(晴レル家にて)


なぜにかように人々は問題に憑りつかれ、問題に首を突っ込み、問題に夢中になれるのだろうか。問題という神輿がこれでもかと日々わっしょいされています。


私たちは問題が大好きです。つくづく私はそう思います。しかも問題のある人に事欠かない。問題が問題を生み、問題をあおり、さらに祭りの状態にします。


もっと大事な問題をまるで隠すかのように。国家が“縮劣”しているなぁと思います。私の造語です。縮み劣ってきているという意味です。


問題という薪を燃料にするマスコミという存在もあります。問題に群がっています。問題がないと困ります。


P.F.ドラッカーは言います。


「問題ではなく、機会に焦点を合わせることが必要である。もちろん問題を放っておくわけにはいかない。隠しておけというわけではない。しかし問題の処理では、いかにそれが重大なものであろうとも、成果がもたらされるわけではない。損害を防ぐだけである。成果は機会から生まれる」(『経営者の条件』)


「問題に圧倒されて機会を見失うことがあってはならない。(中略)よほどの大事件でも起こらないかぎり、問題を検討するのは、機会を分析しその利用の仕方を決めてからにすべきである」(同)


というわけで、10月29日(土)あさ9時〜10時30分、オンライン読書会(教材は『経営者の条件』。中古本で廉価に手に入ります)です。


少人数の読書会です。無料。参加希望の方はご連絡お待ちしています。

(越後製菓のふんわり名人 きなこ餅。美味し過ぎて...)


秋の日の図書館のノートとインクのにおい。平岡清二作詞作曲の『学生時代』の一節です。そのにおいに私は反応して蠕動運動が活発になりトイレに駆け込むことになります。


本は極力買わないようにしています。最近そのようにしました。節約の意味と本棚に収まりきれないことが理由です。持っていても2度読むこともほとんどなく、記憶力の減退で同じ本を注文してしまう失態も生じているからです。


岡本全勝さんのブログ「岡本全勝のページ」が好きで、毎日訪れます。特に記事の中で紹介される書籍はどれもが読んでみたいと思うものばかりです。


いわき市立図書館のウェブサイトにアクセスし検索。大概ヒットします。いわき駅前の総合図書館に蔵書がなくても市内の別な図書館にある場合もあります。



(これも予約して図書館から借りました。自分の偏見は気づかないものです)

ネットで予約しておけば窓口で図書館利用カードを渡すだけで瞬時に目当ての本を借りることができます。便利です。


ノートとインクのにおいによる身体への影響も最小限に抑えられます。


早速予約した本は近藤和彦氏による新訳のE.H.カー『歴史とは何か』、鎌田 浩毅著『揺れる大地を賢く生きる 京大地球科学教授の最終講義』の2冊。1冊は総合図書館にはなく小名浜図書館からの取り寄せとなります。


数日後には予約資料貸出準備完了のお知らせが届くことでしょう。再度言います。とても便利です。


これで書籍代は抑えられるのですが、きなこ系のスイーツばかりは止み難しであります。

(塩屋埼灯台)

()からつづく

他人事ではなくなっている人、すなわち「社会の一員としてのわずかな当事者性を付与されている外側の人」をどう表現すればいいのか。


「そこで私が思いついたのが『共事者』という言葉だった。当事者ではない。当事者を直接的に支援しているわけでもない。(中略)社会の一員としてその物事を共にし、無知で部外者であるがゆえに、ゆるふわっと当事者を包み込んでしまう。専門性も当事者性もないために『事に当たる』ことは難しいけど、無関心ではない。むしろその課題と『事を共に』してしまっている。そのようなゆるい関わり方をいうものがあるのではないか、と考えたのだ」(367〜368頁)


igokuとは文化運動ではないのか。これは私の見立てです。文化とは、地域に根付く知恵を形あるものとし、それを継承し続ける中にある。言い換えれば、コミュニティそのものが文化なのではないかと考えます。その点がigokuに強く共感する点です。


「だから余計に、プロジェクトじゃなくてコミュニティでいいんじゃないかと思う。課題を解決するんじゃなく、課題と共にあるメディア。それが、メディアとしてのigokuを大きくドライブさせる駆動力になっていると改めて思う。だって、人は死ぬ、老いる。その『課題』は、解決できないものだから。そんな解決不可能なものに向き合っているのだから、それはプロジェクトにはなれず、コミュニティにしかなり得ない」(304頁)


