(Den•en Cafe 猪苗代にて)

 

本年4月から始めた平地区(112区 人口約9万4千人)の区長との対話は今月中に終える目処が立ちました。電話で約束を取り、ご自宅の場所を調べ伺う。簡単なようでいて手間がかかりました。

 

わざわざ来なくてもいいよ、(防災のことは)わかってっからと言う区長も少なからずいました。ところが、いざお会いするとたくさんのお話をされる。辞去を切り出すのが難しいときもありました。

 

ただ耳を傾けただけだったのに、後にある地区の公民館長から「区長さん、喜んでたよ。よかったって」と言われました。

 

いま読んでいる本があります。

 

森川すいめい著『感じるオープンダイアローグ』(2021年4月、講談社現代新書 860円税別)です。

 

以前、同氏の『その島のひとたちは、ひとの話をきかないーー精神科医、「自殺希少地域」を行く』を読み感銘を受けました。

 

オープンダイアローグとは、フィンランドのケロプダス病院で始まった取り組みです。

 

「(前略)この取り組みによって、それまで向精神薬医夜治療継続が必須と思われていた人たちや、何十年も精神科病院の中で暮らさなければならないとされてきた人たちの8割以上が、向精神薬をやめるか使用することもなく、精神病状がなくなり、仕事や学業から離れないですむまでに回復している」(『感じるオープンダイアローグ』)

 

「しかし、現代の精神医療の観点からして、ただ対話するだけでそのようなことが起きるとは、私には思えなかった。だから、私がまだ知らない何か魔法のようなものがあるのかもしれない、それを知りたいと思って、すぐに現地へ向かった」(同)

 

ある人が言っていました。耳は二つ、口は一つなんだから、もっと話を聞かなくちゃ。

 

区長訪問が落ち着いてきたので、部内の職員(係長職)面談を予定しています。

 

事業の進捗がどうなっているのかといったことではなく、日頃の組織管理上の悩みや苦労していることなど職員自身に焦点を当てた対話を目指そうと思っています。基本は傾聴です。

 

上司は絶えず部下に質問を投げかけています。一見コミュニケーションは取れているように見えます。

 

しかし、それは上司が判断や説明において必要だから質問するという質問です。部下のために尋ねる質問ではありません。

 

「ただ対話するだけ」でどのようなことが起きるのか。何も起きないかもしれない。それはそれでいいのかなと思っています。

 

 

(嗚呼神戸に行きたい)


プロフェッショナルとふつうの人の違いを意識するようになったのは不惑を過ぎた頃からです。


一つには問いを立てられる人かどうか。


学校教育の習性でどうしても答えを見出すことに傾倒しがちです。しかもより正確な解答を求めてしまいます。問いについての説明の詳細は割愛します。


もう一つは少ない情報で意思決定できる人はどうか。


10年前。思い出します。あの混乱の最中にヘリコプターに乗って事故現場に一国のトップがやってきました。気持ちは痛いほどわかります。現場を自分の目で確かめたい。


「重要なのはあくまで意思決定をすることであり、情報を集めることに時間をかけすぎて意思決定が遅れてしまっては意味がない」(内田和成著『プロの知的生産術』(PHPビジネス新書)


「これを逆に考えれば、『少ない情報で意思決定できる』ということが、優れたビジネスパーソンの、そしてリーダーの条件ということになる。言い方を変えれば、他の人が一◯◯情報が集まらないと決められないのに対して、一◯の情報で同じ質の意思決定ができる人間が、優れたリーダーだということだ」


とにかく情報を集め調べないと気が済まないことを内田和成氏は「網羅思考の弊害」と呼び警鐘を鳴らしています。


さて、私の業界で「合議(あいぎ)」というものがあります。自治体によっては「協議」と称しているそうです。


「合議」とは起案書(稟議書)の直接の決裁者ではないものの、その起案内容に間接的に関係する部署の責任者から同意を求める行為を指します。実際に膝詰めで談判するわけではなく、バインダーに挟んだ起案書を当該部署に置いてくるだけです。俗に言う根回しに近いものがあります。


スタッフから報告がありました。


「合議を持って行ったところ、現下の情勢で判断がつかないので戻す、と言われてしまいまして...」


「判断がつかない?」


「いいのか悪いのか判断するのが仕事でしょうよ」


というわけで、温厚な私には珍しくいささか憤慨してしまいました。でも、一晩寝たらふつうの人に戻りました。プロフェッショナルにはなれません。

(米ナス。これっきり実らなくなりました)


