(ツメクサの名の由来は物を詰めるためのクッション材だったことから)

不思議なもので悪党は瞬時に結託します。人は生存本能において徒党を組み、利害において結びつきます。

イワシの群れが敵に遭遇したときに取る統率ある行動はその一例です。

特に相手の首を取るとき、強固に結着。組織としてあたかも団結しているように見えます。

人は理念において結び難く、善人は団結が不得手です。えてして善人は孤高を選ばざるを得なくなり、孤立する。広範な力となり得ません。

裏社会の組織力は強力です。ときに鉄の結束力を見せます。理念も政策もないにもかかわらず、いや、ないからこそ結束するのでしょう。

一方、ビジョンを掲げて組織を糾合しようとする非営利組織が往々にしてその組織力がひ弱なのは、ゆえあること。

野望がないからです。

希望や夢などといったシフォンケーキのようなふわっとしたものでは人々は団結できません。やがて分裂し自壊することは火を見るより明らかです。

ここに善なる野望を結集するため、私は「野望の党」を立ち上げたい。

実現を目指す公約は、次の通り。

一、国民が罷免する権利(リコール)を国会議員に対しても認める。
※(参考)日本国憲法第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。(抜粋)

一、月曜日を休日とし、金曜日を半ドンにする。

一、和洋問わずスイーツは非課税とする。

一、釣り銭は大きい方(札)からではなく、小銭から渡すようにする。

一、交差点は右折信号を優先し、右折車を先に促してから直進車が進むようにする。

一、マッサージ・整体は施術後そのまま起こされず30分以上仮眠できるようにする。

一、ハーゲンダッツのソフトクリームを開発する。

一、爪が絶対に飛び散らない爪切りを開発する。

一、トイレの場所と空き状況をコンビニの入口に表示するようにする。

一、自動車のクラクションに音声機能(危ない、すみません、ありがとう等)を搭載する。

一、傘から離れる(距離は随意設定)とスマホにアラートで知らせてくれる傘を開発する。

一、ホチキスの針の両端5個を薄く色付けする。

一、マヨネーズが残り少なくなったときの破裂音を可能な限り小さくする。

以上、野望の党は公約の実現に向け全力で取り組んでまいる所存です。


(アリオス)

職場でギンビスの「たべっ子水族館」のおすそ分けをいただきました。ラッコの形をしたクッキーが可愛い。

スタッフが話しかけてきました。何気ない会話が私は好きです。

「水族館に行ったら、ラッコがいたんです。ふつう、ラッコってお腹に貝を置いて石で叩いて割っていますよね」

「んだねぇ」

「それがそのラッコ、貝を片手で持って水槽のガラスにガンガンぶつけているんですよ」

「腹の上よりは硬いもの同士だしね。頭がいいね。でも、可愛くないね。やっぱりお腹の上で叩くのがいいよね」

「後日聞いたんですけど、水槽のガラスが傷つくということで、水族館側で貝を割って中身を餌としてラッコにやるようになったんですって」

ラッコはアイヌ語。択捉島東部、千島列島にも棲息しています。

貝を割るあの石。使わないときは身体の袋状になっているところにしまっておくのだそうです。その言わば“マイ・ストーン”を誤って失くすと落ち込むのだとか。

剥き身の貝を与えられる水族館のラッコ。水に浮かびながらお腹の上で石で割ることはもう不要です。所詮無理な体勢なのです。

労せず餌を得られていいなぁと思います。

栗の季節。私も剥き身が好きです。セブンプレミアムの有機むき甘栗が食べたくなってきました。

こうやって生きる力が削がれていくのでしょうね。


(カフェが好きです)

