(湘南海岸から望む富士山)

第6話からつづく)

4月に新しい部署に異動。その半年後、出勤時に駐車場に止めた車から降りられなくなりました。

足の震え、頭痛、倦怠感、そして何よりも、どうしようもない鬱屈感に襲われました。ついに出勤すらできなくなくりました。

ふとんを被ったまま、一日を過ごすようになりました。

前年度、私は仕事において深い達成感を味わいました。

これまで手掛けてこなかったような種類の施設の整備を担当。当初予定した運営方法を転換し、短日月のうちに新たな運営方法を考え、それが導入されました。

私自身にとって大きな成功体験となりました。

困難な仕事でも組織一丸となって歯車を合わせ、目標に向かっていけば乗り越えられない壁はない。

そう私は確信しました。

チームとして仕事をし、成果を得たことに私は喜びを感じました。

しかし、それは、あくまでも歯車ががっちりと合い、歯車に潤滑油が流れている場合に限ることを後に思い知るのです。

いつでも、どこでもなし得るものではないことに気づかされました。

数年前まで肺がんを恐れ、死ぬことに恐怖を感じていた私。それが、今度は打って変わって、死んでしまいたいと思ようになりました。

上司の命を受けて仕事を進めることが困難になりました。部下に対しては指示もままならなくなりました。

認知症になってしまったのではないかと思うほど記憶力が減退。判断、つまり決めるということができなくなってしまったのです。

いつも頭の中が靄(もや)がかかっているようで、熱を帯びた粘土を頭蓋骨に抱えているような気持ちでした。

心療内科を受診するとうつ病だといわれました。

第8話へつづく)


(闇は暁を求めて)

第5話からつづく)

