(ナカオカフェ。宮城県富谷市にて)

「目が覚めると涙を流していたことに気づく。でも、なんで泣いていたのかわからない。思い出せないんだ」

旧友は訥々(とつとつ)と話し出しました。時々会ってはいたものの二人きりでゆっくりと話をするのは学生時代以来のことかもしれません。

「何回か同じことが続いたあと、ある日思い出したんだよ」

「夢の内容を?」

「そう。子どもの頃に実際にあったことだったんだ。その場面を繰り返し夢に見ていたんだ」

旧友の家は父親が様々な事業を起こすもことごとく失敗。億単位の借金を残して、その後、病に倒れ亡くなる。

借金返済のため、母親は朝から晩まで働き詰めの毎日だったという。貧乏のどん底を経験した旧友。

「母に迷惑をかけっぱなしだった父親が俺は好きになれなかった。嫌っていた。死んだ後も同じ感情だった。だから遺影も飾らなかった。結局、母は父が亡くなる前に離婚したんだ」

そして、旧友は夢の続きについて語り出しました。

「夢は、オヤジの夢だったんだよ。子どもの頃、父の誕生日に弟といっしょに父の好きな酒をプレゼントに贈ったんだ。すると、オヤジはさっと正座して、ありがとうって言ってくれたんだ。オヤジが好きだった自分を思い出したんだ」

「そうだったんだ」

「今まで大嫌いだった父親が不思議なことにそれ以来受け入れられるようになった。今まで歳上の男性に対していつもイライラ感があったんだけど消えたんだ」

初めて聞く話に私は引き込まれていきます。

「母のところに行って、仕舞ってあった父の遺影をもらって自分の家に飾ることにしたんだ」

さらに、旧友は意外なことを話してくれました。

「じつは少し前まで、俺、娘と息子とうまくいかなかったんだ。つい頭ごなしに押さえ込んでしまうというか、そんな風に接していた自分がいた。ところが、その夢の一件があってから子どもたちとの関係もよくなっていったんだよ」

「本当によかったね」

旧友の話を聞き終え、不思議な清涼感が胸に広がるのを感じました。

そういえば亡き両親の夢を最近まったく見なくなりました。夢でもいいから会いたいものです。

蛇足ながら、30年前にタイの女子学生に振られた夢をこの前見ました。周期性があって年に一度ほど見ます。

その時だけタイ語でしゃべる自分が不思議です。必死だったんでしょう。きっと。


(ナカオカフェ。右側が和食器のショップ)

高速道路を使ってでも行ってみたいカフェ。今後シリーズ化の予定です。実際に足を運んだカフェについてつぶやいていきます。

今回は宮城県富谷市の「ナカオカフェ」。

富谷市はワープロ変換でも出てこない誕生したばかりの市。2016年10月10月に町から単独市制に移行しました。

「合併」によってではなく、「単独」というところにこの地域の勢いを感じます。人口の増加が著しい。1970年に4,912人だった人口が1995年に30,244人、2015年に51,591人と45年間で5倍に増加(いずれも国勢調査)。


(ナカオカフェ。照明が郷愁を誘う)

かつて奥州街道の宿場町として栄えた富谷宿。旧家が軒を並べ、いまも往時の佇まいを残しています。

歴史と文化、そして勢いのあるまちにはいいカフェがある。私の勝手な推測です。が、当たっています。

ナカオカフェに到着して気がつきました。店の両側にもカフェがあることを。カフェが連なっている。うれしい気持ちになりました。

店内に入ると正面にアクセサリーなどの小物の物販コーナー、左奥が一段高くなっていて、木炭焙煎コーヒー豆とスイーツのショップになっています。コーヒー豆はテイスティングもできます。


(ナカオカフェ。外から窓を撮りました)

一段低くなっている右奥は和食器のショップ。全国の著名な窯の陶器や個人のアーティストによる焼き物もあります。漆器や木製の食器もあり、さながら食器のプチミュージアム。

