(梁の力強さが空に映えます)

常磐ハワイアンセンター(現 スパリゾート・ハワイアンズ)に行ったときのことです。館内の南国の雰囲気に心地よさを感じ写真に撮りたいと思いました。

父が持っていたカメラを借りて写真を何枚か撮りました。いまと違って、フィルムを巻き取ってカメラ屋さんに現像とプリントをお願いしたものです。



(しゃがむ。下腹部を圧迫するリスクがあります)

ちなみに、「焼き回し」は誤用で、正しくは「焼き増し」というそうです。子どもの頃は「焼き回し」といっていたように思います。

さて、数日後、期待に胸を膨らませながら、受け取りに行きました。写真を取り出してみるとがっかり。

訴えるものを何も感じないじつに平板な仕上がりになっていました。

あのトロピカルな雰囲気がすっぴんな風景に変質していました。



(素材に迫る。背後を中学生が遠巻きに通り過ぎて行きます)

自分の声を初めてテープレコーダーで聞いたときの驚愕にも似たガッカリ感。マクドナルドハンバーガーを袋から初めて取り出したときの落胆にも似たニセモノ感。

幼心にもショックでした。

時、下り40年。いま私はスマホ撮影の師匠がいます。

杉並・阿佐ヶ谷の花屋さんです。直接の指導はありません。神々しいばかりの師匠の作品を通じて背中から学んでいます。



(仰ぐ)

第一に、しゃがむこと(かがむこと)
第二に、迫ること
第三に、仰ぐこと
そして、陰影に目を配ることです。

スマホ撮影は素材をどう切り取るか、つまり、アングルが生命です。ときに用水路に落ちそうになりながら、ときに不審者に間違われそうになりながら、写真道に邁進しています。



(陰影をどう生かすか、難しい)

久しぶりにスパリゾート・ハワイアンズに行き、幼き日の失敗の雪辱をしようかと心秘かに、かつ、捕まらないようにたくらんでいます。

師匠、腕章を作成した方がいいでしょうか。


(磐越東線の鉄橋)

南米ペルーのマチュピチュ村。その初代村長は、野内与吉さん(1895〜1969年)という福島県大玉村出身の方だと知りました。契約移民として大正6(1917)年にペルーに渡りました。

ペルー国鉄クスコ・サンタ・アナ鉄道に勤務した際にマチュピチュ村に定住。その後、マチュピチュ村で唯一のホテルを開業。

昭和22(1947)年10月にマチュピチュ村が土砂災害に見舞われます。翌年6月、野内さんはマチュピチュ村の復興のため、 マチュピチュ村村長に任命されました。

地域に厚い信頼と人望があったに違いありません。そこに至るまでどれほどの苦難と苦労があったことでしょうか。想像を絶します。

これが縁となり、大玉村は、平成27(2015)年10月にペルー共和国マチュピチュ村と世界で初めて友好都市協定を締結。調印式はマチュピチュ遺跡の中で執り行われました。

大玉村側は紋付き袴、ペルー側は民族衣装というそれぞれの正装で臨みました。

友好都市協定に呼応して、本年8月にはマチュピチュ村長夫妻らが来日することになりました。8月3日から7日まで大玉村に滞在するという。



(酸っぱいのが好きです)

マチュピチュ村の初代村長の野内与吉さんの偉業も、もちろん素晴らしい。

さらに、この縁を意気に感じ、マチュピチュの遺跡まで出向いて友好都市協定を調印した大玉村の気概も、また、私はすごいことだと思うのです。

私の気概はどうか。前号の「ペスタロッチの気概」で自分が時代潮流を作れなどと勇ましいことを宣したものの...。

本日夜の集いの会場まで職場から徒歩で7km歩くことを決意。

暑熱の坂道に喘ぎ、飲み物を買い忘れた私は、タクラマカン砂漠を彷徨う流浪の民のよう。汗が目に入り風景がぼやけて見えます。

5km目にスターバックスという名のオアシスを発見し即入店。

酸味の利いたアイスティーで喉を潤すばかり。所詮、私の気概はこの程度。

先達の偉業にただただ慎ましく畏まるだけです。

さあ、あと2km歩くとしましょう。西日がきつい。


(算盤は9級で退塾させられました)

