(桜の葉のクマリンの匂いが嫌いです)

熊本地震の報道に接し心を痛めています。罹災証明書の交付をめぐって住民が怒っているという。「ずさんな運営」や「行政側の危機感欠如」が目に余るようです。

『出直せ』罹災証明書めぐり益城町民から怒り」(毎日新聞ニュースサイト2016.5.29)

住民がいかに怒っているか。住民の言葉を引きながら、具体的な状況が綴られています。

証明書を交付する場所には「被災者たちの行政に対する怒りとため息と不信の声があふれていた」という。

記事を読み進めていくと、記者自身、被災した両親の罹災証明書の交付を受けるため、順番待ちをし、そこで行政の対応に憤りを感じたようです。

「痛感したのは切実な声と乖離(かいり)した行政側の危機感の欠如だ」

第三者ではなく、記者が当事者として感じたこと。これほど強いことはありません。臨場感があります。

被災者の憤りがひしひしと伝わってきます。

5年前を振り返り、同様に混乱したときのことを思い出します。不甲斐なく、申し訳なく思う局面が多々ありました。

被災者の皆さんの大変さに思いを寄せると同時に私は役場職員の心中を慮ります。どれほど辛かろうか、と。

地震発生から1か月を過ぎました。

疲れていると思います。心身ともに疲労困憊でしょう。毎日のように怒りの声がぶつけられていることでしょう。

じつに切ない。しんどい。


(花を見ていると落ち着きます)

「危機感の欠如」。そう批判されています。その通りでしょう。

そうです。5年前も心のアンテナが機能しなくなり、私自身、判断力が鈍ったことを思い出します。

人は疲労の極致にあるとき、他人を思えなくなる。神経が麻痺してしまいます。私はそれを経験しました。

同業者として、私はどうしても職員のことを思ってしまいます。できるなら代わってあげたい。

苦情だけを聞く役に徹して、役場職員には本来の業務が円滑に遂行できるようにしてあげたい。

そんな思いに駆られます。

報道とは何なのでしょう。報道の目的とは何なのでしょう。

報じる側は、記事にすることによって、相手方にどのような行動の変容を望んでいるのでしょうか。

今回の場合ですと、役場職員の住民対応の改善であることは明白です。

では、報道されることによって、「よし、迅速に罹災証明書をお出ししよう」と職員の士気が高まるのか。速やかに改善されるのか。

ほとんどの場合、批判の積み重ねによって、人の行動の変容は起きません。

目の前で経験し感じた貴重な「私憤」。それを「公憤」として訴えるとき、適切な批判に加えて、その背景にあるもの、課題にも目を向けたいと私は思うのです。

ちなみに、「星々のつぶやき」は私憤を公憤にはしません。なぜなら、自分自身の行動の変容を目指しているからです。

変容できないまま終わりそうですが...


(イングリッシュガーデンを歩く)

打落水狗。魯迅がいった言葉とされています。水に落ちた犬は叩け、と。徹底して打ちのめせということでしょうか。

本来の意味での革命を目指す過程においては、敵を無慈悲に容赦なく叩きのめす必要があるのかもしれない。私は正直わかりません。

ところで、ある程度大きな組織になると一人のトップを頂く組織であるにもかかわらず、組織内で闘争が起きます。

カネ、人、権限をめぐる争いです。


(花のような不思議な葉です)

この争いにおいて徹底して戦うタイプを上司に持ちました。昨今は戦わずして退却する、回避型が多い中で学ぶものがありました。

私も必要に応じ戦ってきました。が、あくまでも「何のため」を前面に出しての戦いでした。

目の前の人間を非難し、人格を否定するのではなくして、理由があるゆえの闘争。いくぶん感情的になりつつも、「打落水狗」しない。叩きのめさないということです。


(サボテンの花。歌も好きです)

