(人生も吊り橋みたいなものかもしれない)

映画「はなちゃんのみそ汁」の試写会に招かれました。玄米を主食とした食生活のシーンを見ていて、私の母のことを思い出しました。

映画を見る前にトイレに行きました。

不思議なことに小便器がとても小さい。私の付け根はふつうの人より低いのです。要するに、脚が短い。その私のよりも低い位置に便器の上部がありました。

なにか意図があるのか、放尿しながら、考え込んでしまいました。職場にあるものと比べ相当に小さいのです。

職場のは、ギザの大ピラミッドの王の間にある石棺を思わせる造りで、圧倒的な存在感があります。

映画館のものは、いったいどうしたのかと思うほどの可愛らしさ。

これだけ低いと、しっかりと便器に近づかざるを得ません。遠距離放水による飛沫(しぶき)防止のためなのかもしれないと思いました。

さて、玄米食のことです。母は末期がんで摘出術を受けたあと、自主退院してしまいました。

東京の先生のところに通いながら、玄米食を中心に野菜や小さな魚を副菜とした質素な食事を「療法」として実践しました。

当初入院した病院の主治医からは、余命いくばくもないといわれた母。その母が寿命を4年以上も伸ばしたのは、「療法」の効果があったのかもしれません。

母がだんだん衰弱し、立つこともままならない状況になったある日のこと。

寝床で半身を起こしながら、電磁調理器でみそ汁を作っていました。

息子の私にどうしてもみそ汁を作ってやりたいと思ったというのです。ふだんは私が料理を作っていました。

母は死期を間近にしてどんな思いだったのでしょう。

母といっしょに毎日玄米を食べた日々を映画を見ながら思い出しました。

がんを発病したときの両親の年齢に間もなく到達する私。いろんな思いが去来します。

そろそろブログも真面目なものを中心にしようか、と路線について迷っています。


(予防接種をしました。プーケットが気になります)

チャーハンに付いてくるスープは、正油ラーメンのスープとまったく同じものなのか。要するに麺の入っていない正油ラーメンといってよいのでしょうか。

ずいぶん昔から疑問に思いつつ、誰にも尋ねることなく今日まで来てしまいました。

まったく同じような気もするし、いくぶん薄味で酢も入っていることもあるように感じます。

ところで、インフルエンザの予防接種をしてもらいました。院内の壁に貼られているポスターがどうにも気になります。

「今シーズンのインフルエンザワクチンには、このワクチンウイルス株が入っています」と書かれ、4種類のウイルス株が紹介されています。

A/カリフォルニア
A/スイス
B/プーケット
B/テキサス

いったいなんのでしょう。まるでカクテルの名前のようです。

接種してくれる看護師さんに尋ねようと思ったのですが、雰囲気に迫力のある看護師さんで質問する勇気が湧きませんでした。情けない。

左腕の静脈をバッチリ出していたら、静脈ではなく肩に近い腕の皮下注射だといわれました。

年甲斐もなく、ちょっと赤面してしまいました。訊くにきけずの進歩のない話で申し訳ありません。


(カエルは不思議な生き物です)

どちらの派に属しているか。そこが大事だと世の中では思われています。派をめぐって戦争まで起きるのですから厄介です。

ソシュール言語学において丸山圭三郎氏は「言分け」という概念を用いて、言葉によって物事は初めて区分されることを提起。

そこでです。

トイレットペーパーを使う際の「くるくる派」と「びろびろ〜ん派」という言分けによって見えてくるものを考えてみたいと思います。

この両派の概念。じつは、読者からのサジェスチョンにより啓発を受けたものです。

私自身も両派の存在について薄々は感じていました。

そもそも「くるくる派」と「びろびろ〜ん派」とはなにか。

「くるくる派」は文字通り、トイレットペーパーを芯近くで両手を用いてくるくると巻き上げる方法です。「糸巻き巻き糸巻き巻き、引いて引いてとんとんとん」といった具合です。

