(市役所の隣の公園)

第6話からつづく)

私が市役所に入庁する2年前に父は他界。がんを患い、父と同じ病院で治療していた母は家に戻り、療養していました。

安定した就職先の代表格である市役所の職員となったことを母はことのほか喜んでくれました。

母の卵巣がんはステージ4(末期)でした。病巣を摘出後、母は自らの意思で退院。肝臓や他の臓器にも転移していましたが、西洋医学での治療をやめました。

食事は玄米食や粗食を摂るように変わりました。温熱療法というのでしょうか。ビワの葉を身体に当てて、もぐさで温めるといったことも試していました。

そんなこともあって、ビワの葉を見るといまでも物悲しい気持ちになります。

そして、母は、ある日突然「自分はやりたいことをやる」と宣言。自宅でカラオケ教室を開くとともに旅行や登山を始めました。

そんな母の変わりように驚きつつ、不安も覚える中、私は最初に配属となった福祉事務所でケースワーカーとしての仕事に慣れる毎日でした。

そのころの私の心は、市役所に入れた喜びと、もうこれで海外には行けないのだ。そういったあきらめに似た感情が入り混じっていました。

入庁して半年ほど経ったころのことです。

当時の地域振興整備公団常磐支部からタイ語の通訳の依頼を受けました。

タイ工業省の視察団が工業団地と産業廃棄物処分場を視察するため来市するというのです。事前に資料を手に入れて必死に予習しました。

その後にも、不思議なことにバンコク市教育委員会、タイ農業・協同組合省といったタイの行政機関が次々と来市。市長表敬訪問時の通訳まで務めました。

それぞれ個別の事情で視察地として選んできたというのです。不思議なこともあるものだと思いました。

自動車学校で出会った、ドイツ留学を目指しているおじさんの言葉(註 第4話)が蘇りました。

「夢をあきらめてはいけない」と。

上司からは「タイからたくさんお客さんが来るけど、あんたが裏で糸を引いてんじゃないのげ」といわれました。

自宅療養していた母は一時、とても元気になりました。が、徐々にがんに蝕まれ、発症から4年後に亡くなりました。

「やりたいことはすべてやったよ」といって霊山に旅立ったことが救いです。

市役所で働き始めて5年目の秋。面識のない他の部署の課長が私のところに来ました。話があるという。

「君、1年間、カナダに行ってみないか」

第8話へつづく)


(知人宅の庭先)

第5話からつづく)