オンラインでのやり取りで、ことは済ませられるものと思っていました。以前に直接会っていたこともあり、再度の打合せは不要だろう、と。

和楽器の音合わせを意味する「打合せ」。雅楽で使われる笙(しょう)などの管楽器、琵琶(びわ)などの弦楽器、太鼓などの打楽器のリズムを合わせることに由来するという。

お互いの思いを響かせて打合せすることの意味を今回、改めて強く感じました。

人と人とは、Wi-FiやUSBケーブルでつながっているわけではありません。つなげることもできません。

それでも、最近はオンラインのチャット機能などにより瞬時に情報のやり取りができるようになりました。随分と意思疎通が容易になったと言えるでしょう。

でも、やっぱり顔と顔を合わせてのコミュニケーションは違う。表情や音声を交えての情報の量と質はチャット機能でも敵わない。

そう思いました。

当ブログ「星々のつぶやき」の初めての朗読会の打合せを会場となるカフェで行いました。私はホットココアを注文。

「お子ちゃまなものでココアが好きなんです」

「そうですか。ところで、朗読会は何曜日がいいですか」

「土曜日の午前中がいいかなぁと思っています。ホールでコンサートとかイベントがないときがいいのですが」

「それでしたら、火曜日の夜はいかがでしょう。土曜日の午前中もそれなりにイベントがあります」

「平日の夜ですかぁ。考えていませんでした」

「毎週火曜日はホールなど本館は休館なんです。ですからイベントはなく騒がしさもありません。周りの照明も落ちて、ここのカフェだけが灯っている感じです」

夜の帳(とばり)が降り、静まりかえったカフェ。いいかも。イメージが湧いてきました。

「それもいいですね。火曜日はホールは使われていないのですね。ノイズに邪魔されずにやれますね。参加者にはお店のお飲み物と一品お料理を注文していただく。そんな風に考えています」

「BGMはどうしましょうか。ジャズなどはいかがですか。クリスマスにちなんだ楽曲はどうでしょう。かけてみましょうか」

店内にジャズが流れ出しました。

「では、私、BGMに合わせて朗読してみます。本当はプロに朗読してもらおうと思っているんですけど...試しに読んでみます」

岩塩低温サウナ」を読み始めました。


隣の村に温泉があります。木戸川の上流沿いの公営の日帰り入浴施設。人混みが苦手な私好みの閑静な佇まいです。

岩塩低温サウナの扉を開けると先客が二人いました。サウナという密室は...


ジャズの曲に合わせて、ゆっくりと間合いを取りながら朗読。笑いをこらえているのを横目に見ながら、最後まで読み終えました。

なんだかすごくいい感じです。これはいけるかもしれない。

ここ数十年来、味わったことのないような高揚感を覚えました。

「とてもいいですよ。ジャズに合ったお声です。シュールな文章をゆったりと朗読して、なんていうのでしょう...」

「癒しの世界ですか」

「そうです。癒しです」

いよいよ、「星々のつぶやき朗読会」の始動です。夕闇の静寂なカフェでの小さな朗読会。


(心のオアシス「草野心平記念文学館」)

タイ・バンコクの有名なシルクの店「ジムトンプソン」で絹の反物を私は物色していました。歯学部に通う女子学生にプレゼントするためです。

中国系の白い肌に似合う純白の反物を選びました。少しフォーマルな厚めの生地でした。プレゼントしました。

その次に会ったときのことです。

「贈ってもらった生地で仕立てた服を着てきました」

30年前のこの出来事はいまでもよく覚えています。私は舞い上がらんばかりに喜びました。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」

ユリウス・カエサルの言葉として塩野七生氏が『ローマ人の物語』で語らせている言葉です。

そう、私は勘違いをしたのです。

私が贈った生地で仕立てた服を着てきた。即、願いが叶った、成就した、と。事実は多少異なっていました。いや、多少ではなく大いに違っていました。

単に贈られた生地で仕立てた服を着てきたというだけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。贈り物へのせめてもの答礼であり、「礼儀」のレベルであったのです。

太平洋戦争中の軍人の生きざまを描いた小説の一節を思い出します。

下士官が上官に対して「この戦争は負けます」と言います。上官は「貴様は勝とうと思わないのか」と。下士官は「勝ちたいです。しかし、勝ちたいということと、勝てるという事実は違うのです」と答えます。

「願い」と「事実認識」を冷徹に分ける眼識を持ちたいと私は思うのです。

希望を持つことは大切です。希望を託すことも大切です。しかし、希望を託すに足るものを持っているのかどうか。

まさに希望と認識を峻別する目を持たなければ、純白の服に目がくらんだ30年前の私と同じになってしまうでしょう。


(郡山安積店のテラスにて)