このようなお店にいると私は多幸感に包まれます。これもほしい。あれもほしい...夢は膨らみ、財布はしぼみます。

今回はアカシアの木を彫って作った大きめの木の皿(トレー)を複数購入。正月料理を盛り付けてみようと思います。

さて、カフェはギャラリーとともに2階にあります。

ケーキセットを注文。しっとり、ふわふわのシフォンケーキに生クリームとバニラビーンズの入ったアイスクリームが付いてきました。


(ナカオカフェ。キャンドルライトが揺らめいています)

嗚呼、逆流性食道炎なのに、またよくないものを食べてしまいました。後悔はしません。反省もしません。ドーパミンが溢れて出ているからです。

というわけで、後悔も反省もなくカフェ三昧が今後も続いていきます。

カフェは私の心のオアシス。私にとっては空気や水と同じく必要不可欠なものなのです。

ナカオカフェの公式サイト
http://nakao-shop.jp/


(LED電飾。盆飾りに応用してもよさそう)

漢文の抑揚形の表現。ふだんはあまり使いません。が、スパイスが効いて好きです。小においてすら面倒くさし、いかに況や大においてをや。

前号の「健康診断が嫌い(1)」では採尿の面倒くささを詳述しました。大きな便りの採取についても、我が筆力をもってすれば写実的技法を駆使して描くことは容易ではあります。

しかしながら、大人の事情により差し控えたいと思います。ご理解ください。

さて、健康診断は包括的かつ個別的に嫌いだと前号で述べました。室内で行う血圧測定、採血、視力測定。いずれも面倒くさいことこの上ない。

採血の際、いい血管がないのか、ぺしぺしと腕を叩かれます。

「もう片方の腕も見せてください」

そう言われるのがつねのため、最近は両腕をまくって差し出しようにしています。

注射器に血液が勢いよく吹き出しているのを眺めながら、この看護師さんは毎日毎日このように採血しているのだろうか、と勝手な思いを巡らしてしまいます。

室内での各種検査が終わると戸外に待機中の検診車に移動。これがたまらなく嫌なのです。面倒くささ、億劫さに加え寒さが渾然一体となった不快な感覚に襲われます。

1台目の胸部エックス線検査を終えて、心電図検査の検診車に移動するわずか5メートルの距離が近くて遠い。

裸で行くわけにはいかない。かといってワイシャツのボタンを締めるのは面倒だ。寒いので上着は着たい。ネクタイを右手にぶら下げる持つ。

「着崩した」などと到底言えない、ファッション性のかけらもない、情けなさを一身に集めた格好が現出します。

勤務中はお客様への接遇上、革靴であるべきと私は思っています。サンダル履きはしません。

検査後に革靴をしっかり履くと、すぐに次の検査があり脱ぐので面倒。かかとを浮き立たせながら、つま先歩行を強いられる。

どんな威厳漂う人も高貴な人もこの5メートルの不随意移動をやれば、ただのおじさんが歩いているようにしか見えない。文字通り、人間を丸裸にする破壊力があります。

しかも、心電図検査のあとに胃部エックス線バリウム検査のときにもう一度移動を行うのです。

というわけで、次号では検診車での嫌さ加減について深掘りしたいと思います。


(けさ作った弁当)

職場の定期健康診断が包括的かつ個別的に嫌いです。まずなによりも厳寒の1月に行うことがモチベーションを下げます。

事前に家で採尿するのが面倒。朝のせわしいときに慎重かつ適切に採らなければならない。

スポイトをどんなに強くへこませても、1回の吸引で「ここまで」の線に達しない。これがいただけない。

とにかく吸引し、いったん吸い上げる。次に、口を上に向け、噴出しない程度にスポイトを押す。ここで漏出しないように減圧しつつ、口をさっと下に向け、ふたたび尿面に差し込む。