「プロジェクトにはなれず、コミュニティにしかなり得ない」との言葉は腑に落ちます。


私たちはこれまで「当事者」ということに光を当て過ぎてきたように思います。介護認定という制度も当事者かどうかを峻別する物差しとなってきました。


「なんらかの課題には、それに直面する当事者がいる。こんな辛い思いをしている。こんなふうに社会を変えたい。そんな当事者の声をメディアは伝えようとするし、私たちも、困難を背負う当事者たちの声に耳を傾けようとする。けれど、『当事者』という言葉を使って当事者の困難を外側に出すほど、同じ課題を抱える人たちの共感を生む一方で、『わたしは当事者ではないので関係ない』という人や、『当事者ではないわたしには語れない』というような『非当事者』をつくってしまっているようにも感じている」(366頁)


そこでigokuが意識したことは何か。


「つねに主語を『ぼく/私』という一人称で語ることだった。(中略)要するに、当事者はこういっている、専門家はこうっているだけでは、私たち地域包括ケアを『他人ごと』だと思ってしまう。自分の問題にできないということだ。だからまずは『オレたち編集部が巻き込まれてみよう』というスタンスをとった。自分がまきこまれていることなら『自分ごと』と認識できる」(369頁)


自分ごとにしていく過程でigoku編集部が取材する範囲は医療介護福祉といった従来のカテゴリを超越していきます。


「そこに暮らす人たちが、自分らしく老い、自分の望む場所で最期の瞬間を迎える。その意図を確認するためには、その人たちの声を聞く必要がある。それは紛れもなく地域を知ろうとする行為だし、人を知ろうとする行為だ。(中略)暮らしは風景に接続され、職に結びつき、文化や歴史を知ることにつながる。そうしてその人を丸ごと受け止めていくわけだ。なるほど地域包括ケアとは、文化や歴史、そして風景すら包括してケアしていくものなのかもしれない」(382頁)


本当に優秀な人はどういう人か。ある研修で講師が問いました。それは問いを立てられる人である、と。与えられた課題を解決する人が優秀なのではない、と訴えていました。良質な問いは運動を継続させる力があります。


『igoku本』のあとがきを紹介して筆をおきます。


「当事者でも、専門家でもなく、課題解決でもなく、たまたま出会ってしまったひとりの人間として、『もし○○○なら、どうなるか?』という『問いかけ』・『問いをたてる』かたちでigokuは展開しつづけることができたように思います」「igokuとは、医療介護福祉の話でもなく、ローカルで生まれた『小さな成功談』でもなく、『課題との向き合い方』とか『近づき方(アプローチ)』みたいなものなのだと思います」(486頁)


igokuは地域文化運動である。その感をますます強くしています。その灯を絶やさないようにしていきたい。共事者の一人として思います。



※『igoku本』は一般書店やAmazon等では購入できません。購入を希望の方は専用サイト「そこをなんとか」を参照ください。

(秋の夏井川渓谷)

()からつづく。

「一番効率が悪いはずなのに、igokuはみんなで行く。だから化学反応も起こるし、逆にそういう意味では効率がいいということかもしれない」(110頁)


「『地域包括ケアって単なる福祉とか高齢者医療じゃないよな、暮らしとか文化までいくよな』ってところにたどり着いたんだけど、最初に出会った北二区がそれをすべてやっていたんだよね」(131頁)


「北二区」とは旧産炭地域の好間北二区を指します。そういった地域でigoku編集部はやべえ人に出会います。


igokuで出会った『やべえ人』は、たまたま高齢だっただけで『高齢者』なわけではない。認知症や障害者、というカテゴリもそうかもしれないけど、人格やその人となりを見ないでカテゴライズしてしまうことがよくないのだ」(312頁)


取材の姿勢そのものがとにかく「丸ごと」であり「ニュートラル」。


「いいプロジェクトが生まれるには、いい場所が欠かせないと思うんです。しかもその場所は無目的なほうがいい。(中略)無目的な時間が積み重なっていくと、自然発生的に、なにかが生まれる瞬間がやってくる。なにが出てくるかわからないけど、そこで楽しい時間が積み重なっていけば、なんか出てくる」(109頁)


ジャーナリストの本多勝一氏は取材とは、取材者の価値観による事実の切り取りであると言っています。ところが、igoku編集部の姿勢はちょっと違います。


「最短距離で取材しよう、プロジェクトを進めようってなれば、やっぱりこの人はこう使おう、この人にはこれを喋ってもらおうっていう展開になりますよね。プロフェッショナルっていうのは、ある意味で搾取的に人を見分けてしまう面があると思うんです」(113頁)