サグラダ・ファミリア。アントニ・ガウディ(1852-1926年)の設計構想をそれぞれの時代の建築家が推測し思い描きながら建築に取り組んいます。

1882年に着工。ガウディの没後100周年に当たる2026年に完成予定という。

先師の構想を実現せんとの熱き想い。世紀を超えて、連綿と継承されていることに驚嘆を覚えます。一朝一夕に成し得ない大事業です。

じっくりと時間をかけて積み上げていく、あるいは磨き上げていく営為。羨ましいとさえ思います。

時代ごとの建築家の苦労も並大抵ではないはず。建設従事者や地域の人々との話し合いは一筋縄ではいかないでしょう。

それぞれの思惑やしがらみも多いのではないかと思います。調整は困難を極めることもあるかもしれません。

一対一の粘り強い対話を重ねることで、あの偉大な建築物は建造され続けているに違いありません。

人ひとりの人生ですら、過去をリセットするなどということは不可能です。これまで積み上げてきたものがあっていまの生き様があります。

まして、人々の集合体である組織においてもや、です。困難な課題であればあるほど、粘り強い地道な血の滲むような営為が必要です。

当然、しがらみだらけです。そもそも政治とはしがらみの調整ではないでしょうか。

そのしがらみのど真ん中に分け入り、時に怒号や罵声も受け、それでも説得をし続けていく。信頼と納得を積み上げていく。

それをゲームのようにリセットできると思うのであれば、大きな間違いです。即席麺の発祥の地・日本だからなのか、時間をかけて積み上げる営為をおろそかにしているような気がしてならない。

政治とは理想と現実をつなぐ技術だとすれば、理想を追いつつ、現実のしがらみの真っ只中で、もがき苦しんでほしい。

と、ふと思いながらスターバックスコーヒー郡山安積店で一服していました。シフォンケーキも食べました。

なお、サグラダ・ファミリアは桜田家とは無関係です。念のため。


(「ぼっち」と呼びますか)

ペンキも塗り替え、船名も変えてまだ1年半。さほど古い船ではないのになぜか人気がありません。何よりも推力が乏しい。方向舵も定まらない。

突如、目の前にいままで見たことのない新しい船が現れました。船長が手招きをしているようにも見えます。

その船舶に乗り移ろうとすると、船長曰く「救出船ではない」と。乗船することができるのは、船長のお眼鏡にかなった人だけ。踏み絵が用意してありました。

乗船できない人々は不安に襲われます。しかも、元の船の燃料が減ってきているという。新しい船にいつの間にか燃料が移送されていたようです。

これは痛い。周りを見ると小船に乗り移って漕ぎ出した者もいます。どこかに漂流していくのでしょうか。

ふと見上げると赤さびで覆われつつも頑丈な船が火を噴いています。怒っているようです。

どの船にも乗船できない人々がとりあえずの材木で「嘆きの船」を建造し出しました。「嘆きの船」はどこに向かうのでしょう。

振り回す人と振り回される人。当面の勝利は振り回す人に軍配が上がるものです。

問題はそのあとです。船に乗ること自体が目的の「乗船者」にとってこれからが試練の旅です。

鶏口となるも牛後となるなかれ。大船の乗船者ではなく、小船でも己が一船の船頭たらん人はいないのでしょうか。


(モリゾーに見える)

なぜ、いまなのか。私たちは、理由を欲する生き物です。

東日本大震災。原発事故が起きたときも私はずっと心の中で「どうして」との問いが消えませんでした。

嫌な出来事に対して私たちは「どうして」と思うきらいがあります。しかも、仮に理由がわかったからといって、納得するわけでもない。

当ブログでも過去に腹痛の惨劇(最近はなぜか発生頻度が激減)を綴ってきました。

代表作に「デンタルフロス」や「『あ』に濁点の事態」などがあります。腹痛のことばかり記していてはいけないと自戒の意を込めて書いた「大切なF1層」などもあります。

この腹痛の惨劇、別名「存立危機事態」に陥ったときも「なぜ、いまか」と思ったものでした。

数々の惨劇を経てきて私は思うのです。

「なぜ、いまか」と言っているうちは、真剣に戦っていない。心のどこかに余裕があり、慢心があるのである、と。

「なぜ、いまか」には傍観者のにおいと負け犬の遠吠えにも似た嘆きを感じるのです。

「なぜ、いまか」を問うても当事者も周りも誰もわかりません。

「なぜ」を問い続けているうちは停滞しかありません。「なぜ」から「いかにして」とベクトルを未来に向けたとき、そこに初めて活路が見えてくるように思います。

数限りない存立危機事態を経験してきた私の確信の、中華風に言えば、核心の結論です。


(コスモスが咲いています)

