(自宅前のバス停)

動画サイトで「恋におちて」を聞きました。30年以上前に流行った曲です。改めて聞くとわからないことがあります。

脳の劣化と感性の磨耗によって歌詞の意味するところが捕捉できません。

意味なんてわからなくていいのだという論もあるでしょう。あれだけ曲調が美しければとやかくいうものではないのかもかもしれません。

でも、気になるのです。

「土曜の夜と日曜の」というフレーズ。

何故に土曜と日曜の夜だと電話できないのか。当時、携帯電話は肩から提げるカバン大の大きなものしかありませんでしたから、電話する先は家の固定電話でしか考えられない。

平日は電話できて土日はできない。なぜか。

ケース1 彼女は平日に彼氏と会っていた。土日、彼氏は休みのため家にいる。家族がいるのでかけられない。

ケース2 彼氏は単身赴任中で土日だけ家族の元に帰る。当然、家族がいるのでかけられない。


(自宅近くをローカル線が通ります)

よく考えるとどちらでもいいじゃないかと思えてきました。

目下、とても気になっている最大の関心事は、寄生虫(サナダムシ)を体内で飼育していたという藤田紘一郎博士のこと。

そのサナダムシを“きよみちゃん”と名付けるセンスが素晴らしい。きよみちゃんを飼育するようになって体質が改善したという。

「サナダムシ きよみちゃん」と検索すると様々な記事がヒットします。

早速、博士の著作『笑うカイチュウ』を注文しました。

結局、ロマンスよりロマノスコープ(大腸内視鏡)に親和性があるようです。


(北木島の浜辺で散策)

職場のスタッフの結婚披露宴。新郎の主賓として挨拶しました。1か月前に原稿を作り、直前まで推敲。

本当は数着持っている野菜の着ぐるみを着て喜びを表したかったこと、しかし、パフォーマンスすればこのような上司の下に新郎がいることに不安を覚えるであろうことを冒頭に開陳。

特に受けませんでした。私は座の白けた雰囲気を味わうことも趣味としており、この程度でリジリエンス(折れない心)は揺らぎません。

返って、だいこんの着ぐるみを羽織ればよかったかもしれないと思いました。後悔先に立たず。

新婦側の主賓挨拶は職場の同期の友人です。歩んできた職場は違うけれど、お互い会えば、声をかける仲です。

主賓同士で隣席に座りながら、近況を報告し合いました。友人が私に語りかけます。

「あのときつらかったでしょう。◯◯経営課にいたとき」

「よく知ってますね。本当に大変でした」

同期のその友人の人柄や仕事ぶりはそれなりに知ってはいたつもりでした。

が、私が彼を知る以上に私のことを深く知っていたことに驚きとともに温かいものが胸の中に広がりました。

他者の苦しみに共感できる心を持つこと。これこそが大切である、と。

様々な意味において心温まる披露宴に出席させていただきました。


(静謐な佇まいを見せる採石場跡)

瀬戸内海に浮かぶ北木島。岡山県笠岡市にある面積7.49km、人口1千人余の島です。初めて訪れました。

かつて良質な花崗岩の産出で栄え、北木石として知られていました。大阪城の石垣や日本銀行本店の建材にも使われています。

晴れの国といわれる岡山。あいにくの曇天です。雲は私が持ち込んだに違いない。

笠岡港から白石島を経由して北木島へ約1時間。船内の雰囲気がどこか懐かしい。磐越東線のボックス席で談笑する、あの一団の醸し出す雰囲気に似ています。


(往時は百数十人はいたであろう中学校もいまや生徒5人)

船が北木島に近づくと港で友人が待ってくれていました。神戸で合流した京都の友人と手を振って応えました。今年1月に3人で嵐山で会って以来の再会です。

島は空き家が多いという。その一宅に私たちは居候させてもらいました。

3人の話題はときに「星々のつぶやき」に登場するテーマであったり、健康問題であったり、多岐にわたりました。

(漁港沿いに立つ旅館もいまは空き家)