いったんはigoku編集部は「切り取り」、言い換えれば搾取的な見方を排します。報道機関の姿勢に散見されるストーリーを描くということをしない。そのことを「他動詞」「自動詞」という言分(ことわ)けを使って説明します。


「他動詞的な『コンテンツをつくる』、ではなくて自動詞的な『コンテンツができる』みたいな感じ。だれかひとりの猛烈なアイデアで統率していく感じではなく、みんなが感じているであろうなにかを、みんなで探り当てていく。だから納得感があるんですよね、きっと」(260〜261頁)


取材者と被取材者の境目が曖昧になっていきます。


「皆さん、なんだかんだで巻き込まれてる。これこそいわきの潮目ですよね」(127頁)


太平洋の親潮と黒潮が交わる潮目がいわき沖です。その潮目のようにigoku編集部が巻き込まれていきます。ゆえに「行き当たりばったり」(290頁)の取材スタイルを確立していきます。


「私たち困ってるんで助けてください、手伝ってくださいって感じじゃなくて、気づいたら巻き込まれてる感じなんですよね。でも嫌な巻き込まれ感じゃない」(130頁)


igoku編集部は観察するという姿勢を嫌います。「当事者」という言葉の問題点を指摘しながら、「共事者」という言葉を編み出します。


「スティグマ、つまり負のイメージを外すとか、なにかのカテゴリに当てはめて一括りにしないようにしようっていうことが、なにか大事なこととして共有されているような気はするよね。LGBTとかもそうかもしれないけど、言葉が与えられたことで『自分もそうだった』と気づける人がいる一方で、どうしてもその言葉で当てはめようとしてしまう。属性で括ろうとしちゃうっていうか」(262頁)


igokuのメソッドは、初めからガチっと計画を立てない。仮に行き当たりばったりでも、まずは自分達が動いてみる→他人事ではなくなる→発信にその場かぎりの臨場感が出てくる。この流れ。適当だなあと感じる人も結構いるだろう。でも、自分でも不思議なことに、発信しているうちに自分の中に変化が起きてくるのだった。(290頁)


当事者ではないが他人事ではなくなってくる。取材する側に化学反応が起きてきます。「当事者」という言葉にどのような問題があるのか。


「当事者の声を広く伝え、社会を巻き込んでいこうというフェーズでは、この当事者という言葉が逆に障害になってしまうのではないかとも感じる。なぜこのようなジレンマが起きるのかといえば、『当事者』という言葉が、やはり当事者『だけ』を指す言葉だからだ。たとえばぼくがイメージする『社会の一員としてのわずかな当事者性を付与されている外側の人』を『当事者』という言葉は説明することができない。(367頁)

()へつづく

(徒歩通勤の風景。平中央公園を望む)


紙のigoku(フリーペーパー)を見たとき、これまでにないインパクトと洗練されたセンスを感じました。号を重ねるごとに「何だこれは」という思いは強まるばかり。これが地域包括ケアシステムについての広報紙なのか。


いったん目にした者をして惹きつけてやまない誘引力が漲っていました。本物の棺に入る入棺体験、ペットボトルのキャップを目に付けて踊るおばさん、90歳を超えてヨガを教えるおばさん等々。


登場人物も、その描き方もこれまでにない。というより、ぶっ飛んだ表現で公的媒体として発行している。これはただごとではない。igokuの中心人物であるIさんの凄さももちろんのこと、そのような部下を持つ上司に私は思いを致しました。なんて器がでかいんだろう、と。


そうはいうものの、どれほどの思いで関係者の皆さんがigokuに取り組んできたのか、『igoku本』を読むまでまったくわかりませんでした。この3万字に及ぶ本ですらも、その一端に過ぎないのだろうと思いますが、でも、この本を読まずしてigokuの理解は画竜点睛を欠くこととなります。


一読して思いました。『igoku本』は奇跡だ。いろんな意味で稀有の出来事がigokuに詰まっています。映画化できないものだろうか。ひそかに想っています。


3万字を要約することなどとてもできません。私の琴線に触れた言葉を紡ぎ、上中下にわたって『igoku本』を紹介します。この本は地域を思う人にとって必携の書籍ではないでしょうか。


