(畦道に佇む軽トラック)

「軽トラ、運転できる?」。今の職場に就職した1年目のときです。先輩にそう尋ねられました。

「軽トラックを運転する仕事があるんですか」

「支給した電動ベッドの回収なんだ。亡くなると連絡が来て訪問するんだよ」

当時、運転免許を取得して2年目。マニュアル軽トラに一抹の不安がよぎります。

軽トラの運転席に座ったときの断崖絶壁感。閉所感。そして、裁判官の椅子のような直立感。

文字通り未知の世界です。

座高が高い私。この断崖絶壁感と直立感で一気に不安になりました。天井に頭がぶつかりそうです。

ハンドルの位置が水門の水平ハンドル式であることにも戸惑いを隠せませんでした。

そして、初速で踏み込むと想像以上の加速のよさ。アクセルを緩めると急減速し、ぐぁんぐぁんとなる始末。

「おれはね、まだ温かいベッドも運んだこともあるんだよ。使われなくなったカラオケの機械まで持って行ってっていわれてね...」

先輩の体験談も耳に入らないくらいガチガチに緊張してハンドルを握る私。

目的地のお宅に到着。

電動ベッドの意外な重さにびっくり。モーターがでかい。重いわけです。

幸い温もりは残っていませんでした。

果たして2人で運べるのか。腰がもたつきます。

無事運び出し、軽トラの荷台に載せました。積荷があると軽トラのハンドリングの感覚が激変します。

パワーステアリングではないので、カーブでは水門のハンドルを開けるかのごとく力まなければなりません。

仮置き場の保育所に到着しました。子どもたちの元気な声が聞こえます。

空き部屋に搬入しなければなりません。先輩が先頭になり、私が後方を務めます。

部屋に半分ほど入ったそのときでした。腰がよろけ、ベッドの枠が引き戸に激突。

どん、がしゃん、ぱりん。

ガラスの割れる音が保育所中に響き渡りました。

というわけで、軽トラを見ると20数年前の失態を今でも思い出します。

  • 2016.04.29 Friday

(鮫川の河川敷で見つけた菜の花)

市南部の勿来地区を歩いてみました。徒歩でしか発見できないものがあることが、歩くことの楽しさです。


(南部アリーナに車を置いて出発)

風が強いものの、陽射しが爽やかです。緑が目に沁み入ります。


(アリーナ前の鉄塔)

鉄塔は風景写真には異物かもしれません。

風の日も雨の日も、炎熱の日にも極寒の日にも、悠然と聳(そび)え立つ送電線の鉄塔。その屹立し胸を張っている姿を見ると、自分も頑張ろうという気持ちになります。


(ハナミズキが輝いています)

南東に向かって30分ほど歩いたところで老舗の菓子店が目に入りました。店がここにあることは知っていました。

が、これまでついぞ入る機会はありませんでした。外からガラス越しにショーケースを覗くと、好物のロールケーキがあるではありませんか。


(以前から気になっていた大正堂)

プレーン650円。ストロベリーが750円。

すかさず初入店。プレーンを1本とストロベリーの一切れサイズ130円を購入しました。

ストロベリーのロールケーキはイチゴの風味が満点です。口中に甘酸っぱい香りが漂い幸せな気持ちになります。


(ロールケーキは通常1000円前後する中で税込み650円は嬉しい)

鮫川の河川敷で菜の花を撮影し、リターン。スマホでの撮影は奥行きが出せないので、アングルが命です。

途中、コンビニで日本経済新聞を購入。南部アリーナに戻り、車内で熟読しました。2時間のウォーキングで汗ばみました。

一面の見出しを拾ってみましょう。

「企業収益 減速一段と」
「三菱UFJ・三井住友 減益」
「衆院定数465 戦後最少に」
「マイナス金利『効果見極め』」
「米成長率0.5%どまり」
「日経平均が急落」

というわけで、世の中の趨勢に合わせて体重も減らさないといけないなぁと思った次第です。


(少しずつ読んでいます)

