(「ぼっち」と呼びますか)

ペンキも塗り替え、船名も変えてまだ1年半。さほど古い船ではないのになぜか人気がありません。何よりも推力が乏しい。方向舵も定まらない。

突如、目の前にいままで見たことのない新しい船が現れました。船長が手招きをしているようにも見えます。

その船舶に乗り移ろうとすると、船長曰く「救出船ではない」と。乗船することができるのは、船長のお眼鏡にかなった人だけ。踏み絵が用意してありました。

乗船できない人々は不安に襲われます。しかも、元の船の燃料が減ってきているという。新しい船にいつの間にか燃料が移送されていたようです。

これは痛い。周りを見ると小船に乗り移って漕ぎ出した者もいます。どこかに漂流していくのでしょうか。

ふと見上げると赤さびで覆われつつも頑丈な船が火を噴いています。怒っているようです。

どの船にも乗船できない人々がとりあえずの材木で「嘆きの船」を建造し出しました。「嘆きの船」はどこに向かうのでしょう。

振り回す人と振り回される人。当面の勝利は振り回す人に軍配が上がるものです。

問題はそのあとです。船に乗ること自体が目的の「乗船者」にとってこれからが試練の旅です。

鶏口となるも牛後となるなかれ。大船の乗船者ではなく、小船でも己が一船の船頭たらん人はいないのでしょうか。


(モリゾーに見える)

なぜ、いまなのか。私たちは、理由を欲する生き物です。

東日本大震災。原発事故が起きたときも私はずっと心の中で「どうして」との問いが消えませんでした。

嫌な出来事に対して私たちは「どうして」と思うきらいがあります。しかも、仮に理由がわかったからといって、納得するわけでもない。

当ブログでも過去に腹痛の惨劇(最近はなぜか発生頻度が激減)を綴ってきました。

代表作に「デンタルフロス」や「『あ』に濁点の事態」などがあります。腹痛のことばかり記していてはいけないと自戒の意を込めて書いた「大切なF1層」などもあります。

この腹痛の惨劇、別名「存立危機事態」に陥ったときも「なぜ、いまか」と思ったものでした。

数々の惨劇を経てきて私は思うのです。

「なぜ、いまか」と言っているうちは、真剣に戦っていない。心のどこかに余裕があり、慢心があるのである、と。

「なぜ、いまか」には傍観者のにおいと負け犬の遠吠えにも似た嘆きを感じるのです。

「なぜ、いまか」を問うても当事者も周りも誰もわかりません。

「なぜ」を問い続けているうちは停滞しかありません。「なぜ」から「いかにして」とベクトルを未来に向けたとき、そこに初めて活路が見えてくるように思います。

数限りない存立危機事態を経験してきた私の確信の、中華風に言えば、核心の結論です。


(お彼岸に詰めてみました。器って大事)

スタッフ帯同の車中会話。「雰囲気」をめぐっての語らいです。

「さっきの先生の言っていたこと、大事なことだよね。何よりも地域社会の『雰囲気』が大切だって話」

精神障がい者の地域移行について精神科医の先生に意見を伺いました。地域で受け入れるに当たって何が大切かを尋ねたときの答えが「雰囲気」でした。

「温かく迎え入れる雰囲気を地域に醸成すること、すなわち、他者を認知し受け入れることだって先生は言っていたね」

「雰囲気って大事なんですね」

「雰囲気という言葉は漠とした言葉だけど、厳として何かが存在するよね。雰囲気のいい職場、雰囲気の悪い職場ってあるものね」

「ありますね」

「以前ね、県内の他市で勤務医を務めている友人に尋ねたんだけど、どうしてここは医師があまり来ないのかって。医師不足の原因はなんなのかって」

「原因はなんと言っていたんですか」

「それがね、そういう雰囲気だからというのが答えだったの。どういうことかって言うと、医師が進んで行きたいという雰囲気ではないということなんだ、と」

「へ〜そうなんですか」

「そういう雰囲気だということが医師仲間で共有されているというんだよ。だから行かない。行きたいと思わないって言うんだ」

というわけで、せめて我が課の雰囲気はよくしたいと思っています。まずは自分の鼻毛からチェックです。


(コスモスが咲いています)