備忘録として内田和成著『スパークする思考 ーー右脳発想の独創力』(2008年、角川書店)の読後メモを記します。

 

10年前、著者の謦咳(けいがい)に接することができたのは、私の数ある誇りうべき出来事でした。とにかく談論風発。脱線に次ぐ脱線の講演でした。

 

しかし、顧みれば、その脱線はすべて伏線となって本題を補強していたのです。より正確に言えば補強していたというより脱線そのものが骨格だったように思います。

 

さすがBCG Japanの代表を務めた方だと思いました。ちなみにBCGは結核予防のワクチンではなく、世界的なコンサルティング会社のボストンコンサルティンググループの略称です。

 

前振りが長くなりました。『スパークする思考』の気になった箇所を引用します。

 

「その結果、自分でユニークだと思い、人にも勧めているのが『アナログにこだわる』ことなのである」

 

「しかし私がもっとも重要視しているのは、三つ目の一次情報といわれるものだ。自分が直接、人と話をして、現場で見聞して得た、自分しか知らない情報のことをいう」

 

「誰もが集められる情報だけでは、創造的な発想や思考を生むのは難しいものだ。差別化されたアイデアは浮かびにくいということだ」

 

「私にとって、最大の情報収集の方法は、人に会って、会話をしたり、インタビューをして話を聞いたり、議論を戦わせることだ。それによって差別化できる情報を入手する可能性も高いし、いろいろな情報が、他人との議論を通じてこなれて、新たなアイデアに結びつく可能性も高い」

 

「コンサルタントやジャーナリストをはじめ、ビジネス分野でプロフェッショナルと呼ばれる人たちは、デジタルツールも十分に活用するものの、できるだけアナログの手法を駆使して、差別化された視点で情報を集め、分析し、発想している」

 

「ひらめきを訓練するとすれば、何らかの現象を見た、あるいは知ったときに、『なぜ?』と問いかける習慣を持つことだろう」

 

というわけで、昨日、刺身を食べるのにエスビー食品のわさびチューブを見て、なぜ「S&B」なのか、と疑問に思いました。

 

同社は元々は「太陽」と「鳥」を図案化したヒドリ印をその商標としていました。後年、太陽のSUNと鳥のBIRDの頭文字からS&Bとしたというのです。

 

だからといって何もひらめきませんでした。所詮、本物のアナログ人間なのです。

(福西本店の風景。会津若松)


ドラッカーの言う「強み」に新鮮な響きを感じます。先月のオンラインで読書会での学びを備忘録としてまとめます。


「誰でも、自らの強みについてはよくわかっていると思っている。だが、たいていは間違っている。わかっているのは、せいぜい弱みである。それさえ間違っていることが多い。しかし何ごとかをなし遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。できないことによって何かを行うことなど、とうていできない」(『プロフェッショナルの条件』(2000年、ダイヤモンド社。以下引用同じ)


まず強みは何かを知ることが肝要だということです。


「成果をあげるためには、人の強みを生かさなければならない。弱みを気にしすぎてはならない。利用できるかぎりのあらゆる強み、すなわち同僚の強み、上司の強み、自らの強みを総動員しなければならない。強みこそが機会である。強みを生かすことは組織に特有の機能である」


強みを生かした人事を行い、組織を作らなけれならないということです。具体的にはどういうことか。


「人に成果をあげさせるためには、『自分とうまくやっていけるか』を考えてはならない。『どのような貢献ができるか』を問わなければならない。『何ができないか』を考えてもならない。『何を非常によくできるか』を考えなければならない。特に人事では、一つの分野における卓越性を求めなければならない」


「強み」という視点で見ると組織の意味も変わってきます。


「弱みをもとにすることは、組織本来の機能に背く。組織とは、強みを成果に結びつけつつ、弱みを中和し無害化するための道具である。多くのことに強みをもつ人間は、組織を必要としないし、欲しもしない。彼らは独立して働いたほうがよい。しかしほとんどの者は、独力で成果をあげられるほど多様な強みをもっていない」