スポイトの復元力によって2回目の吸引が開始されます。しかし、初回よりは吸い込みが弱い。なぜなら1回目の分が一定程度満たされているからです。

ところが、うっかりすると、今度は「ここまで」の線を超えていることに気づきます。超過分を押し出して栓を閉めて完了。律儀な私は正確性を求めます。

この一連の作業を男子としては、パンツを下げた状態で慎重かつ適切に行わなければならないところが情けない。

いや、パンツくらい穿(は)けという議論もあるでしょう。

でも、思うのです。

あの不安定な折り畳みカップをいったいどこに置くというのか。

こぼれるようにできているとしか思えない折り畳みカップ。対角線の交わる中心が妙に尖っているのが怖い。

したがって、折り畳みカップに貯尿したらただちに採尿するのがベストだと私は信じています。

採尿のことだけで「健康診断が嫌い」シリーズの初回が終わりそうな気配です。

むすびにひとこと。

採尿後のスポイトをナイロン袋に入れます。このとき、私はスポイトの外側を水で洗います。受け取る人や検査をする人を考慮しての行いです。

ところが、この洗浄作業によってスポイトやスポイトを入れるナイロン袋にいくばくかの水滴が付着する。これがまた気になります。

「この濡れているのは水道水ですよ」

そう心の中で叫びつつ、受付の職員に渡すもどかしさ、恥ずかしさ。

「羞恥心」とはまさに歌謡曲名やユニット名ではなく、このような事態に使うべきものだと私は思います。ご理解いただけますでしょうか。

ちなみに、魚型しょうゆ入れは、どのように充填するのか。

魚型しょうゆ入れの空の容器をしょうゆを入れたタンクに投入。ふたをし、減圧することによって、容器がへこみます。ここで加圧。すると魚型しょうゆ入れが膨らみ、しょうゆを吸い込むというのです。

たぶん、赤色のふた閉めは手作業なのでしょう。

いずれにしても、この魚型しょうゆ入れの原理は応用できないと思いました。


(夜桜)

次回の朗ブロ(「星々のつぶやき」の朗読会)を求める声がちらほら寄せられています。どうしようか。迷っています。

ふらっとアリオスカフェに寄りました。

「朗ブロでは大変にお世話になりました。ご面倒もおかけしました。反省点も多々あります」

「いえ、こちらこそ、いろんなことが見えてきました」

「今回の朗ブロでは開会してすぐに朗読に入りました。お料理が運ばれたものの口に入れることをためらっているように見受けられました」

「せっかくご注文いただいたのに...」

「ですから、次回は開会後約30分は気兼ねなく食事を召し上がり、参加者同士でお話をしていただいたりするなどの時間に充てられたらと思っています」

「次回はいつ開催しますか」

「次回ですか...そうですね。充電期間が必要です。今回の朗ブロ開催にはそれなりにエネルギーを使いました。作品も積み重ねていかないといけないですし。腹痛物はよかったのかどうか」

「腹痛物、共感します。じつは私も...(中略)...(後略)」

人は誰しも筆舌に尽くし難い体験を持っているものなのだ。そんな感慨にとらわれながら、アリオスカフェの窓外に目をやりました。

桜の木がありました。そうだ夜桜を観ながらの朗ブロはどうだろう。

「桜の季節にまた催したいと思います。夜桜を観ながらはどうでしょうか」

「いいですね。ビールなども飲めるようにしましょうか」

外の桜の木を見ながら妄想が膨らんできます。

干し芋の食べ方」を聞いてもらいながら、参加者の皆さんに実際に紅はるかの干し芋を召し上がっていただく。80回の咀嚼を体験してもらうというのはどうか。

同じように「禁断のレーズンアンドバター」の朗読の際、レーズンアンドバターを塗った厚切りトーストをお出しする。

朗読とリアルが融合した、朗ブロです。新たな地平線が見えてきました。

バーチャル・リアリティが跋扈(ばっこ)する昨今。五感をもって詩心を感じる、そんな試みがあってもいいのではないか。むくむくとチャレンジングな思いがもたげてきました。

紅茶をすすりながら一人ほくそ笑む私。干し芋やレーズンアンドバターを提供してくれるスポンサーを探さねば。


(駅前の再開発ビル「ラトブ」)