公務員試験について大阪府庁職員を目指す友人に相談。本気でというよりは、近況報告を兼ねてといった軽い気持ちでした。

彼の出身は大阪です。大学を卒業後、別な大学の大学院で環境学を学んでいました。つくば市にある、彼の寮に遊びに行ったこともあります。

「あのさ、地元の市役所を受けようと思っているんだけど、いま仕事しているし、勉強していないんだよね。いまからやっても無理だよね」

「もったいないよ。あきらめちゃだめだよ」

友人は語気を強めました。

「んだって、あと3か月後だよ。間に合わないよ。いまから勉強できるものってあるのかな」

「そうだね。憲法と経済学をやりなよ。公務員試験で憲法は根幹だよ。経済学も必須だね」

「憲法と経済学ねぇ。わかったよ」

文学部社会学科という、およそ法律とも経済とも縁のない学科を卒業した私。そもそも公務員など目指していなかったものなぁ、と嘆息しました。

試験当日、一般教養は意外にも解けました。これには理由があります。

当時、昼は生命保険の営業、夜は塾の講師を務めていました。

塾の社長が保険のお得意様で、講師が不足して困っていると相談を受けたことがきっかけです。

私は生徒たちからは「ジャカルタ先生」というあだ名で呼ばれていました。

塾の経営も転換期を迎え、塾の名称についても助言を求められました。

「社長の名前を冠した、『○○進学塾』とするのはいかがでしょう」

「おお、いいね。そうしよう。せっかくだから文字も誰かに書いてほしいね」

「書道をやっている後輩がいますから、彼に書いてもらいましょう」

というわけで、夜の仕事で私は高校進学を目指すクラスを受け持ち、全教科を教えることになりました。

教えることは、すなわち学ぶこと。高校入試のレベルを侮(あなど)るべからず。

中学3年間の学びを究めれば、公務員試験の一般教養に耐えうると私は確信します。

現在、社長の名前を冠した進学塾は市内各所に教室を展開しています。後輩の書いた墨痕鮮やかな文字とともに。

沖縄で国語の教員をしている後輩に一度見てほしいと願っています。

大阪の友人も私も翌年、公務員となりました。でも、私の心は晴れ渡っていたわけではありません。

第7話へつづく)


(電線の張力に負けず屹立する鉄塔)

(第4話からつづく)

生命保険の営業職にありながら上司の命により、電子部品の製造工場でタイ語の通訳をすることになりました。

たまたま保険会社のお得意様であったこと、タイに製造拠点が作られ、研修生が来ることになったこと。この二つの偶然が重なったことによるものでした。

2か月に渡るタイからの研修生受入が終わるころ、電子部品会社の総務部長から通訳の謝礼の申し出がありました。

いただくべきかどうか。営業所の上司に相談しました。

「もらうかどうかは君次第だよ。営業所としてはどちらでもかまわない。ところで、あの小さな電子部品は1個いくらで売れるか知っている?」

「おそらく数円から数十円だと思います」

「そうだね。その売上から利益を出して、君への謝礼の数万円を捻出するためにはいったいどのくらい製品を作るのだろう」

「相当な数だと思います。数千個以上でしょう。製造現場は薄利多売の世界です」

「その通り。ここで謝礼をもらえば、君とその企業との関係は終わる。しかし、謝礼を受け取らなければ、先方にとっては大変に有難いことだ。君との関係は永続的なものになるだろう」

「わかりました」

私は辞退することにしました。

後日、電子部品会社の専務から上司に感謝の電話があったと聞きました。相当の金額を用意しようとしていたようです。

当時の総務部長さんは現在、東京で自動車部品メーカーの会社の役員を務めています。いまもってお酒を酌み交わす仲です。

そして、昨年、私を頼って、当市に進出を希望する企業の経営者を連れて来訪しました。

四半世紀経ってもつながりが続いています。

さて、地元の市役所に勤める先輩から声をかけられました。市役所に勤めてみないか、と。

役所に対しての私のイメージは黒澤明監督の映画「生きる」に登場する市民課長でした。

くすんだ、覇気のない、ただ判子を押すだけの毎日。肘当てとずれた黒縁メガネ。

先輩はそんな私に対して軽い気持ちでいいからと受験を勧めます。

「とにかく受けるだけ受けてみて」

「ぜんぜん勉強していないですし...」

試験日まで数か月。さあ、どうしよう。

大阪府庁を受験する予定の同級生に電話しました。

(第6話へつづく)


(塩屋埼灯台)

(第3話からつづく)

自動車学校で私に声をかけてくれたおじさん。かつて出版会社で英語辞書の編纂を担当していたという。

私もその英語辞書にお世話になったものです。

おじさんが語り出しました。

「いまは貿易会社にいて、これまで自動車免許を取る機会がなかったので教習に通っています」

「私は大学を卒業したんですけど、留学の夢があって、仕事はしていません。地元に戻って来て両親の看病をしながら、免許を取りに来ました」

「語学の勉強だけは断じてあきらめちゃいけないですよ。私はヨーロッパの言語はだいたいわかります。いまの会社を退職したらドイツのハイデルベルク大学の大学院に行こうと思っています」

