(ハクモクレンが咲き香っています)

天体少年だった私。何十億年後に太陽が膨張し地球を飲み込むであろうとの予測に恐怖を覚えました。

恐怖というより、最後の人類に対する憐憫(れんびん)の情とでもいうべき感情だったかもしれません。

地球滅亡の日。

大地がじりじりと干上がり、最後の人類は灼熱地獄の中で絶滅するのだ。最後の一人はどんなに辛かろう。淋しかろう...と。

わが身に置き換えて考えたてみたとき、とてつもなく切なく、胸が苦しくなりました。

ところが、大人になって、そういったことは思わなくなりました。

成長したのでしょうか。あるいは、繊細な心が摩耗してしまったのか。

そんな遠い未来のことを考えてもしょうがないといった現実主義者になりさがってしまったのか。

一方で、最近、少し考えるけど、あまり深く考えないようにしていることがあります。

まず、濃縮還元オレンジジュース。

濃縮還元というからには、濃厚なオレンジペーストが船便で海外から運ばれてくるのでしょう。

国内工場のタンクで濃縮されたペーストと水と香料が混合される。香料はもちろん石油系です。

香料も一斗缶のようなものに入っているのでしょうか。相当に強い芳香を放っているはずです。

作業者は、マスクを着用しているかもしれません。

そんなことがふと脳裏をよぎるけど、深く考えないようにしています。

それから、もう一つは、うどんとそばの両方を出す店のそば湯について。

もしかしたら、このそば湯は、うどん湯も入っているのだろうか。どうなんだろう。

ふと思うけど、深く考えないようにしています。

というわけで、大人になるということは、よくいえばプラグマティック(実用的・実利的)になるのであり、悪くいえば妥協的あるいは打算的になることのかもしれない。

桜のつぼみを見ながら、そんなことを思いました。


(母校の屋上から望む。学校の許可を得ています)

「先生、クラスの集金、全部集めました」。何の代金だったか小銭をたくさん封筒に入れて私は職員室に持って行きました。小学校3年生のときだったと思います。

「ご苦労様」

そういって先生は封筒からお金を取り出して、数え始めました。

「先生、僕、ちゃんと数えたよ。間違っていないよ」

私はちょっとムッとしていいました。

「疑っているんじゃないよ。お金というのはね、受け取った人も確認するものなのよ」

「そうなんですか」

「はい。ちゃんとありましたよ」

分数の計算とか、下二段活用といった文法とか、過酸化水素水とか、そういったことはすっかり忘れてしまいました。

でも、職員室で教わった「確認」の大切さはいまも生きています。

日々、数十円から億単位に至るまで、伝票を決裁するときに思い起こす「学校で教わったこと」です。


(漬物と日本酒。合いますね)

グリコアーモンドチョコレートのテレビCM。あのカキっという音を鳴らしたくてよく真似をしました。でも、何度やってもあの音が出ません。

エコーの利いた、高らかな響きが鳴りません。原因はもっぱら私にあると思っていました。

ところで、水曜スペシャル「川口浩探検隊シリーズ」を父とよく見ていました。

「またこれなんだから」

エンディングのナレーションが流れるころ、父はまじめに憤慨。私も「またこれかよ」とひどく落胆したものでした。

「来週こそ、発見してくれよ、川口隊長!」と健気にも心の中でエールを送っていました。

あのころ、テレビ画像に映る世界は、真の世界だと私は信じ切っていました。

学生のとき、必修科目でもないのにたまたま「放送論」という講義を取りました。

「私、ユリ・ゲラーの番組の制作をやっていたんですけどね。あれ、全部ウソです。作っていた私がいうんですから」

超能力やUFO番組などにくぎ付けの日々を送っていた私。教授の講義を聞きながら、心の中で何かが崩れていくのを感じました。

“瓦解”という言葉が頭の中で響き渡りました。

「あのとき、司会の大橋巨泉にはいわなかったんです。ウソだとは。それ以外のスタッフはみんな知っていたんです。テレビっていうのは虚構を楽しむものなんですよ」

それ以来、テレビとは虚構を楽しむものなのだ、と斜に構えるようになった私。ですから、詐称とかなんとか、鼻から気にしていません。

近年は、“腸能力”を高める努力だけは人一倍重ねているつもりです。

蛇足ながら、「人一倍」の一倍は、江戸期までは現代でいう2倍を意味していたそうです。


(無性に食べたくなるときがあります)