P.F.ドラッカーの片言隻句(へんげんせっく)は触媒のようであり、プリズムのようでもある。ドラッカー著『経営者の条件』の読書会に参加しての感想です。

参加者各人が日々感じていること、思い悩んでいることや新たな発見をドラッカーの言葉を通して共有する場。それが読書会であると思っています。

一人での読書では味わえない魅力があります。

ドラッカーの同じ言葉に共鳴しつつも、その捉え方は必ずしも一様ではありません。そこがまた面白い。読書会の醍醐味と言えます。

中華料理店で働くTさん。2回目の参加です。

「われわれの顧客とは誰か」

この言葉がTさんを捕らえて離さないようです。「顧客」とは単にお店に来店するお客さんのみならず、いっしょに働くスタッフもまた「顧客」であると思うになったという。

「周りの人すべてが顧客であると思うようになったんです。そうするとスタッフもまた顧客であると捉えられるようになりました。そこで発見があったんです」

どのような発見なのか。皆が耳をそばだてます。

「いっしょに働いているミャンマー人の留学生が下げ膳の食器を私に渡す際、汚れていない方を向けて手渡すことに気づきました。彼もまた私を『顧客』と捉えているのだろうと思いました」

読書会初参加の建設機械メーカーに勤めるSさんが反応します。

「その振る舞いに気づくTさんもまた素晴らしいと思います」


(読書会の様子)

その通りだ、と私も思いました。

私が今回最も感銘を受けたドラッカーの言葉を紹介。

「通常、成果をあげるうえで最も重要な人間は直接の部下ではない。他の分野の人、組織図上では横の関係にある人である。あるいは上司である。それらの人と関わりをもち自らの貢献を利用してもらい成果に結びつけてもらわなければ、いかなる成果もあげられない」(『経営者の条件』31頁)

「足下を掘れそこに泉あり」

現実社会では足下に泉はないのです。

私の職場は、横の関係にある企画部門、財政部門の了解なしには成果をあげることはできません。

カフェを始めたいと思っているTさんに私は言いました。

「カフェの経営においても経営者とスタッフだけの力では成果をあげることは難しいでしょう」

加えて私は例えを述べます。

「いいコーヒー豆を使いたいと思えば、仕入先の協力が必要ですし、そのほかのことでも外部の力をお借りしなければ、成果はあげられないと思うのです。横が大事です」

2時間の読書会は、巧みなファシリテーターの促しによって横同士がつながり、あっという間に時間が過ぎていきました。

次回のドラッカー読書会「いわき学びカフェ」は正月松の内に開催。迫りくる忘却力と戦いながら、明年は一歩成長したい、と叶わぬ願望を抱いています。

「星々のつぶやき」は文字通り「備忘録」なのです。


(懐かしい常磐共同勿来火力発電所と鮫川)

通勤途上で愛読者のYさんからメッセージが入りました。「モノができました」と。

終点のいわき駅を降りて階上に上がり改札口に向かったところ、Yさんがにこやかに立って待っていました。まるで示し合わしたかのよう。

「いや〜偶然ですね」

「待っているとは思いませんでした」

Yさんは常磐線を北上していわき駅に。私は磐越東線をディーゼルカーで東漸して同駅に到着。必ずしも同着するわけではありません。

「これです」

おもむろに2本の黒色のUSBメモリーが差し出されました。私はそれを受け取り速やかにポケットに仕舞い込みました。

「例のモノができました」

「お手数をおかけしました。ありがとうございます。なんだか機密情報を受け取るドラマのシーンのようですね」

Yさんは呵々大笑。

先月初めて開催した朗ブロ(当ブログの朗読)会)。その模様を動画編集してくれたのです。

そして、けさも改札口でいっしょになりました。

ひとしきり最近のエントリーいくつかについて所感を伺ったあと、私が尋ねます。


(情報なき国家の悲劇)

「いいネタ、何かありますか」

「二つあります」

「ほう、二つ」

「一つは、堀栄三です。知ってますか」

「恥ずかしながら知りません」

「大本営の情報参謀だった人です。彼が書いた『大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇』を読み終えたので図書館に返すところです。彼の分析力は際立っていました。でも、残念ながら用いられなかったのです」

そう言いながら、Yさんは時間外返却口に本をすとっと入れました。堀栄三を評価する一方で大本営作戦参謀だった瀬島龍三に対しては手厳しい。

「瀬島龍三と言えば面白い本があります」と私が言うとYさんが興味を示しました。

「共同通信社の『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』です」

瀬島龍三は山崎豊子著の『不毛地帯』の主人公のモデルとされています。

というわけで、Yさんの教えてくれた二つのネタのうちあと一つが思い出せなくて自宅で悶々としています。

忘却力にますます磨きがかかってきました。


(きょうの課題図書)

