夕べは送別会でした。遅かったのでカプセルホテルに泊まりました。

所詮カプセルホテルなので、寝床は狭いですが、浴場もサウナもゆったりとしていて温泉地のようでした。どこか小旅行に行ったかのような快適な朝を迎えました。

ちょっと気になったのが段差です。

浴場を出たときに10センチほど下がっていて、すべりそうになりました。そして、3メートルほど歩いて、ロッカーのある脱衣場のところでもう一度10センチほど下がる構造になっていて、私はつまづいてしまいました。

2度も段差があるなんてふとどきものです。よく考えれば浴場に入る際、その段差に気づいていていいはずなのですけど。

湯につかりいい気持ちになって注意力が散漫になっていたうえに眼鏡をかけていなかったこともあるのでしょうね。

床の色に変化をつける、あるいはスロープ化するなどの改善が必要でしょう。

さて、寝坊してホテルの朝食を逃してしまったのでUCC系列の珈琲館で朝食をとることにしました。サンドイッチが運ばれ、写真を撮っていたところ、外からの視線を感じました。

顔を上げると先般ご指導をいただいたデザイン書道家のT先生でした。


今日は「書の花ツリー展示会」だったことをすっかり忘れていました。T先生は東京からわざわざ足を運んで来られたとのことでした。

急ぎ朝食を終え、会場に向かいました。展示室でT先生と書をめぐって話に花を咲かせました。

甲骨文字は本来占いに使われていたこと、なぜ中国北部には石碑に文字が刻まれているのか、エジプト文字(ヒエログリフ)がなぜ漢字のように世界性を持たなかったのか、芸術表現としての書と絵画の違いなどについて、じつに興味の尽きないお話を伺うことができました。

今日は朝風呂で運動機能の低下を実感しましたが、T先生と再会しお話ができたので気分上々になっただいこんくんなのでした。


小中学校時代、私は「ことばとひびきの教室」という通級指導教室に母の付き添いで月に1回程度通っていました。

通常学級に在籍している子どもで、情緒的な面で何らかの個別の支援を必要としている子どもたちが通う、通級制の教室です。

生まれて間もなく高熱を発し、聴力に障害を生じ、私は後年、神経性難聴と診断されました。通常学級でもクラスの席を最前列にしてもらうなどの配慮をしてもらっていました。

それでも、よく聞き間違いをして、涙ぐんでいたことを覚えています。

「ことばとひびきの教室」では、聴力検査や言語機能の訓練なども行いましたけれども、時間のほとんどは私のおしゃべりを聞いてもらうことでした。

「教室」のN先生やT先生に会うのがほんとうに楽しみでした。

当時、私はアニメの一休さんに出てくる「どちて坊や※」ように見えたと思います。

毎回たくさん質問をため込み、先生に会うと次々と質問をぶつけました。N先生は親身になって話を聞き、先生の考えを示してくれました。

また、T先生は切り絵なども教えてくれ、美術の世界の楽しさを教えてくれました。

いま思うと、お二人の先生は、聞き分けの力や言語機能の能力を向上させること以上に私に「生きる自信をつけさせること」に主眼を置いていたような気がします。

学校の先生というのはじつに有難いものだと昨今改めて感じているだいこんくんなのでした。

※「どちて坊や」ーーなにかにつけて「どちて?」と聞く。このため多くの者が回答に窮する。実は戦災孤児で、南北朝争乱によって両親を失っている。
(Wikipediaより)


モントリオール大学の寮「Residence C」には、日本人留学生が6人いました。社会人は私だけです。

“郷に入っては郷に従え”と思い、入寮して最初の1か月はパンを主食としていました。が、無性にご飯が食べたくなり、1合炊きの炊飯器を中華街で購入し自炊を始めました。

せっかくなので、大きな鍋にカレーや豚汁を作り、留学生5人に内線で連絡し、ご飯を持って集合するよう呼びかけました。

寮には炊事場がないため、段ボールに電熱線のコンロを置き、床にしゃがんでカレーなどを作りました。

留学生たちは、うれしいことにいつの間にか、呼ばずともみな私の部屋「17119号室」に集結してくれるようになりました。

私はこのグループに名前を付けたいと考えました。

寮の所在地「Edouard-Montpetit」にちなみ「エドワード小山隊」と名付けました。「mont=山」、「petit=小さな」ということです。横断幕も作りました。

