(道後温泉駅2階のカフェ)

やっぱり関係性で動いているのだろうと思います。特に政治の世界では。権力者との距離で物事が考慮され、忖度され、決定されていくのでしょう。

韓国の時代劇ドラマを見ていると、王とその側近たちのやり取りが頻繁に出てきます。決して、王と民ではありません。

それは主権在民の現代においても権力者は建前としては民を気にしますが、本音は違うのだと思います。

さて、肚に思っていることが顔に表れる人がぶら下がり取材に応じていました。その人の思いを忖度してみます。本音のインタビュー。

Q:進退は考えていますか。

「なんで俺がやめなきゃいけないの。もともとはあれでしょ。あの人の奥さんでしょ。奥さんが変な人に絡まれて。で、うちの部下たちが慮っていろいろやってあげた話でしょ。うちは被害者ですよ。あの人は私のことをクビにはできないよ。身から出た錆でしょ」

Q:被害者とはどういう意味ですか。

「どういう意味も何も、よかれと思ってやってあげたら非難されてるわけですよ。そりゃ、奥さんから明瞭な依頼がなくても、問い合わせがあれば、部下たちもあれこれ考えるわけですよ。それができなきゃだめなんですよ」

Q:明瞭は依頼はなかったということですか。

「あるわけないでしょ。言うはずないじゃないですか。『部屋が暑くないですか』という質問に対して英語ではノーかイエスかもしれないけど、日本では『窓を開けてほしい』『エアコンを入れてほしい』ということなんですよ」

Q:忖度はあったということですか。

「われわれの世界では忖度のゆうむ(有無)が問題なんじゃなくて、どうスマートに慮って事を処理するかが大事なんです。あんたらマスコミは忖度があったのかどうかばかり聞くけど違うんだよ」

Q:職員の処分はないのですか。

「もう辞めたでしょ。十分でしょ。彼だって有能なスタッフなんですよ。かわいそうだ。犠牲者まで出してしまった。われわれは慮ってやったわけで、ほめられこそすれ、非難される筋合いはないんですよ」

Q:国民への説明責任はどうですか。

「ま、こういうみぞゆう(未曾有)の事態になったわけで、これまでをふしゅう(踏襲)するわけにはいかんでしょう。でもね、われわれはあの人のためにと思って動いたことだけは忘れないでほしい。文書のゆうむ(有無)なんて関係ないんですよ」


(さまざまな思いが去来しました)

災厄は誰しも望んでいません。それゆえ、災厄に「見舞われる」と表現するのであり、また、災厄を「被る」とも言います。短く言えば、「被災」、「被害」です。

「被」には「望んでのことではないのに、された」という意味合いが込められています。「被告」しかり、「被曝」も、「被疑者」もです。

「被保険者」という例外もあります。ただ、これも国民健康保険の場合、強制的に保険料が徴収されるという意味では望んでのことではないと言えるかもしれません。

ついでに言います。この「被保険者」という表現が私は嫌いです。まるで主体がない。

市が保険してあげているのですよ。そういう感じがします。「保険契約者」ではダメなのでしょうか。

さて、人は、お祝いをいただいたことは忘れても、罰金を受けたことは忘れません。マイナスのことはいつまでも覚えているものです。

私自身、自動車免許を取得して1か月目のときに40km制限の県道を走っていて、18kmスピード超過で捕まりました。1万円ほどの反則金を納付した苦い思い出は忘れられません。

「お急ぎですか」との警察官の問いに「いえ、急いでいません」と答えました。「58キロで急いでいるわけねーべよ」と思いました。30年前の出来事です。

さて、2年前、長崎を訪れる機会がありました。当ブログでも「苦しみを止揚する力」と題し()()()で綴っています。

東日本大震災の発生から7年が経ち、思いを強くしていることがあります。それは長崎の人々から学んだ「苦しみを止揚する姿勢」です。

長崎市では毎年3月11日午後2時46分にサイレンを吹鳴するという。翻って我が市では8月9日午前11時2分でサイレンを鳴らしているか。否です。一瞬にして7万余の人々が犠牲となった日です。