地域包括ケアとは文化運動なのではないか。そんな思いを強くしています。igokuに貫かれているのは紛れもなく「包括」言い換えれば「丸ごと」というもの。生の極致である死、俗の俗である性。それらを全部丸ごと捉えていったがゆえに、入棺体験につながり、やっちき踊りに至ったのだろうと私は解しました。


igokuとは、デザインやエンタテインメントの力を借りて、『老いや死について語る』という日本最大級のタブーを乗り越えようとしたプロジェクトだといえるのかもしれない」(77頁)


老いや死、地域が連綿と承継してきた俗っぽさ。そういったタブーに力まずに「まじめにふまじめ」(191頁)にかかわっていったのがigokuであったと私は思います。igoku編集部は市街地ではなく、人口減少著しい地域に目を向けます。


「よりローカル、より現場、より辺境にいる人こそ、大きな価値観に毒されることのないオリジナルな感性を持っている。それを唯一無二のものとして高めていかなければいけない。エッジにいる奴が一番エッジが効いてなくちゃダメなんだ」(37頁)


その一番エッジの効いている場所にigoku編集部はみんなで行く。そこが凄い。


()へつづく


※()と()は若干長文です。

(畑の小さめのナスを漬けました)


集英社の読書情報誌「青春と読書」。『続・悩む力』刊行記念の姜尚中氏のインタビューが掲載されています。以下、抜粋です。


「アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズです。漱石とジェイムズは同時代人で、漱石はずいぶん影響を受けたようなのですが、私はそのジェイムズが提唱していることの中でも、『二度生まれ』という概念に、とても注目しているのです」


「この世の中には二種類の人間がおり、一つは比較的楽天的に生まれつき、目の前の世界を素直に受け入れ、信じることができる健康な心の人たちです。この反対側に、生まれつき内省的で、ものごとを容易に信じられず、世界を悪いほうにしか見ることができない病める魂の人たちがいます」


「言うまでもなく、前者はそれほど苦しまずに生きられますが、後者は非常に苦しい人生を送らざるをえず、おおむねは精神を病んだり、死ぬことを考えたり、引きこもったりしてしまいます。しかし、ジェイムズはそのような人たちが七転八倒したのちになんらかの境地にたどり着けたときこそ、苦労もなく救いを得られた『一度生まれ』の人びとよりも、はるかに素晴らしいものを獲得できているはずだと考えました。これが『二度生まれ』です」


「ジェイムズ自身、一時精神を病んだ経験を持つ二度生まれの人なのですが、私がこのシリーズでとり上げている人びとは、はからずも、漱石も、ウェーバーもフランクルも、みな生死の境、あるいは狂気と正気の境をさまよった人ばかりです。その意味では、懐疑的であったり悲観的であったりすることは、よく言われてきたように不幸なことではありません。むしろそれこそが、人間ならではの深い叡智の源泉になっている側面もあるのではないでしょうか」


「これまでの幸福論は、言ってみれば、光あるところに光を求めるものばかりでした。しかし、それとは逆に、陰の部分に光を求めることも可能なのではないかと私は思います」


「幸福と不幸はそう単純な二項対立ではないことに思い至られているでしょうし、つらいだけのように思えた『生きること』も、それまでには感じられなかった味わい深いものに、転じているのではないでしょうか」


10数年前に職場での人間関係に悩みうつを発症。生きることに希望を見出せない経験を私はしました。ウィリアム・ジェイムズ(1842〜1910年)の提唱する「二度生まれ」は皮膚感覚で腑に落ちます。


姜尚中氏のインタビューによりこの言葉を知りました。

(山形のベーグルをいただきました。もちもちして美味しい)


ジェニー・ジェローム(イギリス首相チャーチルの母)のエピソードに心打たれました。ケイト・マーフィ著、篠田真貴子監訳・松丸さとみ訳『LISTEN』から引用。


「彼女は回顧録の中で、イギリスの政治家で最大のライバル同士であるベンジャミン・ディズレーリとウィリアム・グラッドストンについて、それぞれと食事をしたときのことをこんなふうに描写しています」


「『グラッドストンの隣に座ったあとにダイニング・ルームを出るとき、彼をイングランドでもっとも賢い男性だと思いました。でもディズレーリの隣に座ったあとは、私がもっとも賢い女性だと感じました』」


