(銀杏並木が尖塔のよう)

対家庭においては「研修」と称し、対職場においては「有給休暇」を申請しての東京行きです。背広にネクタイを締めて出かけました。

やっぱり最高学府は違うと思いました。トイレットペーパーが柔らかい。しかも、予備のペーパーに丁寧にカバーがしてある。

かつてカナダ・ケベック市の著名なホテル「シャトーフロントナック」に泊まった際、感銘を受けたのもトイレットペーパーの素晴らしさでした。


(東京大学情報学環・ダイワユビキタス学術研究館の男子トイレにて)

報道によると中国の習近平国家主席は観光業の振興のため「トイレ革命」を指示したという。突然お腹が緩くなる私のような人間にとって快適なトイレは極めて大事なポイントです。

さて、東京大学公共政策大学院主催の公開フォーラム「ユルいつながりの強さ」に出席しました。三井不動産による寄付講座です。

メルマガで同フォーラムの案内が届いたとき、まずテーマにぐいっと惹かれました。

「ユルいつながり」

クスッと心の中でほくそ笑みました。もしや、私のような腹痛系の人種同士の絆を確認し合う場なのではないのか、と。これまでの苦闘や悲劇を共有し合う場なのかもしれない。

もちろん違いました。


(ドトールでフォーラムの振り返り)

基調講演、パネルディスカッションともに有意義でした。特に若いながも明晰な論を展開したパネリストの一人、信岡良亮氏(1982年生まれ、株式会社アスノオト代表取締役)に今後も注目したいと思います。

会場からの質問に信岡氏は即座にかつ論理的に答えていました。瞬時に質問に答えられるということ、それは常日頃から深く思索を重ねていることの証しです。

話の上手な人は少なくありません。でも、様々な質問に対して即座に答えることは至難です。私の仕事の師匠のYさんも電光石火で答えが返ってきます。そこにすごさを感じています。


(こんなに美味しいスナップエンドウに出逢ったのは初めて。五反田家庭料理「うさぎ」)

フォーラムのあと、「うさぎ」において久しぶりに阿佐ヶ谷の生花店に勤める親友と再会。熱い語らいの結果、終電を逃しました。未明の東京を歩くという得難い経験をすることができました。

首相官邸の向かいに上京の際に定宿にしている宿舎があります。夜の官邸は静まり返っています。警護の警察官の鋭い視線を午前1時40分に浴びました。

それにしても、悪いことをしていないのにどうして心臓が高鳴るのでしょう。

(へつづく)


(私が来店するということでわざわざ千葉の漁師から取り寄せた鯵ほか。五反田家庭料理「うさぎ」にて)

小学生のころ古代文明に魅せられていました。『ツタンカーメンの呪い』と題した本を読み進めるうちに恐怖におののく私。

当時、就寝前に本を読む癖がありました。寝床で恐怖に震えました。こんなもの読むんじゃなかった、と。

喉が渇き、目が冴えていきました。闇の空気が重くのしかかってきます。目をつむるとツタンカーメンの黄金のマスクが迫ってくるような気配を感じました。

ツタンカーメンのミイラ発掘に携わった人々が次々に不審な死に見舞われていく。それはツタンカーメンの呪いによるものなのである、と。そんな内容の本でした。

閑話休題。駐エジプト日本国大使館の香川剛廣大使の講演会が地元の大学で開催されました。大使は聴衆に尋ねます。

「エジプトと聞いて何を連想するか」

幸いにして私は指されなかったため、「ツタンカーメンの呪い」との答えを述べる機会を逸してしまいました。

大使にとってエジプトとは何か。それは「ナイルの民」である、と話していました。また、エジプトが農産物の輸出国であることを教えてくれました。日本でも玉ねぎや冷凍イチゴをエジプトから輸入しているとのこと。


(親友との語らい。五反田家庭料理の店「うさぎ」にて)

