(ヒナゲシを見るとアグネス・チャンを連想します)

20数年前、新婚旅行でタイを訪れたときのことです。夫婦ともに高熱を伴う猛烈な下痢に襲われました。

思い当たるフシがありました。一昨日ホテルで食べた寿司です。新鮮さに欠けるネタがあったのです。

一晩中うなり続け、トイレットペーパーのおかわりをフロントに注文する始末。

かつてタイに留学していたときもよく下痢に見舞われました。が、発熱はありませんでした。今回の下痢は前代未聞空前絶後のそれでした。

翌朝、病院に行くことを決意。選んだ病院は「バンコク総合病院」という著名な私立病院です。

広いエントランスホール。激痛のお腹を抱えながら文字通り右も左もわからず当惑していたそのときです。

「どうしました」

総合案内のスチャートさんという若い男性が素敵な笑顔で尋ねてきました。

下痢が極めてひどいこと、妻の方が症状が重いことなどを説明しました。

スチャートさんは私たちのただならぬ症状を見て取ったのでしょう。すぐに救急外来(ER)に案内するという。

「まだ受付もしていないんです」と私はタイ語でいいました。

「手続きはあとでいいですよ。ERにご案内します」

救急外来に到着すると日本の医学部を修めた女性の医師が待っていました。

問診と検査の結果、医師から下された診断は「赤痢の一歩手前」でした。

赤痢の一歩手前。どういうことなのか。とたんに不安になりました。

へつづく)


(Taro cafeから猪苗代湖を望む)

大臣の更迭劇を見て思いました。確かに実地に経験している人は思いが強いだろう、と。

大変な思いをしている人々に寄り添うこともできるだろうとも思いました。ある意味、それは当然なことであろうし、そうでなかったらおかしい。

しかし、経験しなければいい仕事はできないのだろうか。

次元は異なりますが、たとえば、航空会社の社長は飛行機の操縦の経験が必須だろうか。食品会社の社長は栄養士の資格が必要だろうか。

また、これまでの自分の仕事に置き換えても、障害福祉の分野であれば、自分自身の障害の有無によって仕事の成果に影響するだろうか。

なお、私はふだん両耳に挿耳型の補聴器を装着しています。

経験の有無や当事者かどうかと、その職を全うできるかとには、直接の関係はないというのが私の見立てです。

むしろ、その経験が仕事の成果に偏向をきたす場合もあると考えています。

結論を整理します。

本当のプロフェッショナルとは、何か。

それは、未経験の分野においても、いや、未経験の分野においてこそ、今回でいえば被災者の思いを汲み、当事者でさえ思い寄らない潜在的なニーズを発掘できる人といえましょう。


(土手に咲いていました)

経験の有無を超えて成果を出せる人がプロフェッショナルといえると私は思いました。

逆にいえば、経験有無によってポストの任用をすることは、その経験に普遍性が担保されていないことから、十分に注意する必要があります。

私の例を挙げれば、聴力障害の大変さはある程度わかりますが、それ以外は未知の領域です。

個人の経験には必ず偏向があるものです。限られた時間の中であらゆる経験をすることは不可能なことでしょう。

必要なのは、何事においても相手の立場に立って考える。そういった習慣を身に付けることではないか。

他人の苦しみを「我が事」つまり一人称で捉えることは現実に難しい。であるならば、一人称と二人称の間の1.5人称の心構えを持ちたい。

そんな話を仕事の研修でお話させてもらいました。


(私のオアシス「讃香」)