これに対して、「びろびろ〜ん派」は、耕運機のエンジン始動の綱引きよろしく、紙の先端を持ち、50センチ程度びろびろ〜んと引く作業を数回繰り返し、紙を丸めるというものです。

「びろびろ〜ん派」には、使用上の注意があります。

圧の強いホルダーのノコギリ刃の場合、ぱかっと上に持ち上げ、噛み合わせを解除したのちに紙を引っ張る必要がある、ということです。

別名を「勧進帳スタイル」とも呼びます。なぜなのかは、ぜひ歌舞伎をご覧になってください。

一説によると、「くるくる派」も「びろびろ〜ん派」もトータルとしての紙の使用量に相違はないといわれています。

また、和式トイレにおいては「くるくる派」で、洋式トイレでは「びろびろ〜ん派」に変身するという「バイユーザー」もいるようです。

いずれにしても、この両派の分布状況をリサーチする全国一斉調査が待たれます。

5年後の国勢調査の際は、調査項目に加えるべきと総務省に働きかけたいと思います。

年代別、地域別といった両派の分布状況が明らかになるに違いありません。

あなたは、「くるくる派」それとも「びろびろ〜ん派」ですか。


(友人から大好きなモーニングの飲むヨーグルトをいただきました)

どうしてなのだろう、と思うこと二つ。一つは、ロッテのジャフィーがなぜ復活しないのか。二つは、あと数回の回転で切れる最後のトイレットペーパーの芯を残してなぜ去る人がいるのか、です。

私はジャフィーが大好きでした。

クッキーにマーマレードジャムを乗せ、そこにチョコレートでコーティング。チョコにマス目上の紋様が付いていました。

前歯でかじると、上顎の歯がチョコ層を下顎の歯がクッキー層をとらえ、上下の歯がマーマレードジャム層で出遭います。

この3つのセグメントが織りなすシンフォニー。言い換えれば、クッキーという通奏低音の中でオレンジの酸味とチョコの甘さが奏でるハーモニーでもあります。

クッキーの硬さとジャムとチョコの粘性が口の中で幸せを広げてくれました。

もう一度、私に幼少のころの幸福感をよみがえらせてほしい。

ネットでも私と同じように復活を望む声が散見されます。

ロッテにはこの思いを真摯に受け止めてほしいと思います。どうして復活しないのでしょう。

復刻版「ジャフィー」を切望します。

それから、もう一つのなぜの「あと数回の回転で切れる最後のトイレットペーパーの芯を残してなぜ去る人がいるのか」について。

種々検討した結果、そういう人も世の中にいるということで、自分として納得したので、今回は、ここで筆をおきます。

ちなみに、私は、そういうときはおろしたてのトイレットペーパーに交換します。

数回転分をムダにするかもしれません。でも、次に使う人の気持ちのよさとムダの費用便益を勘案すると、前者の方が優っているようが気がするのです。


(地元の喫茶店が好きです)

雨の朝。最寄りの無人駅まであぜ道を歩いて30分弱。ディーゼルエンジンを吹かしながら列車がやってきました。

向かい合わせの2人席に着席。私はいつも進行方向に背を向けて座ります。急停車したときのダメージが少ないと思うからです。

航空機のキャビンアテンダントもそんな座り方をするような気がします。

ふと横を見ると4人席のボックスに男子高校生がひとりで座っています。そこに高齢の婦人がゆっくりと腰を下ろしました。

婦人は高校生に向かって話しかけます。スマホをいじくっていた高校生の顔に当惑の色が浮かんでいます。

がんばれ、男子高校生。LINEだけでなく、リアルなコミュニケーション・スキルも磨いてほしい。

2駅目が終点です。あっという間のローカル線の旅。高校生も安堵の表情です。


(グリルサンドを食べると幸福感が湧きます)