大使は外務省入省後、研修で2年間エジプトに派遣され、下宿生活を営むこととなったという。下宿先の主人の名はクレオパトラ。

「クレオパトラのイメージが一瞬で崩壊した」というクレオパトラおばさんの下での2年間。その貴重な生活体験を聞かせてくれました。

上述のような大使の話を都内の生花店に勤める親友のUさんに披露すると、親友はおもむろに話し出しました。

「遠方から地域に住む人からの依頼で毎年同じ時期に同じ女性に同じ内容の花のお届けの依頼があるんです」

「へ〜、そうなんですか」

「それで、毎年同じ花をお届けしているんですけど、依頼主のご指定ですからね、でも『毎年同じね』って苦情を言われるんです」

「しょうがないですよね」

「で、その人の名前は山◯百◯って言うんです」

「本当ですか。すごいですね。百恵ちゃんにお花のお届けですか」

「同じ姓名ですけど、80歳を過ぎたふつうの人です。初めてお届けに行ったときはドキドキしたものでした」

というわけで、人生半世紀も過ぎると恐怖のおののきも期待のドキドキも薄まってくるようです。枯れて、いや、涸れてきたのでしょうか。


(アリオスカフェにて)

いわき芸術文化交流館「アリオス」大ホールの3列目の座席。日本を代表するオペラ歌手のコンサートを聴きながら、妄想が湧いてきました。

嗚呼、ここで催したい。猛烈に催したくなりました。「朗ブロ」こと当ブログの朗読会をこの大ホールでできないものか。

歌声に耳を傾けながらも、雨後の孟宗竹のように妄想がぐんぐんと伸びてくるのを禁じ得ません。

嗚呼、ホール備え付けの世界最高峰のピアノ、スタインウェイの生演奏をバックに朗読できないものだろうか。

スタインウェイの響きは低音は唸るがごとく、中音は湖水を渡るハープの音色のよう、高音は鍵盤であることを忘れさせるほど澄み渡る。やっぱり音が違う。

舞台ではゲーテの詩にシューベルトが曲を付けた歌曲「魔王」が始まりました。

激しい曲です。聴いているうちにふと思いました。

この「魔王」を伴奏に腹痛物の代表作「『あ』に濁点の事態」を朗読したらぴったりではないか。「魔王」は腹痛物のためにこそあるのだ、と確信に近い気持ちに至りました。この際、ゲーテにはお役目御免をこうむっていただこう。

いやいや、スタインウェイのピアノ演奏だけではつまらない。「『あ』に濁点の事態」は磐越東線のディーゼルカーの車内での出来事です。

当然、舞台にはセットがなくてはならない。劇団の協力を得て乗客役も配置しよう。

もうここまでくれば、朗読の範疇を超えてミュージカル仕立ててもいいのではないか。だいこんくんに差し迫る腹痛の悲劇と普段通りの周りの乗客の対比。これをオーケストラの演奏で演じる。

「朗ブロ」ならぬ「劇ブロ」。日本に劇ブロの夜明けがやってくる。もはやブログではなく、「星々のつぶやき」は一大叙事詩になり、つぶやきから咆哮(ほうこう)になるでありましょう。

と、そんな妄想を膨らませているうちにコンサートはアンコールを迎え「ふるさと」の合唱の渦の中にありました。

志を果たしていつの日にか催さん。


(「杜のドーナツ」の豆乳アイスクリームが好きです)

身支度をしながらの弁当作りは忙しい。起床と同時に冷蔵庫にある材料を思い浮かべます。定番の出汁巻き玉子。それにあと数品どう加えるかが毎日の格闘です。

出汁巻き玉子は当初、よく失敗をしました。油加減、熱加減、溶き卵の量の按配がわかりませんでした。

しかしいま、成功率は9割を超えるようになりました。我ながら成長したものです。

大人になって思うことは、自分で自分を誉められるかが、大事だということ。己のことはけっしてだませません。

弟が料理を始めたと聞きました。義妹の勧めで料理教室に通うようになったという。よいことです。

料理は作る前の段取り、作るときの段取り、盛り付けの段取り。いずれの過程においてもどのような順序でどのように行うか、脳をよく使う作業です。

素材を知り、素材を生かす調味料と調理法を考え、しかも美味しく、彩りよく仕上げる。知的でかつ興味深い作業だと私は思っています。


(盛り付けはいまひとつ)

ただ、弁当作りは、人様に見せられるものではありません。

右手で菜箸を使って炒め物を混ぜ合わせながら、左手で魚の切り身に小麦をまぶし、右足でサラダ油のボトルを入れた引き出しを閉める。上海雑技団も顔負けの曲芸を演じてるからです。

