(オモトが織りなす世界)

未知の深淵を垣間見るとき私は心躍ります。久しぶりに知人宅を訪問。鉄骨造りの温室のようなものを組み立てている最中でした。

「何を作っているんですか」

「オモトを入れる小屋を作ってんだ。交配させるのに」

「オモトの交配って何ですか」

「オモト、わがんねぇのげ。『万年青』って書く観葉植物だよ。こっちきてみぃ」

南京錠で施錠されている隣の小屋に招じ入れられました。鉢が所狭しと並べられています。

一見すると、元気のなくなった君子蘭の葉のようにも、干からびた昆布のようにも見えます。


(金額にしたら相当なものです)

「これは5年経ったやつ。こいつとこいつを交配させるんだ」

「オモトの雌雄は別株なんですか」

「雌雄両性なんだけど、発情期にこいつのオスを殺して、こっちの花粉をつけてやるんだ」

話の内容がよく理解できません。オモトは発情する植物なんだぁと思いながら、小学生のとき読んだイギリスのSF小説『トリフィド時代』を思い出しました。

歩く食虫植物の話です。読了後、夢にたびたび出るようになり、よくうなされました。「トリフィド」と画像検索すると不気味な挿絵がご覧になれます。

さて、知人のオモト談義はますます熱を帯びてきます。

「こいつのゲイ※はいいね」

「ゲイ?」

「葉の色合いとかシワを芸っていうんだよ。芸を競うんだ。フラワーセンターでやる品評会に出して5位に入れば全国大会に行けんだ」

公益社団法人日本おもと協会によると「徳川家康が江戸城入府の折り、3本のおもとを携えたという故事」があるという。由緒ある植物のようです。

江戸期に大名の間で栽培が盛んになったそうで、利殖の対象にもなり、一部のオモトには一芽百両という値がついたという。

さらに明治10年には一鉢1000円(現在の貨幣価値にして1億円)というものもあったというのですから驚きです。(出典:ウィキペディア)


(平成27年の万年青銘鑑=番付です)

知人はまだ小さな鉢に入っているオモトを手に取りながら、沁みじみと語ります。

「こいつは協会に登録してあってね、白い色がうまく出れば、80万円にはなるな」

鉢に「舞子」や「円心」といった名札が差されています。

交配の結果、その独自性が認定されるとその自分が考案した名称が協会に登録されるという。驚いたことに毎年番付まで発表されるのだそうです。

オモトを見ていたら、不思議なことにとろろ昆布を入れたうどんが食べたくなりました。今夜はうどんにします。

また一つ未知の世界が増えました。

※芸(げい):万年青における葉の状態や葉姿、柄などの特徴の総称をいう用語。(出典:ウィキペディア)


(ここが居場所のような気分になってくる)

少し時間の経った海苔弁の海苔から漂う潮のにおい。ご飯と海苔と醤油の融合したにおいです。それを嗅ぐと私は切なくなります。

幼稚園に通っていたときです。母に持たせられた弁当のご飯は、海苔が2層になって入っていました。表層の海苔よりも下層の海苔が染みていて美味しい。

たいがいの場合、私は泣きながら弁当を食べていました。

先生にいわれたことができずに自壊して泣いているか、あるいは、周りの園児にいじめられて泣かされているかのどちらかでした。

どん詰まりの早生まれであったこと、生まれつき聴覚に障害があったことなどから、物事についていくことができませんでした。

「ついていけない」ということの切なさをいまもありありと思い出すことができます。

お遊戯の時間の楽器の演奏や踊りについての説明を聞いてもどうすればいいのか、さっぱりわからない。

周りのみんなは理解して、配置についたり、てきぱきと動く。ひとりだけ動きのないのが私。

取り残され感が胸の鼓動とともにこみ上げてきます。

涙腺が熱くなってじわっとしてきます。余計に聞こえなくなって、いっそうわけわからなくなります。

お遊戯で先生の弾いた足踏みオルガンの音色も苦手です。オルガンで奏でられる童謡の「チューリップ」を聞くと胸が締め付けられます。

遊びの時間になると園庭の隅にある砂場でひとりで砂をいじって佇んでいました。

毎朝、幼稚園から迎えにくるマイクロバスに乗るのが嫌でした。泣いて抵抗しました。まるで牛舎から引っ張り出されて車に乗せられるのを拒む牛のようでした。

母も観念したのでしょう。半年だけ通園して私は幼稚園を中退しました。たぶん、中退させられたのでしょう。

私も切なかったですけど、母ももっと切なかっただろうなぁと今になって思います。

海苔弁を食べて「切なき思ひぞ知る」のでした。


(カフェは思索の場)