「買っちゃいましたよ。エチケットカッター。即買いです」。駅から職場に向かう途中のこと。「星々のつぶやき」を愛読するYさんから声をかけられました。

人生意気に感ず、功名誰か論ぜん」をめぐって職場に向かいながら話が盛り上がります。

「だいこんくんのブログを読んだから鼻毛カッターを買ったんです。これが、パナソニックの広告をダイレクトに見ただけだったら買いませんでしたよ」

「これまでは何で鼻毛のお手入れをしていたんですか」

「だいこんくんと同じステンレス製のハサミですよ。たまに肉に当たって痛いんすよ」

「そうそう。粘膜、切りそうになって痛い痛い。わかる」

「あのパナソニックの広告も電通とか大手広告代理店も当然介在していると思うんです。だから、ふつうはおれは見向きもしないんです」

「今回のブログでは鼻毛が“華厳の滝”のようだといった部分に関心を寄せていただいたようです」

「だいこんくんは、アフィリエイト※をやったらいいんじゃないですか。世の中を動かしているのはこういう動きなんです。間違いなく世の中を動かしていますよ」

「いやいや。お読みになって喜んでいただくだけでいいんです。お金を儲けるつもりはありません」

「レンタルビデオ店に行った帰りに、ケーズデンキに寄って探したんです。エチケットカッターあったんです。値段を見たら、2万円。よく見たら2千円。もう即買いでした」

「即買いでしたか。使ってみてどうですか」

「初めてなんでよくわかんないんですけど、もうメーカー側からのアピールというのは力を持たなくなってきてるんだと思うんです」

「あくまでもユーザー視点だと...」

「そうなんす。ユーザー側からの発信で消費者が動くんです。だいこんくんのブログを読まなかったら、おれ、買わなかったっすよ。おれが買ってネタにしてもらおうって」

「わかりました。ネタとして仕込んでアップしますね」

広告になびかないと決意した私。今ぐらぐらと揺らいでいます。近日中にエチケットカッターを買ってしまう予感。


※アフィリエイト:成果報酬型広告ともいう。Webページなどの広告媒体から広告主のWebサイトなどへリンクを張り、閲覧者がそのリンクを経由して広告主のサイトで商品を購入したりすると、媒体運営者に報酬が支払われる方式。(出典:IT用語辞典 e-Words)


(かがむと風景が違って見えます)

「○○○した人は○○○していない人と比べ、△△になるリスクが高くなる(低くなる)」といった記事を目にすると、「だから何?」と不遜な態度になります。

毎日新聞(2016.2.5)
「朝食を抜く人ほど脳卒中を発症するリスクが高まるとの研究結果を、国立がん研究センターと大阪大の研究チームが4日、発表した」

「朝食を取らない、または週に2回しか食べない群では、毎日食べる群に比べて、脳卒中全体の発症が1.18倍高くなり、このうち脳出血は1.36倍高かった」とのこと。

この研究成果によって朝食を抜いている人の行動変容をもたらすことができるのでしょうか。

朝日新聞(2016.3.24)
「ミカンをたくさん食べる人は生活習慣病の発症リスクが低くなることを確認した、とする研究結果を農研機構果樹研究所と浜松医科大などのチームが23日発表した」

