(秋の次は冬。猪苗代町にて)

弱視ろうの方の文章に心惹かれました。職場で回覧されてきた盲ろう者の専門誌「コミュニカ」2017年秋号の特集に掲載された文章です。

「『幸せ』とは何なのか。幸せを感じただけで、『幸せ』はシャボン玉のように飛んでいくじゃないかな、と自分は思います」

作者は幸せを感じたときに幸せという感じは消滅してしまうことを見抜いています。続けて作者は綴ります。

「このシャボン玉の『幸せな思い出』を心の中に溜めておいて、少しずつ思い出していくことが、『幸せを感じるとき』ですね」

翻って己を顧みるに「幸せを感じるとき」とは、どのようなときだろうか。

◯サッポロ一番塩ラーメンのどんぶりの底に沈んでいる残渣を口に入れたとき。

すりゴマとホタテ風味のスープと麺とが渾然一体となった、あの味覚と香りは高く評価されていいと思う。

◯サウナで水風呂に入ったあとに清拭をして毛穴が徐々に開いていくとき。

前頭葉で感じるじわじわ感が堪りません。サウナの質や水風呂の温度等によってじわじわ感が明瞭に顕現するときとそうでないときがあります。相関関係については未解明です。

◯耳穴が痒くなって、かつ、すぐに耳かきが見つかったとき。

逆に言えば、耳かきがなかなか見つからないとき不幸せを感じます。

◯ダイニングから投げたティッシュペーパーの塊が台所のゴミ箱にストレートで決まったとき。

弾道ルートと空気抵抗の計算が当たったことに喜びを感じます。首領様の喜ぶ感覚がわかるような気がします。

◯理髪店で髭剃りをしてもらっている最中に熟睡してしまったとき。

たまに夢まで見てしまいます。

というわけで、今後とも小さな幸せを積み重ねていきたいと思います。


(夜のアリオス)

ノーベル文学賞を受賞する前と後では、その作品に何か変化が起きているのでしょうか。起きているとも言えるし、起きていないとも言えます。

評価とは不思議なものです。

人は自分がもっとも可愛く、己のことをもっとも信頼しているにもかかわらず、他人の言葉を気にします。

他人の言葉に過敏に反応し、時に他人の言葉に依存し、左右されます。

「笑顔がないね」といった他愛もない一言にも人は傷つくものです。なぜ人はここまで他人の言説が気になるのでしょうか。

評価というものをいま一度その在り様や捉え方を再考したとき、何か違うものが見えてきそうな気がします。それが何かはまだ私自身見えていません。

とにもかくにも他人の評価に過度に反応する世の中にあって、右顧左眄(うこさべん)せず、己の王道を歩きたい。

一喜一憂せず、我が道を登攀(とうはん)したい。

誹謗中傷を歯牙にもかけず、一方で名誉称賛に侵されず、私はそういうものになりたい。

というわけで、少し前に届いた職場の「ストレスチェック個人結果」。

全体として問題はありませんでした。が、「活気」の項目で「やや低い」と評価され、あ、やっぱりな、と少し落ち込んでいます。


(野らぼうは小さなビニールハウス)

いわき市添野町の田んぼの中にある小さなビニールハウス。これが「野らぼう」です。米粉の焼き菓子とプリンが人気です。

前回は初訪問するもお休みでした。

お目当はプリンです。私はプリンが好物。プリンが美味しいと聞けば、店を探索し買いに出向きます。

心の中に市内のプリンランキングができています。トップの座は動かないままで今日まできました。

トップはJR常磐線泉駅前の関根菓子店の半熟プリン。何個でも食べたい。そんな誘惑に駆られる逸品です。

しかし、野らぼうのカスタードプリンを食べた始めた途端、トップの座が揺らぎ始めました。久しぶりにいいプリンに出逢えた。そう思いました。


(自然の食材で手作り)

「このプリン、美味しいですね。ほんとに美味しいです」

「ありがとうございます。安心して食べられるプリンをということで娘が作っているんです」

「お母さんはお店の番をしているんですか」

「はい。向こう(の家)で娘がいま作っています。召し上がっていただいているのはカスタードプリンなんですけど、チーズプリンも濃厚で美味しいんですよ」

「いやあ、このカスタードプリン、十分に濃厚で美味しいです」

小さなビニールハウスの中でお茶をいただきながら、お母さんと談笑。


(見過ごしてしまいそうな野らぼう)