(からつづく)

マネジメントに関するほとんどの論考は、いかに組織を変えるか、どのようにすれば変わるか。そこに焦点を当てているといってよいでしょう。

でも、人はそう簡単に変わるものではありません。

もうそろそろ、人は変わらないことを前提に組織のマネジメントは考える必要があるのかもしれません。

ところで、厳しい強圧的な上司と優しい温和な上司のどちらが好きでしょうか。頭のキレは両者とも甲乙つけ難い。

私は両者に仕えた経験があります。

仕事の成果の違いといえば、前者の上司は、次々とアイデアを出し、部下職員を指揮して、きびきびとした組織を目指していたように思います。

様々なプロジェクトを立ち上げ、先進的な取り組みを推し進めました。

一方、後者の上司は、解決が難しく先送りしてきた懸案の筋道を立てて、面倒な内部調整を率先して行い、部下職員が仕事をしやすい環境づくりに努めていたよう見えました。

日々、どんな懸案があっても、解決の道筋が見えるため、仕事をしに行くのが楽しかったのを覚えています。

組織がいきいきしているのを感じました。

ところがです。結局、両者とも去ったあとは、船の復元力のようにふつうの組織に戻ってしまいました。

その意味では、組織自体は変革は起きていなかったのかもしれません。

リーダーが優秀であればあるほど、そのリーダーの型のいかんに関わらず、そのリーダーに依存する組織ができあがってしまう。この矛盾。

では、どうすればいいのか。組織そのものにいい仕事をしていくという仕組みを内在させる。人に依存するのではなくして、仕組みを依拠とする組織とする。

そして、それを恒常的ならしめ、「文化」にまで高めていけばよいのではないか。

ローマ帝国は、優れた皇帝がいたから長く続いたのではなく、トップに賢帝が就いても、凡帝でも愚帝でも、システムとして回る仕組みがあったがゆえにあの永続性を維持できたのではないか。

そう私は思うのです。では、どうすればいいのか。いよいよ佳境に入ってきました。

が、まったく先を考えずに出たとこ勝負で綴っています。思考が熟していません。読者の皆様、お許しください。

(下へつづくはず)


(電波塔のように屹立した自分を作りたい)

病気なのかもしれません。不定期的に突如、ハウス食品のフルーチェが食べたくなります。1976年、私が小学校4年生のころの発売です。

ふわふわ感と穏やかな甘さ。初めて口にしたときの感動。いまでも忘れられません。

果物のペクチンと牛乳に含まれるカルシウムが反応して固まるという。理屈はわからないけど、とにかく美味しい。

フルーチェは、なんといってもイチゴ味。

子どものころ、姉や弟と3人で分け合って食べていました。いつかお腹いっぱいフルーチェを食べてみたい。そんな夢を抱くようになりました。

大人になった私は、ある日、ステンレスのボウルにフルーチェ・イチゴと牛乳を入れ、ゆっくりとかき混ぜました。ラップをして少しの間、冷蔵庫で冷やします。

ボウルを取り出し、ラップを剥がします。意味もなく、ボウルをぷるぷると震わせます。

カレー用の大きなスプーンですくい、完食。多幸感に襲われました。

大人になってよかったと実感した瞬間でした。


(果肉がごろごろです)

ところで、フルーチェには依存性があるのか、前触れもなく食べたくなる衝動に駆られます。

私の家から1キロメートル先にローソンがあります。が、フルーチェは置いていません。さらに1キロメートル先のセブンイレブンにもありません。

残念です。

衝動が発作に移行します。行き先は10キロ先のスーパーマルト平窪店。東京・新宿間が10キロです。

その距離の間にフルーチェが売られている店がないというのは、生活の質「QOL(Quality of Life)」の観点から問題なのではないか。かねがね改善が必要だと思っています。

先日、知人宅を訪れた際、思いがけなくも、フルーチェが出されました。

「こんな大人で子どもみたいなんですけど、じつはフルーチェ、大好きなんです」

「あら、よかった。こんな甘いもの嫌がられるかと思ったんですけど、全部食べてください」

というわけで、フルーチェを全量いただきました。

フルーチェとは、果物の風味があるという意味のフルーティ(fruity)という言葉に、イタリア語のお菓子という意味のドルチェ(d'olce)をつけたものだそう。

ハウス食品曰く「かわいい感じを強調しました」。

ともあれ、もう遥か大昔に可愛いらしさなどというものから脱皮した私。

にもかかわらず、幼稚性を内包したまま、齢を重ねていくのだろうと思う今日このごろなのでした。


(職場近くの夕暮れ)