では、よくある失敗する人事とはどういうものか。なぜうまくいかないのか。


「主たる理由は、目の前の人事が、人間の配置ではなく仕事のための配置になっているからである。したがって、ものの順序として、仕事からスタートしてしまい、次の段階として、その仕事に配置すべき人間を探すということになるからである。そうなると、もっとも不適格な人間、すなわちもっとも変哲のない人間を探すという誤った道をとりやすい。結果は凡庸な組織である」


部下の強みを生かすことは上司の責務であるとドラッカーは言う。


「上司は部下の仕事に責任をもつ。部下のキャリアを左右する。したがって、強みを生かす人事は、成果をあげるための必要条件であるだけでなく、倫理的な至上命令、権力と地位に伴う責任である。弱みに焦点を合わせることは、間違っているだけでなく、無責任である。上司は、組織に対して、部下一人ひとりの強みを可能なかぎり生かす責任がある。何にもまして、部下に対して、彼らの強みを最大限に生かす責任がある」


強みについてのドラッカーの言及の中で目から鱗だったのが次の指摘です。


「成果をあげるためには、上司の強みも生かさなければならない。企業、政府機関、その他あらゆる組織において、『上司にどう対処するか』で悩まない者はいない。答えは簡単である。成果をあげる者ならば、みな知っていることである。上司の強みを生かすことである」


これは胡麻をすることとは違います。


「もちろんへつらいによって、上司の強みを生かすことはできない。なすべきことから考え、それを上司にわかる形で提案しなければならない。上司も人である。人であれば、強みとともに弱みをもつ。しかし上司の強みを強調し、上司が得意なことを行えるようにすることによってのみ、部下たる者も成果をあげられるようになる。上司の弱みを強調したのでは、部下の弱みを強調したときと同じように、意欲と成長を妨げる」


今月のオンライン読書会は「時間の管理」です。参加費はかかりません。興味のある方はご一報ください。

(今年の梅の実は豊作です)

 

今週末の課題図書は帚木蓬生著『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』です。著者のインタビュー記事を新聞で読んで「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉に出会いました。

 

同書の「はじめに」から抜粋します。

 

「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、『どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力』をさします」

 

最初、この説明を読んだときわかったようなわからないような気持になりました。戸惑う読者のためにか、解説が続きます。

 

「『性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力』を意味します」

 

はっきりしない状態にあってもそれを受け入れられる能力ということになるでしょうか。

 

「能力と言えば、通常は何かを成し遂げる能力を意味しています。しかしここでは、何かを処理して問題解決をする能力ではなく、そういうことをしない能力が推賞されているのです」

 

著者は言葉を変えながらさらに説明を加えていきます。

 

「不確かさの中で事態や状況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいる能力」だとも。

 

「私たちが、いつも念頭に置いて、必死で求めているのは、言うなればポジティブ・ケイパビリティ(positive capability)です。しかしこの能力では、えてして表層の『問題』のみをとらえて、深層にある本当の問題は浮上せず、取り逃してしまいます」

 

学校で最も求められるのがポジティブ・ケイパビリティでしょう。それが秀でた人を優秀な人、頭のいい人と言われます。

 

「しかし私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか」

 

週明け読了後、私は特殊な能力を身に着け変身しているでしょうか。乞うご期待。着ぐるみが増えているだけかも。

(アオサギが気持ち良さげに散策しています)


シラサギに加えてアオサギも飛来するようになりました。田んぼの中に入って何かをついばんでいます。


サギを見ていると不幸せそうに見えません。労働もしていないのにどこか悠々と生きています。


幸福かどうかは確信を持って断言できませんが、不幸そうには感じられない。


北に帰らず一羽だけ残ったハクチョウも中洲で羽を休めています。地域の人々の多くがこの孤独なハクチョウを気にしています。地域の集まりなどがあると話題に上るのがこのハクチョウ。


でも、観察すると不幸せそうではない。憐れむ人間がやってきては餌をやるため努力せずとも食うに困らない。注目と人気を一身に集めています。夏井川流域の鳥類のアイドル的存在です。


というわけで本題です。なぜ人間は労働しないと生きていけないのか。確かな答えは見出せていません。が、次の文章に出会って「んだんだ」と納得しました。


一つには貨幣のせいだったのです。


「世の中には商品が溢れている。けれども、貨幣がなければ、私たちはなにも買うことができない。貨幣があればなんでも手に入れられるが、貨幣を手に入れる方法は非常に限られており、常に欠乏状態である。だから、生きるために、私たちは貨幣を必死で追い求める」(斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(2020年、集英社新書)