「私はじつはこっちの地域の生まれなんです。小学校はこの向こうの植田小です」

「あら、そうなのげ。私は生まれは◯◯◯なんですよ」

「あ、あのオリーブ畑のある、あそこですか」

「そう、そう。オリーブ畑やってるKさんは親戚なんです」

「あら、私、Kさんに仕事でお世話になってるんです。不思議なご縁ですね。また、来ますね。ご馳走さまでした」

というわけで、視野の片隅に捉えていた米粉シフォンケーキ(900円)を気にしつつ、野らぼうを辞去したのでした。


(とんかつにはマカロニサラダが似合う)

半ば依存症と化しています。野菜スパゲティーサラダです。飽きるほど食べたいと思うときもあります。

庶民系サラダについて私の胃袋では序列が決まっています。野菜スパゲティーサラダがナンバーワンであり、次にマカロニサラダ、そしてポテトサラダときます。

ポテトサラダは、間違いなくおふくろの味ではあります。美味しいことは美味しい。

しかし、それゆえにどこか垢抜けしていない。山のようにラーメンどんぶりに盛られた思い出のせいなのか。

あるいは、つぶしたポテトの中に潜む玉ねぎの繊維が醸し出す、あのしゃりっとした“がっかり感”のせいなのかもしれません。

歯間に繊維が挟まれば、なおのことです。つい舌打ちしたくなります。

そんな地位にポテトサラダは置かれています。

それにひきかえ、マカロニサラダは一段高い。弁当の控え目な脇役として添えられるとき、その出世の本懐を遂げているように見えます。

八王子市の大衆系老舗とんかつ店「みのや」のとんかつ定食に添えられているマカロニサラダ。これは絶品です。しかし、どんなに絶品でも所詮は、脇役は脇役に過ぎません。

あの半端な長さのマカロニのせいで口中一杯の頬張り感が味わえないのです。どうしても一本一本箸でつまみ、口に運ぶ。一遍に大量捕獲しようとしてもせいぜい数本が限界です。

そこで最後に登場するのが野菜スパゲティーサラダです。

くちびるにまとわりつくマヨネーズのねっとり感。つまみ食いのマカロニでは達し得ない食感です。

長麺のパスタにまとわりつくシャキッとしたレタス、キュウリやニンジン、コーンの絶妙なハーモニー。

非連続性のマカロニでは成し得ないところにスパゲティーサラダとマカロニサラダとの懸隔(けんかく)があると言っても過言ではありません。

これらの特質によって、野菜スパゲティーサラダはそれ自体において主役にも抜擢(ばってき)され得る可能性を秘めています。

したがって、野菜スパゲティーサラダはかつて学校給食でフォーク型おたまによってメインディッシュとして搔き出された歴史があるのです。

というわけで、きょうもヨークベニマル好間店で野菜スパゲティーサラダを買ってしまいました。


(カフェは心安らぐ空間)

野望の党代表と飲酒自由党総裁が党首対談を行いました。日本の行く末を案じる二人が熱き語らいを繰り広げます。

【司会】 本日は決戦まであと一週間という大変にお忙しい中、お越しいただきありがとうございます。早速ですが、有権者の感触はいかがでしょうか。

【野望の党党首】 党員にぜひなりたいとの声が続々と寄せられております。我が党の公約がいかに国民が待ち望んでいたものか、如実に表しているものと思っております。

【司会】 ほう。具体的にどんな声がありましたか。

【野望】 昨日も市内鹿島地区の洋食店ラパンで昼食をとっていたところ、知人の社長Sさんと偶然お会いしました。「公約を出版してはどうか」と勧められまして...。

環境に配慮した部品設計・製造を手がける社長さんからこのように力強いご支援のお言葉をいただき感激しております。

【飲酒】 我が方も続々と支持拡大しておりますよ。我が党は野望の党さんのように総花的な公約ではございません。法三章耳(ほうさんしょうのみ)と言うではないですか。シンプルが一番です。

【司会】 ちなみに飲酒自由党の公約を教えてください。

【飲酒】 いいですか。
一つ、飲むなら飲め。乗るなら乗れ。
一つ、「とりあえず」ではなく「ともかく」ビールと言え。
一つ、生搾り酎ハイの絞り器が手が切れそうで怖いので、ユニバーサルデザインに配慮した絞り器にしろ。