事業所訪問を正午少し前に終えました。帯同しているスタッフに尋ねました。お弁当を持ってきているか否か。持ってきていないという。

海岸通りの食堂「くさの根」に行くことにしました。海鮮丼(550円税込)を注文。ボリュームも味も申し分なしです。

「嫌いなものってあるの」と私。

「納豆っすね。納豆、ダメなんすよ」 「納豆、嫌いなんだ。私は好物で納豆のみでも食べちゃう。ご家族はどうなの」

「家族は大丈夫なんです。娘が小さいころ納豆を食べたその口でチューしてくることがあって大変でした」

「うれしいようなつらいような。そこで拒絶したらダメだよね。受け止めないと」

「そうなんですよ。妻は笑いながら見ていましたけど」

スタッフは納豆は嫌い。でも、愛娘は可愛い。納豆を食べた娘にチューされるとき、そこには動機と価値観の齟齬が生じます。

動機とは、端的に言えば、したいと思うこと。

価値観とは、すべきことと言えましょう。

納豆は嫌い。娘は好き。好き嫌いという価値観しか表れません。

ところが、納豆を食べた娘のキスは、どうでしょう。簡潔に言いましょう。納豆味のキスは是か非か。

ここに至ると、困難が待ち受けます。可愛い娘が無邪気にキスを迫ってくる。

価値観が浮上してきます。キスすべき、と。娘に嫌な思いをさせたくない。

かように動機と価値観の葛藤が起きるとき、人は悩みます。私もこれまでこの動機と価値観の乖離に悩まされてきました。

が、最近、なんというのでしょうか、枯れてきまして、動機と価値観とが野合、いや、連携して、心の安寧を保つことができるようになってきました。


(あぜ道に咲く彼岸花)

少年時代、我が家には一艘のボートがありました。星々のつぶやきで以前「ヒルガオ」の中で、父が拾ってきたのではないか、と述べました。

姉によると購入したものなのだそうです。

鮫川の河口にボートを浮かべ、中洲や対岸へ父と渡りました。ときに家族一家で行くこともありました。

はしけのない砂浜の川岸からボートに乗って漕ぎ出すにはちょっとしたコツが必要です。うっかりすると転覆しそうになります。

50メートルほど漕ぎ、川中に至ると2級河川とはいえ河口だけあって意外にも水深が深い。濃緑の川面をボラがときおり跳びます。

中洲に近づいてくると川底が見えてきます。徐々に浅くなり、舟底がさーっと音を立てて砂浜に乗り上げます。

潮に舟が持って行かれないように舳先(へさき)を引っ張って、中洲側にさらに引き揚げます。この中洲は満ち潮になると水没します。

直径数十メートルの中洲は恰好のシジミの採取地でした。砂地なので茶褐色のシジミ貝です。泥地に棲むシジミは黒色でざらざらしています。

中洲を離れ、対岸に向かいます。元の陸地から数百メートルしか離れていません。にもかかわらず、別世界に来たという感慨を覚えました。

これは不思議な気持ちでした。川というものは、生態系としては両岸には同一性があり、「流域」という表現で捉えることができます。

しかし、実際に向こう岸に渡ってみると、異なった世界に至ったと感じるのです。

その意味で川とは、結び付ける力よりは、隔てる方向に作用するものだと私は感じます。家の近所を流れる夏井川。その橋の一つは「両軍橋」と称します。

ところで、仏法では悟達を「此岸から彼岸」という水平移動によって表現します。下から上への上昇ではないところに私は惹かれます。

なお、サンスクリット語のパーラミター(音訳:波羅蜜)とは「向こう岸に至った」という意味です。

このことは次元は異なりますが、「水平的人間関係」を強調するアドラーの心理学を想起します。

つまり、人間関係を上下(垂直的)関係ではなく、個人と個人が対等(水平的)な関係から人間関係を捉えることをアドラーは勧めています。詳細は割愛。

というわけで、此岸から彼岸まで、少し難しい話になってしまいました。

ちなみに、「葉見ず花見ず」の彼岸花は好きではありません。


(野ねずみが朝日を浴びて目を閉じていました)

