- 2016.05.30 Monday
私憤から公憤へ
(桜の葉のクマリンの匂いが嫌いです)
熊本地震の報道に接し心を痛めています。罹災証明書の交付をめぐって住民が怒っているという。「ずさんな運営」や「行政側の危機感欠如」が目に余るようです。
「『出直せ』罹災証明書めぐり益城町民から怒り」(毎日新聞ニュースサイト2016.5.29)
住民がいかに怒っているか。住民の言葉を引きながら、具体的な状況が綴られています。
証明書を交付する場所には「被災者たちの行政に対する怒りとため息と不信の声があふれていた」という。
記事を読み進めていくと、記者自身、被災した両親の罹災証明書の交付を受けるため、順番待ちをし、そこで行政の対応に憤りを感じたようです。
「痛感したのは切実な声と乖離(かいり)した行政側の危機感の欠如だ」
第三者ではなく、記者が当事者として感じたこと。これほど強いことはありません。臨場感があります。
被災者の憤りがひしひしと伝わってきます。
5年前を振り返り、同様に混乱したときのことを思い出します。不甲斐なく、申し訳なく思う局面が多々ありました。
被災者の皆さんの大変さに思いを寄せると同時に私は役場職員の心中を慮ります。どれほど辛かろうか、と。
地震発生から1か月を過ぎました。
疲れていると思います。心身ともに疲労困憊でしょう。毎日のように怒りの声がぶつけられていることでしょう。
じつに切ない。しんどい。
(花を見ていると落ち着きます)
「危機感の欠如」。そう批判されています。その通りでしょう。
そうです。5年前も心のアンテナが機能しなくなり、私自身、判断力が鈍ったことを思い出します。
人は疲労の極致にあるとき、他人を思えなくなる。神経が麻痺してしまいます。私はそれを経験しました。
同業者として、私はどうしても職員のことを思ってしまいます。できるなら代わってあげたい。
苦情だけを聞く役に徹して、役場職員には本来の業務が円滑に遂行できるようにしてあげたい。
そんな思いに駆られます。
報道とは何なのでしょう。報道の目的とは何なのでしょう。
報じる側は、記事にすることによって、相手方にどのような行動の変容を望んでいるのでしょうか。
今回の場合ですと、役場職員の住民対応の改善であることは明白です。
では、報道されることによって、「よし、迅速に罹災証明書をお出ししよう」と職員の士気が高まるのか。速やかに改善されるのか。
ほとんどの場合、批判の積み重ねによって、人の行動の変容は起きません。
目の前で経験し感じた貴重な「私憤」。それを「公憤」として訴えるとき、適切な批判に加えて、その背景にあるもの、課題にも目を向けたいと私は思うのです。
ちなみに、「星々のつぶやき」は私憤を公憤にはしません。なぜなら、自分自身の行動の変容を目指しているからです。
変容できないまま終わりそうですが...
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- by だいこんくん