毎日がとにかく不安でした。自分が死ぬ、この世からいなくなるということを実感をもって考えました。

それに引き換え、亡くなった父母は己の病気を従容(しょうよう)としてとらえていたように思えました。

そんなこと、私にはできない。

どうしようもなくて、学生時代から激励をいただいている先輩に電話をかけました。先輩は私の話を聞いた後、厳然といいました。

「肺に影があるくらいで弱気になっちゃいけないっ!」

獅子吼(ししく)でした。文字通り、叱咤激励でした。生涯、忘れられません。

さて、私にとって呼吸器外来の待合室は不安が増幅する場所でした。声のよく通る主治医の声が待合室まで聞こえてきます。

気管支鏡検査から1週間ほどしての来院です。顔なじみ患者さんも増えてきました。名前を呼ばれると心臓が高鳴ります。

診察室に入ると主治医は私のレントゲン写真を見つめていました。突然、「あれっ」と素っ頓狂な声を出しました。

腫瘍が予想以上に大きくなって真っ白になっているに違いない。私はそう思いました。

なぜなら、そのころ、私は右側の背中がひどく痛み出していたからです。

「○○○さん、あるはずの影が写っていないよ。おかしいなぁ」

「先生、消えちゃったってことですか」

「いや、レントゲンは二次元なので、ときとして写らないこともあるんです。もう一度CTを撮りましょう」

「このごろ、右のちょうど影のある辺りの背中が痛くてしょうがないんです。腫瘍が広がっているんじゃないですか」

「肺は痛みを感じる神経がないんです。だから、痛むというのは相当にひどくなったときです。気のせいですよ」

再度、数週間後にCTを撮影。そして、いつもの待合室です。待っている間、私はたとえようもない不安感に襲われました。

「CTでも影がこんなに小さくなってしまっている。おかしいなぁ。珍しい症例だよ、これは。少し、様子を見ましょう。1か月後にまた来てください」

レントゲン写真から影がすっかり消えていました。

診察を終えたところで待合室で顔なじみの患者さんに声をかけられました。

気管支鏡検査でいっしょだったご婦人です。ガンダーラ美術の釈迦苦行像のようにやせこけているのが印象的でした。

「○○○さんはいつ取るんですか。前回、切除するっていっていた先生の声が聞こえたものですから」

「それが、影が消えちゃったんです」

「何かやったんですか。アガリクスですか。結局、私は片肺を摘出しました」

「何もやっていません。私も切除するはずだったんです」

当初の予定では、転移の検査結果を待って、右肺の下の方を摘出することになっていたのです。骨にも内臓にも転移は見られませんでした。

あの骨シンチグラフィーの検査技師の首のかしげは、いったいなんだったのでしょうか(註 第3話)。

その1年後の検査でも、そして毎年の検査でも結局、影は写らず今日に至っています。

私は主治医に尋ねました。

「先生、あれは何だったのでしょうか」

「僕はがんだったと思うよ。確定診断するには取らないとだめだね。取る?」

「いや、先生、けっこうです」

その数年後、職場の人間関係に悩み、心の病にさいなまされることになるとは思ってもみませんでした。

第7話へつづく)


(行きつけのカフェ 讃香。いわき市)

(第4話からつづく)

「そこでしゃべるな」--- モニター室にいる主治医からの指示により若いドクターは寡黙になりました。

さきほどまでのくだけた雰囲気が一変。気管支鏡検査室内で聞こえてくるのは検査機器や空調の音だけ。

いったい何を見たんだ。私の気管支はまずいのだろうか。そこでしゃべるなとは、どういうことなのだろう。

ふと、遠藤周作著『海と毒薬』の肺臓摘出の場面が蘇ります。

「コトっ」

切除した肋骨をそら豆の形をした膿盆(のうぼん)に置いたときの音が静寂な手術室に響き渡ります。

さて、長時間、気管支鏡(スコープ)を入れられて私は心身ともに切なくなってきました。

スコープの先から針金を繰り出して、細胞も採取すると聞かせられていました。今まさにそれがなされているようです。

若いドクターが「ロカール」と低い声で告げます。するとスコープの先から冷んやりした液体が肺の奥に送られるのを感じます。

おそらくLocal Anesthesia(局所麻酔)のことでしょう。

苦しくて、苦しくてもうすべての管を取り外してほしいと発狂しそうになったときです。天井付近に亡き両親の存在を感じました。

父が母に「◯◯◯◯=(私の名)、可哀想だな。何とかしてやりたいな」と話しかけている気配が伝わってきたのです。

(第6話へつづく)


(カフェ コネッション。心安らぐ景観。いわき市)

(第3話からつづく)

