(秋の夏井川渓谷)
(上)からつづく。
「一番効率が悪いはずなのに、igokuはみんなで行く。だから化学反応も起こるし、逆にそういう意味では効率がいいということかもしれない」(110頁)
「『地域包括ケアって単なる福祉とか高齢者医療じゃないよな、暮らしとか文化までいくよな』ってところにたどり着いたんだけど、最初に出会った北二区がそれをすべてやっていたんだよね」(131頁)
「北二区」とは旧産炭地域の好間北二区を指します。そういった地域でigoku編集部はやべえ人に出会います。
「igokuで出会った『やべえ人』は、たまたま高齢だっただけで『高齢者』なわけではない。認知症や障害者、というカテゴリもそうかもしれないけど、人格やその人となりを見ないでカテゴライズしてしまうことがよくないのだ」(312頁)
取材の姿勢そのものがとにかく「丸ごと」であり「ニュートラル」。
「いいプロジェクトが生まれるには、いい場所が欠かせないと思うんです。しかもその場所は無目的なほうがいい。(中略)無目的な時間が積み重なっていくと、自然発生的に、なにかが生まれる瞬間がやってくる。なにが出てくるかわからないけど、そこで楽しい時間が積み重なっていけば、なんか出てくる」(109頁)
ジャーナリストの本多勝一氏は取材とは、取材者の価値観による事実の切り取りであると言っています。ところが、igoku編集部の姿勢はちょっと違います。
「最短距離で取材しよう、プロジェクトを進めようってなれば、やっぱりこの人はこう使おう、この人にはこれを喋ってもらおうっていう展開になりますよね。プロフェッショナルっていうのは、ある意味で搾取的に人を見分けてしまう面があると思うんです」(113頁)
いったんはigoku編集部は「切り取り」、言い換えれば搾取的な見方を排します。報道機関の姿勢に散見されるストーリーを描くということをしない。そのことを「他動詞」「自動詞」という言分(ことわ)けを使って説明します。
「他動詞的な『コンテンツをつくる』、ではなくて自動詞的な『コンテンツができる』みたいな感じ。だれかひとりの猛烈なアイデアで統率していく感じではなく、みんなが感じているであろうなにかを、みんなで探り当てていく。だから納得感があるんですよね、きっと」(260〜261頁)
取材者と被取材者の境目が曖昧になっていきます。
「皆さん、なんだかんだで巻き込まれてる。これこそいわきの潮目ですよね」(127頁)
太平洋の親潮と黒潮が交わる潮目がいわき沖です。その潮目のようにigoku編集部が巻き込まれていきます。ゆえに「行き当たりばったり」(290頁)の取材スタイルを確立していきます。
「私たち困ってるんで助けてください、手伝ってくださいって感じじゃなくて、気づいたら巻き込まれてる感じなんですよね。でも嫌な巻き込まれ感じゃない」(130頁)
igoku編集部は観察するという姿勢を嫌います。「当事者」という言葉の問題点を指摘しながら、「共事者」という言葉を編み出します。
「スティグマ、つまり負のイメージを外すとか、なにかのカテゴリに当てはめて一括りにしないようにしようっていうことが、なにか大事なこととして共有されているような気はするよね。LGBTとかもそうかもしれないけど、言葉が与えられたことで『自分もそうだった』と気づける人がいる一方で、どうしてもその言葉で当てはめようとしてしまう。属性で括ろうとしちゃうっていうか」(262頁)
「igokuのメソッドは、初めからガチっと計画を立てない。仮に行き当たりばったりでも、まずは自分達が動いてみる→他人事ではなくなる→発信にその場かぎりの臨場感が出てくる。この流れ。適当だなあと感じる人も結構いるだろう。でも、自分でも不思議なことに、発信しているうちに自分の中に変化が起きてくるのだった。(290頁)
当事者ではないが他人事ではなくなってくる。取材する側に化学反応が起きてきます。「当事者」という言葉にどのような問題があるのか。
「当事者の声を広く伝え、社会を巻き込んでいこうというフェーズでは、この当事者という言葉が逆に障害になってしまうのではないかとも感じる。なぜこのようなジレンマが起きるのかといえば、『当事者』という言葉が、やはり当事者『だけ』を指す言葉だからだ。たとえばぼくがイメージする『社会の一員としてのわずかな当事者性を付与されている外側の人』を『当事者』という言葉は説明することができない。(367頁)
(下)へつづく