通常はそういうことはしない。でも、法令的には可能。そんな回答を得ました。

助言者曰く、「その案件だけが提案されることになるので、(目立ってしまい)集中砲火を浴びますよ」。

実際に火炎放射器で炙(あぶ)られわけでもない。命が脅かされるわけでもない。

にもかかわらず、私の業界ではこういったたぐいの“おせっかい的脅し”を呈されることがあります。

大抵の場合、素直に怯(ひる)みます。

私の祖父は硫黄島で文字通り火炎放射器の恐怖に苛(さいな)まされながら亡くなりました。71年前のことです。

現代の「集中砲火」とは何か。

公式の場で質問されるということだけのことです。恐れる必要も、萎縮する必要もないと思うのです。

丁寧に説明をすればいいだけの話。

祖父の受けた火炎放射器と比べれば何でもありません。痛くも痒くもありません。

そもそも質問されるということは、関心を持っていただいている証しであり、喜ばしいこと。私はそう思います。

ところで、先日、ヘビに睨(にら)まれたカエルの様子を動画サイトで初めて見ました。「トリビアの種」です。

間仕切りで隔てられていた両者。お互いの存在を知りません。

間仕切りをさっと取り除くとヘビとカエルが相撲の立会いよろしくにらめっこ。

ヘビは微動だにしません。

カエルはというと、最初の瞬間は表情は変わりません。何事が起きたのか理解できていないのでしょう。

数秒後、ギュギュッと身を縮めました。その怯む表情が何とも切ない。

そのとき私はカエルに問いたいと思いました。

なぜ怯む必要があるのか。

なぜ萎縮しなければならないのか。

なぜ自分がヘビより弱いと決めつけるのか。

堂々と睨み返せばいいのです。負けるものかと踏ん張ればいいのです。

やせ蛙負けるな一茶これにあり

というわけで、家の周りの田んぼに水が張られ、カエルの合唱が始まりました。この合唱は優れた睡眠誘導剤です。


(竹林がじわじわとせり出しています)

下ネタのことを英語で「blue joke」といいます。「blue movies」はその筋の映画。お隣の中国では、黄色です。「黄色書簡」はその筋の雑誌を意味します。スペインでは緑色。「Libro verde(緑の本)」は子どもは買えません。

「色」は、文字通りいろいろな意味がありますね。

さて、「色を付けてほしい」−− 折衝が山場に差し掛かったとき、先方の思いが吐露されました。そして、当方の原則論。

職場に持ち帰って、担当係長・担当者と詰めの協議をしました。

「ここで譲歩すれば、先方は応じる可能性はあるでしょうけど、今後に禍根を残します。ここはやはり原則を貫くべきだと思います」

担当としての考えは「あくまで原則を貫徹すべし」でした。

第1回の折衝が2時間、第2回が4時間15分。

少し譲歩してもいいのではないか。私の心は傾きつつありました。

その場合の諸課題についても検討するよう担当には指示していました。

でも、新たな問題が惹起されることも目に見えていました。私は告げました。

「よし、わかった。原則論でもう一度当たろう。誠意をもって話し合う。腹を決めていこう」

前回の折衝で焼きおにぎりやよもぎ団子をごちそうになってしまいました。

話合いの中で先方がバナナとあんドーナツが好物だということを知りました。こういった情報を聞き出す術は生命保険の営業職時代に培われました。

ご馳走になったお礼にと、フィリピン高地800メートル以上で限定栽培しているバナナを持参。

黄色がじつに美しい。こんなに色付きのいいバナナは見たことがありません。

標高500メートル以上のスウィーティオよりさらに高い場所で栽培されているバナナ。昼夜の寒暖差が大きいため、甘さの素となるでんぷんが増加されるのだという。

「このバナナ。突き返されたら、万事休すだ」

2時間半の折衝。決着はつかず。でも、悪い感じではありませんでした。

翌日の未明、夢を見ました。

「ハンコを押すから、来なさい」

そういう電話を受けた夢でした。2日後、まさにその夢のとおりになりました。

休日に小野町に赴き、松本菓子店の「小判焼饅頭」を購入。小麦粉・玉砂糖・小豆といったシンプルな材料。松本店主の心のこもった饅頭です。

契約書といっしょに持っていくよう担当に指示。

大変に喜んでいたとの報告を受け、安堵した次第です。

色を付けなくてよかった。


(京土産。これ絶品です)

昨年の今ごろ「のどのつかえが取れる」で同じようなことを述べています。1年に1回程度の頻度の発見なのでしょうか。

昨年取れたのどのつかえは、「ルパン三世」のオープニング曲の出だし、それから、「ウルトラマン80」のオープニング曲の最後のフレーズでした。

「ルパン三世」はつい数年前までずっと「ルパンだパーン」だと思っていたし、「ウルトラマン80」に至っては、何と歌っているのか皆目わかりませんでした。

つい最近、というか、昨日「そうだったのか!」とわかったことがあります。

それは、カタログ通販の「セシール」のCMの最後にいう「篠塚くん幸せそうなの」と聞こえる文句です。ネット上ではよく知られた話題のようです。

「愛と信頼をお届けする」という意味のフランス語「Il offre sa confiance et son amour.」だったとは...。

篠塚くんの幸せとは無関係だったのです。

というわけで、学校の先生が「後からわかるから」とよくいっていた意味が最近わかるようになってきました。


(葉桜香る季節。もうすぐ田植えです)