一連の検査で院内をとぼとぼと歩いているところを知り合いの看護師さんに‘発見’された私。

「誰かのお見舞い?」

こんなに首がうなだれていて、生気もない表情で、お見舞いには見えなかったはず。

しかし、あえてそういったのだと今になって思います。

20数年来、私の通う理髪店のマスターのお姉さんがその看護師さんです。ぱりっとした感じが印象的です。

私は肺がんの疑いがあることなどを話しました。

「食欲はあるの」

「あります」

「私の目を見て」

「あ、はい」

少し間を置いてから力強く告げました。

「大丈夫。絶対に大丈夫。治るから」

当時、その看護師さんは呼吸器病棟の責任者でした。なぜ、そんなことを確信をもっていえるのか、不思議でした。

でも、言葉の持つ力は不可思議です。私は少しだけ希望を持つことができました。

一連の転移の検査を終え、クライマックスの検査が待っていました。発症元の気管支の検査です。

私は主治医に尋ねました。

「先生、気管支鏡ってつらいんですか」

「頑張ってくださいっ!」

「つらいのか」と私は訊いているのにそれへの返事はありませんでした。

気管支鏡検査室では4人の患者が待機していました。待合室でよくいっしょになるおばさんもいました。

私以外はいずれもみな痩せこけています。ガンダーラ美術の釈迦苦行像を思わせる首筋が見えたとき、私は思わず目をそらしてしまいました。

私の番です。

全身麻酔かと思いきや、喉の嚥下(えんげ)の反射を抑えるだけだという。麻酔を喉に噴霧されました。

若いドクターが気管支鏡(スコープ)を挿入し、隣室で主治医がモニターを見るようです。

スコープが咽喉を通過したそのとき、突然、私の身体は生きのいいエビのように反射。上半身がぴくぴくいっています。

「◯◯◯さん、大丈夫ですかっ」

看護師さんが尋ねます。が、スコープが喉から気管支にかけて入っていて答えられません。

思わず、意思伝達として看護師さんの手を強く握りました。「大丈夫」というように伝わったのでしょう。

スコープはそのままぐいぐいと気管支の奥に進んでいきました。

挿入している若いドクターがモニター室にいる主治医に声をかけます。

「33歳、男性。この気管支、大丈夫ですか、先生」


「そこでしゃべるな」

(第5話へつづく)


(Taro Cafe。落ち着きの空間。猪苗代町)

(第2話からつづく)

自分自身の誕生日に肺がんの疑いとの診断を受け、転移に関する様々な検査が始まりました。

骨(こつ)シンチグラフィー。

放射性同位元素を静脈に注射し、骨に転移した腫瘍の有無を調べる検査です。

見たことのない金属製の注射器をゴム手袋をした看護師さんが慎重にセッティングしています。

「あの、厳重に手袋して、金属製の注射器ですけど、まずいものじゃないんですか」

「私は規則でこうやらなくちゃいけないんですけど、尿になって排出されますから大丈夫ですよ」

本当に大丈夫なのか。論理的に噛み合っていない日本語に思えました。とても安全そうには見えません。

部屋の入口には放射線管理区域を示すマークが貼られています。

気味の悪い注射器が私の腕に刺されました。液が入っていきます。

次に案内された部屋にはCTスキャンによく似たドーナツ型の装置がありました。

寝かせられての検査が始まりました。

5メートルほど先で技師さんが画面をじっと見ているのがわかります。時折、首をかしげ、また、じっと見つめる。その繰り返しを1時間ほどやっていました。

私は思いました。

ああ、写っているのだ。骨に転移して影が写っているに違いない。なぜ、何度も首をかしげるのだろう。

検査終了後、技師さんからかけられた言葉はたった一言。

「お疲れ様でした」

元気のない声でただそれだけをいわれました。

その後、肝臓をはじめとする内臓のエコー検査などが続きました。

首をがっくりとうなだれて、院内の廊下を歩いていると知り合いの看護師さんに声をかけられました。

「あら、どうしたの。お見舞い?」

(第4話へつづく)


(カフェ モモノキ。静謐のひととき。福島市)

(第1話からつづく)

レントゲン写真を凝視する主治医を私は固唾を飲んで見つめます。どんな言葉が発せられるのだろう、と。

私の心臓の鼓動が周りにも聞こえそうです。

「ここ、わかりますか。影があります」

「ここですか」

私にはどこが影でどういう風になっているのかさっぱりわかりません。

「右肺の下の方です。肋骨が重ねってわかりにくいですけど、確かに影がありますね。がんかもしれないし、何か別なものかもしれない。CTを撮りましょう。また来てください」

主治医の「がんかもしれない」との言葉に私の心は過剰に反応しました。

数週間後にふたたび呼吸器外来を受診。主治医はCTの画像を丹念に見ています。

「これはがんだね」

「がん...ですか。私、タバコを吸ったことはないんですけど」

「あんまり関係ないんですよ。僕の独断じゃなくて、放射線診断専門医も同じ意見なんです。お見せしましょうか」

CTを診断した放射線の医師の所見には「悪性腫瘍の疑い」と記されていました。

私もCT画像をまじまじと見ました。私の名前が写真の上端にカタカナで記載されているのを確認。問題の部分を見ました。

右肺下部に宇宙のアンドロメダ星雲のような影が明瞭に写っていました。

「若いのに残念ですけど、肺がんは転移しやすいので、先に転移の検査をしますね」

矢継ぎ早に発せられる主治医の言葉を私は飲み込めずにいました。

若いのに残念。転移しやすい。転移の検査...。ボクシングでストレートとアッパーを続けざまに喰らったような衝撃でした。

診察を終え、駐車場に戻りました。座席にどかっと腰を下ろしてラジオを付けました。

すると映画「ライオン・キング」の楽曲「愛を感じて」 (Can You Feel the Love Tonight)が流れてきました。

無性に悲しくなって落涙。その後、滂沱の涙と鼻水が出てティッシュを一箱使い切りました。

その日は私の33歳の誕生日でした。

(第3話へつづく)