「満たされないことの方が幸せなのではないか」

「病や仕事でうまくいかないことにも全部意味がある」

そんな多少硬い語らいを楽しみました。三人三様に悩みを抱えています。


(北木島の優しい波)

今回の旅で二つの発見がありました。

一つは、海ほたるです。

友人が仕掛けた瓶に無数の海ほたるが入っていました。あのハワイアンブルーの美しい色はそこでしか味わえない贅沢な宝石。そう思いました。

もう一つは、蚊の刺され方です。

蚊に刺されやすいと自認している私です。島には脚の長い蚊が飛んでいました。が、私は刺されず、連れの友人が集中攻撃されていたのです。


(ありがとう北木島。さようなら北木島)

蚊も人を選ぶ時代なのだと感じました。

北木島で感じたこと、考えたことは、もう少し熟成させ、発酵させて文字にしたいと思っています。


(山の端から月光がひときわ輝きます)

こういう部分の改善こそ我々の生活に必要なのではないか。ローテク改革の重要性を感じています。

それは、浴室でのシャンプーボトルの詰め替え。困惑するほど簡便性を向上してほしい。そう私は思っています。いな、切望しています。

通常、シャンプーボトルが空っぽだとわかってからの行動は緩慢です。気が進みません。ためらいと面倒くささに心が支配されます。

試しに水を入れて、シェイクしてみます。が、わずかに泡立つ程度です。すでに類似の行為が幾度もなされているのです。

詰め替えをせずに放置するところの懈怠、怠惰、怠慢の姿勢が嫌です。

さて、意を決し嫌々ながら詰め替えの儀式に入ります。脱衣場のロッカーの上の方から詰め替え用の袋をゲット。

冬季はこの軽作業も切ない。

急ぎ浴室に戻ります。「切り口」を信じ、切ろうとします。しかし、濡れているせいか、グリップ力が弱くなかなか切り取れない。

イラッとします。

トライボロジー(摩擦学)を究める必要がありそうです。東北大学の堀切川一男教授の話をまた聞きたくなりました。

話を浴室に戻します。濡れた手指と切り口をタオルで入念に清拭。もちろん、身体は裸のままです。

無事に切り口をカット。シャンプー液をボトルに注ぎます。裸で行なう、この作業に虚無感を覚えます。

チッと舌打ちします。

おっと、知らないうちにシャンプー液がボトルネックの外側を溶岩流のように流れ出ているではないか。

男性の小便のように流体力学の法則により、流れが数センチ先でよじれるのです。場外乱闘するシャンプー液。

自然流下のあとは絞り切りです。袋の髄まで絞り出します。このときボトルに液を入れるのが苦手です。約3割はボトルの外の漏出。

そして、最後の儀式は、絞り切った詰め替え用袋を脱衣場のゴミ箱に捨てる作業です。これが面倒この上ない。

浴室のドアを開け、投げ入れます。が、このアプローチが決まらない。ホールインできません。

これら一連の怠惰をローテクの改革につなげる人はいないのでしょうか。

もっとスマートなシャンプー液の詰め替えを開発する人はいないのでしょうか。

というわけで、いまから極楽湯です。ここなら詰め替えの心配が要りませんもの。


(ここからドラマが始まります)

駅を降りて少し歩く。後ろ姿が素敵な人の約10メートル後方に位置することが度々あります。

ソックスをひざ下10センチほどまで履き、スカートは膝よりは少し下。

したがって、脚の肌の露出は10センチ未満。少しだけです。

にもかかわらず、美しさが伝わってきます。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。世阿弥の言葉が蘇ります。

靴は私のように毎日同じではなく、その日の着るものとの組み合わせで変えているようです。

けさは赤い靴でした。鴨の名前のようなブランドかもしれません。

ちなみに、私はそば処「大石」のアイガモのローストが好物。ビールに合います。

脱線のついでに、“けさ”といえば、毛沢東を「けさわひがし」と呼んだ人を思い出します。

さて、けさは傘を持っていました。チェックのブラウスに合わせてなのでしょうか。傘の布地もチェック柄。

完璧な着こなし。コーディネートの水準の高さを感じます。

南こうせつの「夢一夜」の一節「床に広がる絹の海/着ていく服がまだ決まらない」なんていうことはないのでしょうか。

後ろ姿の素敵な人は、楽器店のある交差点を渡って活版所の先を左折します。私は直進です。

ここで追跡すると事件性を帯び始めます。そのことを自覚している私は、いまだに正面からの姿を見たことがありません。

見ずにおく。追いかけない。些少な妄想に留めておく。これが美の追求だろうと思います。

正面を見てしまうことによって、夢がシャボン玉のように消えることを恐れます。覆水盆に返らず、であります。

この踏み止まりが、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の境目であり、結界なのです。この一線を越えてはいけません。