なぜなら、相手の考えや主張の誤りを糾すだけであって、それ以上でもそれ以下でもないからです。

そして、何よりも、異動という仕掛けによって、近い将来、場合によっては翌年に部下あるいは上司となって同じ部署で共に働く可能性が十分にあるからです。

また、協力関係を築く必要のある部署に異動となる可能性もあります。

「打落水狗」的対応をすると後の仕事が「江戸の敵を長崎で打つ」ような仕打ちに遭いかねません。

その意味で相手と対するに「こいつとは仕事ができるな」という印象を与えること。人間としての魅力のようなものを香りとして残す。

そういうこと、言い換えれば“対人インパクト”を与えることが肝要だと思うのです。

というわけで、異動のある組織における「打落水狗」について考えてみました。


(何を語り合っているのでしょうね)

シャワーを浴びているときやトイレでしゃがんでいるとき、人生について少し抽象的なことを考えます。欧陽脩(おうようしゅう)のいう三上(さんじょう)に通じるかもしれません。

塩野七生さんの言葉を反芻(はんすう)しています。

「歴史を一望すれば、善意のみで突っ走った人よりも、悪賢く立ちまわった人物のほうが、結局は人間世界にとって良い結果をもたらしたという例は枚挙にいとまがありません」(朝日新聞DIGITAL 2016.5.26)

「善意のみでは、仕事の成果は得られない」ーー 残り少なくなったシャンプーのボトルをプシュプシュと音を立てながら押したときに脳がそう語りかけてきました。


(犬や猫はこの看板を見てうなだれて去っていきます)

ここでいう「善意」とは、「人への優しさ」と置き換えることもできそうです。誰にでも優しい。それが「人への優しさ」といえます。

また、「悪賢さ」とは、「寝技ができる」といってもいいかもしれません。人が嫌がることをさせる。つまり、知恵を使った強制性の発動ともいえるでしょう。

容赦のない強制性はときに、いや、しばしば仕事において必須です。

権力動機がもともと強い人に対して強制性について教える必要はないでしょう。


(花々を見ていると優しい気持ちになります)

では、親和動機が強い人、あるいは親和性に価値観の重きを置いている人にはどうか。

そのような人の場合、何らかの思考の変革が必要となるでしょう。強制性の意味について教示する機会が与えられなければならないと私は考えます。

強制性の発動が必要であること。そのことをしっかりと教えなければならないということです。

ただし、ここで気をつけるべきポイントがあります。

ここでいう「強制性」とは、相手を徹底して叩きのめすことでも、容赦なく叱りつけることでもないということです。

その辺のことは、また別の機会に。


(大好きなブーゲンビリア)

いずれにしても、自分の持つ価値観と現実の行動原理とは、分離して考える必要があるのではないか。

そんなことをトイレでしゃがみこみながら、考えてみました。


(「くさの根」にて。海鮮丼550円)

嗜好の変化なのか、近ごろ、タコがとても好きになりました。それと、ぬか漬けの野菜。以前は、ぬかくさいのが嫌だったのに、最近、心から美味しいと感じるようになりました。

ところで、ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)の精から「星々のつぶやき」編集部に窮状を訴える便りが寄せられ、対談することになりました。

ナガミヒナゲシは、ケシ科の一年草。

国立研究開発法人農業環境技術研究所によると、「1961年に世田谷区で最初に発見された比較的新しい外来植物で、近年、全国の幹線道路沿いに急速に広がって」いるという。

「オレンジ色の花が可憐で美しいので、一般の方に好まれ、中には種を取って、意図的に増やしている方」もいるらしい。


(通勤途上に見かけるナガミヒナゲシ)

ところが、「もともと地中海沿岸原産の雑草で、輸入穀物などに混じって、非意図的に日本に入ってきたものと思われ、繁殖力が強く、どんどん雑草化し生態系へ影響を及ぼす可能性も」と、警告しています。