爆心地に最も近い場所にあった城山小学校(当時 国民学校)では今もなお毎月9日に全校で平和学習を行なっていることを知りました。

この教育の力が7年前の震災発生後すぐに福島の地に長崎からの応援職員の派遣につながったのだ。私はそう思います。

自分の苦しみをそれだけに終わらせず、言わば昇華して他者に同苦する。他者のためにできることを考え、行動する。

7年が経過した今、「された」ではなく「する」、つまり「被」からの転換をどうするか。自分自身を見つめる今日この頃です。


(梅の香りが好きです)

小さなきっかけがその後に長く影響を及ぼすことがあります。

私はみかんが好きではありません。こたつの上にみかんがあっても、まるで絵画の静物のよう。食べる対象ではないのです。

愛媛を初めて旅しました。町中、ほのかにみかんの香りが漂っています。気持ちのよい芳香です。

お土産店ではみかんやみかんを基に作られた様々なスイーツが売られています。美味しそうです。

でも、やっぱりみかんは嫌い。みかんをはじめとする柑橘系が苦手です。

食べなければ礼を失する「どうしても」の事態に至らない限り、手も出しません。

幼いころ、みかんを食べたとき、そのあまりの酸っぱさにぶるっと震えました。背筋(せすじ)のすべての毛穴が引き締まり、震えたのです。

それが脳の奥深くに刻まれ、嫌いになりました。小さなきっかけでした。

以来、みかんは私にとって月の裏側と同じように自分にとっては何の関係もない代物になってしまいました。路傍の石と同じです。

学生のとき、初めて生で落語を聞きました。ある催しの前座でした。

身を乗り出して耳を傾けます。

落語は導入部の「マクラ」、そして本題、結びに「落ち(サゲ)」により構成されます。

マクラが始まりました。

「私、おならで音階を出すことができるんです。では、ドの音を出してみましょう。ドの音、ドの音、ドの音、あら、やだ、ミが出ちゃった」

マクラのお下劣さによって、その後の本題も落ちもまったく覚えていません。30年経つ今でも「あら、やだ、ミが出ちゃった」が生々しく耳朶(じだ)に残っています。

以来、落語を寄席などで生で聞いてみたいという気持ちはなくなりました。本当に小さなきっかけでした。

人は、小さなきっかけでその後の自分の行動を縛るものですね。ささいなことなのに、と思います。自分を変えることほど難しいものはない。

なお、お下劣さだけは、当ブログで連綿と引き継いでいます。いつしか立派な継承者になりました。


(春はもうすぐ)

完全なる利己主義者もいなければ、完全なる利他主義者もいない。利己と利他のせめぎあいの中で私たちは生きています。

どこでどう折り合いをつけるか。そこが肝要です。言うなれば、動機と価値観の相克する局面です。つまり、「したい」と「すべき」の戦いなのです。

刹那(せつな)とはサンスクリット語のksanaに由来します。指をはじく「指弾」の瞬間に65刹那が含まれるという。

この刹那刹那に私たちは利己と利他のせめぎあいに悩み、揺れ動き、そして合理的判断をして納得を得ています。

ここが落としどころだ、と。

というわけで、トイレのボックスに入ったとき、すぐさま確認するのがトイレットペーパーの量です。

丸々と太っているとき、ガソリンの満タン時にも似た安堵感を覚えます。

ところが、自分の回で終わるかどうかの微妙なボリュームのとき、利己と利他の葛藤が生じます。

完全に使い切って交換してあげるべきだろうが面倒くさい。抑制気味に巻きの行為を行い、1回分程度を残す卑劣な技を行使します。

残してあげたのだ。許されるだろう。

嗚呼、何たる狭量、狭隘さでありましょう。けち臭く、せせこましい。

でも、面倒なのであります。交換するのが...。

このように私たちは刹那刹那に利己と利他のせめぎあいに悩み、揺れ動き、そして合理的判断をして生きています。


(横浜の夜景)

佐々木徹著『東山魁夷ものがたり』を読了。東山魁夷(本名・新吉)は1908年(明治41)に横浜に生まれ、3歳のときに一家で神戸に移っています。

生家は横浜の海岸通から入ったところで近くには煉瓦造りの倉庫がいくつもあったという。

東山魁夷は幼少期を暗い沼にたとえています。

「沼は森の奥に、黒く淀んだ水を湛えて静まり返っている」(『東山魁夷ものがたり』以下、引用同じ)と。そのような心象風景は「父と母との間に在った相克」に起因するのでしょうか。