さて、けさは出汁巻き玉子、ガパオ(バジルを使った鶏肉と玉ねぎの炒めもの)、秋鮭のムニエルを作りました。

弁当箱にご飯とおかずを詰め終え、膝の上で弁当包み(ランチクロスというのでしょうか)で箸も添えて包もうとした瞬間のことです。

右足が攣ってしまいました。膝が水平になるように少し、爪先立てていたのか引き金になったようです。

いままさに包んでいる途中です。時間はない。水平を崩せば箸が転がる。痛みは増すばかり。葛藤が嵩じていきます。

痛みを突き抜けて歓喜に至れ。

ベートーベンの箴言に似た言葉が脳髄を走ります。嗚呼痛い。水平と痛みのせめぎ合いです。

というわけで、私は自己葛藤の末、勝利を収めました。子どもたちはこんな戦いがあったことなど知る由もなく弁当を食べているはずです。


(あまり好きではない葉牡丹)

ずっと曖昧なまま生きてきました。ロマンとロマンスの違いがわかりません。そもそもの意味がわからない。

おそらくは、どちらも「ローマ」から来ているのでしょう。「ウィーンの」という意味のウィンナーと同じように。ウィーンのコーヒーが「ウィンナーコーヒー」であり、ソーセージもしかり。

「ロマン」

バンコク郊外のノンタブリー県の看板のない映画館でタイの親友と見た日本映画の作品にも「ロマン」が使われていました。ロマンを見る観客は誰もが息づかいが荒々しかったように思います。

私の胸奥に迫ってくるロマンと言えば、ナポレオン・ボナパルトの言葉です。

「私の人生は、何という小説(ロマン)であろうか」。

学生時代に聞いた米米CLUBの「浪漫飛行」が好きでした。

一方、「ロマンス」はどうでしょうか。

歌謡曲では岩崎宏美の「ロマンス」を思い出します。交差点に立つ警察官の手信号のような振付が好きでした。

ロマンスにシルエットを付けるとまた違う雰囲気が漂ってきます。大橋純子の「シルエット・ロマンス」は悠揚迫らぬ前奏がたまりません。

作曲した来生たかお自身の歌声。これまた異なった、大人の味わいがあっていいですね。コンサートに行ったことがあります。

「もっとロマンス 私に仕掛けてきてほしい」

言われずに半世紀。これからも言われることはなく終わるでしょう。だからロマンスなのかもしれません。

小田急電鉄の登録商標の「ロマンスカー」。2人がけの対面座席を採用したことかに由来するという。

毎朝、磐越東線のディーゼルカーの対面座席に一人で乗っています。哀愁はあってもロマンスは皆無です。

というわけで、結局、ロマンとロマンスの違いどころか、そもそもの意味もわからず本稿を閉じます。

どなたか丁寧に講釈願います。そろそろ車検完了の時間です。


(晩秋の自宅前)

日々雑感、第一題。ラジオで流れる交通情報は誰のためにあるのだろうか、とふと思います。

「国道4号、渡利弁天山交差点上り線、のろのろ運転です」

この情報を真に必要としている人は何人いるのだろう。当該交差点付近にいる人にはこの情報は無用。わかっていますから。

近づいている人にとってもさほど有用とは思えない。まして、遠方の人間にとってはどうでもいい情報です。

そもそも、道路の上り線・下り線を識別できる人がどれくらいいるのか。さらに混んでいる道はいつも混んでいる。

以上から導き出される結論は、「今朝は太陽は東から昇りました」と同程度の意味しかないということです。

第二題。居酒屋で出される枝豆のにんにく炒め。

じつに美味しい。味はいい。だけど、何かいつも心に引っかかるものがあります。

これはきっと素手で持って食べるのでしょう。それ以外に考えられません。でも、脂ぎったにんにく風味の枝豆です。

しかも、味の染みた豆の鞘(さや)は食べられないにもかかわらず、この脂ぎった鞘をしっかりとつまむ必要があります。

今宵は枝豆のにんにく炒め大会というのなら、手が汚れてもやむを得ません。肴が枝豆のにんにく炒めだけというのならしょうがないでしょう。

違うのです。

肴のうちの一皿にしか過ぎないのです。つまむ度に気になる手指。ちょっと指先を舐めたり、おしぼりで拭いたり、無用な雑念が生じるのがじつにいただけない。

ハンドルキーパーのように「きょうは私が取って差し上げますわ」と汚れ役の犠牲を厭わぬ佳人が鞘剥きを奉仕してくれるのなら、と叶わぬ夢想をしてしまいます。

もしかしたら、鞘など何の意味もなく、剥き身の枝豆、つまり大豆のにんにく炒めにすればいいのではないか。そんな邪念も湧いてきます。

結局、舌打ちをしながら、おしぼりに擦り付ける指圧が高まるばかりです。

というわけで、半世紀の齢を重ねた結果、我ながら器が狭量になってきたなぁと思う日々を過ごしています。


(もみじが紅くなりました)