事件の多くは、この妄想が肥大化し、脳内から思念が外部に漏出。そして、現実社会の中で実行してしまうことによって発生しています。

文筆家とは、あふれんばかりの妄想を文字に書き表して心を鎮める人。そう私は解釈しています。

フィクションをあれだけ書けるということは、相当な規模の妄想が脳内で発達しているに違いありません。

文章の効用は、かくのごとく治安の維持と安寧にも資するものなのです。

というわけで、私も鎮静剤としての「星々のつぶやき」を今後も綴りつづけたいと思います。


(美味しそうです)

高校2年生のときから通う理髪店のマスターの言葉にわが耳を疑いました。

「右側が円形脱毛症になっていますよ。一円玉ほどの大きさですけど」

「えっ!?本当ですか」

「この感じでは1か月くらい前にできた感じですね。この1か月でなにかストレスになることありましたか」

「ストレス...。そうですね。仕事でもストレスがないですし、あっ、あります。おやつです」

そうです。

私は8月から大好きなポテトチップスをはじめとするスナック菓子やプリンなどのスイーツを絶っているのです。

そのストレスたるや、大きなものがあったに違いありません。

牛乳についても、毎日「明治のおいしい牛乳」をごくごく飲んでいました。が、脱乳、いや、いまや卒乳してしまいました。

あれほど大好きだったポテトチップス。限定商品が出ると商品棚の前で目を輝かせていた私。

8月に発売されたカルビーの新商品。「ポテトチップス黒いコンソメ味」や「ポテトチップス濃い味ガーリックチーズ味」、「堅あげポテト匠味炙り牛とわさび味」、「ピザポテトサーモン&チーズPizza」。

それらが私を呼んでいるかのよう。幻聴でしょうか。

じつはコンビニのプリンコーナーも激戦区です。毎週のように新商品が並びます。

新たに投入されるプリンを食べるたびに私は幸福感に満たされていました。SNSでも「プリン部」というグループに所属しています。

いまやそれらすべてを、断じ、捨て、離れました。

最近、スーパーやコンビニのスイーツのコーナーの前でじっと佇むことが増えました。かつての盟友を慈しむかのようにじっと見つめてしまいます。

しかし、思いを断ち切り、私は、きびすを返します。

そして、来し方を省みる私。

いかにむさぼるようにポテチを食べてきたか。

いかに飲み込むようにプリンを食べてきたか。いわば“特定食べ物依存症”となっていたのです。

さて、これからどうするか、です。

千丈の堤も蟻の穴より崩れる。

そう、ここで、甘いものに甘い対応をしたら最後、蟻地獄が待っています。

というわけで、「円形脱毛症VS.おやつ」の壮絶な戦いの幕が切って落とされました。

「おやつ」であって「おやじ」ではありません。


(曇天のときのほうが映えることもある)

潤滑油。職場においては適度な無駄話を聴くこと。それこそが潤滑油だと思っています。係長の話に耳を傾ける私。

話題はガッツポーズをめぐって。

「課長、先日、子どもたちの試合の審判をしていました」

係長は剣道7段の剣士。

「ほう、その審判でガッツポーズを目撃したの?」

「そうなんです。私の目の前でではないんですが、私の視野の隅でガッツポーズを見てしまったんです」

「で、失格になったと」

「いや、3人の審判が集まって合議となりました」

剣道のルールでは一本を取った後にガッツポーズを取ると取り消しとなると決められています。

ちなみに私は卓球の石川佳純選手のガッツポーズが好きです。


(せせり=右側を初めて食べました。美味です。本文とはあまり関係ありません)