3畳弱の17119号室は、マルクスの言う原始共産制が敷かれ、冷蔵庫の中身も留学生が自主的に確認をしてくれるようになりました。

「隊長!ワインがないっす。それから、パンに付けるヌテラが切れていますよ」

「んじゃ、これ(20ドル札)で買ってきて」

さて、写真は1997年2月8日氷点下20度の日にスケートに行ったときのものです。カラオケを歌い、翌朝まで遊びました。

20代の私がブログのプロフィール写真より老けて見えるのは気のせいでしょうか。

自分の遺影の賞味期限は20年はあると踏んだだいこんくんなのでした。


「悲喜こもごもの合格発表」という表現のどこに誤りがあるのか、私はわかりませんでした。

NHK放送文化研究所のホームページでは「悲喜こもごも」について次のように説明しています。

「悲喜こもごも」は、喜びと悲しみが一度にあるいは交互に訪れた1人の人間の心境について用いるのが伝統的な語法です。複数の人たちの心境・感情や状況を表すときには使いません。

「入試に受かって喜ぶ人がいる一方、落ちて悲しむ人もいる」「選挙に当選して喜ぶ人たちもいれば、落選して悲しむ人々もいる」などというような場合には、一般に「悲喜こもごも」という言い方はしません。このような場合には、「明暗を分ける」「喜ぶ人、悲しむ人、いつもながらの光景(情景)…」などといった言い方があります。


ん〜。そうすると、だいこんくんを例にとって「悲喜こもごも」の正しい文章を考えるとどうなるでしょうか。

なかなか思い浮かびません。次のようなことでしょうか。

出張先で大好きな豆大福を供され大満足のだいこんくん。

帰路、トイレのない高速バスに乗ったところ急に下腹部に激痛が。

あぶら汗が噴き出し、唇がぶんず色(こちらの方言で暗い紫色)に変化。腹腔圧が高まり、神仏に祈りを捧げるしかない臨界状態に達する寸前でサービスエリアに到着。事なきを得た。

だいこんくんの出張は悲喜こもごもだった。


ちょっと違うような気がしますね。どなたか適した例をご教示ください。


2年間の寮生活に別れを告げ、私は清水荘という四畳半のアパートを借りました。「常勝の間」という12人部屋での寮生活は生涯忘れられないでしょう。

清水荘の家賃は1万5千円。東京郊外とは言え破格の家賃でした。

1階部分は月極駐車場。2階部分に四畳半の部屋が土間の中廊下を挟んで3部屋ずつ合計6部屋あり、いずれも男子学生が住んでいました。トイレ・風呂・洗濯機は共同使用。

ある日、弟がひょっこりとやってきました。おそらく親の差し金でしょう。幕府の隠密の如く、生活状況を探索に来たに違いありません。

トイレに行った弟が、目を真っ赤にし涙を流しながら部屋に戻ってきました。「兄貴、あんなくさいトイレでやってんのか」と。

汲み取り式のトイレです。

トイレが2階にあるため、便槽からの臭気が速力のある上昇気流となって便座の穴から吹き上がってくるのです。

外に設置してある「臭突」は口径が狭いため、流体力学上、便槽からの臭気が逃げていきません。

それにしても、斜めにうらびれて立つ「臭突」に物の哀れというか、郷愁のようなものを私は感じます。

真夏だったせいもあり、臭気に嫌気をさした弟はすぐに実家に帰ってしまいました。

そんなある日、タイの大学での交換留学を終えたK先輩が私の部屋に居候することになりました。

イケメンで優秀な先輩なのですが、ちょっと変なところがあり、私と波長が合いました。

あるとき、唐突に先輩が「屁って燃えると思う?」と尋ねてきました。

「さあ、どうでしょうね。メタンガスですからね」と私。

すると、K先輩はごろんと仰向けになり、お尻を天井に向けて上げて、ライターをかざすではありませんか。

そして、ライターに向けておならを発し、見事に発火したのです。

「百聞は一見にしかず」とはまさにこれだと思いました。ほんとうに屁が燃えるということに私は感動すら覚えました。

震災後、K先輩はタイから真っ黄色に熟した美味しいマンゴーをたくさん送ってくださいました。

スーパーでマンゴーを見ると、四畳半での発火事件を思い出し微笑んでしまうだいこんくんなのでした。


自身のライフワークとして地域の支え合いの仕組みづくりに関心をもっています。

数年前の9月末、ある財団のご支援を受けて、地域福祉の先進地として大津市の雄琴地区を選び、休日を利用して関係者にお話を伺ってきました。当日は、大津市役所のTさんにご案内をいただきました。