「毎日3、4個食べるレベルの血中濃度の人は、毎日は食べないレベルの人と比べて、糖尿病の発症リスクが57%低かった」とのこと。

どうにもこの種の研究成果が皮膚感覚で嫌いです。費用もかかっていそうです。

政府系の補助金が入っている匂いがします。おそらく独立独歩の自主研究ではないでしょう。

この種の疫学データを見るたびに「だから何?」と傲岸不遜な心が湧いてしまいます。

それにしても、みかんを毎日3個、仮に30年食べたとして32,850個。私にとって気の遠くなる天文学的な数字です。

柑橘類が苦手な私は、これまで生涯でみかんを累計で20個も食べていません。

みかんをほとんど食べずに生きてきましたが、今のところ血糖値は正常です。ただ、逆流性食道炎がなかなか治りません。

みかんを食べないためでしょうか。

結論を述べます。

多少朝食を抜いたとしても、みかんを毎日食べなくても、「大丈夫ですよ」といった研究成果の方がよほど大衆のメンタルに益があるのではないか。

人はそう簡単に生活習慣を変えられないのです。

私はそんなふうに思います。

なお、私個人の官能検査では、トイレのない高速バスに乗ったときは、トイレ完備のバスと比べ、腹痛を起こすリスクが約2倍高まることがわかっています。

「トイレがない」という不安がストレスとなり、神経性大腸炎を引き起こすのでしょう。

こうした身を挺した研究こそ求められるのではないか、と私は考えます。


(通勤途上で見つけた名前のわからない花)

周りに人がいても一人で泣くことはおかしくない。でも、一人で笑うことは、声を出す場合でも、無言でも怪訝な目で見られることでしょう。

かつて、タイ・バンコクの古本屋で『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)を見つけ、立ち読みをしていました。

相原コージの「コージ苑」や吉田戦車の「伝染るんです。」、中崎タツヤの「じみへん」などの秀逸なギャグ漫画が掲載されていました。

わけのわからないシュールなギャグに涙腺が膨張。腹筋が小刻みに震え出しました。

どうにも笑いがこらえきれず、店内に響き渡る大声を出して笑ってしまったことがあります。

閑話休題。

近ごろ「無慈悲な」言葉が気になります。

無慈悲な報復打撃
無慈悲な対応措置
無慈悲な軍事的措置
無慈悲な軍事的打撃
全般的な戦線で無慈悲に対応 等々

「...がなければ、無慈悲な軍事行動に移る」「....をやめなければ、無慈悲な鉄槌が下されるであろう」といった文脈で使われる北朝鮮政府の威嚇です。

「ああ、またいつもの『無慈悲な』だ」ーー 何度も聞かされていると神経が鈍磨してきます。

ときに表現が「容赦のない」にとって代わられたり、「この世の誰も体験したことのない最も厳しい懲罰 」といった最上級の修飾語が使われたりするなど、いくつかのバリエーションがあります。

様々な威嚇表現があるものの、ネット上では、ボジョレーヌーボーの毎年のキャッチコピーと同じように違いが見出せないといった声もあります。

ともあれ、「無慈悲な」言動は、オオカミ少年のように思わせ、こちらを油断させる作戦なのではないか。隙を狙って威嚇が威嚇でなくなるときがくるのではないか。

そんなおそれを抱いています。

現に内に向かっては無慈悲で容赦のないことを行っています。

言葉というものは、不思議なもので、使っていると実現に向かって物事を運ぶ力があります。

声を張り上げるシュプレヒコールもあながち故なきことではない。

口に出していうこと。それは自分と周りを動かすエネルギーとなるのです。

笑い事ではありません。と、いいながら、「無慈悲で容赦のない下痢」といった作文をしてしまう私です。

何事も暴発すると大変なことになります。


(母校に行ったら桜が一輪咲いていました)