前年度の事業を審査する決算特別委員会。かつて仕えた上司の言葉が蘇りました。「決算は数字だよ数字」。

異動になった年の決算審査は前年度のことがよくわからないので緊張します。

終わってみれば案ずるほどではないものの、委員会が始まるまでは内視鏡検査の前のように不安がよぎりました。

ちなみに内視鏡検査で忘れられないのは、気管支鏡です。気管支にスコープを入れるものです。

気管支鏡については当ブログでも何度か触れています。てっきり全身麻酔で検査するのだとばかり私は思っていました。

「頑張ってください」

主治医に言われた言葉が今も耳朶に残っています。いまとなっては得難い経験をさせていただいたと思っています。

そんな気管支鏡に比べれば、世の中のおおよその大変なことは耐えられる、と思うようになりました。人生に無駄なし。

気管支にスコープが挿入された瞬間、生きのいいエビのように私は反射しました。思わず看護師さんの手を握りしめました。

さて、かつての上司は決算特別委員会に臨むに当たって強い語調で訴えました。

「決算は、『多い』とか『少ない』とか『ほとんど』とか、そういう言葉を使っちゃ駄目だ。あくまでも数字なんだ。件数や金額、それが命だ」と。

過日の決算特別委員会で委員がある件数について質問。担当課長の答弁はこうでした。

「紛失の件数については、あるかないかです」

「件数は何件ですか」

「ほとんどないと思います」

「後でいいので、正確な件数を教えてください」

担当課に問い合わせをしてわかった紛失件数は31件。

そのときふたたび元上司の言っていた「数字だよ数字」の言葉を思い出しました。

やっぱり、形容詞や副詞を使って答弁しては駄目なのです。

また、「31件」という数字を少ないと見るかどうかの評価。それも事業を行った側は第一義的には言ってはいけないのだろうと思いました。

その件数についてどう思うかと問われたならば評価を伝えるのは問題ありません。しかしながら、件数を問われたとき私たちが答えるべきは、まずは生のデータなのです。

というわけで、内視鏡検査が終わったあとのように安堵感が胸に広がる本日。今宵は少しアルコールで咽喉を殺菌してみようと思います。


(雪印を見るとバターが食べたくなる)

言葉の力は偉大だと思う。校章によく使われるペンと剣。よく見ると剣がペンに押さえられている、つまりペンが手前で剣が後ろです。

ナポレオン・ボナパルトの言葉が胸奥に響いてきます。

「世界には二つの力しかない。サーベルと精神というふたつの力である。そして最後には必ずサーベルは精神に打倒される」

力ある言葉はやがて行動に変容をもたらします。

「誰もが好むと好まざるにかかわらず、過去がもたらした問題に取り組んでいる」(P.F.ドラッカー著『経営者の条件』)

本当にそうですね。私の仕事の99.9%はまさに過去がもたらした問題への対応です。ドラッカーの言葉に触れると何かをしなければと思うものです。

続けてドラッカーは言います。

「完全な失敗を捨てることは難しくない。自然に消滅する。ところが昨日の成功は非生産的となったあとも生き続ける。もう一つそれよりはるかに危険なものがある。本来うまくいくべきでありながら、なぜか成果のあがらないまま続けている仕事である」(同)

この言葉は痛い。胸に刺さります。


(読書会のテキストです)

胸に刺さると言えば、AI(人工知能)のしわざなのか、検索サイトに表示される広告が気に障ります。

「52歳、ここぞというときに不安がよぎる」
「自信がなくなってきたと感じたら」

私の年齢に近い微妙な歳を表示して、不安をあおるやり方。

「ここぞ」とは一体何なのか。明示しないところにいやらしさを感じます。

まぁ、元々自信はなく小心者なので「自信がなくなってきたと感じたら」という仮定法には心動かされません。元来において自信がないのですから。

しかし、なぜか洗濯機の広告には無性に腹が立ちます。

「洗濯のたびに洗剤を入れるのが面倒なあなたに!」

洗濯機に洗剤を入れるのが面倒であるとするならば、ご飯を食べることも、トイレに行くことも、呼吸すら面倒になるのではないか。そもそも生きていることが面倒になってしまうではないか。そう私は思う。