◯◯基本構想、◯◯ビジョン、◯◯推進計画といったものを作ることが多い職場に私はいます。大体において作ること自体に大きな目的があります。

作りたくて作るのではなく、作らなければならないので作る、といっても過言ではありません。

一人の人間において自分の人生の基本構想がなくても生きていけるように、同じく組織というものも、構想がなくても存続できるようになっています。

仮に組織の目標を「明るく元気に親切に」とだけ掲げ、何らの構想や計画がなくても、立派に運営できると私は確信します。

さて、きょうの本題は、それらの構想などの前文の表現について、です。

「時代潮流はますます伸展する高度情報化、国際化....」、「国の動向を十分に踏まえながら...」といった文言が必ずといっていいほど盛り込まれます。

ニューヨーク・マーカンタイル取引所の先物の動向がどうなのか、シリコンバレーでどのような起業が盛んになっているのか。

書き手(起草者)本人が本気で気にしているようには思えません。

私は思うのです。

時代潮流や国の動向を踏まえたり、気にしたりするのではなく、自分が何をしたいのか、もっと大きくいえば、自分が時代潮流なのだと、でんと構えたらいいのです。

「私が時代潮流を作る」「国にこちらの動向を踏まえさせる」というくらいの気概を持ちたいと思うのです。

「『ボナパルトに会いましたか』『いや』とペスタロッチは答えた。『ボナパルトも私には会えなかった』」

ナポレオンでさえ自分に会えなかった。このペスタロッチの気概が私は好きです。

というわけで、やっと木曜日。もう一踏ん張りです。

ただ、私の気概は、この「星々のつぶやき」という仮想空間でのみ有効であることを申し添えます。


(もう少しすると出穂の時期です)

26歳。遠い昔のような、ついこの前のことだったような不思議な感慨にとらわれます。現在の職場に就職して2年目の年が26歳でした。

当時の思い出を手繰り寄せてみましょう。

すでに父は亡くなり、母が病に伏していました。

夕刻、仕事を終えると病院に見舞いに行き、帰りに買い物をして、帰宅。祖母に夕飯を作るということの毎日。

病院のベッドでどんな思いでいるのだろうか。眠りに就くとき、ふと思う毎夜。

職場では、初めて運転したマニュアル式の軽トラックの加速のよさと運転席の絶壁感にたじろぎました。

支給後、亡くなるなどして使われなくなったお宅の電動ベッドを運び、保管場所の保育所の窓ガラスを割りました。

訪問先で元気よく辞去の挨拶した後に後退で軽自動車を電柱にぶつけました。

家庭訪問に同行してくれる先輩は間食が好きでした。午後3時半、病院を訪問。食堂脇を通って駐車場に向かおうとしたそのときです。

「食えっぺ」

「えっ?何をですか」

「味噌ラーメン、食えっぺ」

「えっ?いま3時半ですよ」

「若いんだから、食えっぺ」

昼食でもない、夕食でもない、中間食としての味噌ラーメン。食べ終わった後、胃の底に疲労感を感じました。

人それぞれの26歳。何が彼をそうさせたのか。

彼自身もわからないし、まして第三者がそれらしい分析をしても、決してわからないだろうと思います。

誰しもが持つ闇。自分でもわからない心の闇。

その闇を真珠が異物を外套膜で覆うように、包んでくれる人の縁が私たちには必要なのではないか。そう思いました。


(こののれんを見つめて数十年)

(からつづく)

本年初頭に私は3つの目標を掲げました。にもかかわらず、すでにそのうち2つは、目標そのものを忘れてしまいました。

行かず嫌いの喫茶店」で本年の目標の第一に自宅から市街地に伸びる県道沿いの喫茶店に入ること、と述べています。

営業している(緑色のパトライトが回転)ことはわかっている。けれど、この数十年、駐車場に車が1台もないのです。

怖くていまだに入店できません。

さて、初入店の中華料理店。

先客2人は、ほどよい距離を置きながら無言です。厨房に立つ女将さんも黙ったまま。しゃべってはいけない沈黙の掟があるかのようです。

やがて、あきらめたかのように先客の2人が店を出て行きました。もしや私は異物乃至邪魔者だったのかもしれない。何かの取引をしていたのではと邪推する私。

「このミソ冷やし中華ソバ、美味しいです。初めてです。お値段もラーメンの100円増し。安いですね」

「日本人は味噌が好きでしょ。だから味噌味もって思って。値段だけど、ラーメンも冷やし中華も同じ材料でしょって言われるけど、手間が違うのよね」

「ですよね。茹での後に冷やして締める。キュウリやその他の具材の刻みもある。かかる手間が違いますよね」

「そうなのよ。そこをなかなかわかってくれないのよ」

丁寧に刻んだ錦糸卵、キュウリ、ナルト等々。錦糸卵があるのに茹で卵も添えられている。

そして、当地定番のマヨネーズが破壊力を持ったボリュームで皿の一部を占領しています。

ミソ冷やし中華ソバ。630円。

おそらく消費税5%にアップしたときのままの価格なのでしょう。

「じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たなら、考えるのをやめて、進め」
(ナポレオン・ボナパルト)

