そのため、「ファイヤー・ホールド」と呼ばれるそうです。が、俗説のようです。

ホテルの三角折りは清掃担当の従業員の方がやるので私はいいと思います。清掃済みの証として始まったともいわれていますし。問題ありません。

職場の清掃業者の方もいつも三角折りにしてくれています。いい感じです。

が、排泄後にどなたかがなさった三角折りは、姉のいうようにちょっと抵抗がある、と思いきや、実物を見ると、あら不思議。なんだか印象がいいのです。

“三角マジック”ともいうべき現象が起きます。

死装束の額に着ける天冠(てんかん)が三角形なのも関係があるかもしれません。

とういわけで、「天道是か非か」並みに「三角折り是か非か」、難しい判断を迫られている今日このごろです。

司馬遷さん、こんなことに引き合いに出してすみません。


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