以上の三つですな。

【司会】 最初の二つは公約というよりは標語に近いですね。三つ目はやけに具体的です。しかも三つとも命令形というところが気になりますが。

【飲酒】 所詮、政党の公約など標語以上でも以下でもない。期待する方が馬鹿というもんだよ。幼児の約束よりも守られていない。薬局で売っている膏薬の方がよほど世のためになる。そう思わんかね、君。

たかが数百人の国会議員で公約などという約束を果たせるわけがない。無料とか支給されるとか、そんな公約は特に要注意。約束してやらないのを詐欺と言う。できないのだから、標語で十分です。

【司会】 ここで話題を変えまして、かけ蕎麦の問題についてお二人のご意見を伺いたいと思います。野望の党ではどんな風に対処していくつもりなんでしょうか。

【野望】 まあこの問題はふつうにやればよかったんですよ。かけ蕎麦の注文依頼が友人からあったのかとの問いに対してはふつうに答えればいいのです。

明確な依頼はなかったが、シグナルとして感じていた、と。これがふつうの感覚ですよ。ふつうに言えばいいんです。
周りが時の最高権力者を意識して動いた側面も認める。李下に冠を正さずであり、今後、側近を含め注意していきたい、と。ふつうの感覚が大事です。

【飲酒】 これは野望の党さんに賛成ですな。そして大事なことは、政治とは、そもそもが「お願い」をどう捌(さば)くかということなんです。何を祭り上げ、何を祭り上げないか。そこの選別が政治です。

卑弥呼の時代からそこは最終的にはブラックボックスなんです。だから祭り事なんですよ。

ただ、現代にあってはすべてがブラックボックスでは許されないというだけです。

【司会】 以上で本日の党首対談を終わります。


(夕暮れのいわき駅)

学校から帰るとテレビドラマ「水戸黄門」の再放送に見入っていました。午後4時開始が楽しみでした。

「水戸黄門」の面白さは、煮詰まった地域課題を解決してみせるところにあります。「煮詰まった」とは、当事者ではどうにもこうにも解決策が見出せない状況を言います。

地域課題の多くは、広い意味での統治する側と統治される側との齟齬(そご)や軋轢(あつれき)によって起こされるといってよいでしょう。

では、黄門様はどのようにして解決するのか。

それは、いまで言うところのリセットによってであります。

リセットとは「排除の論理」です。要するに取り除くということです。

「お主も悪よのう」「お代官様こそ」と互いにいやらしい高笑いをする悪代官や悪徳商人を成敗し、排除する外科的手法によって行うのです。

劇的であるがゆえにスカッとします。じつに気持ちがいい。小学生の私でもカタルシスを感じたものです。

ときに「もはやこれまで」とか「こいつは御老公様などではない」などと悪あがきをする者もいます。が、基本的に成敗されます。

しかし、と私は言いたい。これでいいのだろうか、と。

黄門様は当地の地域課題に対してアフターフォローをしません。黄門様もまた高笑いをしながら当地を去って行ってしまいます。

煮詰まった地域課題は、じつはそこに住む人々の長年のしがらみによって統治者と被統治者の間に蔓のようにからまっているものなのです。

したがって、当地に住む人々の意識改革がなされなければ真の課題解決はなされないことを知る必要があります。

これは言わば漸進主義です。時間がかかります。排除ではなく、包括的です。

創業は易く守成は難し。

新たなことをすることは難しいように見えて簡単なことです。劇的でスカッとする。本来、政治にカタルシスを求めてはいけないのです。

一方、より良い方向につねにメンテナンスすることこそ至難です。面倒で手間がかかる。

この面倒くささを厭わぬリーダーこそ本物のリーダーであると私は言いたい。その意味で黄門様はリーダーではありません。

私を含め、印籠登場時間の45分程度で解決を喜ぶ国民性を改めずしてこの国の未来はない、とつぶやきたいのです。

同様にリーダーも「排除の論理」によってすべてが解決するかのような言説をふりかざすことはやめてもらいたい。

漸進主義こそ真の解決方法であり、「排除の論理」の究極は戦争に行き着くのですから。


(ドトールの朝)