「合議の結果、どうなったの?」

「私以外の2人の審判はガッツポーズは見えなかったというのです。一瞬でしたから。後で周囲に聞いたところ確かにやっていたそうです」

「合議の結果は?」

「一本は取り消されませんでした」

「ほう。これまたどうして」

「小学3年生に対して厳格にルールを当てはめて、剣道そのものを嫌いになってしまうおそれを心配しました。いわば教育的配慮です」

「教育的配慮。大事なことだね」

というわけで、私は自分のがんばりに対して大人の配慮をすべく、駅前で美味しいせせり(鶏の首の筋肉)をひとり静かに喰らうのでした。己のせせりを揉みながら...。

かなり凝ってます。


(寝転がって秋空を仰ぐ)

地元の小学校の体育館で選挙事務の仕事に携わっていました。午後5時40分、市外転出で投票権のない方が見えました。

あと20分で投票所を閉じようというときです。

先月末に山形県に転出されたようです。市外に転出するとなぜ選挙権がないのか根拠を示してほしいと訴えます。

丁寧に説明し、なんとか納得してお帰りいただきました。

国政選挙の場合は市外転出でも投票権があります。それと誤解されていたのでしょうか。

そして、いよいよ投票箱を閉じようとしたときのことです。

私のズボンが急にゆるくなりました。いったいどうしたのでしょう。お腹がゆるくなるよりはマシですが、ベルトにトラブルが発生したようです。

ワニの口のようにベルトの末端を噛み押さえるところからベルトが脱落して切れてしまいました。

ナンタルチアです。

投票数の最終計算や各種報告書の取りまとめをしなければならないのにズボンがゆるゆるです。

最近の減量によって7kg痩せてしまたったため、ズボンがぶかぶか。

取りまとめはいいとして、このあと総合体育館に移動し開票事務があります。これでは開票しながらズボンがずり落ちる。

これはまずい。新聞の社会面に登場する事態はなんとしても避けなければならない。

そういえば、振り返ると私の人生はこういうことばかりです。

地域団体の視察の添乗でマイクロバスに乗っているときに腹痛に見舞われたことがありました。

農協に寄ってもらいトイレに駆け込んだところ、いずれのボックスにも紙がないのです。紙にも見捨てられる私。

いったん弛緩した括約筋の復旧作業はそれはそれは大変でした。

詳細は「西郷村の魅力」を参照。

というわけで、スマートフォンやスマートグリッドなどとと「スマート」が喧伝されていますけど、己の生き方をまずスマートにしたいと思う今日この頃です。


(親友にいただいたホオズキ)

母は、がんになったとき、「がんと友達になるのだ」といっていました。逆流性食道炎は私の旅の道連れのようなもの。

仲良く付き合っていこうと思います。

さて、「逆流性食道炎のこと(2)」において、逆流の原因は、食道の下部括約筋の締りがよくないことにある。そう述べました。

下部括約筋を緩めるものは、まず加齢による筋力の衰え。加えて、食事にも原因があります。

まず、アルコールがよくない。アルコールは食道下部括約筋の機能を低下させ、緩めてしまいます。

また、アルコールには胃酸を分泌する働きもあります。

さらに、炭酸飲料水はゲップを出しやすく、胃酸の逆流を生じさせるという。

つまり、ビールはいちばん避けなければならないものだったのです。五十路を目前にしてようやく私は気づきました。

胃酸の分泌といえば、過剰に胃酸を分泌させる食べ物には次のようなものがあります。

脂肪分の多い食材や油を多く使った物。

チョコレートやケーキなどの甘味料が多く使用されているもの。

酢やオレンジジュースなどの柑橘系。

香辛料など刺激が強いもの。そして、紅茶、コーヒー、緑茶などのカフェインを含むもの。

これらのほとんどが私の好物。この事実を知って私は、軽いショックと反省と決意を混合した思いを抱きました。

かねてから私は説いてきました。人生の幸福の8割は「食」の楽しみで占められている、と。

これから何年生きるのかわかりません。両親は50代半ばで此岸から彼岸に渡りました。

であるならば、選択はY字路のごとくです。

食道のポロロッカ※と付き合いながら美味いものを食べつづけていくか。

あるいは、ポロロッカを制し、精進料理のような食べ物で満足していくか。


(六花亭は美味しい)