(ショックを受けると色彩の感覚まで失う)

定期健診の結果がかなり遅れて職場に届きました。長形3号のいつもの封筒ではなく、A4判の封筒で厚みがありました。

17年前の3月のことでした。

開封すると右肺の図の下部が黒く塗りつぶされていました。

「非結核性の陰影あり」

所見とともに精密検査を受けるようにと記載されていました。

非結核性の陰影とはいったい何なのか。結核ではないということはわかる。では、何なのか。

タバコはいまだかつて1本も吸ったことがない。まさか肺がんなのか。

「肺がん」。その言葉が頭の中でこだまし、消えません。どんどん増幅していきました。

父は血液のがんといわれる白血病で、母は卵巣がんで、祖父は肺がんで亡くなっています。

ついに私もか、とひどく落胆しました。

健診結果の封筒が届いた日は3歳になる長男の誕生日で、仕事帰りにプレゼントを買う予定でした。

結局、プレゼントは買い与えたようなのですが、どの店に寄って、何を買ったのか、いまだに思い出せないままです。

相当に動揺し、混乱していたのでしょう。

両親がかつて入院していた同じ病院で、肺がんの疑いで、今度は私自身の検査が始まりました。

第2話へつづく)


(タイでよく鴨肉を食していました)

(第9話からつづく)

第10話をもってエピローグとしたいと思います。「タイからカナダまで」は19歳から29歳までの出来事を綴ったものです。

19歳のときに八王子のラーメン店でタイ保健省の職員と出逢い、その2年後にタイに留学。

じつはラーメン店で出逢ったタイ人はタイの元首相の息子さんで、びっくり。

元首相に推薦状を書いてもらったものの、両親の病によりタイの大学院への進学は断念し帰郷。

免許を取るために通っていた自動車学校で不思議なおじさんと出逢い、語学の勉強を再開。

生命保険会社に地元採用で就職。保険会社に籍を置きながらお得意様であった電子部品会社にタイ語の通訳で数か月勤務。

その後、市役所に入庁。タイの行政機関の視察が相次ぐ中、5年目のときにカナダのモントリオール大学に派遣留学。29歳のときでした。

なお、モントリオール大学との交換留学制度は私が戻って来た年に廃止が決まり、私ともう一人が行っただけで終了しました。

ところで、東日本大震災が発生した際、ラーメン店で出逢ったタイの知人は私の家族のことを心配し、バンコクへ避難するよう何度も連絡をくれました。

震災の翌年、息子を連れてバンコクへ知人に御礼の意義を込めて訪れました。

「約束通り、子どもを連れて来ましたよ」と。

「タイからカナダまで」のシリーズはこれをもって完結とします。長らくご愛読くださり、ありがとうございます。

次なる30歳から40歳は、「病から病へ」と題し、いずれまた連載物を綴りたいと思います。

33歳のときに肺がんの疑いを受けての検査の日々、40歳のときはうつ病に悩まされました。

生きていればいろいろありますね。

(完)


(翼よ、折れないでおくれ)

(第8話からつづく)