最近気を付けていることと考えていることを一つずつご紹介します。

まず、気を付けていることから。

ミニトマトを食べるとき、口をしっかり閉じるようにしています。種類によっては、噛むときに果実の液体が暴発的に果皮を破って飛び散ることがあります。

イチゴを食べるように、ついミニトマトを食べることがあります。そんなときに破裂します。

わかっているのにやってしまう。先日もやらかしてしまいました。

すべてが自分に起因する過失ほど苛立たしいものはないですね。

ミニトマトは口に入れて、がく片(緑色の葉のような部分)を引っ張るときは力なく噛み押さえます。

がく片が離脱してからは、上下の唇に隙間なく閉じ、それから噛みます。

口内で破裂しても安心です。

次に、考えていることについて述べます。

徒歩で通勤していることもあり、雨がとても嫌いです。憂鬱になります。そのうえ、傘を忘れがちです。

「がち」は正確ではありません。ほとんど場合、忘れます。

家から持っていくのを忘れ、持っていっても店に忘れ、列車に忘れます。

というわけで、いままでは数百円のビニール傘を用いていました。

雨を楽しむ方法はないのか。かつ、傘を忘れない方策。

そうです。傘をさすことが待ち遠しいと思わせる魅力的な傘を持てばいいのだ、と思い至りました。

創業明治29年 生粋の傘専門店「心斎橋みや竹 特選 紳士傘」のサイトを見ると、ずらり高級傘がそろっています。

安いものは12,960円から最高級正絹紳士傘58,320円まで。

購入するのであれば2万円程度のものでしょうか。こんな傘を持ったら、どこに出かけても、傘が気になって気になって、落ち着かないかもしれない。

ネット通販のボタンを押すべきかどうか。迷っています。

高級傘を持ったら、私の生活はどうなってしまうのか。大きな変貌を遂げるような気もします。

八代亜紀の「雨の慕情」を口ずさむようになるかもしれません。

「雨々ふれふれ もっとふれ」

次の展開が読めません。

こちらは傘のボタン。将軍様は核のボタン。迷うところは同じかなと思っています。


(夕陽に照らされて燦然と輝くチューリップ)

危機にあって不謹慎かもしれないと思いつつ、彼の国の広報担当のひねり出す言葉にうならされている私です。

「わが軍隊は生存を許さない無慈悲な破滅的懲罰を加えるということをすでに宣言した」(Livedoor News)

「無慈悲な報復攻撃で敵対勢力の頭上に核の雷を落とす」(産経ニュース)

「無慈悲で悲惨な鉄槌を下す」(デイリーNKニュース)

「敵が二度と生き返らないように、わが軍は無慈悲で壊滅的な打撃を敵に与える」(BBCニュース)

言葉の威嚇が続きます。

「無慈悲」を使って相手を威嚇する文章を作りなさい。そんな設問に彼の国の広報担当は無数の文章を編み出すことでしょう。

ふと思うのです。この“無慈悲な”広報担当とボジョレーヌーボーの毎年のキャッチコピーを考える人は仲良くなれるのではないか、と。

「おたくも大変ですね。毎度毎度、『無慈悲』を入れた文章を書かなくちゃいけなくて」

「そうなんですよ。最近はレパートリーが似通ってきて苦慮してるんです。私が作成した『無慈悲辞典』がありましてね、それを参考にさらに無慈悲な表現をと思っているんですけど、なかなかいい案が出なくて...」

「いやぁ、ボジョレーヌーボーも同じですよ。大した違いがないのにさも最高の出来だといわなきゃならんのです。しかもいちおうの比較が必要なんです。『過去10年で最高と言われた2001年を上回る出来栄え』とかね」

「なるほど。そちらさんはほめる言葉で苦労し、こちらはけなす言葉で苦心する。お互い痛み入りますなぁ」

「思い切って、逆転の発想で『慈悲ある』という修飾語ではどうですか」

「そりゃいい。面白い。けれど、将軍様がお許しにならないでしょう」

というわけで、無慈悲な広報担当に慈悲心を抱いてしまう私です。


(楢葉町の菜の花畑)

久しぶりの緊急事態でした。川内村の知人宅で談笑していたときからお腹の調子がよくありませんでした。

知人宅を辞去し数分後、ただならぬ事態を予感させる腹腔の圧力と痛みに襲われました。

高原の春は寒い。寒気は下痢の促進剤です。

車内の暖気をフル回転させるとともに大脳もフル回転させました。

ここから最短距離にあるトイレはどこか。

そうだ、川内村複合商業施設ショッピングセンターYO-TASHI(ヨータシ)がある。2km先だ。

持つのか。いや、持たせるのだ。祈るような思いで、車を走らせました。

いざとなったら田んぼのあぜ道もあると自分に言い聞かせます。村内に数か所しかない交差点でまさかの赤信号です。

待機時間が長い。変わる気配がありません。永遠の赤信号なのか。

本気で無視しようと思いました。が、かろうじて理性が踏みとどまらせました。

走行して数分、YO-TASHIを視野に捉えました。この安心感が括約筋に油断を与えます。長年の経験からそれを私は知っています。

YO-TASHIの玄関脇には障がいのある方などのための「思いやり駐車場」が数台分あります。そこに駐めたい誘惑にかられました。

しかし、すぐに障がい福祉課長の職責にあることを思い出しました。


(YO-TASHI)