Coach’s VIEWはコーチ・エィのメルマガに掲載されているコラム。毎号楽しみにしているメルマガです。

最新号の「『完成させない』技術」(長田祐典氏 、2017.10.11)を興味深く読みました。

広島東洋カープが観客動員を劇的に増やしている。「2005年に100万人前後であった観客動員が、2016年シーズンには216万人と、約2倍の動員に成功しています」

人口減のこの時代にあって刮目されるべき“事態”あると私は思います。

もちろん背景として「選手の魅力やチーム力の強化がある」と著者は述べつつ、真の要因について、次のように分析しています。

「野球場を『レジャー空間の場」とした、新しい観戦の楽しみを創りだす工夫を凝らし、スタジアムを進化させ続けていることも大きな要因のようです」

広島東洋カープの広報の方がスタジアム創りのコンセプトについてテレビでこう語っていたという。

「完成させないようにしているのです」と。

私は強く惹かれました。

「未完成」を継続させるということにです。

言わば、ゴールに行き着くことが目的ではなく、歩み続ける、あるいは、流れそれ自体が目的であるという考えとも解することができます。

少し前に「リセット」で私はスペインのサグラダ・ファミリアについて触れました。これもある意味、作り続けることそのものが目的となっているとも言えます。

もう一つ、仏典に説く化城宝処(けじょうほうしょ)の譬えを想起します。

大勢の人々が遠い道のりをへて、宝物のある所へ行こうとした。途中、人々は疲れきり引き返そうとした。ある指導者がいて、神通力によって化城を作り出した。

これを見て歓喜した人々は、これが自分たちが目指す宝処であると思い喜んだ。

この様子を見て指導者は化城を消滅させ、宝処はもうすぐであり、これは人々を休息させるた仮に作ったものであると言った。皆を鼓舞し、再び宝処を目指して出発させたという。

この譬えは、歩み続けるという旅自体が目的なのではないかと私には思えるのです。

というわけで、きょうは金曜日。金曜日は私の化城です。

すぐに消滅するのはわかっているのですが、毎週これを目指しています。


(夕闇のアリオスカフェ)

朗ブロ「星々のつぶやき」の会場となるカフェに閉店まぎわに寄りました。ちょっとご挨拶のつもりでした。

もう一つ、朗読会当日と同じ時間帯の雰囲気を感じてみたいということもありました。

店員さんと談笑していると懐かしい同僚のTさんがやってきました。かなり前に仕事でプロジェクトチームを組んだ仲です。

彼が出演する演劇の告知のためにチラシを持ってカフェにやってきたようです。部署が異なるため、しばらくぶりに会いました。

旧交を温めつつ、私の催しについて話をしました。

「時間は大丈夫ですから一杯お飲みになったらどうですか」

店員さんに促され、私たちはお言葉に甘えました。

「じつはね、来月28日にここでブログの朗読会を催すんだよ」

「そうなんですか。当初、プロの朗読者にお願いしようと思っていたんだけど、まずは自分でやってみようと思って...」

「読ませてください。いま、ここで」


(落ち着いた雰囲気の店内)

「ほんとに?演劇をやってるから朗読ももちろんできるもんね。ぜひお願いします」

Tさんは「岩塩低温サウナ」「野望の党
『あ』に濁点の事態」を朗読。

カフェの店員さんも、そして私も大笑いしました。作者であることを忘れて涙を流して笑ってしまいました。

なんという表現力なのでしょう。演劇で培った演出力がなせる技なのでしょうか。

ドラマにおいても作品は脚本家の手から離れたら監督のものだという。演出がいかに大事か、私は改めて思いました。

「もし当日都合がつくようだったら数編、朗読してくれないですか」

「いいですよ」

快諾を得ました。

コラボの力って大事ですね。これぞ相乗効果ですね。 「異体同心」とは算術級数ではなく、幾何級数的なのです。

なんでもかんでも自分でやろうとするといい成果を得られません。自分と異なる人の力をいかに結集するか。生かしていけるか。

その力こそがいま求められているのだ、と野望の党代表は思うのでありました。


(身近な心のオアシス。ドトール)