商品は有り余るほど(見えるところに)あるのに貨幣は瞬時に消失していく。不思議です。


私もアオサギの幸せぶりに負けないよう耕作放棄地を開墾して貨幣経済の外に少し出たいと企んでいます。変な詐欺だけには遭わないよう気をつけたいと思います。

(夕日を見つめていると家に帰りたくなります。すぐそばなんですけどね)

 

頭が高尚さを求めなくなって久しい。難しい本が読めなくなってきました。そんなとき友人から林雄司著『死ぬかと思った』を勧められました。

 

ウェブで投稿された失敗談を集めたもののようです。

 

あるわ、あるわ、恥ずかしい「死ぬかと思った」体験の数々。おもらし系がこれほど多いとは思いませんでした。意外にも若い女性が赤裸々に描いています。同志がこれほどいるとは思いもしませんでした。

 

「孤独感」とは知らないことから起きる、自らが脳内で作り上げる孤立を意味する。私の定義です。同じ苦しみを味わった人がいるのだと思えば連帯感が芽生えます。

 

そう言えば、最近、私の身の上で存立危機事態は発生していません。コロナ禍によって移動が減ったからでしょう。私の場合、公共交通機関などの乗り物に乗っている最中に遭遇することが少なくありません。

 

豆の話が印象に残りました。27歳の豆子さんの投稿。「豆が鼻につまる」と題した一文です。

 

豆子さんが小学生のころ鼻に豆をつめて飛ばすことが流行っていたという。お母さんにその秘技を見せつけようと鼻に入れて待っていたところなかなかお母さんが帰って来ない。

 

「玄関を開ける音が!『お母さん、おかえりーっ!』と豆を飛ばしてお出迎えのはずが……。なんと、ずっと豆を鼻に入れたままだったので、鼻の中で豆が膨張し、そんじょそこらのエアーでは飛び出なくなっていました」

 

筆者はお母さんに豆をつめていることを話したのでしょう。

 

「しゃべった時に息を吸ったせいか、豆はさらに鼻の奥へ。窮屈な場所にもかかわらず、豆はその場でさらに膨張し、私はとうとう病院へ行って豆をとってもらうことになりました」

 

私も人に言えない数多くの痴態を演じてきました。こっそりと「星々のつぶやき」に吐き出して恥辱を解消してきました。話すことは放つことだという。

 

受け止めていただく読者の皆様に感謝です。

 

 

(天気が良かったのでデッキでオンライン読書会)

 

定例の読書会。オンラインでの参加です。全員で5名。教材は『プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社)。セルフマネジメントを学びます。

 

今回の範囲はPart3「自らをマネジメントする」の第1章「私の人生を変えた七つの経験」。感銘を受けた箇所を各々紹介し、意見・感想を述べ合います。

 

「昇進し、新しい仕事を任された有能な人たちのうち、本当に成功する人はあまりいない。無惨な失敗例も多い。もちろんいちばん多いのは、期待したほどではなかったという例である。その場合、昇進した人たちは、ただの凡人になっている。昇進人事の成功は本当に少ない」

 

私は正直安堵しました。自分自身に限って言えば、とっくにすでに「ただの凡人になっている」からです。その意味では無惨な状態が続いているのかもしれません。

 

なぜ有能だった人が凡人になってしまうのか。ドラッカーは言います。

 

「彼らは、新しい任務に就いても、前の任務で成功していたこと、昇進をもたらしてくれたことをやり続ける。そのあげく、役に立たない仕事しかできなくなる。正確には、彼ら自身が無能になったからではなく、間違った仕事の仕方をしているために、そうなっている」

 

ではどうすればいいのか。

 

「新しい任務で成功するうえで必要なことは、卓越した知識や卓越した才能ではない。それは、新しい任務が要求するもの、新しい挑戦、仕事、課題において重要なことに集中することである」

 

私がドラッカーに惹かれるのはここです。

 

「卓越した知識や卓越した才能ではない」という言葉は勇気を与えてくれます。要するにやることをやるという姿勢こそ大事だというのです。

 