車を駐車。ブレーキの踏み込みも要注意ポイントです。悲劇の経験者を私は知っています。羽毛のようにソフトにペダルを踏みます。

内股気味にして足早にYO-TASHIに突入。眼球運動を最速にしてトイレ表示をサーチ。一気に駆け込みます。

ああっ。ボックスに店員さんが清掃のため、いままさに入らんとしています。

「す、すみません。使わせてください」

危ないところでした。しかし、最後の最後こそが油断禁物です。着座の瞬間は魔の数秒なのです。

吉田兼好も『徒然草』(高名の木登り)で言っているではないですか。

「過ちは、やすきところになりて、必ずつかまつることに候ふ」

地面にほど近い高さまで降りてきたときが危険である、と。

今回も危機は無事に去りました。

帰り道、県道36号線沿の新芽が吹く山々を見て思いました。山と積まれた除染土壌の土嚢袋と自然の美しさの対比の違和感。

杜甫の「春望」が蘇ってきました。

国破れて山河あり
城春にして草木深し

というわけで、無事に用足しできたことに心から安堵しました。


(そば処 川内村たかやま倶楽部)

川内村はいままさに桜花爛漫。冬季休業していた、川内村そば処たかやま倶楽部が先月18日に再開。

食券機で選びます。「もりそば」(600円)、「高原野菜天ざるそば」(1000円)、「天ざるそば」(1300円)をメインとして温かいそばもありました。

それぞれのそばの種類ごとに大盛りのボタンが配列されています。普通盛りでは少ないのかもしれない。大盛りは300円増し。

「高原野菜天ざるそば」のボタンを押しました。大盛りにするかどうか、迷ったあげく、「焼きおにぎり」(100円)で炭水化物を補うことに。

テーブルに着くと客は30歳前後の女性が一人、天ざるを食べていました。


(テーブルはそば打ちもできる形状です)

一瞥(いちべつ)すると理知的な面立ちの女性です。庭を背にして座っています。

私はどう座ろうか。対角線とはいえ対面は失礼かな。

少し離れて、私も同じく庭を背にして廊下の方を向いて座りました。

女性はすする音が豪快です。すす〜っつ、ずず〜っ。うるさいくらい室内に響き渡ります

おそらく半径数十センチ内につゆのしぶきがほとばしっているに違いないと私は思いました。

横目で再度一瞥。ひとり旅の風情ではない。漂ってくるオーラから記者のにおいがしました。


(高原の春)

私は無音でそばを食べます。

かつてタイ留学中に麺類を食べるとき音を立てることはマナーに反するといわれました。以来、マナーモードで麺類を食べる作法を身に付けました。

それにひきかえ、向こうの客人はなんて豪胆なすすりぶりだろう。

そんなことを考えていたら、いつの間にかそばを天つゆの小皿に入れていました。

コシの強いそばです。逆流性食道炎ゆえ、よく噛んで食べることにします。

ふきのとうの天ぷらのほろ苦さが口中に広がりました。

帰り道、下腹部が痛み出し、久しぶりの有事となりました。存立危機事態はいつも無慈悲です。

しかし、今号では詳述しません。


(ホロホロ鳥の卵)

かつて東京財団週末学校で学ぶ機会をいただきました。「公とは何か」。同学校でまっさきに問われ、そして終始提起されていた問いでした。

その答えは別な機会にゆずるとして、今回は「公」の対比としての「民」について少し触れたいと思います。

まず「民」という字のつくりについてです。

「民」は、片目を針で刺した象形に由来します。つまり、片目をつぶされた被支配民を意味するというのです。

確かに「民」の字の中に針があるような気がします。ぞっとする話です。

さて、行政サービスの目的は何か。サービスの受益者(住民)の満足度を高めることでしょうか。

住民に満足してもらうことは当然なことでしょう。

さらに重要な視点は、限られた税収の中から、なぜそのサービスが提供されるのか。その理由を明確に説明し、住民に納得してもらえるかどうかにかかっているのではないか。

今井照氏は述べています。

「『ある程度の満足』というときの『ある程度』を最大化することが政策選択なのであって、百%の満足を提供することではないのです。むしろ、誰かが百%の満足を得たとしたら、そこには問題があるのではないかと疑ってかかるべきかもしれません」と。
(出典:今井照『新自治体の政策形成』、2001年、学陽書房)

ある程度を満足してもらう「手続き」の透明さこそが求められている。そうとらえることができます。

その意味で「満足」以上に「納得」が重要であると私は思っています。

「納得」とは、情報の開示であり、手続きへの関わりであり、意思決定プロセスへの住民の参画のことです。ここに「顧客主義」の視点を超えた別な「民」の姿が見えてきます。

というわけで、針が刺された「民」に刺激されて、谷崎潤一郎著『春琴抄』を再読したくなってきました。春琴を思う佐助は自ら両眼を針で突き、失明しました。

さらに、「佐助」に影響を受けたのでしょうか。久しぶりに映画「犬神家の一族」も見たくなってきました。犬神家の方は、佐清(すけきよ)です。


(いっせいに咲きました)