打合せをすることになりました。対面に女性が座っています。一対一です。

鼻の中に白いゴミが見えます。よくあるアレです。

見ないようにしよう、気にしないようにしようと心理的転換を図るものの、余計に気になりだしました。

気になりだすと思考がそのことに凝集。打合せの内容が頭に入ってきません。

このような場合、指摘すべきなのか。いや、指摘したら恥をかかせることになる。

いやいや、あとでご自分で気がついたとすると別な意味で一重深く恥をかかせることになるのではないか。

「あらやだ、私、ずっとこの状態で○○さんと打合せをしていたのかしら」と。

いや、待てよ。やっぱりここで指摘すれば、当人にとってみれば男性の面前で恥辱を受けることになる。

これはやはり避けるべきであろう。回避動機が働きました。

一旦の結論はここに落ち着きました。

気がついていないそぶりを最大限に、かつ、自然に振る舞う。それがいい。

かくして、私は顔面の中心部を見ないように心掛けたものの、視野の盲点のわきにちらほらと白いものが入ってきます。

いったいどうすればいいのだ。

幽霊の正体見たり枯れ尾花。この場合、白ゴミの正体見たりツヅラフジ、か。

いろんな雑念が湧いてきます。

20年数前、まだ初心(うぶ)だったころのことです。

女性の同僚の肩に髪の毛がありました。白いブラウスです。指摘すると、ご自分で取り除くのかと思いきや肩を私の方に寄せてきました。

にぶい私はどういうことかわからずにいました。

「取って」

「あっ、はい」

白いブラウスの肩にあった一本の髪の毛を取って差し上げました。ちょっと心臓が高鳴りました。

が、特段、その後何の発展形もありませんでした。

というわけで、雑念のせいで打合せの中身はなんだったのか、未だに記憶喪失状態です。


(守谷サービスエリア下り線にて)

カフェの店内に掲げてある額縁に惹きつけられました。見ると書道家・武田双雲さんの作品。

右側の壁に篆書体(てんしょたい)で「星」、そして対面の壁には行書体で同じく「星」と書かれていました。見事な大書です。

星乃珈琲店で私は友人と向き合い、話に耳を傾けました。

学生時代、文字通り同じ釜の飯を食った仲です。

いまその彼が苦境にあります。うつを患っています。

「この苦しみはドアのないサウナのようなものだよね」

ひと通り話を聞き終えてから私がいいました。私も10年ほど前にうつを発症。死ぬことまで考えました。

「ドアのないサウナ?」

「そう。サウナはドアがあっていつでも出られるとわかっているから、あの暑苦しい中で耐えられる。でも、もしドアがなかったら苦しみが永遠に続くと感じると思う」

「なるほど」

人はどんなに苦しくても、それがいつまでなのかがわかれば心は軽くなる。乗り越えられます。

サウナもあと5分で出て、次に冷水風呂、そして上がったらビールだ、と思えばこそ、苦しみもまた楽しみになります。

心を込めて私は友人に語りました。

「必ず必ず薄皮をはがすようによくなっていくよ。調子のよいときもあると思う」

でも、と私は続けました。

「それを基準としないことが大事。そして、調子の悪いときも、同じく、それを基準としない。波があるのは当たり前ということ」

調子のよいときは、これで治ったのかと思ってしまいがちです。一方で、調子の悪いときは、もう治らないのかと落ち込む。

「復職に向けて大事なことは、波があるということを知っておくことだと思う。必ず良くなるよ」

かといって、うつの真っ最中は己を達観するなどということはできないものです。ただただ苦しいだけ。

思考の視野狭窄が進み、自分自身を俯瞰(ふかん)できないところにうつの辛さがあります。

いま私の胸には山本周五郎著『樅の木は残った』の主人公・原田甲斐の言葉が蘇ってきます。

禅僧・快川紹喜の辞世をめぐって鬼役(毒見役)に向かう丹三郎に対して甲斐が言います。

「(前略)火中にあって、心頭滅却すれば火もまた涼し、などというのは泣き言にすぎない、けれども、その泣き言を云うところに、いかにも人間らしい迷いや、みれんや、弱さがあらわれていて、好ましい、私には好ましく思われる」

うつにおいては、どうしても周りにどう見られるかが気になります。

しかし、この弱さをさらけ出せる友を持つこと、寄り添う友の存在こそが肝要です。

自分自身のときもまさに寄り添う友によって救われました。

当初まったく予定になかった今回の語らい。お互いが引き寄せ合い、星と星が出逢ったかのようです。

まさに星々のつぶやきにふさわしい。


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