瑕疵(かし)がある人を叩く。暴(あば)く。私たちの生命に潜む破壊の情動。破壊を楽しむ欲動は、暴く人も、それを共有する人も快と感じます。

不快であるならば、誰も関心を示さないはず。

悪事を糾す正義感とは異質の暴きの欲動。

人を笑う喜びとは、人を笑わせる「お笑い」とは、違う。ベクトルを異にする「人を笑う」喜び。人間に巣食ういやらしい欲動です。

つまづいた人を暴き出し笑う。そして、つまづいた人に翻弄された人をも笑う。そして、つまづいた人や関連した人々が干されていくことに憐憫の情をかける。

世のために行っているようで、本質はそうではない。

同情しつつ、同情したふりをしながら、笑う。じつに嫌な心です。

落雷は、一方的に雲から放電する現象ではなく、地面からも放電を誘(いざな)う動きがあるという。

暴く人の存在は、落雷のように放つ側だけでなく、それを求める側があって成り立つ。むしろ、求める存在がなければ、存立しないといえます。

自らは、無謬性(むびゅうせい)を装う、傲岸不遜な暴く側の人たち。

つまるところは、人間を「活躍」ではなく、「活用」できるかどうかを基準に計る。

本人が活躍したいかどうかではなく、あくまでも組織の側にとって活用できるか否かが判断の基準です。活躍する人を発掘し称賛するという発想とは無縁です。

これが「総活躍社会」の素の姿です。誰かの「活躍」よりは、誰かが引きずり落とされることに関心の集まる社会なのです。

「活躍」は個人の営みですが、「活用」は組織やマス(大衆)が決めるという点で非情といえます。

ちなみに、私の関心事は、ただただ括約筋がきちんと活躍してくれるかどうかだけです。


(月を眺めると落ち着きます)

パナソニックの「エチケットカッター開発秘話」を知人のSNSの投稿で目にしました。技術開発チームの主任技師が登場し解説。パソコンではふつうのページがスマホで見るとすごいことに。

「鼻毛はなぜ必要なのか」

フィルターとしての役割を持っていることを明かしつつ、外見上見えてしまう、「邪魔な鼻毛」だけが剃れるエチケットカッターのスゴワザを披露。

「鼻毛が出ていると仕事ができないと思われる?」

技術者らしく調査結果に基づくデータで攻めてきます。

「『鼻毛が飛び出していた』時にドン引きする人は88.0%。これは、髪の毛のフケ(83.6%)や、歯の食べかす(82.7%)を押さえて第1位」との衝撃の事実。

さらに「鼻毛が出ている人に対して、『仕事ができない』というイメージを持っている女性は50.0%、約半数」だという。

ただでさえ「できない」ことが多い私。これは輪をかける事態です。一大事です。

イメージを持つという意味では、私も経験があります。かつて仕えた上司が有能な方でした。

が、ピロッと鼻毛が出ていることがよくありました。残念至極でした。気になって抜きたくなる衝動に駆られたものです。

“ピロッと鼻毛”の衝撃力そして破壊力は、当人の能力やカッコよさを台無しにしてしまうほどのパワーがあります。

「鼻毛処理の研究に、人生をかける」

「パナソニックに入社して以来、20年以上ひたすら刃の研究・開発を続けてきました」との主任技師の言葉に私は感動を覚えました。

鼻毛処理の研究に人生をかけてきた、といい切れることが素晴らしい。

そして、スマホで見せるあの鼻毛画像。腹の据わった人間しかできないことだと感じました。

くどいようですがスマホでしか味わえない画像です。

形容する言葉が見つかりません。

鼻毛の華厳の滝。いや、もっと強いイメージがほしい。

そう、アポロ計画のサターンV 型ロケットエンジンの噴気となった鼻毛です。

このような、遊び心と胆力のある技術者こそ創業者・松下幸之助氏が称賛する一流の人なのではないでしょうか。

エチケットカッター開発秘話」を読んで、人生意気に感じました。

ちなみに、私は「ステンレス製ベビーハサミ・鼻毛切り(先丸・先反り)」を愛用。

そう簡単にはなびきません。


(入の元湯 神泉亭。アルカリ炭酸泉が気持ちいい)