ここで、ナガミヒナゲシさんにご登場いただきます。

編集部:ナガミヒナゲシさん、どうされましたか。

ナ:私の名前を検索してみてください。みんな私の悪口をいっています。ひどすぎます。「侵略者」とか、「危険外来植物」だとか、「毒々しい」などといわれています。
私、そんなにひどいことしたんでしょうか。

編集部:確かにネットで検索すると「可憐な花だけど駆除して!」などと書かれていますね。何がそこまで嫌われるのでしょうか。思い当たるものはありますか。

ナ:きっと私の持つアレロパシーのせいだと思います。

編集部:は?アレロパシー?超能力の一種ですか。


(アレロパシーとは何なのか。その正体は。次号へつづく、と思う。たぶん)


(小金井の友人宅の庭先にて。花の名がわからない)

「手持ち」というとき、私の働く業界では「手持ち資料」を意味します。外部には渡さない(渡せない)もので、かつ、質問されたときに備える資料です。

記者会見(プレスリリース)でも、当然、手持ち資料は重要。脳内の記憶容量がいっぱいで、さらに断片化までしている昨今は必須です。

そこで、「手持ち、用意しててね」と私はスタッフに指示します。

ビシッといいものがくるときもあります。が、たいていは使えないか、無駄に多いかのどちらかです。

これは、やはり、指示する側の私に問題があるのです。

「仕事上で嫌だな思う人の顔を思い浮かべて人差し指で指してご覧なさい」

ずいぶん前に何かのセミナーで講師がそういいました。

「人差し指は相手を向いていますけど、中指、薬指、小指はあなたを向いているでしょ。あなたのせいがより重いんです」

何ていうこじ付けなんだろう。そのときはそう思いましたが、妙に心に残っています。

さて、本題の私の指示の出し方に戻ります。

「手持ち(資料)は、縦、横、斜めで用意してほしい」

「縦、横、斜めって何ですか」

「縦は時系列。つまり、過去において類似の事業を行ったことがあるか。今回、初めてのことなのか。加えて、今後どうするのか」

「なるほど。では、横は」

「横は地理的比較。県内他市、あるいは全国の他の中核市ですでに行っているかということ」

「で、斜めは何ですか」

「斜めは、自分の組織内で類似の事業はあるのかどうか。関連する事業はどのようなものか」

以上が私の「手持ち」の基本形です。

ちなみに、独房のようなタイ・バンコクの寮に住んでいた際、浴室の排水口から這い出てきたゴキブリをシャンプーのティモテで撃退していました。

腹の横の気孔を塞いで窒息。香りに包まれて息が詰まります。ティモテの思い出です。

ティモテの詰まらないエピソード、申し訳ありません。


(田んぼで遊ぶ鴨。本文とは関係ありません。もしかしたら仕事中なのかも)

「本文とは関係ありません」という言葉が嫌いです。真の意味で関係がないとは、例えば、青少年の非行問題の記事に月のクレーターの写真を掲載するようなことでしょう。

さて、私は鴨南蛮そばが好物です。鴨の肉汁とネギの組み合わせが妙なるハーモニーを奏でています。

しっかりと鰹節で出汁を取り、みりんを少し多めに入れて、甘さを強くします。

ネギは事前に焼いておくことが常道です。焼きネギとは別に白ネギを細かく千切りして水にさらしたものを仕上げに投入します。

なるとを5、6片浮かべると彩りがよくなります。なお、なるとの渦の紋様と鳴門海峡の渦巻きは方向が反対です。

市内で鴨南蛮そばといえば、「大石(おおいし)」。私にとってのソウルフードといっても過言ではありません。

鴨肉に少し太めの手打ちそばを絡めながら、口に入れます。じんわりと広がる鴨の肉汁がそばの淡白さを濃厚な味に変えます。

ところで、30年近く前に滞在していたタイ・バンコクでも私はよく鴨肉を食べていました。

屋台の店先にローストされた鴨が吊り下げられていました。

カオナーペッ。

ご飯にスライスした鴨肉を添える庶民の食べ物です。「カオ」はご飯を意味し、「ナー」は前にという前置詞のような言葉で、「ペッ」が鴨です。

というわけで、鴨を見つめるとき、かように私の脳内ではストーリーが展開されます。


(あえて構造物を配置してみました)