モントリオール大学はカナダ東部のケベック州にあります。フランス語系の大学としてはパリ大学についで世界2番目の規模。

アジアに関する研究が盛んで附属の東アジア研究センターには日本語科も設置されています。

なぜそのような大学が日本の市役所と交流協定を結んだのか。

じつはすでにNTTなど日本の企業に大学から研究生を派遣していた実績があったそうです。大学としては、地方自治体にも学生を派遣したいと考えました。

大学側が相談した相手が私の住む地域一帯を江戸期直前まで治めていた領主の末裔の23代目当主夫人だったのです。

日加交流の第一人者である夫人は思案しました。江戸期に転封(てんぽう)となった地の秋田県内の町と交流させてはどうか、と。

結局、自治体の規模などを考慮して当時の市長の理解も得て、私の働く市役所と交流することになったというのです。

当初はモントリオール大学の研究生を受け入れるだけの話だったそうで、後に市職員も派遣する相互交流になりました。

出発前、市の職員研修所で打合せをしました。

「何をしてくればいいんですか。フランス語系の大学ですよね。私、フランス語はまったくできません」

「そのフランス語系の学生で英語が苦手な人たちが通う英語コースがあるそうだ。社会人向けの夜間コースに行くことになる」

「英語の不得意なフランス語系の学生...。そうなんですか。私、寒いところが苦手なんですけど大丈夫でしょうか」

「とにかく1年間頑張ってきてほしい。戻ってきてから通訳にするつもりはないから伸び伸びと自由にやりたいことをやってきなさい」

お腹に初めての子を宿した身重の妻を残して、いそいそとカナダに旅立ちました。

カナダでは出産の際、夫も分娩室に入るのだという。出産に立ち会わないどころか、帰国もしない私は現地の人にひどい夫だといわれました。

私は胸を張っていい返してやりました。

「これがジャパニーズ・ビジネスマンだ」と。

ワインの味と流暢なフランス語「私はフランス語が話せません」を覚えて1年後に帰国。零下27度という貴重な経験をしました。

帰宅すると息子もしっかり育っていました。

その息子は今月20歳を迎えます。ただいまのこの時間、カンボジアのシェリムアップに滞在中。

何をしているのかはわかりません。

(第10話 エピローグへつづく)


(楢葉町天神岬から太平洋を望む)

第7話からつづく)

前号で「君、1年間、カナダに行ってみないか」と職場の他部署の課長から話があったことを述べました。そのときから時計を半年ほど戻します。

妻とともに私はタイ・バンコクを訪れました。バンコク郊外の川沿いのひなびたレストランでタイ保健省の知人と再会。

大学院への留学を断念し、5年前にバンコクを離れるときにその知人に「新婚旅行でタイにまたいっらしゃい」と励ましを受けました(註 第3話)。

私はその約束を果たすためにタイを訪れたことを伝えました。そして、両親が亡くなってから現在に至るまでのことを認(したた)めた手紙を渡しました。

読み終えると、知人は私の目を見つめ、ぎゅっと私の手を力強く、しかも長い時間、握ってくれました。

「わかったよ。大変だったね」

そんなメッセージが手の温もりから伝わってきました。心の中からなにか熱いものがこみ上げてきました。

「再び約束をしよう。君に子どもができたら、また家族でタイにいらっしゃい」

「わかりました。また参ります」

さて、突然、他部署の課長から話のあったカナダ行きの件に戻します。

「カナダのモントリオール大学とうちの市役所が交流協定を結ぶことになったんだけど、こちからも職員を派遣することになったんだ」

「海外の大学と市役所が交流するんですか。珍しいですね」

「それで、君はどうかねと思って。英語を勉強しているよね」

「あ、はい」

自動車学校でドイツ留学を目指しているおじさん(註 第4話)に激励されて以来、私はアメリカ人の英語塾に毎週通っていました。

しかし、あえて秘密にしていたわけではないものの、職場には英語塾のことは誰にも話していませんでした。

なぜ、英語を勉強していることを知っているのだろう。身上調査をされていたのだろうか。

それはともかく、カナダのモントリオール大学に行ってみないかとの誘いの声が頭の中で何度もこだまして離れません。

またもや海の向こうの躍動感が蘇ってきました。

第9話へつづく)


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