聞き上手は人を惹きつける証左です。『LISTEN』の著者マーフィ氏は真の聞き上手についてこう述べます。


「ヘタな聞き上手は『ずらす対応』を、優れた聞き上手は『受けとめる対応』をしている」


「ずらす対応」とは、「注意を話者から応答者(聞き手)の方へと向けるもの」で、反対に「受けとめる対応」とは、「応答者がもっと深く理解できるように、話者にさらなる説明をうながすもの」だという。


ディズレーリは「受けとめる対応」に長けていた。ゆえに当時の女王からも寵愛されていたそうです。

(タイのグリーンカレー。我が家のトマト、ナス、オクラを添えて)


オンラインでのドラッカー読書会。ファシリテーター1名、参加者3名の4名で行いました。


範囲は『プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社)のPart4「意思決定のための基礎知識」のうち第2章「優れたコミュニケーションとは何か」、第3章「情報と組織」、第4章仕事としてのリーダーシップ」でした。


敢えて土曜日のあさ9時に開始時間を設定。共鳴した箇所を各人紹介しコメントや意見を共有します。終了は午前10時半。


今回、私は第2章のコミュニケーションのくだりに特に感銘を受けました。


「ソクラテスは『大工と話すときは、大工の言葉を使わなければならない』と説いた」「コミュニケーションは、受け手の言葉を使わなければ成立しない。受け手の経験にある言葉を使わなければならない。説明しても通じない。経験にない言葉で話しても、理解されない」


真っ先に私はこの部分を挙げました。


仕事で地域とのコミュニケーションが上手くいっていません。原因は何かと模索していました。ドラッカーのこの言葉に出会い、当方の組織の論理と言葉で相手方に説明していたことに気づきました。


コミュニケーションについてドラッカーは言います。


「われわれはこれまで数百年にわたって、上から下へ向かってコミュニケーションを試みてきた。それは『何を伝えたいか』に重点を置いてきた。コミュニケーションを成立させる者は、発し手であると前提していた」


私自身、意思疎通とは伝える側の問題だと思っていました。


「だが」とドラッカーは訴えます。


「コミュニケーションを成立させるためには、受け手が何を見ているかを知らなければならない。また、それがなぜかを知らなければならない」


また「われわれは知覚することを期待しているものだけを知覚する。見ることを期待しているものを見、聞くことを期待しているものを聞く」としている。カエサルも似たようなことを言っています。


さらに「人の心は、期待していないものを知覚することに対し、また期待するものを知覚できないことに対して抵抗する」、「受け手が見たり聞いたりしたいと思っているものを知ることなく、コミュニケーションを行うことはできない。受け手が期待するものを知って初めて、その期待を利用できる。あるいはまた、受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあるあることを強引に認めさせるためのショックが必要かどうかを知りうる」。


ドラッカーは情報というものとコミュニケーションの関係について触れます。


「しかるにコミュニケーションは、必ずしも情報を必要としない。事実、いかなる論理の裏づけもなしに経験を共有するときこそ、完全なコミュニケーションがもたらされる。コミュニケーションにとって重要なものは、知覚であって情報ではない」とし「コミュニケーションと情報は別物である」とし「コミュニケーションは知覚の対象であり、情報は論理の対象である」と述べ、つまり情報には「人間的な要素はない」と断じています。

詳しく情報を伝えればコミュニケーションが成り立つと思っていた私。深く反省しました。


以上がドラッカー読書会(オンライン)の備忘録です。


備忘録と言いながら、じつはここだけの話ですが、投稿した途端に忘却の彼方に消えてしまいます。ほかのあまたの記事もほとんど覚えていません。


書き上げるとまるで排泄行為のようにすっきりしてしまうのです。いつもお読みくださりありがとうございます。匂いは届きません。安心してください。

(カフェレストラン モーツァルトにて)


物語の舞台を旅しながら、その作品を読む。これほど贅沢な時間はありません。部下に薦められた楡周平著『鉄の楽園』を読みました。


登場する主な組織は、海東学園、経済産業省、四葉商事、R国。東南アジアにある架空の王国「R国」は想像を掻き立てられました。


登場人物のやり取りや作中の解説の言葉に心に残るものがありました。胸に刺さりました。まるで自分の職場のことを指摘しているようで痛い。


いわゆる「著者の言いたいこと」。それが言葉を変えて何度か出てきます。それらが重なって私の脳に沈着します。読者に優しい小説術です。


「できたらいいなと思うなら、できる方法を考えるべき」


「あるに越したことがないっていうなら、やれる方法を考えるべき」


「企業の組織、そこで働く人材も、モディフィケーションは得意でも、イノベーション、特に革新的な製品開発の能力に著しく欠けているからです」


「所属する部署、命じられた業務以外のことに口を挟むのは禁忌。命じられた仕事をこなすだけ。それが日本の組織であり企業です。もちろん、企業のそれぞれに、自社が保有する人的、技術的資源を結びつける部署もあれば、企画を担当する部署もありますが、その任務にあたる人間が、その業務に相応しい資質を持っているとは限りません。なぜなら、組織が大きくなればなるほど、埋もれた才を発掘するのが困難になる。それが組織であるからです」