いちばん美しい夕陽。それは30年前に友人と二人でタイを旅したとき。北部のチェンマイまで鉄路で行く途中で目にしました。

真っ赤な太陽が今まさに沈みゆかんとする光景は荘厳であり、厳粛でした。

熟した太陽によって草原は燃えるような夕焼けに包まれていました。

この「燃えるような」という表現については、1年ほど前に「燃えるような夕焼け」で一石を投じています。

夕焼けって、そもそも太陽が燃えているわけだから、「ような」はいらないんじゃないか。そういうくだらない主張です。

閑話休題。先日の「剣客との語らい」の余談です。

剣道七段の剣客に私は問います。

「竹刀を振るとき、右手と左手の力の入れ具合はどういう感じなの。やっぱり利き手の右手の方で打ってるの?」

「それが違うんです。理想は左が8割、右が2割といわれています」

「へ〜、そうなんだ。左手で打ってるってこと?」

「そいういうことになっているのですが、じつは、右腕の方が太くなりました。防具も右手の甲手(小手)の方が痛みが激しかったんです」

「右手に力が入っていたと」

「そうなんです。ところが...」

「ところがどうなったの」

「それが、最近、腕の太さも均等になり、甲手(小手)も右側が先に痛むということがなくなったんです」

「腕の太さが同じに...ほう」

「経験を経るごとに熟してきたというのでしょうか。理想に近づいてきた感じです」

「熟す。なんだかいい話だね」

剣客から示唆に富む話を聞けて満足でした。私もどこかいい室(むろ)にでも入って己を熟してみたいと思いました。


(私を写して、と聞こえたような気がして)

急に暑くなったせいか、嫌な蚊があいさつにきました。初刺されです。以前「蚊も歩く」で痒みを伴う蚊がいるのは、製薬会社の陰謀ではないか。そう述べたことがあります。

「これだけ人間に叩かれ、蚊取り線香でいぶされ、薬剤で噴霧されれば、蚊も進化し、かゆみを伴わない蚊が生まれてもよさそうなもの」

もし、そのような蚊が出現すれば、「D日本除虫菊、A製薬、Fキラーの『DAF連合』にとって都合が悪い」。それゆえ、「痒い蚊をひそかに繁殖させているのかもしれない」との見立てです。

メスの蚊だけが産卵前に栄養を摂るために生命の危険を冒してまで行う行為、それが吸血。そもそもオスの口は血は吸えないのでオスは刺しません。

ですから、蚊界においては、種族を保つための文字通り生命を賭しての行為なのです。メスだけですけど。

人間界においては、蚊即叩く、蚊即燻す、蚊即噴霧すること。これらが脊髄反射のように容赦なく無慈悲に実行されます。

かゆみを伴わない蚊が出現しているのではないか。当初、そのような見立てをした私。

ですが、それは誤りで、蚊自らが課している試練なのではないかと思うようになりました。

艱難(かんなん)汝を玉にす

波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す

そうです。生存本能を高めるため、あえて人間との闘争によって“生きる力”を磨いているのではないか。そう思うようになったのです。

叩かれる蚊は、所詮叩かれる運命にある。淘汰される中で蚊の中の真の蚊が生き残る。

一夜の思考作業の結果、そのような結論に至りました。

蚊も痒くなけりゃ打たれまいに。


(歩道のブロックの隙間から可憐な花が)