駅前の喫茶店に向かいます。

モーニングセットができるまでの間、地元紙と全国紙に目を通します。惜しむらくは日本経済新聞がないことでしょうか。

新聞は隅から隅まで読むのが好きです。広告も大事なポイントです。

以前、カニの新聞広告を見て、騙されたつもりで注文したことがありました。

物が届いてわかったこと。


(写真はじつに美味しそうです)

・広告の写真というものは最良のカニを用い、最高によく撮れた一枚を使っていること。

・解凍したあとのカニ、特にむき身は、魂を抜かれたかのように生気がないこと。

・思わずカニカマ(北海道では「アラスカ」)の方がマシと感じてしまったこと。

というわけで、騙されたつもりで、騙されました。

「わたしは、決して失望などしない。なぜなら、どんな失敗も、新たな一歩となるからだ」(トーマス・エジソン)

次回はフグを注文してみようと思います。


(石畑踏切)

からつづく)

湯本駅前の沖縄料理店「A家食堂」。ソーキソバに添えられている叉焼の存在感が圧倒的です。こんなに入れていいのか、と思いました。申し訳なくも完食できませんでした。

エネルギーを充電して、湯本駅前から旧国道6号に向かいます。

歩いて感じることは、町が、歩く速度で見せる(魅せる)作りになっていないということです。


(東京から194.4km地点)

当然といえば当然です。東京都23区の約2倍の市域にもかかわらず、常磐線10駅、磐越東線4駅の合計14駅しか鉄道駅がないのですから。

鉄道網の発達した町の場合、基本的に徒歩での来客を想定しています。そこが違う。歩く速度で見せる(魅せる)町が形成されていきます。

そんなことを考えながら、旧国道を南下し出しました。旧国道とはいえ、交通量は多く、交差点付近では渋滞も見られます。

道路の右側を歩いているので、北上する車の視線を強く感じます。歩いているのは私だけ。

50メートルほど数珠つなぎになっている渋滞個所では、物言わぬ奇異な視線を浴びせられながら、徒競走選手のように足早に歩いていきます。


(夕暮れのドブ川が物悲しい)

いよいよ常磐下船尾から常磐岩ケ丘にかけての工場地帯に入りました。緊張が走ります。夕暮れの侘しさが不安感を助長します。

この工場地帯に足を踏み入れると、存立危機事態の対処施設は、1キロ先のセブンイレブン小名浜島店しかありません。

私の徒歩速度は、100メートル1分(時速6キロ)。10分間を乗り切れるか。

下腹部が下痢に急襲された場合、歩ける距離は、これまでの経験則上、100メートルが限界です。

それ以上の距離があるときは、「言語能力の大切さ」で紹介した日村勇紀さん考案の「ヒール・ストップ」に頼らざるを得ないかもしれません。


(工場ばかりです)

結局、下痢は杞憂に終わり、無事、工場地帯を抜け、セブンイレブン小名浜島店をも過ぎることができました。

やればできるではないか。なんだか自分に自信が湧いてきました。


(極楽湯は文字通り極楽です)

己のことを己自身がほめたたえる。大事なことだと思います。そこで、自分への賞与として極楽湯福島いわき店を目指しました。

ついに歩いての極楽湯入店。

「やっとたどり着いた」。正直な感想です。玄奘三蔵が天竺に入域したときの感動もかくありなんと感じました。

サウナと温泉で汗をかき、身を清め、髭をそり、髪を整え、向かった先は、マンマ・マリィ泉店。

ボジョレー・ヌーボーをいただきました。


(ボジョレー・ヌーボーを飲む集いに参加)

この「ヌーボー」という語感はどうにもなじめません。というか、好きではありません。

フランス語圏でテレビCMを見ていると、やたらに「ヌーボー!」と叫びます。日本でいう「新発売!」です。

そんなことを思いつつ、4種類のボジョレー・ヌーボーを交互に飲みながら、きょう一日のことを振り返ろうとしました。が、酔いが先に回り、なんの反省もなく終わりました。

ヌーボーとした一日でした。


(温泉情緒の漂う湯本駅)