あ、でも、私は相当に面倒くさがり屋です。完全に検索エンジンのAIに私の性向は読まれています。余計なお世話です。

というわけで、明日は決算特別委員会審査。第3款民生費です。ここぞというときに不安がよぎります。

協和発酵バイオのアルギニンEXを試してみようかしらん。


(イルミネーションの季節ですね)

フロントガラスの内側に虫が飛んでいます。一寸の虫にも五分の魂。逃してやりたい。

というよりは、出て行ってほしい。しかし、所詮は「五分の魂」。あんまり頭がよくありません。まぁ、私も言えた義理ではないのは承知で一言。

なぜガラスがあるのに前に前に忙しげに飛ぶのか。ぶつかりつつまた前に行こうとする。

新聞紙で掬うように手前に引き寄せようとするも、するりするりとかわされる。

気流を作れば窓外に逃げるのではないか。前部座席のウィンドウを両側開けてみる。片側ではどうか。変化なし。

それではタバコの煙逃しで知られる前部座席の右側と後部座席の左側のクロス・ストリームを試してみるものの、まったく無反応。当地の表現で言えば、意地焼けてきます。

でもって、ここで新聞紙でフロントガラスに向かってぱんっと叩けば、文字通り叩きのめすことができます。

できますが、ガラスも汚れますし、何より「五分の魂」ですから、平和主義を標榜する私としてはできれば避けたい。

私は推測します。この虫との格闘によって危険な目に遭遇している人は全国に18%はいるのではないか、と。

嗚呼、虫と言葉が通じたらと思います。優しく、そして強く虫に私は訴えたい。このまま車内に留まったら、タクラマカン砂漠でさまよえる旅人のように干上がってしまうよ、と。

というわけで、私の車のダッシュボードにはミイラのようになった虫が仰向けになって屍(しかばね)を晒しています。フロントにしつこく飛び回る虫を上手く逃す裏技を募集中。


(夏井川第一発電所へ渡る橋「霜月橋」)

終日、決算特別委員会審査資料の手持ち資料を作っていました。私たちの業界では資料と称するものに2種類あります。

外部に公表もしくは提供する資料。これを通常「資料」と呼んでいます。

それから、その「資料」について質問がなされた場合の備えとしての資料。つまり、数字など的確に答えられるための、より詳細な「手持ち資料」があります。略して「手持ち」と称します。

この「手持ち」の作り方は人によって様々です。

本体の「資料」に貼付したり細かな字で書き込む人。

いわゆる「手持ち」のみの別冊編を好む人。

私は根っからの面倒くさがり屋なので、「資料」の余白や裏面にペタペタと補足資料を貼るのが好きです。

でも、今回はボリュームが格段に違う。別冊編をスタッフに作成してもらった上にさらに別冊編の余白にも補足資料を貼付することにしました。

その作成途上で愛用のテープのりが切れました。そこで、詰め替え用のテープのりをセットしました。

そのとき、この詰め替え用と呼んでいる物体を私はまじまじと見、そして考えました。なんだかなぁと。

そもそも「詰め替え」とは、シャンプー液のように毎回ボトルを買うより安いという廉価さと省資源を売りにするものです。

加えて、詰め替えられるモノとは、当該提供サービスの主であり、本質であるべきなのです。今回の場合、「テープのり」。

シャンプーを例に取ればシャンプー液が主であり、ボトルは従です。

その論理に従えば、テープのりの詰め替えられるべき唯一のものは、のりの付着した「テープのみ」との結論が導き出されます。

ところが、詰め替え用テープのりは、完成品のテープのりと見かけ上ほとんど変わらない。言うなれば、詰め替え用と言いつつも、カバーも半分は付属しています。

ですから、職場の文房具の引き出しから取り出すとき、完成品のテープのりと詰め替え用テープのりを混同してしまうことが発生します。

要するに、テープのりの詰め替えられない部分、言わば残存部分はカバー部分の半分にしか過ぎないのです。

ふたたびシャンプーを例に挙げれば、シャンプー液とボトルの下部を総入れ替えし、ポンプとノズルだけを使い回すというイメージです。ボトルまで捨てているイメージです。

おわかりになりましたでしょうか。難しかったですね。接続詞を多用するとこうなります。

簡単なことを複雑に言う訓練を常日頃受けている賜物です。

というわけで、テープのりの詰め替え用は抜本的に改善すべきであると提案いたします。だって、詰め替え用も完成品もほとんどいっしょなんですもの。


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