幼少期に母にたくさんの絵本を読んでもらいました。聴力がやがて失われると診断された息子に母は必死に読み聞かせをしてくれました。

絵本はいまでも好きです。でも、絵は上手く描けません。

中学2年生のときです。自分なりに一生懸命に描いた絵。それを美術の先生に「なんだこれは。描き直せ」と言われたときはショックでした。

河川で砂利を採取するキャタピラー式の重機を描いたつもりでした。

いったい何の絵なのか先生に理解されなかったようです。悲しい思い出です。この種の重機は私のトラウマです。

それからさかのぼること数年、小学生のときには「音痴」と家族に言われ、やはり心に傷を負いました。

感じていることをそのまま当人に伝えることはときに危険です。否、多くの場合、危険を伴います。

率直に伝えることのリスクを自身の体験から私は学びました。

事実は、事実という理由によって告げていいのか。もちろんウソを言うことはよくない。

しかし、事実もまた必ずしも伝えていいとは限らない。そう私は思うようになりました。

かように「事実」と「伝える」ことには、千尋の谷ほどの乖離があります。

ですから、大声で「ハゲー」などと言う人は非情な心の持ち主だと思います。たとえ事実であったとしても。

とともに、言葉の持つ不思議な力を子ども心にも感じました。言葉はまさに呪文です。

いったん「音痴」と称されてしまうと、自分もそう信じ、その呪縛から解き放たれないのです。

閑話休題。

ずいぶん遠回りしましたが、本日の本題は、絵本のことです。このごろ、絵本を書いてみたいという思いがふつふつと湧いてきます。

家の周りには野鼠、狸、狐、ハクビシン、雉、川鵜、鴨、鷺といった小動物が棲んでいます。

彼ら彼女らを登場させて物語が作れないか。そんなことを夢想しています。

ま、夢想しているうちが花なんですけどね。


(落石注意)

会津から自宅への帰り道。市内に至り、国道49号線からは近道を使おうと思いました。

いわき三和インターから県道66号線を経由し、いよいよ山深い道に入ります。県道135号三株下市萱小川線です。

車1台がやっとの隘路(あいろ)です。ときおり「落石注意」の看板が目に入ります。

「落石注意」を見て、いつも私は思い悩んでいました。

すでに落ちた石に注意を払えということなのか、あるいは石が落ちてくるかもしれないことへの注意喚起なのか。いったいどちらなのだ、と。

家人に言うと、「どっちもなんじゃない」との返答。納得です。これぞアウフヘーベン(止揚)。

さて、車をしばらく走らせると、対向車の気配。軽自動車が見えてきました。

すれ違い困難の隘路です。私が後退して山側に幅寄せをしました。すると軽自動車が止まり、80歳過ぎの男性の運転手が降りてきました。

「どこさ行くんだい」

「自宅に帰るところです。この先は通れますか。台風の被害はないですか」

「ああ、大丈夫だよ。家はどこ」

「○○です」

「ああ、うちの近くだね。新しい団地のほうげ」

「もともとの家で、義父が昔から住んでいます。義父は○○と申します」

「ああ、知ってる。むかし、いっしょに働いていたもの」

「お名前はなんとおっしゃるのですか」

「○○だよ」

「もしかしたら息子さん市役所の...私もなんですよ。どちらに行くんですか」

「どこにも行がね。栗、拾ってんだ。ほら、これだ。山には上がんね。道路に落ちてる山栗、拾ってんだ」

「ずいぶん採りましたね」

「そんなごどねぇ」

「では、お気をつけて」

車は木漏れ日の中に消えていきました。

台風のあとは栗拾いの絶好の機会なのですね。山の幸も海の幸も台風のあとはおこぼれにあずかることができます。

以前「今日もアワビなのか」に記しました。台風後に海辺に流れ着いた無数の鮑を父が拾ってきたことがあります。

もう見るのも嫌だと思うほどアワビを食べた思い出です。


(「はじまりの美術館」を初訪問。撮影可が嬉しい)

半世紀も生きていると己の至らぬ点や短所を指摘してくれる人はまれになります。勇気の要ることですから。

その意味でそのような指摘をしてくれる人を持つことは幸せです。しかも、真心からの発意であればなおのことです。

会津の地に仕事の師匠を訪ねました。


(左奥は鈴木祥太氏製作の作品。「はじまりの美術館」)