ひとり歩き(下)」の続編です。前回は湯本駅に到着したところで終わりでした。一つ南下して泉駅を目指しましょう。

ところで、湯本駅の発車メロディーは当地にゆかりのある野口雨情作詞による「シャボン玉」。

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ
(1995年、著作権失効)

生まれすぐに亡くなった野口雨情の子を悼んで作ったという説もあります。そうなのかもしれません。心が痛みます。

私の友人は「強風が吹いて、屋根まで吹き飛ばされて家が壊れて消えたのだと思っていた」という。

童謡から憲法まで人の解釈というものは、多様なのだと改めて思いました。だから面白いのです。


(いつか入ってみたいと思っている天都居。「あどりぶ」と読みます)

さて、ひとり歩きに話を戻します。

健脚とまではいえないものの歩くことには自信があります。心配なのはお腹の具合です。

田んぼを主体とした、地元でいう裏道をナビは推奨しています。が、私の場合、突然の下痢に対処する必要があります。

存立危機事態に対応可能な施設の充実度を勘案し、旧国道6号線、いわゆる陸前浜街道を選択したいと思います。

地元では「6国(ロッコク)」と呼びます。

東京都道318号環状七号線の略称が「環七」を思うと数字を先に置くのは変な気もしますが、そんなことをいう人は誰もいません。

ロッコク沿いには施設がたくさんあります。

湯本駅から旧国道に入り、数キロは心配無用。さがみ葬祭会館いわき店、ローソン常磐関船店、常磐消防署、パチンコからしまなどがあるからです。

その後もダイソーいわき湯本店、ツルハドラッグいわき湯本店、いわき中央警察署常磐分庁舎(常磐交番)と続き、大丈夫そうです。

しかし、その後、常磐下船尾から常磐岩ケ丘にかけての沿線は工場ばかりです。


(A家食堂のソーキソバ。叉焼がすごい)

この工場地帯が難所となりそうです。不安がよぎります。存立危機事態に至らず、無事に切り抜けることができるでしょうか。

まずは、ソーキソバを食べてエネルギーのチャージです。

(につづく)


(太平洋の朝日)

ベビースターラーメン。いわずと知れた、おやつカンパニーの味付けフライ麺風のスナック菓子。

子どものころ、ベビースターラーメンは20円だったと記憶しています。墨汁の朱液のような色の袋に入っていました。

1971年に子ども向けスナック菓子で一番(スター)になりたいという想いを込め「ベビースターラーメン」に名称変更すると同時に、価格を20円に変更したという。(出典:ウィキペディア)

そこで、ベビースターラーメンを食べる作法についてです。

まず、人差し指と親指を使って袋からつまんで取り出します。だいたい5〜6片取れます。

でも、数回に1回の割合で数片落ちます。せこせことつまむのがいやになり、少し大量につまもうとすると落下率が高まります。

この捕獲率と落下率のせめぎ合いの中で、つまみ方に磨きがかかってきます。

そこで、挟む指圧を調整しつつ、中指にもお出ましいただき、一定の量のかたまりを包括的につまみ出します。

この場合、口へそのまま平行移動すると、落下の恐れがあるため、顔を仰角45度ほど上げます。

いつのまにか、親指、人差し指、中指、そして首まで総動員する事態になっています。

ところが、やはり、細心の注意を払いながらも、口に放り込む瞬間に数片の落下が発生することがあります。なかなかやっかいです。

あごに当たる切片や左胸のポケットに入り込むやつもいます。

あご経由で首筋から下着の中に入ることもあります。こうなると、ズボンからシャツを出して、除去するという面倒なことになります。

残りが少なくなると、袋ごと仰角45度の口に注ぎ込むこともありますが、咽喉に突き刺さるおそれがあり、危険です。

また、大量に口に入れると噛み込む際に歯ぐきを刺激することもあります。

袋口づけ方式の際は傾斜角度とベビースターラーメンの摩擦係数をよく勘案して投入量を決定しなければなりません。

というわけで、「どでかいラーメン」シリーズが発売されたとき、「これをやっちゃベビースターラーメンはおしまいよ」と思いました。


(竹林と空と川)