当時の日誌にコメント(括弧部分)を添えて状況を述べます。

午後0時40分、大津市の肉料理「くすたろう」にて近江牛の焼肉重を食す。
(Tさんにご馳走になりました。旨味のある和牛でした。牛肉を食べたあと特有のまったり感で満たされ、夜は軽く飲むだけでいいと思いました。Tさんはステーキを注文したと記憶しています。常連のようです)

午後1時35分、大津市市民活動センターにて雄琴学区社会福祉協議会の関係者に地域福祉の取り組みについて伺う。
(どうしたことか睡魔との壮絶な戦いとなり、話しを聞きながら周りが蜃気楼のように見えました)

午後5時30分、京都市中京区三条の「豆水楼」にて豆腐料理のコースを食す。
(川床の風情のあるお店です。残すわけにいかないと思い冷酒とともに胃に詰め込みました。豆腐をおかわりしました)

午後7時40分、京都市東山区祇園町の「壹錢洋食」にてお好み焼きを食す。
(食後にお好み焼きがみやこびとの流儀なのかと戸惑いつつ、ビールとともに流し込みました。Tさんのお茶屋をめぐる深い話に耳を傾けました)

午後10時30分、京都駅近くのラーメン店「第一旭」にてラーメンを食す。
(炭水化物第二弾。並んで待つこと30分。Tさんは普通盛りでしたが、私は小盛を注文するも残しました。味もその後の道のりも覚えていません)

午後11時30分、東横イン京都琵琶湖大津に投宿。
(ベットに横たわると体重の増加を実感しました)


ところで、雄琴地区の調査について、地域福祉の調査だけが目的だったのか、と一部の人に疑念を持たれていますが、それだけが唯一無二の目的だったことをここに改めて、力強く申し添えます。

Tさんの強靭な胃袋と該博な知識、真心のおもてなしに心打たれただいこんくんなのでした。



ステーキと言えば「ミズキッチン」。

30年ほど前に外交官の先輩に連れて行かれたのが、バンコクのミズキッチン(Mizu's Kitchen)でした。サリカステーキセットが有名で、そのほか鯖ステーキセットなど、興趣をそそるメニューがあります。

目のやり場が困るような店が連なる歓楽街を縫うようにしてミズキッチンにたどり着きます。当時、バンコクの邦人駐在員御用達の店と言われていました。

私は数年後に留学した際、安さとボリュームに惹かれ、頻繁に訪れるようになりました。

来店のたびにサリカステーキセットを注文。焼き加減を女性の店員さんに聞かれると、答えは「ミディアム」。すると、その店員さんは、念押しに「ミディアムナッ!」と返すのが通例でした。

タイ語で「ナ」は日本語の「ね」に当たり、よく文末に付けます。

可愛い店員さんに「ミディアムナッ!」と言われるのがおかしくて笑いをこらえていました。ステーキに付くマッシュドポテトもおいしかったのを覚えています。

ミズキッチンを紹介してくれた先輩の部屋には、さいとう・たかをの『ゴルゴ13』の単行本が並べられていました。「これは必読書だ」と先輩に言われ、それ以来私の愛読書です。