技術進歩は凄まじい。最新のハイスピードカメラは熱伝導の様子が捉えられる。

熱伝導は光速の6分の1の速さ。1兆分の1秒の世界を写すことのできる技術です。このカメラでくしゃみの瞬間を撮ってほしい。くしゃみ顔の6000億枚の写真展。

まだ発展途上ではあるものの量子コンピュータなるものも登場。従来のコンピュータは0か1かのビットを単位とし、どちらかしか表し得ない。

一方、量子コンピュータは「量子ビット」により重ね合わせの状態で計算ができるというもの。つまり、あれもこれもの可能性を同時に計算できるとされています。書いている本人もよくわかりません。

こういったテクノロジーの進歩に負けないくらい、いま干し芋が進化していると私は確信しています。生産現場を見たわけではありません。

でも、私の舌がそのように訴えているのです。

スーパーマーケットで干し芋のコーナーをご覧ください。紅はるかの干し芋が陳列されています。黄金色に輝いています。高いです。

わきに並んでいる安価な中国産のスティック干し芋はきょうはやめましょう。

芋は収穫ののちに寒晒しをします。寒さから身を守るため糖化酵素ジアスターゼによってデンプンが糖化していきます。寒すぎると腐ってしまいます。完熟とは腐りかけの一歩手前のこと。

まるごと蒸(ふか)します。そのあと裁断は包丁ではなくピアノ線を用います。ゆで卵を輪切りにするアレです。

このあとの乾燥が大変です。機械と天日を使って、柔らかさを残す干し芋に仕上げるのです。芋の出来や蒸し具合、気温・湿度に気を配りながら乾燥させていきます。

もともと干し芋は保存食として作られていました。硬くて粉が吹いている昔ながらの干し芋がそうです。前歯でかじって手で引っ張る。くだんの食べ方です。

しかし、黄金色の紅はるか干し芋はまるで高級スイーツのよう。

ふわっと前歯でかじりとります。適度な硬さの食感です。次に臼歯を使ってすりつぶしていきます。20回、30回と噛んでください。

犬歯の外側に若干の塊がつくことがあります。舌を巧み使って口中中央部にかき集めましょう。

50回目に至ると唾液のアミラーゼによって未糖化のデンプン質までもが糖化されていきます。干し芋本来のジアスターゼによる麦芽糖と唾液腺アミラーゼによる糖化作用が相まって、じつにミルキーな味覚が現出するのです。

嚥下の誘惑に負けず80回の咀嚼に突入。未知の世界です。もはや栗きんとんのペースト。高級和栗モンブランにも勝るとも劣らない味わいです。

さあ、まずは紅はるかの干し芋を手に入れましょう。確かに高価です。が、試す価値はあると断言いたします。


(バンコクの屋台でよく鴨ご飯を食べていました)

子どものころチャボを飼っていました。庭の樹木の木陰を散歩する姿が愛らしかったのを覚えています。

ただ、アパートの1階で飼育していたので、いま思えば早朝からの鳴き声はいい迷惑だったと思います。

卵を産んでいないか、鳥小屋の中を確認するのが楽しみでした。もちろん食用にしていました。

鶏卵は物価の優等生と言われています。60年間ほとんど鶏卵の価格は変わりません。

これまた不思議なことです。誰かが不当に苦しみ、誰かが不当に利益を得ているのではないか。詳細はわかりません。

さて、五反田の家庭料理「うさぎ」で女将さんにぽつりと言いました。

「玉子焼きって難しいんですよね。弁当のおかずに出汁巻き玉子を作っているんですけど、やっと失敗しないようになりました」

「お写真を見ると上手に焼いていますよね」

「いやいや、最初は駄目でした。本当は砂糖を入れて甘くした玉子焼きを焼いてみたいんですけど、どうしても焦げてしまって。子どものころ母がよく焼いてくれました」

「そうなんですよね。砂糖を入れて焼くときは、水か牛乳を少し加えるといいんですよ。もし焦げそうになったときはフライパンを火から離すのも手です。それから大事なのは余計な油分を取ることです」