「そうなんですか。すごいですね!」

「毎朝早く起きてドイツ語の勉強をしています。10個単語を覚えても7つか8つは忘れてしまうんです」

その年齢ではいたしかたないだろうなぁと心の中では思いました。

「でも、2つか3つは覚えられんです。それを積み重ねています。君は若いんだから断じてあきらめちゃいけない」

私はその気迫に心を揺さぶられました。

その年に父が亡くなり、その1週間後、私は地元採用で生命保険のセールスの仕事を始めました。

契約が取れない日々が続きました。私は塩屋埼灯台の見える海岸に車を止めて海を眺めていました。そして、心の中で叫びました。

「いつかまたこの太平洋を越えてやる」と。

ある日、営業所長に呼び出されました。営業成績のことかもしれない。

「会社のお得意様である市内の電子部品メーカーがタイにプラントを作り、タイの研修生をこちらに呼ぶそうだ。通訳が見つからず困っているという。君、営業の仕事はしなくていいので、通訳に行ってほしい」

海の向こうの躍動感が蘇ってきました。

(第5話へつづく)


(天心記念五浦美術館から太平洋を望む)

(第2話からつづく)

母は検査の結果、卵巣がんだとわかりました。元首相の推薦状まで手にしていた私。大学院進学は決まったようなものでした。

進学を断念し日本に帰国することにしました。

八王子のラーメン店で出逢った、医師でもある、タイ保健省の職員の方に事情を話しました。

留学中、ひどい下痢に悩まされたときには保健省から薬を持って駆けつけてくださった心優しい方です。

私は正直にいいました。

「せっかくお父様に推薦状を書いていただいたのですが両親が重い病にかかり、帰国せざるを得ません」

「わかりました。残念だけどやむを得ない。では、約束をしよう。新婚旅行でタイにまたいっらしゃい。待っていますよ」

タイを離れる日が近づき、好きだった歯学部の女子学生に思い切って告白しました。

答えは「友達でいましょう」でした。

タイシルクの布をプレゼントしたときには、後日、それで仕立てた服を着てきた彼女。脈はあったような気がしていました。

「泣きっ面に蜂」--- このことわざがこだましました。

日本に帰国すると父も母も同じ病院に伏していました。

そのころ、国家公務員試験に合格した同郷の友人と連絡を取り合いました。京都から一時帰郷していた友人と五浦で会うことにしました。

早春の五浦の海はきらきらと輝いていました。

「国家公務員一種試験に合格したんだけど、単位が足りなくて卒業できないんだよ」

「中退では省庁には入れないの?」

「労働省はだめなんだよ。外務省とは違うんだよね」

私たちは黙って海を眺めていました。

さて、私は両親の看病をしながら、車の免許を取ろうと、自動車学校に通い始めました。

ある日、自動車学校で60代前半の男性に声をかけられました。

「君は若いけど、昼間から自動車学校に通って、何をしているの」

「じつは...」

このあとこのおじさんに私は力強い励ましを受けることになるのです。

(第4話につづく)


(郡山の湖南町)

(第1話から)

「そうです。父は首相を務めていました」

寮に戻ってから調べると大学の学長を務めたあと最高裁判所長官になり、その後第12代タイ首相を務めていたことを知りました。

民主化運動のときに首相となりタイの政界に強い影響力を持っている人物として知られていました。

私が留学していた当時、枢密院議長の職にありました。

「喉から手が出るほど」とはこのこと。

私はこのお父様にぜひ私の大学院進学のための推薦状を書いてほしいと思いました。

が、頼むことはしませんでした。なぜなら、東京のラーメン店で偶然出逢い培った友情を自己の利益のために使うのはためらわれたからでした。

タイの名門大学でもあり、当時外国人の大学院進学は少ない状況でした。タイ語は難しく、進学に向けて勉強するものの思い悩む日々が続きました。

タイ保健省の職員の方は私のことをご自宅に招いてくださったり、地方にある奥様の実家に旅行に連れて行ってくださったりするなど、私のことを可愛がってくれました。

「君が本気で大学院に行きたいのであれば父に推薦状を書いてもらうようお願いしてあげようか」

「ぜひお願いします」

思っても見ない申し出に私は感激しました。お父様とお目にかかり、記念撮影もし、推薦状まで書いてくださいました。

進学したい大学の元学長にして元首相。しかも、現職の枢密院議長。

入学試験がどんな点数でも合格する自信がありました。

と、そんなとき日本の実家から電話がありました。

白血病の父の病状が思わしくないうえ、母も具合が悪く、私に帰国してほしいと。

(第3話につづく)