一人ひとりを見ると力のある人もいる。懈怠(けたい)を好みとする人たちにも見えない。にもかかわらず、組織体として力が発揮されていない。なぜなのか、といつも思っています。

何かが足りないのか、何かが余計にあるのか。あるいは、そのどちらでもなく、まったく別な要因なのか。

なぜ、チームとしての力が生まれてこないのか。不思議です。興味をかきたてられます。

そもそもチームでないのかもしれません。少なくともグループではあるように思えます。グループとは、利益を享受する目的において一致している集まり。

そう、まさに生存する場、生き残りの場としてのグループといえます。

「グループホーム」というと介護施設と重なってしまうので使いたくありませんが、そう考えればしっくりいきます。

一つ屋根の下に集う、一人ひとりは何らかの志を持った人たちの集合体。

ただ、グループも、チームのように見えるときがあります。

それは、敵と対峙するとき。攻撃態勢においてグループは団結し、あたかもチームワークを発揮しているかのように映ります。

ところが、戦時態勢から平時になると、組織の最優先課題は、やめることを決め、そして実際にやめるという困難な作業に着手しなければなりません。

“やめる”ということは、“やる”ことをはるかに上回る「調整」という面倒で地味で忍耐の必要な作業が待っています。

八方美人はグループには有益ですが、チームには不要です。

では、グループから真にチームになるためには何が必要なのでしょう。

それは、「問い」にカギがあるような気がします。何を提供するのかをつねに考えることではないでしょうか。

その「問い」をリーダーがが持ち続けているか。構成員一人ひとりが考えているか。「問い」によってビジョンが共有されているか。

問うことを失い、代わりに生き残ることが自己目的化したとき、組織はチームではなくなり、グループとなるのでしょう。

というわけで、自分の所属する組織がグループとならないために、私は問い続けたいと思います。


(どこまでも乗っていたいと思うことがあります)

四半世紀前のことです。地元の損害保険会社の営業所から電話がありました。タイ語の通訳をしてほしい、と。

営業所に行ってみると、保険会社の担当者と顧問弁護士が待っていました。

「弊社の契約者が運転する車がタイの若い女性を複数乗せた車に追突しケガを負わせてしまいました。これから示談交渉に入ります。女性のケガの具合を確認したいのです」

「わかりました」

「ただ…先方の被害者の車のオーナーはふつうの人ではないんです」

顧問弁護士が切り出しました。

「一筋縄ではいきません。作戦を立てて当たりましょう」

営業所と弁護士事務所で2回にわたり綿密な打合せをしました。

こうきたら、こう出る。ここまではいうが、先方がいうまでは、それ以上はいわない。そういった想定問答を何度も何度も確認し合いました。

出たとこ勝負で漫然と生きてきた私にとって新鮮な体験でした。交渉とは、これほどまでに緻密に想定を立てるものなのか、と。

示談当日になりました。

タイの女性が5人ほどいました。人懐こい笑顔であいさつしてきます。

それとは対照的に強面の被害者のオーナーが私たちを睨みつけています。50歳前後でしょうか。

もう一人若い男性がふんぞり返っていました。

その男がいきなり「てめーら、何考えてやがるんだ」と、巻き舌で騒ぎ始めました。

「騒ぐんじゃねー。黙ってろ」

オーナーが私たちの方を見て「失礼しました」と押し殺すようにいいました。

静寂になった部屋で尿意が急速に高まるのを感じました。

示談交渉自体は、顧問弁護士の冷静沈着な対応で合意に至ったようでした。私はほとんど記憶に残っていません。

というわけで、近いうちに難しい折衝が待っています。四半世紀前の教訓も虚しく、出たとこ勝負で臨む予定です。


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