個々人の性格と仕事の成果とは関係があるのか。あるともいえるし、ないともいえるような気がします。では、動機の傾向性と仕事の成果はどうなのか。

ここでいう動機とは、マクレランドの欲求理論に基づくものです。同理論は、人には、「達成」、「権力」、「親和」、「回避」の4つの主要な動機ないし欲求が存在するというものです。

紙幅の関係上、本稿では「個々人の性格と仕事の成果とは関係があるのか」について考えてみたいと思います。

といいながら、私自身、明確な結論を得ていません。

むしろ、少しいやらしい動機から文章を書いています。

読者のみなさんからいいアイデアをいただけないか、という不純な動機です。延縄漁(はえなわりょう)よろしく、仕掛けを垂らして待つ作戦といってよいでしょう。

10数年前に聴いた大手製薬会社の人事担当者の話が印象に残っています。

「採用にあたって性格は問わない。性格がどんなに悪くても結果を出す人であればよい、と。逆にどんなに性格がよくても、結果を出せない人は不要だ」

以前「心証が悪くなる」で触れた話です。ご記憶の方もいらっしゃると思います。

ところで、自転車のサドルをまたいで初めて乗ったときのことを覚えていらっしゃるでしょうか。

初めのうちは補助輪を使いながら、そして、補助輪なしでバランスが取れるようになる。やがて、長い距離を誰の見守りなしに走れるようになる。

その習得の過程においては根気強さといった性格も関係するかもしれませんが、自転車の操作そのものについては、性格は一切関係がないといえるでしょう。

仕事においてもそのような「スキルの習得」によって“はかいく”(当地の方言で効率的に進む)ものが多々あります。

では、会社や役所などの組織において行われる仕事ではどうでしょうか。スキルの習得だけで効率的に組織が回るのでしょうか。そういった部分もあるでしょう。

しかし、組織においては上司と部下、同僚との関係という人間関係の要因が加わってきます。特に上司と部下の関係は仕事が回るか、回らないかに大きくかかわってきます。

最近、大切ではないかと、感じ始めていることがあります。中間管理職の立場に立って見えてきたことともいえます。

組織で生き生きと仕事を回していくためには、スタッフの大脳の報酬系にどう働きかけるかが重要ではないかということです。

賃金というモチベーション以外の部分で働きかけるもの。それは何か。いろいろ考えてきました。

それは、「認知」と「称賛」と「戒め」という3要素の組み合わせではないかということです。

(下へつづく...かも)




(友人の作品「スケキヨの木」。まさにと思いました)

「触媒力」の極めて高い知人がいます。本業は歯科医です。クリニックの2階をギャラリーに改装。ギャラリーは「彩(さい)」と名付けられました。

じつに多彩な人々が集い来(きた)っています。写真家でもある知人。ご自身の撮影した作品の展示のみならず、「彩」で書や焼き物といった講座も催しています。

「学習」という堅苦しさはなく、表現としては「楽習」がふさわしい。

来場する方は固定されていません。毎回、知人自身も面識のない新しい方がきます。多様な人々が集まる場、いい意味での「離合集散の場」となっています。

学ぶ側にあった人が、あるときは教える側に立つ。相互に学び合い、教え合っています。

ともすると、行政の場合、「ねばならない」という発想から講座が組まれるのに対して、「彩」は、「したい」を起点にしている。そこが素晴らしい。

そういった学びと教えの活動の中心に自然な感じで存在するのが歯科医の知人です。

かといって、なにかぐいぐいと引っ張るのでもない。ご自身も輪の中に入って楽しんでいる。

その姿を拝見し、私は思いました。その知人の持つ力、あるいは作用を「触媒力」と呼びたい、と。

英語で触媒を意味するcatalyst(カタリスト)は、化学の「触媒」のほかに「促進の働きをするもの」「相手に刺激を与える人」という意味があります(研究社『新英和中辞典』)。