事業所訪問を正午少し前に終えました。帯同しているスタッフに尋ねました。お弁当を持ってきているか否か。持ってきていないという。

海岸通りの食堂「くさの根」に行くことにしました。海鮮丼(550円税込)を注文。ボリュームも味も申し分なしです。

「嫌いなものってあるの」と私。

「納豆っすね。納豆、ダメなんすよ」 「納豆、嫌いなんだ。私は好物で納豆のみでも食べちゃう。ご家族はどうなの」

「家族は大丈夫なんです。娘が小さいころ納豆を食べたその口でチューしてくることがあって大変でした」

「うれしいようなつらいような。そこで拒絶したらダメだよね。受け止めないと」

「そうなんですよ。妻は笑いながら見ていましたけど」

スタッフは納豆は嫌い。でも、愛娘は可愛い。納豆を食べた娘にチューされるとき、そこには動機と価値観の齟齬が生じます。

動機とは、端的に言えば、したいと思うこと。

価値観とは、すべきことと言えましょう。

納豆は嫌い。娘は好き。好き嫌いという価値観しか表れません。

ところが、納豆を食べた娘のキスは、どうでしょう。簡潔に言いましょう。納豆味のキスは是か非か。

ここに至ると、困難が待ち受けます。可愛い娘が無邪気にキスを迫ってくる。

価値観が浮上してきます。キスすべき、と。娘に嫌な思いをさせたくない。

かように動機と価値観の葛藤が起きるとき、人は悩みます。私もこれまでこの動機と価値観の乖離に悩まされてきました。

が、最近、なんというのでしょうか、枯れてきまして、動機と価値観とが野合、いや、連携して、心の安寧を保つことができるようになってきました。


(カフェは心のオアシス)

日暮れのカフェ。ほかに客はいません。店員さんが一人。

「あっ、いつもブログ、読んでいます」

「ありがとうございます」

「お店にベーグルは置いてありますか」

「以前はお出ししていたんですけど、いまは...。お客様へ新しいものと思っていた矢先でした。ベーグルもいいかもしれませんね」

「お店のことで前から気になっていたことがありました。それはロビーとの空間のつながりです。開放的過ぎるかなと」

「そうおっしゃるお客様もいます」

「カフェに求めるのは、第一に落ち着きであり、擬似の自分の空間です。その意味で背中がちょっと落ち着かないというか、仕切りか目隠しがほしいなと思います」

「わかります。カウンターと客席が対峙しているのもお客さんにとっては落ち着かないかもしれないですね」

いつしか私たちはカフェ談義に花が咲いてしまいました。私は提案しました。

「座ったときに顔が見えない程度の仕切りを設けるか、あるいは観葉植物を配置するのはどうでしょう」

話をしながら私は思いました。ここで「星々のつぶやき」読み聞かせができないか、と。このカフェで朗読会ができたらいいなぁと思い始めました。

「読み聞かせブログ」の誕生です。

きょうの午前中、仕事で中級音訳奉仕者養成講座閉講式で私はこのようにあいさついたしました。

「声の持つ力は想像以上に大きいのです。肉声が放つ豊かな創造性をみなさんは確信していただきたい」と。

というわけで、「読み聞かせブログ」という新たなジャンルを切り拓く決意が漲ってきました。


(何より構えがいい。緑色のラインもいい)

「『小京都と呼ばないで』。金沢市は、『小京都』のイメージを払拭(ふっしょく)するための会議『金沢らしさ検討プロジェクト』を始めた」(2017年9月13日/官庁速報)。

時事通信社の記事を見て、その通りだと思いました。かねてから「あやかる」という言葉が私は嫌いです。

正直、私もあやかりたいと思うことはあります。ああいいなぁあの人、と思うことも、もちろんあります。

改めて「あやかる」の意味を調べてみました。

「好ましい状態にある人の影響が及んで、自分も同じような状態になる。『あなたの幸運に―・りたい」(三省堂大辞林)。

てっきり「あやかる」は願うことかと思っていました。が、そのような状態になることを意味するのですね。これは発見です。

ともあれ、金沢市が小京都と呼ばれたくないという気持ち。わかります。

小京都と自ら呼んでしまった瞬間から、金沢市は京都よりは格下だと宣言しているようなものですから。

以前、星々のつぶやきの「東北の湘南」で私は述べました。東北地方には「東北の湘南」を標榜する自治体が少なくとも5自治体ある、と。

秋田県にかほ市、岩手県陸前高田市、宮城県亘理町、同山元町、福島県いわき市。

東北の湘南と称してしまった瞬間から本物の湘南以下だと認めていることになるのです。それは自慢でもなんでもありません。

当該地域が温暖だという意味で標榜しているのであれば、即刻やめた方がいい。

この「あやかり」根性を私は心から叩きのめしたい。そして、提唱したいのです。

九州の某市に「わが市は九州のいわき」と呼ばせ、関西の某町に「わが町は関西のいわき」と呼ばせ、関東の某市に「関東のいわき」と呼ばせしめるのです。

いま私の胸には恩師の言葉が蘇ってきます。ゼミ生が国際関係についてのレポートを発表したときのことでした。

「今後は環太平洋地域が世界の中心になっていく」と学生が述べたあと、恩師は言いました。

「いま、あなたがいるところが世界の中心なんですよ」


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