(夕暮れ)

大学2年の5月の夕暮れ。一人で京王八王子駅前のラーメン店で食事をしていました。

1組の男女が私のテーブルと相席となりました。男性は30代後半。女性は60歳前後でしょうか。

二人の会話は日本語ではありません。中国語でもない。独学で学び始めたタイ語に似ています。

耳をそばだてて聞いていると「何時になったかな」というタイ語が飛び込んできました。

あっ、タイ語だ。話しかけてみようか、どうしよう。

心臓は高鳴り、ラーメンの味もわからなくなっていました。迷いに迷った挙句、私は上ずった声でタイ語で話しかけました。

「タイの人ですか」

二人は驚くと同時に大変に喜んでくれました。タイ保健省の職員である男性の方から名刺をいただきました。

「将来、タイに来るようなことがあればぜひ連絡してほしい」

この出逢いから2年後、私はタイ・バンコクにある大学に派遣留学生として留学。早速、タイ保健省の職員の方に連絡を取りました。

家族総出で寮に迎えに来てくれ、チャオプラヤ川沿いのタイ料理レストランでご馳走になりました。

「将来はどうするのですか」

「交換留学を終えたら正式にタイの大学院に進学したいと思っています」

「そうですか。じつは私の父はかつてその大学の学長を務めていました」

「もしや元首相の?」

またもや味がわからなくなってしまいました。

そのころ、大学院進学にあたって誰か有力な人からの推薦状がほしいと思っていた矢先でした。

(第2話につづく)


(全部当てはまる)

最寄りの駅から単線のローカル線に乗って通勤しています。降車駅に近づいたとき、思わずこのままどこかに行ってみたいとの誘惑に駆られました。

と同時に、いまは東京の裁判所で書記官として堅実なお仕事をしている先輩のことを思い出しました。

私と同郷の先輩Sさんの住む寮は古く、トイレも汲み取り式でした。上階に行く階段付近で幽霊が出る噂もありました。

でも、先輩の部屋は整理整頓されていてこぎれいで、法律の本が書棚に並んでいました。

遊びに行くといつも美味しいコーヒーをドリップで淹れてくれました。沸き立つ音とドリップの滴の音が耳朶に残っています。

コーヒーのアロマが立ち込めはじめたころ、Sさんはひと夏の体験を静かに語りだしました。

「夏休みで帰省したんだけど、泉駅で降りる直前になって、ふと、降りたくない。このまま行けるところまで行ったらどうなるだろうって思ったんだよ」

「ああ、わかります。その気持ち」

「で、やっちゃったんだよ。家族にも知らせず」

「どこまで行ったんですか」

「北海道まで行っちゃったんだよ」

「え!?北海道まで行ったんですか。お金はあったんですか」

「途中で尽きて、結局、旭川のサラブレッドの厩舎で雇ってもらって馬の世話をする仕事をするようになって」

「へ〜。馬ですか。家族には連絡しなかったんですか」

「うん、連絡しなかった。いや〜馬に蹴られそうになってさ、死ぬかと思ったよ。馬って後ろに回ると蹴るんだよね」

「どのくらい旭川にいたんですか」

「1か月間、いたよ。結局、家に帰ってきたんだけど、めっちゃくちゃ怒られた」

馬の生態、牧場主の人柄、無銭道中の苦労話等々...。失敗談を交えての旭川滞在中の体験談に私は引き込まれていきました。

とともに、憧憬にも似た感情が湧き、Sさんをうらやましく思いました。

で、先輩はいま最高裁判所書記官。いまも執務室で静かにコーヒーを飲んでいるのだろうか。

ひと夏の体験談以来、Sさんには会っていません。

といわけで、30数年前の記憶に浸っていたら、ディーゼルカーがいわき駅に到着。

いつもように駅の階段を上り、職場に向かいました。いつの日か、Sさんのような旅をしてみたいと思いつつ。


(手前はマルガリータ。右奥がシンガポールスリング)