(カフェレストラン モーツァルト。当ブログの愛読者に案内してもらいました)

「従来の日本の組織のあり方では、革新的製品は生まれません。新しい発想の種は、どこに眠っているか分かりません。誰が抱えているかも分からないんです。まして、四葉グループは、企業間でビジネスを共有しあっているのに、現場レベルでの交流は案件単位。誰が画期的なアイデアを持っているとも限らないにもかかわらず、あくまでも社内、それも担当レベルで考えようとする」


「岡目八目という言葉あるように、プロであればあるほど、陥りがちな罠がある」


「それは、あまりにも担当分野を知りすぎていることだ。製品のニーズは市場が決めるもので、作る側が決めるものではない。頭ではそれを理解していても、素人考えを一笑し、無視してしまう傾向がプロと呼ばれる人間にはあるように思う。何よりも深刻なのは、組織が大きくなればなるほど、門外漢に画期的アイデアを持つ者がいても、生かす術がないことだ。アイデアを生かそうにも、その任務を命ぜられない限り、公表することもできなければ、是非を問うこともできない。それが組織であるからだ」


「あの人の面白いというか、ある意味凄いところは、自分の考えに反対する人間、それも部下の話に耳を傾ける。そして煙たがるどころか、むしろ重用することなんだ」


「人間だれしも欲がある。欲に魅せられた人間は、不都合なデータや情報に目を瞑る傾向ある。そこでミスを犯す。自分の考えが正しいとは限らない。反論はその穴を埋めるものであるかもしれない。同調するばかりの部下は、自分と同じ。むしろ、反論を躊躇しない部下が自分にとって貴重な存在だと考えているんだよ」


けさ、出勤してすぐに著書を紹介してくれた部下にお土産を渡しました。


「じつにいい本を紹介してくれた。ありがとう」

(『政策起業家』を友人にいただきました)


書籍をいただきました。友人が送ってくれたものです。以前から注目していた駒崎弘樹氏の『政策起業家 ーー「普通のあなた」が社会のルールを変える方法』(2022年、ちくま新書)。


読了しました。感銘を受けました。勇気づけられました。


エピグラフを散りばめられる著者を尊敬します。各章の扉にある箴言や警句の類いです。epiとは上に、graphは書くの意です。碑文も意味します。


『政策起業家』にも優れたエピグラフが記載されています。


第1章のエピグラフは「経験というのは、莫大なお金に匹敵する価値がある。ただ、ほとんどの人が、その経験を学びに使わない」(ベンジャミン・フランクリン)


第2章は少し長い。「物分かりがいい人間は、自分を世界に合わせようとする。/物分かりが悪い人間は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。/ゆえに、物分かりが悪い人間がいなければ、進歩はありえない」(ジョージ・バーナード・ショー)


第3章は「悲観論者が、星についての新発見をしたり、海図にない陸地を目指して航海したり、精神世界に新しい扉を開いたことは、いまだかつてない」(ヘレン・ケラー)


第4章は「思慮深く、献身的な少数の市民が世界を変えられることを疑う余地は全くない。まさにそれが今まで起こってきたことなのだ」(マーガレット・ミード)


このように第8章まで古今東西の言葉が紹介されています。


エピグラフを書ける人はどのようにして箴言を発見し、留めているのか。膨大な書籍を渉猟し、蒐集し、整理し、そして記憶する必要があります。


よほどの博覧強記でなければできません。私には逆立ちしてもできない。というか、逆立ちすら無理です。


ゆえに、私は自分自身でエピグラフを考案しようと思います。


その一「人は太陽と体重計は直視できない」


その二「人類の叡智をもってしてもいまだ解けない難問。それは食べていないのに増える不思議」


その三「人生の喜びの86%は食にあり。10%は睡眠。そして、残り4%のために人はしのぎを削っている」


というわけで、簡単に自家製エピグラフが作れます。皆様もお試しください。


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