どちらかが沈黙したとき。そのときこそいよいよ危ない。そう私は思います。

言い争っているうちは、曲がりなりにもコミュニケーションしようとしているということでしょう。ただ、相手の言い分は納得いかないにしても。

これが寡黙になり、黙ってしまったとき、その意味するところは、何かを決断しようとしている。

非難と脅迫と威嚇の応酬の繰り返し。その中に何かメッセージは込められていないのでしょうか。込めているような気がするのです。

やはり圧力しか解決の方策はないのか。武力しか方策はないのでしょうか。

「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」(オットー・フォン・ビスマルク)

はたして妥協はできるのか。芸術の域までに至る可能性を探ることができるのか。

というわけで、国家間の紛争で行き詰まったとき、かねてから私が主張している解決策ではいかがでしょうか。

トップ同士の腕相撲です。

腕相撲で決着をつけるのです。国連憲章に「国家間の紛争を解決する唯一の手段は国家の代表による腕相撲により決着するものとする」と腕相撲を唯一無二の紛争解決手段として謳うのです。

やっぱり、最後は腕力です。


(咲いた、咲いたチューリップの花が)

童謡「チューリップ」が苦手です。かつて「童謡『チューリップ』が好きじゃない」でも話題にしました。

また、この童謡「チューリップ」をめぐっては作詞者が誰であるか、裁判で争われた史実があります。

作詞者について判決が確定したのは、1993年(平成5)年3月のことでした。戦前に作られた歌ですけど、比較的最近の話なのです。

詳細は「チューリップと裁判」を参照ください。

閑話休題。

花を愛する心優しい知人からいただいたチューリップの球根。昨秋、庭先に植えました。

チューリップは、寒さに当てたあと、気温が上がることで春を感じて咲かす花です。

土を耕し、しっかりと施肥。気温が安定して下がり始めた11月初旬に密植ぎみに植えました。

年が明け3月に入ってから葉を出し、どんどん葉を広げていきます。4月になってつぼみが顔を出しました。


(初めて咲いた一輪)

毎朝、チューリップたちに「おはよう」と声がけをしています。こちらの気持ちが通じているのか、嬉しそうに次々とつぼみが出てきました。

そして花を咲かせ始めました。なんだかうれしいです。

まっすぐにせいいっぱい生きようとしているチューリップを見ていると、娑婆世界の「懲罰」とか「無慈悲」といった言葉にやるせなさを感じてしまいます。

人間のどうしようもない宿痾(しゅくあ)。全土にくまなくチューリップを植える、慈悲ある懲罰を与えたいものです。


(夕暮れの新川)

シリア攻撃について国家主席が大統領から聞かせられたのは、夕食会でチョコレートケーキを食べている最中だったという。

「たった今、シリアに59発のミサイルを撃った」

おそらく習主席はチョコレートの甘さを感じなくなったことでしょう。

ここに吐き気を催す、名状しがたい嫌悪感を覚えます。両者とも好きではありませんが、皮膚感覚で嫌いなのはトランプ大統領です。

さて、このチキンゲームの勝者は誰になるでしょうか。私の見立ては以下の通りです。

トランプ大統領>金委員長>習主席

チキンゲームは先に動いた方が負けです。そのことは金委員長もわかっているはず。ですから、金委員長は動きません。

海外メディアに黎明通りのマンション群を見せた、あのパフォーマンスはそんなメッセージが込められているような気がします。

金委員長がいくら威勢のいいことを放っても、実力行使がなければ米国は動けません。米国も在韓同胞の流血の事態は避けたい。

ですから、米国は最大の圧力をかける構えは見せますが、動きません。相手が動かない限り動けないからです。

結局、この危機で誰が得するのか。この危機を誰がどう利用しようとしているのか。

トランプ大統領のいうことを(不本意ながら)聞くようになった習主席。大国同士の対等の関係を築こうとしていたのに、米国のいうことを聞くようになってしまった習主席ということです。

一方、金委員長は大国を翻弄するまでの力を世界に見せつけました。

このゲーム、面子という観点から見れば、習主席が一番割を食っているように見えます。

したがって、私の見立ては、トランプ大統領>金委員長>習主席となります。

というわけで、チキンゲームは先に動いた方が負けです。どこまで我慢できるでしょうか。


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