まさに、知人は、促進の働きを持ち、相手に刺激を与える人であります。

若いころは本業のことに必死で、無我夢中であったと、「彩」の主(あるじ)は、いいます。

私は思うのです。

本業を極め尽くそうと努力した結果が、いま大きな幹に繁る多様な枝葉や花になっているのではないか、と。

いまなお、母校に赴くなどして最先端の歯科技術を研鑽し続ける姿勢、つまり本業を極める姿に「触媒力」の底知れぬ源があるのではないかと感じています。


(好き過ぎて優劣がつけられない)

そもそも優越感とはくだらないものです。が、抱いてしまうのも人情。凡夫たるゆえんです。

子どものころ住んでいた社宅。関東圏外にもかかわらず、茨城に接していたことから東京キー局の放送が入りました。

ちなみに土曜日の夜は、午後7時半にカルピス劇場、午後8時からドリフターズ、午後9時からGメン'75でした。

Gメン'75の思い出については、先日「Gメン'75」で触れました。

さて、当時のテレビチャンネルは、東京キー局の放送局を選択する板状のつまみと県内のローカル放送局を選択する、ラジオチューナーのような円柱状のつまみの2つが上下に付いていました。

電波の周波数帯域別でいうと上がVHF(超短波)で、下がUHF(極超短波)。ちなみに、VHFのVはVeryの、UHFのUはUltraの略です。

社宅のテレビは、VHFしか入らず、下のUHFのつまみは飾りのようなものでした。VHFのチャンネルは意外に固く、チャンネルからチャンネルに移行する際、抵抗と反動を指間に感じました。

チャンネルを回すには力が必要でした。

兄弟間のチャンネル争いは、右に回し、左に回しのガチャガチャの闘争。ときにつまみが抜けることも。

一方、UHFは、ラジオのチューナーよろしく、さわっとしていました。

チャンネルからチャンネルへの移行は、微調整の世界。明瞭から不明瞭そして砂の嵐。砂の嵐から不明瞭、明瞭へと変わります。

慎重さが必要でした。UHFのチャンネル争いの様子は想像不可。

盆暮れ正月になると祖父母の家に行きました。電車に乗って常磐線を3駅北上します。

祖父母の家のテレビはUHFしか入りません。東京キー局の番組が周回遅れで放送されていました。時間帯も異なります。

さらに、驚いたことにCMに静止画が多用されています。正月になるとその頻度は頂点に達します。

初日の出などを背景に社長の顔が楕円形に収まった、年賀状のような静止画が、これでもか、これでもかと登場します。

「代表取締役○○より謹んで新年のご祝辞を申し上げます」とのナレーションを何度も聞かされます。

たった20キロメートル北上しただけで、別世界に来たような気分。げんなりしました。

ですから、私の住む市域ではテレビをめぐって共通の話題が成り立つのは中学校まで。高校になるとVHF対UHFの仁義なき戦いが勃発します。

というわけで、VHF地域の優越感に浸り、愚かな高校生活を送っていた私。十数年前に北部に転居し、いまやどっぷりとUHFに囲まれています。

静止画CMはいまも健在です。


(ワークショップでチームワークを考えました)

「鈴木氏が真に優れているのは、それを自分の個人芸に留めず、組織能力にまで高めているところにある」。ヘイコンサルティンググループ代表取締役の高野研一氏はそう指摘します。ダイヤモンド・オンラインの記事(2016.2.11)です。

現在の職場で働いて四半世紀。感じることがあります。

優れた能力を持った人がリーダーとなった部署は、いい仕事をします。

しかし、その人が異動等で去ったあと、仕事の質が維持されるかというと、必ずしもそうではありません。むしろ、従前のノーマルな仕事ぶりに戻ってしまいます。

これでは、優れたリーダーが組織にいなければ、優れた仕事ができないことになってしまいます。

そうではない組織もつくれるのではないか、とかねがね思っています。

参考となる例を紹介します。

ヒエラルキー構造の代名詞のようなオーケストラ組織で、指揮者というリーダーなしに世界最高水準の演奏をする集団があります。1972年に創設されたアメリカの「オルフェウス室内管弦楽団」です。

ただ、私自身はヒエラルキー構造を否定しません。ふつうの組織において、長は必要だと思っています。

適度なヒエラルキー構造を維持しつつ、船長に誰が就こうとも、あるいは船長が突然いなくなったとしても、船をきちんと航行できる。そんな仕組みを作り、維持していくために、船員はどのような能力やスキルを持つべきか。

そこに関心があります。

セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長兼CEOは、おそらく、自分の去ったあとを見据えて、「自分の個人芸に留めず、組織能力にまで高め」る努力をしているのでしょう。