というわけで、朝、職場のスタッフから北海道旅行のお土産にいただいた 六花亭製菓の「マルセイバターケーキ」。

いまだに見つめています。これ、大好きなんです。


※ポロロッカ:潮の干満によって起こるアマゾン川を逆流する潮流。


(実ってきました)

「腸能力」という言葉を知りました。秀逸な表現です。誰が考えたのでしょうか。ちなみに私は超能力も腸能力も持ち合わせていません。

さて、本年度第1回の「オフタイムサロン〜産学官連携ミニ講演会〜」に参加。公益社団法人いわき産学官ネットワーク協会の主催です。

「企業成長の秘訣 ダイバーシティ経営のススメ〜魅力ある企業の推進する多様な人材の活躍、その手法と成果〜」と題し、畠山明氏(株式会社セレクティー 代表取締役)が講演。

大きく6つに分けて、ダイバーシティ(diversity)とは何かなどわかりやすく説明してくれました。

1 共有体験
2 ダイバーシティ経営事例
3 やる気のモト
4 ダイバーシティと自己肯定感
5 勉強(仕事)のやる気
6 まとめ


まず、講師ご自身の失敗事例を紹介しました。成功事例ではなく失敗事例を紹介する姿勢に好感を持ちました。

「息子にチョコボールのキャラクターのキョロちゃんを壊されたときのことです。私は昭和43年生まれの47歳。子どものころ、銀なら5枚、金なら1枚集めて応募したやつです。。その自分の宝を息子に壊され、叱ってしまいました」

講師と同年代なので、キョロちゃんへの愛着が理解できます。私は小学校3年生のころプリマハムの懸賞品「でかでか地球ボール」が当たり、大喜びしたのを覚えています。

それほどきつく叱った覚えはなかったという。しかし、息子さんは相当に傷ついていた様子。

講師曰く「叱るのではなく、『壊れてしまったね』と壊れたことに対する共有体験をすべきだったと思う」。

ダイバーシティとは、一人ひとりの良さを生かす。一人ひとりのやる気を考えながらマネジメントすること。講師はそう解説します。

では、一人ひとりを大切にするとはどういうことか。

一人ひとりの自尊感情を高めること、自己肯定感を醸成することが、一人ひとりのやる気のモトなのだと講師は力説します。

自尊感情には、社会的自尊感情と基礎的自尊感情がある。

社会的自尊感情とは、うまくいくと、あるいはほめられると高まるもので、一方、基礎的自尊感情は、自分をかけがえのない存在として丸ごと認められる高まる。

出世街道をまっしぐらに歩んでいる人が何かでつまづいて立ち直れなくなるケースは、基礎的自尊感情が育まれていないことによるという。

日本の大人は頑張っても良さを認め合わない。自己肯定感は大人になっても醸成できるのだそうだ。

結果だけでなく、その人の努力のプロセス自体をほめることが大事だという。私の職場ではどうだろうか。

講師は聴衆に投げかけます。

「失敗したことをお子さんはみなさんと共有してくれますか」と。

失敗がいえる環境が大切。失敗をいえたときがチャンス。隠されたらピンチです。失敗したときの気持ちを共有(リフレクション)する。

オウム返しで失敗を共有することだ、と。

オウム返しでよい。「失敗したね」と。

いつもドジをやっている私。なんて有難い言葉なのだろう、と思いました。

人のやる気、エンジンを動かす共通点はスモール・ステップ。

1.01の365乗は、37.8。毎日少しずつやれば大きな結果につながる。0.99の365乗は、0.03。

「自己肯定感は一生の宝物。やる気のモトのモトです」

そう、私もかつて自己肯定感がゼロに近くなり自死を考えたことがありました。

「一生の宝物」を取り戻せてよかった。いまつくづく思います。周りの人びとの支えがあったからです。


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