しかし、日記を速記文字で書くという習慣は真似できませんでした。

ミズキッチンでご馳走になったその年、帝国ホテルでの先輩の結婚披露宴に招待されました。1年上の先輩と同輩と私の3人で招かれました。

祝い袋に「東南アジア研究会一同」と書き、3人合わせて2万円を包みました。常識に乏しい私でも勇気の要る金額でした。

帝国ホテル・孔雀の間での宴は、ビュッフェスタイル。外務大臣の祝電など上の空で、見たことのないご馳走に私たちは目を輝かせました。

引き出物は高級ワインと高級洋酒のセットで、3人各々しっかりといただいたことは言うまでもありません。

※画像はミズキッチンのFacebookページからお借りしました。


子どものころ、すき焼は豚肉でした。カレーも当たり前のように豚肉でした。我が家の食卓において牛肉は完全に欠落していました。

学生のとき留学前に社会人の先輩がお祝いにということで、ご馳走してくれることになりました。

場所は六本木のステーキハウス。

メニューを見ると、200グラム1万円などと驚異的なことが書かれていました。

寮での食事は、憲法25条以下の世界でしたので、竜宮城に来たかのようなめまいを覚えました。

あるルームメイトは、直径50センチ大のアルマイトの鍋に味噌と、つながったままの赤いウインナーだけを入れて、「ウインナー汁」を作り、1週間もたせていました。

当時、彼の作った「ウインナー汁」が私には美味そうに見えました。環境は人を変えてしまうという好例です。

彼は食べる段になってウインナーを切るという物ぐさな人でしたが、いま学校で英語の教員をしています。

閑話休題。結局、200グラム8千円の牛タンステーキを注文しました。目の前の鉄板でシェフが曲芸のような手さばきで肉を焼いたり、カットしたりするのを体を固くして見つめていました。

さて、就職してからの話です。

かつて、外勤するとほんの少し日当が出ました。係でそれをこつこつと貯め、数か月に1度の飲み会に充当していました。

あるとき、市内で和牛専門店で知られる「和牛たむら」に行くことにしました。20年前の当時で1万円のコースです。

どの肉もこの上なく美味しくて、私は、ビールを飲むことをやめ、ご飯を注文しました。ほとんど焼かずに刺身のようにがつがつと食べ始めたところ、店主に叱られてしまいました。

またお店に行ってみたいとは思うのですけれども、当時の苦い思い出がよみがえり、あのとき以来お店に足が向かない気弱なだいこんくんなのでした。


(写真は生涯学びの詩人であった草野心平の記念文学館)


「学歴とは学びの歴史」ーー 草柳大蔵氏が述べていたそうです。いい言葉ですね。

進路において自分の志望と異なる結果となったとき、本人もそして周りも意気消沈し、生きる希望さえ見出せなくなることがあります。

他人と比べるなと言われても、気にするのが人間の性(さが)です。

20数年前、両親の病により海外の大学院への進学をあきらめ故郷に戻ってきたとき、「好きな道を行った方がいい。簡単にあきらめてはいけない。でも、行く道を好きになることもできるからね」と先輩に言われたその言葉を胸に一歩一歩歩み始めました。

アレクサンドル・デュマは『モンテクリスト伯』で「待て、しかして希望せよ」と主人公に言わしめています。

大きく跳躍するときは、深くしゃがまなければなりません。しゃがめば沈むので、周りが輝かしく見えるでしょう。聳え立っているように見えるでしょう。

私の大好きなタイ・バンコクの中心部を流れる大河・チャオプラヤ川はどんなことがあっても、あらゆるものを受け入れながら、悠然と流れています。

いま目の前にあることを自分の肥やしとし、根っことしつつ、ひたすら学びを続けながら、鳳(おおとり)となって羽ばたくことを信じてやみません。




大学2年生のとき寮の同室のメンバーで1泊旅行をしようということになりました。

幹事は私。「常勝の間」と名づけられた寮室には2年生が私を含め3名、1年生が9名、合計12名が暮らしていました。

寮生活の詳述は、だいこんくんとしても望むところですが、笑いすぎによる呼吸不全や人によっては吐き気を催すおそれがあるので控えさせていただきます。

常勝の間では冷蔵庫の玉子一つひとつに自分の名前を書いていたということだけは述べておきましょう。

『人生に必要な知恵はすべて常勝の間で学んだ』というタイトルでの出版ができる日をひそかに夢見ています。

さて、男子12名の1泊旅行について旅行会社に相談したところ、山梨県の石和(いさわ)温泉を紹介されました。初めて聞く温泉です。首都圏の奥座敷と言われているそうです。

旅立ちの日、みな妙に浮き足立っていました。宿に到着し、湯につかり宴会の時間となりました。

美味しい料理を食べながら歓談していたそのとき、ふすまが突然開け放たれ、ヘーイ!という奇声とともにビキニ姿の女性5〜6人が私たちの宴会場に乱入してきました。そして体をくねらせて踊り始めたのです。

幹事の私は、頭が真っ白になってしまいました。誰かが頼んだに違いない。お金はこれ以上ないのに、なんてこった。勘定のことがすぐ心配になりました。

そんな私の心配をよそに後輩たちは踊りの輪の中に入っていっしょに踊り始めるではありませんか。

10分ほどでその狂乱は終わりました。あとで旅館のサービスだということがわかり、私は胸をなでおろしました。

いまだったら、だいこんの着ぐるみを着ていっしょに踊りまくっただろうにと悔やむだいこんくんなのでした。


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