通勤で鉄道を使っています。「電車」といいたいところですが、架線のない単線でディーゼルエンジンが動力ですので、「電車」といえばウソになります。

ところで、車両の中では通話は禁じられています。なぜ携帯電話で話すことはいけないのでしょう。

「お客様のご迷惑となりますので...」と断りが書かれています。

では、なぜ、通話は迷惑となるのか。その理由は特段示されていません。自明のことだというのでしょうか。

音声を発するという行為においては、客同士の会話も同じなのに、会話は禁じられていません。

いったい通話のなにがいけないのか。

音量なのでしょうか。音質なのでしょうか。あるいは、電話をしているしぐさが不快感を与えるのでしょうか。

一方で、職場での同僚の通話はさほど気にならないという事実もあります。必ずしも他人の通話が受け入れられないというのでもなさそうです。

ふと思います。一方的に受話しているだけなら大丈夫なのでしょうか。

であれば、応答をあらかじめ自分の声で十数パターン用意しておいて、画面で選択して答えるというのはいかがでしょう。

「もしもし、○○だけど電話大丈夫?」

「タダイマ、デンシャナイニイルタメ、ジドウオンセイデオウトウシマス」とのメッセージがまず流れます。

「自動音声ね、わかった。明日のコンパなんだけど、場所が○○に変わったからね」

「ワカリマシタ」

「時間は変更ないから」

「ワカリマシタ」

「では明日ね」

「ワカリマシタ。アリガトウゴザイマス」

といったアプリができたら面白いかもしれません。

いずれにしても、会話が可で通話が不可の明瞭な理由を私は実証的に探りたい。他人の通話のいったいなにが人を不快にさせるのか。

そんなことを来年の研究課題にしたいと思います。


(どこか遠くに行きたい)

中学3年生のとき、ニュータッチ「チャーシューメン」に初めて出会い、美味しいと思いました。34年前の秋ごろのことです。

「味噌か醤油か醤油か味噌か。うまいヌードル、ニュータッチ」のCMソングが流れるとパブロフの犬のように反応したものです。

茨城県八千代町にある即席麺メーカー「ヤマダイ株式会社」は、大手ほどの知名度はないものの、堅実に美味い即席麺を作っている、と私は評価しています。

当時、高校受験で深夜まで勉強するフリをしていた私は夜食という特権を与えられていました。

「ニュータッチチャーシューメンを夜食に買ってきて」と母にお願いをしたところ、大きな段ボールごと買ってきてくれました。

毎晩毎晩、私はニュータッチチャーシューメンを食べ続け、だんだんいやになってきました。押入れにあるニュータッチの段ボールに嫌悪感を覚えるまでになりました。

でも、頑張って完食しました。

スープのにおい、麺の食感、チャーシューの味覚のすべてが、いまも脳に刷り込まれています。

ところで、弁護士バッチに刻まれている天秤(てんびん)は、なにを意味するのでしょうか。

「公正と平等」を意味するといわれています。

公正と平等の重要な考えの一つに等価があります。そのため、釣り合っている天秤が弁護士バッチの中央のシンボルとなっています。

つい最近までバビロンのハンムラビ法典のことを私は誤解していました。

「『倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ』すなわち、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めること(罪刑法定主義)がこの条文の本来の趣旨」だというのです。
(出典:ウィキペディア)

「やられたらやり返す」といった復讐を奨励するものではない。同害による応報を規定しているだけに過ぎず、等価の考えが貫かれているのです。

まさに天秤の思想です。

ただ、この天秤の思想が謳う「公正と平等」には欠けていることがあるような気がしてならないのです。結局は、応酬の繰り返しを防ぐ力にはなり得ていないのではないか、と。

4千年近く前のいまのイラクの地に栄えた都市国家バビロンに思いを馳せながら、ニュータッチチャーシューメンのことを考える晩秋の朝でした。


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