赤と青に加えて脇に台形状の表示が設置されている歩行者用信号機。仕事の進め方について、この信号機を例に挙げてスタッフに話をすることがあります。

赤から青に変わること。それが歩行者にとって、もっとも有用な情報です。歩行者が求めているのは「青」という成果といえます。

では、青になればそれでいいのか。確実に青になることが保証されていれば、それで良しとする考えも確かにあるでしょう。

しかしながら、組織人というのは、多分に心理的な存在であり、人によっては、かなり感情的な存在です。

蛇足ながら、感情的な上司ほど不思議に心に残っているものです。

当時はあれほど嫌だなと思っていたにもかかわらず。

年月を経ると、嫌悪感が削ぎ落とされ、懐かしさまで湧いてくるのは、なぜなのでしょう。時の持つ“やわらぎ効果”は、議論に値するテーマです。

脱線のついでにもう一つ脱線すると、桃屋の穂先メンマ「やわらぎ」が大好きです。


(さらに脱線。任侠映画の見過ぎでこの種の車を見ると拉致されそうな気分に。日産HPより)

さて、本題に戻ります。

信号機に例えていえば、赤から本当に青に変わるのか。上司は信用していない。あるいは、いつ変わるのか不安に思っている。

一方で、成果は一気呵成に出るものではありません。思ってもみない障壁にぶつかることもあります。

そこで、歩行者用信号機にある台形状の進捗表示です。数分以内に絶対に変わると決まっている信号機ですら進捗を表示しているのです。

であれば、不確定要因に囲まれている私たちの仕事においては、いや、仕事においてこそ、この進捗を伝えるということが重要になってくると思うのです。

感情系上司のイライラの原因の多くは、成果そのものの出来栄えよりも、ここにあるのではないでしょうか。

スタッフに私は付け加えます。

進捗の報告は、上司を安心させるだけでなく、あなた自身を守ることにもなるのだよ、と。手戻りという無駄なエネルギーからの解放です。

上司の思う「青」と部下の考える「青」は、往々にして異なる。それで...。

長くなるので、この辺で筆を置きます。意図するところは伝わったと思います。


(職場前のこの交差点が好きです)

放送業界でいうF1層とF2層が離れてしまう。そのため、慎重かつ思慮深く避けてきたテーマ。一方で、一部において切望する声があることにも耳を傾けなければなりません。

※ F1:20〜34歳の女性、F2:35〜49歳の女性

F1層等については「大切なF1層」で詳述しています。

このところ避けてきたテーマとは、腹痛の件。

腹痛とは、文字通りお腹が痛くなること。幼い頃から悩まされてきました。いや、もっと深刻なレベルです。苛(さいな)まされてきたといってよい。

小学生のときです。どうしようもなくなって、川べりで緊急処置したことがあります。

河川の働きを認識しました。偉大な洗浄力と希釈力に感謝したいと思います。

近年は各所にあるコンビニに助けられています。

特にファミマは他社と比べトイレが広く、清掃が行き届いています。「春はあけぼの、トイレはファミマ」といっても過言ではありません。

さすが看板にトイレを意味する男女のピクトグラムを掲げるだけのことはある。

さて、あったらいいなぁと思うのが「待ち人検知カメラ」。

次に待っている人がいるかどうか。外部カメラで捕捉しボックス内の液晶画面で確認できたら有難いと思うのです。

ボックス内で長時間、呻吟し苦悶し抜いたあげくにドアを開けると待ち人がいる。できれば、これは避けたい。事前の心の準備が必要でしょう。

でなければ、羞恥心が一気に噴き上がります。

また一方で、待ち人がいないとわかれば、危機が去った後の安堵感の余韻を落ち着いて味わえるのです。

何が原因だったのか。近因と遠因。想定内の事態だったのか、想定外だったのか。もっと適切な対処方法がなかったのか、等々。

この振り返りが次の対策と自身の成長につながります。

というわけで、今後ともF1層に十分に配慮しつつ、当該テーマは追いかけていきたいと思います。


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