久しぶりのBAR Gaslight(ガスライト)。本年12月で40周年を迎えるそうです。ダイキリを頼みました。ライムを強めにとオーダー。

キューバのダイキリ鉱山で働いていたアメリカ人が、キューバの特産物であるラムにライム・砂糖・氷を入れて作ったのが始まりとされています。

氷をミキサーにかけて作るフローズン・ダイキリもおつなもの。ヘミングウェイが愛飲していたという。

イチゴを加えたフローズン・ストロベリー・ダイキリは見た目も、香りもよくて、なによりもおしゃれです。自宅でも簡単に作れます。

2杯目はシンガポールスリング。

「シンガポールのラッフルズホテルで生まれたカクテルなんです。その通りのレシピで作りますね」とマスター。

ベースとなるドライ・ジン、チェリー・ブランデー、コアントローをカウンターにそろえて見せてくれました。

シンガポールには30数年前に訪れたことがあります。

「シンガ」はライオンの意味。サンスクリット語(梵語)に由来します。

タイのビールで知られているシンハ・ビール(タイ語ではハは黙音となり発音しない。現地では「ビア・シン」と呼ばれている)のシンハもライオンです。

ビール瓶にはライオンをモチーフにしたラベルが貼られています。

「獅子」もサンスクリット語を漢語に音訳したものです。もともとは、けものへんのない「師子」でした。沖縄のシーサーも同じくサンスクリット語のシンハ由来です。

シンガポール滞在中、マーライオンを見に行きました。絵になる横でからはなく、私は真後ろに立って眺めました。

ドラえもんに似ていると思いました。意外に肥えています。

ちなみに、マーライオンは、俗語で嘔吐(おうと)の意味があることを最近知りました。

改めて思うと、あの噴水にはどんな意味があるのでしょうね。

旅は、行くまでが華(はな)。行った後は、すすけていくような気がします。


(河津桜が開花しました)

火力。その言葉は、私にとって特別な響きがあります。父の勤務先にしか過ぎない「火力発電所」。

にもかかわらず、その家族にとって父親の職場という以上のものを感じていました。強い帰属意識を持っていました。一体感といってもいいでしょう。

現在の私の勤務先よりも、火力発電所の方が「私の」という帰属意識を感じます。

その意識醸成の場が社宅でした。現在は、9号、10号、11号の3棟を残すのみです。

当時、年に一度、社員総出の「火力の運動会」がありました。社宅を東西南北のチームに分けて競争するのです。

私の住んでいた9号アパートは「西」に所属していました。

運動会が近づくと、子どもたちは屋上で毎日のように応援合戦の練習です。ドラム缶を切って作った太鼓をたたき、柏木を鳴らし、扇子を振りました。

「に〜しがんばれ、に〜しがんばれ。ふれふれっ、に〜し」

「東のやつには負けないぞ」などと学校の運動会の練習よりも熱を帯びていました。


(現在の9号アパート)

その日、運動会が終わると、共同浴場でみんなで入浴。そして宴会です。棟ごとに空き部屋を開放して、飲めや歌えやの大宴会。

大人たちは巨大なボウルに作ったたまご酒を飲み、子どもたちはファンタの瓶を次々に空けました。歓声と喝采が夜半まで響き渡ります。

運動会のほか、正月送りの伝統行事「鳥小屋」とおでんの振舞い、常磐ハワイアンセンターへバスを借り上げての社宅総出のレクレーション等々、折々の催事がありました。

火力にいることの不思議な高揚感。いまも胸の奥にかすかに残っています。

発電所の自動化が進み、人員が削減されました。その結果、社宅もその多くが解体。

そして、共同浴場も廃止されました。残る3棟のアパートは改装され、各戸に風呂が整備されました。

火力発電所の社宅跡の公園に河津桜が開花したと、知人が画像とともに知らせてくれました。早春を告げる河津桜。

近いうち足を運んでみようと思います。河津桜を見れば、歓声と喝采が蘇ってくるような気がします。


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