冷製茶碗蒸し、たたききゅうりの漬物、鶏のケチャップ炒めブロッコリー添え、まいたけとぶなしめじと豚肉の炒め、筋子の酒粕漬け等々。

手料理を作ってくださいました。すじこは絶品でした。熱々のご飯でかっこみたい誘惑に何度も駆られました。

真心の品々に舌鼓を打ちながら、語りに熱が入っていきます。


(鈴木祥太氏製作 同)

師匠の指摘は鋭く、ときに容赦ない。

たとえて言えば、浴室の鏡に濡れた己の頭髪が映り、思いのほか貧弱になっていることを知ったときのショック。

あるいは、ビルのガラスに映る己の歩く姿の弱々しさに気づいたときの気持ちといったところでしょうか。


(宮原克人氏製作 同)

いずれも自分自身も薄々とは感じているのです。頭ではわかっているのです。

でも、それを直視できない。否、直視しようとしない。つまり、己の弱さに勝てないのです。ずるい生命(いのち)です。

一夜の語らいによって心洗われ、お腹も満たされ、師匠宅を辞去。次は真冬の会津を訪れたいと願っています。


(中央と左は片桐功敦氏、右は今村文氏製作 同)

雪のない浜の人間のわがままです。


(中身はまったく同じ黒豆)

黒豆の煮豆が大好きです。いくらでも食べられます。でも、上手に炊けない。市販品を買ってしまいます。

ふっくらと、しかも皮にしわなく色つやよく炊いてみたいと思い数十年が過ぎました。煮豆はどうにも不得手です。

煮豆講習会なるものがあれば、万難を排して参加したい。そう思っています。

さて、黒豆の市販品と言えばフジッコです。神戸市中央区に本社を置く食品メーカー。刻み昆布の「ふじっ子」で知られています。

そのフジッコが製造するセブンプレミアムの黒豆。異なるパッケージで2種類販売されているのをご存じでしょうか。

62グラム入りの容器が2段重ねになっているタイプ(写真左)と袋に115グラム入りのもの(写真右)です。

この2つの存在を否定するものではありません。そんな意図は毛頭ないのですが...。

値段がどうしても気になってしょうがないのです。価格設定がおかしくないか、と思い続けて数年。いや増してもやもや感が募ります。

62グラム2個入り、つまり124グラムの方は149円(税込)。一方、115グラムの袋タイプは159円(税込)です。いずれもヨークベニマル好間店で購入。

124グラムで149円。1グラム1.2円。
115グラムで159円。1グラム1.38円。

おかしいと思いませんか。パッケージの手間は2個入りの方がかかっているはずです。家族に訴えても冷笑されるだけ。

気になって気になってしょうがない。黒豆を見るたびにもやもやしてしまいます。


(カフェは心のオアシス)

日暮れのカフェ。ほかに客はいません。店員さんが一人。

「あっ、いつもブログ、読んでいます」

「ありがとうございます」

「お店にベーグルは置いてありますか」

「以前はお出ししていたんですけど、いまは...。お客様へ新しいものと思っていた矢先でした。ベーグルもいいかもしれませんね」

「お店のことで前から気になっていたことがありました。それはロビーとの空間のつながりです。開放的過ぎるかなと」

「そうおっしゃるお客様もいます」

「カフェに求めるのは、第一に落ち着きであり、擬似の自分の空間です。その意味で背中がちょっと落ち着かないというか、仕切りか目隠しがほしいなと思います」

「わかります。カウンターと客席が対峙しているのもお客さんにとっては落ち着かないかもしれないですね」

いつしか私たちはカフェ談義に花が咲いてしまいました。私は提案しました。

「座ったときに顔が見えない程度の仕切りを設けるか、あるいは観葉植物を配置するのはどうでしょう」

話をしながら私は思いました。ここで「星々のつぶやき」読み聞かせができないか、と。このカフェで朗読会ができたらいいなぁと思い始めました。

「読み聞かせブログ」の誕生です。

きょうの午前中、仕事で中級音訳奉仕者養成講座閉講式で私はこのようにあいさついたしました。

「声の持つ力は想像以上に大きいのです。肉声が放つ豊かな創造性をみなさんは確信していただきたい」と。

というわけで、「読み聞かせブログ」という新たなジャンルを切り拓く決意が漲ってきました。


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