本人無き(亡き)あとへの危機意識が同氏の弛まぬチャレンジの源泉なのかもしれません。

もし鈴木会長に会えたなら訊いてみたい。

組織能力を横に組織全体に波及していくためにはどうすればいいのか。また、組織能力を縦(未来)に継承していくためにはどうすべきなのか、と。


(夕暮れの空港が好きです)

「♪こめかみには...」。次の歌詞が思い出せない。沼地の水底から発生するメタンガスのように疑問符が浮かんできました。あれ、次なんだっけ、と。

中森明菜の「トワイライト −夕暮れ便り−」の出だし。ネットのない時代だったら、カラオケに行って確認したのでしょうか。

来生えつこ作詞、来生たかお作曲。動画サイトで視聴してみました。歌詞を意識しながら初めて聴きました。胸に迫る叙情的な歌です。

「書きあぐね」。あまり使わない表現もあります。弟のたかお氏が曲を作り、姉のえつこ氏が詞を付けるという。

ずいぶん前に来生たかおのライブに行ったことがあります。お姉さんが作詞してくれるなんていいなぁと思ったものです。

ところで、「トワイライト −夕暮れ便り−」の最後に「あなたが好き 苦しいほど もう迷わずに 今日からは言えます」とあります。

この「もう迷わない」という表現。歌の中でよく耳にします。歌詞検索エンジンで628曲がヒット。

「もう迷わない」とは、何なのか。長年、私を悩ます謎の一つです。いったい何に迷わないというのか。

なぜ今日からは「迷わずに言える」のか。

松田聖子の「野ばらのエチュード」にも「もう私 迷わない 風が野ばら ふるわせても」とあります。

「迷わない」とは、XYZのうち比較衡量の末、迷い抜いたあげくにXを選択する話なのか。

あるいは、Xしか対象はいないものの、Xでいいのかの不安が払拭できた末の「迷わない」話なのか。

仮にそうだとすれば、昨日と今日を隔絶した決定的要因は何なのか。

いずれにしても、沼地のように鈍いゆえ、彼女らが何に逡巡(しゅんじゅん)しているのか、杳(よう)としてわかりません。

これが解明できれば、私も一つや二つ作詞できそうな気がします。


(なめるギムレットという感じ。爽快です)

デンタルフロス(要するに糸)を左右の手指に絡めて歯間を掃除していたら、左下の犬歯とその奥隣の歯の間にフロスが引っかかりました。

なお、このデンタルフロスの爽快感についてはちょうど1年前に「デンタルフロス」で述べています。

右に引くも地獄、左に引くも地獄。他者からすれば滑稽極まりない図も、鏡に映る己が姿は地獄絵です。

開いた口に一筋の糸が両手の人さし指を橋脚として弦のように張られ、表情筋が歪んでいます。

文字通りの膠着状態。こういうときは焦らないことがいちばん。必ず一筋の光明というやつが現れてきます。

ところで、森永ビヒダスの4ポットシリーズのフタが変わったことをご存じでしょうか。

フタをめくるといつも付着していたヨーグルトがまったく付いていないのです。ロータス効果を使ったことは一目瞭然。

東洋アルミニウム株式会社と森永乳業株式会社で共同で製品化に取り組んだ、
撥水性機能を有する包装材料(TOYAL LOTUS®)を採用し、従来品の長年の課題を解消
」したという。

ハスは泥沼に生じているにもかかわらず、葉も花も清浄です。古来、法華経で「如蓮華在水」の比喩として用いられてきました。

ハスの表面には電子顕微鏡で見なければわからないような微細なエンボス加工が施されています。

泥水が付いても撥水効果によって弾かれてつねに清らかな状態を保つことができます。サトイモの葉も同様です。

さて、森永乳業の努力に敬意を表しつつも、やはり私は残念に思うのです。

あのフタに付着したヨーグルトをすくう楽しみがなくなってしまったことを。

クリスマスケーキの箱を開けて、付着した生クリームのとんがりを最初に味わう喜び。

同様に栗きんとんのフタに付着した最初のとんがりをつまみ食いする楽しみ。

かねてから、私は、この“とんがり様態”にきちんとした名称を与えるべきだと思っています。

プロローグ(序幕)のない演劇がつまらないように、前菜のない料理が味気ないように、ヨーグルトのフタにヨーグルトが付いていないのは、不自然なのです。

森永のヨーグルトのフタにロータス効果をかけたことを遺憾に思っています。


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