ドキドキしながら初めての店を克服した私。やればできるのだ。

時は満ちたり。潮も満ちたり。

勝利の余韻に浸りながら、年頭に掲げた目標“行かず嫌いの喫茶店”に照準を合わせるのでした。


(ついに初めての入店)

これまでお店の存在を認識しつつも入店したことがありません。時折ガラスのドア越しからそっと覗いてみます。が、店内に客のいる気配がありません。

気になって気になって25年。

「概して人は、見えることについて悩むよりも、見えないことについて多く悩むものだ」(ユリウス・カエサル)

客の気配がないのに「営業中」との看板。照明も点いています。本当に中華料理店なのだろうか。

中華料理店を営んでいるように装って、違うことをしているのではないか。出前専門店なのかもしれない。

いつしか私は疑心暗鬼となり、勝手にハードルを上げていました。

「精神性の最大の要素は『恐れない心』である」(マハトマ・ガンジー)

そう、今日こそ勇気を出して入ってみよう。

誰もいないと思ったら、手前の死角のテーブル席に1名、奥の死角の座敷に1名先客がいました。どちらもおじさんです。

死角をあえて選んでいるようにしか思えません。

先客同士は3mほど離れ、私はカウンター席にやはりそれぞれから3mほど離れて座りました。

ほどよい距離を保つ3名のおじさんたち。

私の座るカウンター席は入口のドアから足だけ見える位置になります。

メニューを一瞥(いちべつ)。全体の価格設定のベンチマーク(基準)となるラーメンの値段を真っ先に確認。

530円。高くもなく安くもなくといったところか。

右下の「季節限定」の文字に目が行きます。

冷やし中華ソバ(630円)
みそ冷やし中華ソバ(630円)

みそラーメンがあるのだから、みそ冷やし中華ソバがあっても、確かにおかしくはない。

しかも、季節限定といいながら4月から9月までの半年間のロングランです。

通常、ラーメンの値段に200円から250円増しの冷やし中華。それが100円増しの630円です。

決めました。みそ冷やし中華ソバの初体験です。

(につづく)


(鉄塔の屹立した姿が好きです)

川口マーン惠美著『ヨーロッパから民主主義が消える』(PHP新書)を読みました。Amazon.co.jpの「ヨーロッパのエリアスタディ」で売れ筋ランキング1位の本です。

著者は、日本大学芸術学部音楽学科卒業。ドイツのシュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。シュトゥットガルト在住。

読み終えて、ある投稿者のカスタマーレビューに私も同じ感慨を持ちました。

「『ヨーロッパから民主主義が消える』というより、『ヨーロッパから”ヨーロッパ”(という一つの共同体概念)が消える』というほうが、今のEUの状況を適切に表しているのではないか」と。

EUの政策決定システムがかくも複雑であること、
EU内の豊かな国とそうでない国との確執が想像以上に大きいこと、
ギリシャが粉飾してまでなぜユーロというものを欲しがったかなどなど...
知らないことばかりでした。

国境線の内側に閉じこもる、理念とまるで矛書した加盟国の姿を目の当たりにし、著者は、ヨーロッパというものの行方末に懸念を抱きます。

いまヨーロッパは、難民とテロの流入によって、ベクトルの相異なるパワーが首をもたげ始めています。それは、分離独立という遠心力とナショナリズムという求心力です。

国境を越えて人が押し寄せてくる。そのとき民主主義は果たして保てるのか。

これは日本においても対岸の火事ではないと著者は警告します。

良書です。

デビュー作である『フセイン独裁下のイラクで暮らして』(草思社)も読んでみようと思います。


(職場の近くにマンションが建ちました)

「重要なことは被害者という特殊性の立ち位置から、どうやって多くの人たちへ伝わる普遍性を紡ぎだせるかではないか」ーー 会津に住む師匠の言葉です。

加害者に償いを求める気持ちも理解できるとした上で、師は普遍性の重要性を訴えます。

「そうした普遍性があってはじめて、特殊性に理解と共感を得て、孤立と衰微から逃れることができる」と。

以前、私は長崎で感じたことを綴りました。

苦しみを止揚する力(上)
苦しみを止揚する力(中)
苦しみを止揚する力(下)