「私も底にクッキングペーパーを敷きます」

「敷くだけではなく、くるっと包んでぎゅっとやるんです。そうすると、余計な油が取れて、お弁当を開いたときに嫌な臭いがしないで済むんです」

「なるほど〜。やってみます」

女将さんの作ったベーコンと玉ねぎの入ったオムレツをいただきながら、玉子焼きのコツを教えてもらいました。

「このオムレツに入っている玉ねぎ、なんて甘いんでしょ。甘味は加えていないんですよね」

「一切加えていません」

「こんなに甘い玉ねぎがあるんですね。本当に美味しいオムレツです。絶品です」

「このオムレツの卵は卵かけご飯用の卵とは別なんです。焼くと固まり過ぎてふわふわとならないんです」

鶏卵一つにもこだわる「うさぎ」のプロフェッショナルの流儀に心打たれる私。

卵と言えば、小学生のとき、理科の時間に気圧の実験を行いました。

空の牛乳瓶にゆで卵を乗せ、瓶を冷水で冷やします。だんだん吸い込まれて瓶の中に落ちていきました。食べられないゆで卵を恨めしそうに眺めていたことを思い出しました。


(ドトールのひととき)

管理職になって数年が経ちます。管理職の職務とは何か。けさの師匠のメルマガは簡潔にポイントを提示しています。

「『判断する』、そして『管理する』、この二つに絞られる」とし、「まさに、管理職は『判断する』ために存在している」と。

また、管理職の職責にないものを提示して、管理職の職務の在りようをより明瞭に浮かび上がらせています。

管理職の果たせない、あるいは果たすべきではない職務とは何か。

「『現場を知る』ことであり、『実行する』こと」

どんなに頑張っても現場を担うスタッフの情報量には敵いません。また、助言はできても、実行部隊の一員として管理職が担当と同じことは物理的にも能力的にも困難です。

師匠は言います。「問題は、管理職の『判断』と『管理』の質」である、と。

そうなのです。特に判断に必要な情報をどう分析するか。そこが重要であると日々の仕事で感じています。

自分の目や耳で見聞きした生の情報ではなく、スタッフからの報告によって判断しなければならない管理職。皮膚感覚でじかに情報に接することができません。

そのため、断片的な情報に基づいて判断を迫られることもあります。

素手ではなく厚手のゴム手袋で触っているような、隔靴掻痒(かっかそうよう)の思いをすることもあります。

そのよう中、断片ではなく網羅的に情報がほしい、燃え盛る現場を直接見たいとの思いに駆られることもあります。

東日本大震災の際、時の総理がヘリを使って福島第一原発に行きました。自分の目で見て判断したい。その気持ちはわからないでもありません。

でも、管理職はそうであってはならない。特に「卒の将」ではなく全軍の指揮を執る「将の将」は、寄せられた断片的な情報に基づいて重い判断をしなければならないこともあるのです。

決して現場をないがしろしていいという意味ではありません。

現場を直接見なければ判断できない、すべてを知らなければ判断できない。そのような思考を断ち切る必要があるということです。

ここに師匠の言う「判断」と「管理」の質が問われるのだろうと思います。では、どのようにその質を高めればよいのか。

「管理職は普遍性の世界にあります。より広い視野を持ち、より多くの事象を知っています」

この言葉にヒントが隠されているように感じます。つまり、広い視野を持ち、より多くの事象を知ることによって普遍性を獲得する。俯瞰(ふかん)する眼を持つ。そういうことではないか。

「判断」とは、見極めであり、勇気であり、そして腹です。「情報量の多寡」と「判断の質」とはあまり関係はないように思います。

一見仕事とは関係のない分野の読書や講演会、異業種の交流会、そういったものから普遍性なるものが養われていくような気がするのです。

というわけで、私のカフェめぐりや「朗ブロ」(ブログの朗読会)もまたそんな一面もあるとご理解いただけたら筆者望外の喜びです。

じつは9割9分は好きでやっています。うそをついてしまいました。


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