と言いながら、なかなか重要なことに集中できないでいるのが、ただの凡人になりさがっている証左です。

JUGEMテーマ:日常

(自宅前の田んぼ)

 

「『孤独死』という言葉が嫌いなんです」。ラジオを聞いていたら、上野千鶴子さんがそう訴えていました。

 

同氏の近著『在宅ひとり死のススメ』を注文。届きました。帯には「おひとりさまでも、認知症でも大丈夫。慣れ親しんだ自宅で幸せな最期を迎える方法」と記されています。

 

2021年1月30日第1刷発行。3月30日ですでに第4刷となっています。

 

「ひとり暮らしのわたしが、ひとり暮らしのまま下り坂を下っていって、ある日ひとり暮らしのまま在宅で死ねないだろうか・・・・そう思いました。ひとり暮らしを過ごしているわたしの臨終の場にだけ、ふだんめったに会わない一族郎党・親類縁者が全員集合するのも、妙なものです」(『在宅ひとり死のススメ』)

 

これまで私自身思っても見なかった考えです。刮目させられました。

 

「ひとり静かに死んで、ある日亡くなっているのを発見されたら、それを『孤独死』とは呼ばれたくない。それが本書の執筆動機です」(同)

 

ラジオで語っていた通りです。

 

「わたしは私利私欲のために研究をしている、と言ってきました。介護保険ができたとき、これはわたしのためにできたんだ、と思いました」(同)

 

当ブログ「星々のつぶやき」も公益性のかけらもありません。私のために、そう自分の満足を得るために日々綴っています。

 

ですから、拙文をお読みくださる方に無上の感謝の念を覚えます。

 

『在宅ひとり死のススメ』の目次をいくつか紹介して筆を置きます。

 

「すごい勢いで『おひとりさま』が増えている」

「『老後はおひとりさまが一番幸せ』とのデータ」

「ふたり世帯の満足度は最低」

 

考えさせられる表題ばかりです。

 

というわけで、これから読み始めます。まえがきとあとがきと目次を拾い読みました。

(平中央公園のあさ)


転んだわけでも、脚気(ビタミンB1欠乏)の検査をしたわけでもありません。外山滋比古氏の次の文章に得心。膝を打ちました。


「本を読むにしても、これまでは“正解”をひとつきめて、それに到達するのを目標とした。その場合、作者、筆者の意図というのを絶対とすることで、容易に正解をつくり上げられる。それに向って行なわれるのが収斂的読書である」(『思考の整理学』)


国語のテストによくある作者の意図は何かとの問いはまさに収斂的読書と言えます。これができる人がいわゆる頭のいい人となります。


小中学生のころ、国語のテストで何度も悔しい思いをしました。点数をここに公表するのも憚れるほど見事な撃沈ぶりでした。作者の意図は何かとの問いに対し、私は自分だったらどう思うかをいつも滔々と書いていました。


「なぜそうなるのか述べよ」との問いに対しても文脈の中で考えることをせずただ自説を披露していました。結果は惨憺たるものでした。


(平中央公園にて)


こんな私の偏向に修正を促してくれたのが高校時代の現代文のO先生でした。解剖するかのような現代文の解釈法に感動しました。


このO先生と文通したいと思い、先生にお願いしたところ快諾してくれました。O先生の流麗な文字と表現に魅せられた往復書簡がしばらく続きました。いつしか私は収斂派になっていました。


さて、かつての偏向気味だった私は間違っていたのか。心の隅で納得のいかない思いがずっとくすぶっていました。学校教育では否定されていたけどあれは完全に誤りだったのだろうか。


次の外山滋比古氏の言葉に膝を打ちました。これだ、と。


「それに比して、自分の新しい解釈を創り出して行くのが、拡散的読書である。当然、筆者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない。収斂派からは、誤読、誤解だと非難される。しかし、読みにおいて拡散作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはなるまい。古典は拡散的読みによって形成されるからである。筆者の意図がそのままそっくり認められて古典になった作品、文章はひとつも存在しないことはすでにのべたとおりである」(同)。


そうだったのか。勇気が湧いてきました。


特に「筆者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない」との文に感銘を受けました。私はいつのまにかひるんでいたのです。臆病になっていました。


というわけで、「表現の生命を不朽にする」ため、今後は国語のテストで玉砕していたあの頃の私に戻ろうと思います。


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