原爆による災禍は、他者には理解し得ない、筆舌に尽くせないものがあります。

でも、長崎の人々から感じるのは、他に責任を求める「他責の姿勢」でもなく、当然に自らに責任を求める「自責の姿勢」でもない。

いわば「苦しみを止揚する力」といったものを私は感じました。

鬱積した心の向かうベクトルが復讐系ではない。もちろん、核兵器に対しては断固反対です。

でも、声高に反◯◯と叫ぶのでもなく、◯◯を許さないと糾弾するのでもない。

長崎では毎年3月11日午後2時46分にサイレンを奏鳴します。そのことを聞いたとき私は心が揺さぶられると同時に恥ずかしい思いを抱きました。

8月9日午前11時2分にどんな思いを共有してきただろうか、と。


(午後は振替休暇です。散歩日和)

被害による苦しみというものは、簡単に癒えないものです。いつまでも心の向きは復讐系のベクトルとなります。

広島の平和記念公園でオバマ大統領に見せた被爆者代表の振舞いに「苦しみを止揚する心」を感じました。

大事なことは、師がいうように「被害者という特殊性の立ち位置から、どうやって多くの人たちへ伝わる普遍性を紡ぎだせるか」であると思います。

長崎の城山国民学校(現 城山小学校)は爆心地から500mの位置にあり、甚大な被害を受けました。

城山小学校では、毎月9日は平和学習の日とされ学校全体で平和について学ぶという。

おそらく、そのたゆまぬ学習の中に復讐ではなく、止揚する何らかの取組みがなされているに違いない。

そうでなければ、福島原発がどうなるかわからない時期に昼夜通してバスを仕立てて、長崎の地から1500km離れた福島に職員が駆けつけるはずがないと思うのです。

今度は私たちです。

これから、苦しみを止揚する取組みをしなければ、言い換えれば、特殊性を転換し、普遍性を持ち得なければ、孤立と衰微が待っているかもしれません。


(からっとした天気に誘われて外出)

西洋カナメの赤褐色は周りの緑色によく映えます。湿度の低い爽やかな天気に誘われて街に出てみました。

カフェ好きの私。新しい店が街にできたと聞き訪れました。タルトの専門店のようです。

コネッション(connexion)。フランス語で「つながる」という意味だそう。好きな言葉です。


(グラスもフランス製です)

いろんな豆が乗った焼きタルトを注文。コーヒーは一杯ずつのハンドドリップです。

ほどよい酸味と芳醇な香りが幸せな気持ちにしてくれます。


(コーヒーによく合う焼きタルト)

いつまでも時間を過ごしたくなる空間。ジャズが静かに流れます。薄ぼんやりを趣味とする私にぴったりです。


(照明も空間デザインも私好み)

薄ぼんやりとコーヒーを飲んでいたら、「◯◯◯君、どうも」と声をかけられました。

「あっ!これは部長!どうも」

背後に上司がいたとはまったく気が付きませんでした。薄ぼんやりモードからビジネスモードに至急切り替えました。

このモード切替はエネルギーが必要ですね。


(次回はモーニングを楽しみたい)


(海を眺めるといろんな思いが込み上げてきます)

加熱臭。加齢臭ではありません。搾った生乳には臭いがほとんどないという。加熱殺菌によってたんぱく質が変質し硫化水素が発生。あの牛乳の臭いになるそうです。

加齢臭といえば、子どもの頃、お年寄りがたくさんいる集まりに行くとナフタレンが入り混じりった独特の臭いを感じました。

最近あまり気にならなくなりました。ナフタレンの使用が減ったのでしょうか。

幼児がナフタレンを誤飲した際、牛乳を飲ませると危険です。ナフタレンの成分が体内に取り込まれやすくなるからです。

さて、無料とは何でしょう。このところよく考えるテーマです。

先日、セブンイレブンでセブンカフェ1杯分の無料券をもらいました。

これはどう捉えるべきなのでしょう。

上得意である客に感謝の意を込めて、セブンイレブンが負担をし、利益を犠牲にしているのでしょうか。

テレビショッピングで知られる通信販売会社ジャパネットの謳う分割払いの金利負担。これも企業側が利益を犠牲にしているのでしょうか。

ちなみにウィキペディアによると2006年の同社の金利負担額は約46億円だという。

公共サービスに話を変えます。

いくつかの自治体で学校給食費の無料化を始めました。我が市は、1食当り小学生が266円、中学生が310円です。食材費のみの費用負担です。

食材費のみで年間約15億円です。

これを無料化するということはどういうことか。

毎年15億円分の他の事業を止めるか、あるいは、保護者以外からの負担を増やす、つまり広く一般市民からの負担を新たに求めることになるでしょう。

我が市の生産年齢人口(15〜64歳)は約20万人です。15億円÷20万人=7500円。

一家で生産年齢人口に該当する人が4人いる世帯は3万円の負担増となります。

無料化とは何か。

誰かが負担しないということは、誰かが負担するということです。

要は、負担を誰がするのかの議論なのです。負担する人が納得するか。そこが肝心です。


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