悪党という言葉はあっても「善党」はない。安岡正篤の言葉だったと思います。善は団結に弱く、悪は結束する。なぜなのか。

結託し、徒党を組む悪党。なぜ、理念がなくても団結できるのか。裏社会の組織に理念があるとは思えません。でも、団結しているように見えます。

それは生存本能に依拠しているからなのか。危機に直面したとき、人は小異を捨てて、大同につくことができます。

悪い言葉でいうと、「野合」です。

あるいは、他に勝りたいとする「勝他の念」が結着剤として働いているのかもしれません。

ワールドカップでの外国チームとの対戦での日本人応援団の姿は、まさに「勝他の念」による結束といえます。

こうして見ると、団結というものに理念は必要条件ではない。逆に、理念があるからといって、団結できるかというとそうでもない。

ここが難しいところです。

さて、組織を維持するための生存本能があればあるほど、そして「勝他の念」が強ければ強いほど、団結力は高まります。

この種の団結力は、ほとんどの場合、アピール性を帯びます。外に向けて発信し、団結力そのものを誇示しようとします。

何のための団結かは重要ではなく、団結していること自体をアピールします。さらに、構成員間においても団結している証しを確認し合います。

裏社会の盃事は、「証し」を確認する場だと私は見ています。

この生存本能による団結、「勝他の念」による団結には、弱点があります。

敵を倒したとき、あるいは敵に倒されたとき、その結束力は急速に減退してしまうのです。求心力を失い、反対に遠心力が高まります。

このような一過性の団結を私は“肉食系団結”と呼びたい。野合の多くはこちらに分類されます。

社会事象において「打倒◯◯!」等といった、他を倒すことに依拠した団結の姿を目にしたとき、私たちは十分に気をつけたいと思います。

一方、構成員間で何度も議論を重ね、深掘りした結果の理念。そういった理念に基づく“草食系団結”は物静かで控え目です。

というわけで、春うららの日曜日の昼下がり。この辺で筆を置き、美味しいアイスコーヒーを飲みにカフェにでも行きましょうか。


(紅白の芝桜が咲き競っています)

交通ルールの話。カナダは日本と逆で車は右側です。交差点での左折は日本の右折と同じようにレーンがあります。ただ、ルールが異なります。

どう違うのか。

日本の場合、直進が優先で右折車はレーンで待機しています。直進の青信号が赤になり、右折信号が点灯してから、急ぎ右折していきます。

時に「右折信号よ、消えないでくれ。嗚呼、なぜそんなに早いのだ」と祈るような気持ちでレーンを進みます。

直進車を優先し、曲がる車が待つ。なんの不思議もありません。当然なことです。

曲がるという行為は、直進車という大多数に対して例外的存在です。例外というものは、我慢しなければなりません。

ところが、カナダの交差点は違っていました。

直進の青信号が点灯する前にまず左折信号(日本の場合は右折信号)が先に点灯し、左折レーンに待機していた左折車が先にはけていくのです。

その後、直進の青信号が点灯します。対向車がなければ、引き続き左折が可能です。

このメリットは、左折レーンに待機している車を先に行かせることによって、左折レーンに入ろうとして後続の大多数の直進車の進行を妨げないという点にあります。

日本の場合、右折レーンの容量を超えて右折希望の車が増えてくると、本線で滞留するようになり直進車の動きまで止めてしまいます。

総合的に見たとき、カナダ方式の方が安全性と効率性の観点から優れていると私は思いました。

初めてカナダの交差点で左折レーン優先進行を目の当たりにしたとき、大げさな言い方ですけど、カナダ社会の哲学性を感じました。

例外を例外と捉えるのではなく、トータルで考えたとき、どうすることがもっとも良いのか。そこに視点があるのでしょう。

大人と子ども、男と女、右利きと左利き等々。大多数を原則とする私たちの社会は、交差点の信号という日常の世界にも浸透していることに気がつきます。

とはいいつつ、それを変えていこうと思うほどの心根はなく、銀だこのたこ焼きが食べたくなってきた誘惑への対処が最優先事項になっています。


(彩りって大切ですね)

隣の村に温泉があります。木戸川の上流沿いの公営の日帰り入浴施設。人混みが苦手な私好みの閑静な佇まいです。

岩塩低温サウナの扉を開けると先客が二人いました。サウナという密室は、誰かがいると気配が気になります。

特に先客に対しては、後入りが負けてはおかしい。断じて先に出てなるものか、とひそかな対抗心がもたげます。

一方、後から入室してきた客には、これまた負けてなるものか、と闘争心が湧き立ちます。

後入り客が自分より先に退室した暁には、「お主、修行が足りぬのぉ」と心の中で傲岸不遜な笑みを浮かべます。

さて、岩塩低温サウナの二人。60代後半と見ました。

「歳とってくっと、ハゲるか、白髪になるかだね」

「んだね〜。最近、この腰の辺りから腿にかけてつんだよね」

「筋肉、そげてんだっぺ。整体とかマッサージ、行ってんのげ」

「行がね。嫌いだもの」

したたる汗をぬぐいながら二人の会話に耳をそばだててしまった私。

20年後の自分を見ているようで、えもいわれぬ気持ちになりました。冷水風呂がいつもより冷たく感じました。


(新芽が好きです)

周辺部にいる人間にとって中央にいる人間の言説は、「冷たい」とのバイアスがかかって見られがちです。

それを差し引いても、掛け値なしの“ひやりとした傲慢さ”を私は感じました。

4月16日の政府の地震非常災害対策本部会議での原子力防災担当大臣の報告のことです。

「原子力規制委員会において停止させる必要はないと判断されている」

科学的見地に立てばその通りなのでしょう。

同大臣の発言の“ひやりとした傲慢さ”の第一は、自ら判断したのではなく、原子力規制委員会においてそう判断されている、と述べていること。

そして、第二に、不安視する人々への共感がないこと。不安に寄り添う心が見えないのです。

確かに、不安というものは漠然としたものであり、根拠がないこともあります。

しかしです。しかし、5年前に私たちは目の当たりにしました。

科学技術の粋を集めた多重防護システムが“想定外”の事態により壊れてしまったことを。

この“ひやりとした傲慢さ”は、原子力防災担当大臣の発言を批判する大手報道機関にも私は感じます。

記事の内容は、文字通り読めば、的を射た批判です。間違いはありません。

でも、やはり、どこか他人事。高みからの御言葉に聞こえてしまうのです。

私の住む市の一部は、福島第一原子力発電所から30km圏内にあります。5年前、原発事故の発生後、大手の報道機関は、市内から撤退してしまいました。

会社からの指示だったそうです。

“ひやりとした傲慢さ”を見せる人も嫌ですし、私は、それを批判する大手報道機関も“ひやりとした傲慢さ”も同じ穴の狢(むじな)だと思うようになりました。

「ひやりとした傲慢さ」−−商標登録したくなりました。


(しっかりかがむと違う世界が見えます)

旅客機では、非常時以外でも次の場合に操縦士は酸素マスクを装着します。

「高度4万1000フィート(約1万2500メートル)より上空を飛行する場合」と「高度2万5000フィート(約7600メートル)以上を飛行中に、パイロットのどちらかがトイレなどで離席する場合」です。

前者の場合は、「外部の気圧がとても低いため、万が一に備え、機長もしくは副操縦士のどちらかが酸素マスクを着用」しなければならないという。
(出典:JALコックピット日記

コックピットの重要性は、誰が考えてもわかる道理です。操縦室を操作する人間が機能不全に陥ったならば乗客の生命は守れません。

ここから我田引水の論を張ります。役所の庁舎の耐震性についてです。

役所の庁舎をコックピットに見立てることには無理があることは百も承知です。

旅客機の乗客とは異なり、自治の基本は住民によってなされるものです。住民は、自治の主体者であり、かつ、負託を受けた行政からサービスを享受する立場でもあります。

サービスを享受するだけの旅客機の乗客と住民を同一視することはできません。安全で快適な旅を全面的にコックピットに委ねる旅客機とは、そこが違います。

それを十分に踏まえたうえで、私は述べたい。

やっぱり、役所の庁舎は、住民を守るため、その機能が不全とならないよう、十分な耐震性を持つ必要があるのではないか。

いざというときに安心して執務のできない庁舎では、結果として被害を大きくし、復旧を遅らせてしまうのではないか。

そのように私は思いますが、みなさんはどうお思いでしょうか。

「職員の職場だから」という遠慮が耐震化の遅れにつながっているとの報道がありました。

その心理も十分にわかります。切ないところです。迷うところです。

でも、やっぱり、との思いを日に日に強くします。


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