「人一倍、神経質な子が、ほかの子供たちと仲良くやっていけるかどうか、母親は心配しました。本人自身も、見知らぬ子供たちのなかに入る不安でいっぱいでした」

新吉少年とお母さんの気持ちが痛いほどわかります。そのような中、新吉の不安を払拭(ふっしょく)する出会いが幼稚園でありました。保母さんです。

「その人に褒められるのが嬉しくて、唱歌も遊戯も一生懸命にやるようになった。殊にその保母さんから、黒板へ色のチョークで何でも好きなものを描きなさいと言われ、花や蝶や犬や女の子の後姿(どういうものか前向きは難しくて描けなかった)を描いて褒められた時は嬉しかった」


(白馬シリーズが好きです)

時下り、中学5年生の新吉少年は進路を決めあぐねていました。背中を押してくれたのは担任の先生でした。

「このように家の事情や自分の気持ちを先生に話しているうちに、急に熱いものが胸にこみ上げてきて、思わず畳の上に涙がぽたぽたと落ちた。先生は、『君はやはり絵かきになったほうがいい。ご両親のことはさておき、君のほんとうの気持ちはどうなんだ』と聞かれた。私はようやく、『絵かきになりたいのです』と答えた。『よし、それなら私からお父さんに話してあげよう』と先生は私をせき立てるようにして家を出た」

新吉は美術の道に進みます。

1936年(昭和11)2月の第1回帝展で落選。

「このころ、東山新吉は、品川区大井原町の瑞穂幼稚園に寄寓しています。生計の中心は、留学前と同じく、子供の本の挿絵を描くことでした。美学校時代の友人は、つぎつぎと認められ、画壇で活躍しているのに、自分ひとりは思うような成果が得られない」

さて、東京富士美術館で開催されている東山魁夷展を友人の案内で鑑賞しました。

これまで、2003年に横浜美術館で、2012年に仙台・宮城県美術館で、2014年に東京渋谷・山種美術館で、2017年に水戸・茨城県近代美術館で東山魁夷展を観てきました。

何度か観てきたはずの「白馬の森」。作品の前で打ち震える感動を覚えました。例えようのない不可思議な力が迫ってくるのを感じました。


(神秘的な「白馬の森」)


「白馬の森」の樹木がまるでSF小説『トリフィド時代』の食人植物のように動いて額縁から出てくるような錯覚がしました。

と同時に木々の枝が「犬神家の一族」の湖面に突き出た、あの2本の足とイメージが重なってしまいました。

少し疲れているのかもしれません。いや、かなり疲れているようです。大好きな楢葉町・天神岬の温泉に入りに行こうと思います。


(真っ白な今治タオル)

からつづく)

今治の懐石料理「ゆき」での語らいは続きます。フグの唐揚げやサワラのみそ焼きなど瀬戸内の海の幸を堪能しながら、タオルについて地元の市職員に尋ねました。

「ところで、今治がタオル産業が有名なのは、歴史的に綿花の栽培が盛んだったからですよね」

「そうなんですか。なぜタオル製造が盛んなのか、わからないです。すみません」

古墳時代からの多くの遺跡がある今治。中世には村上水軍が活躍。江戸初期には藤堂高虎が内堀にまで海水を引き込む他に類を見ない平城の今治城を築城したことで知られている。

海上交通の要衝の地である今治は古くから海運業が発達。技術・量ともに日本一の「今治造船」を生むこととなる。

一方、綿花栽培に適した温暖な気候と降雨の少なさにより古来より織物業が盛んで、江戸時代後期には伊予木綿を生産するようになった。

明治時代に入り、白木綿の衰退にとって代わって毛織物のような風合いを持つ「伊予綿ネル」を開発。その後、タオル製造への産業革命とも言うべき発展を遂げ、「四国のマンチェスター」と呼ばれる。

戦時中、今治はB29爆撃機の焼夷弾空襲を3度受け、旧市内の8割が焼失。「ネル屋は寝る。タオル屋は倒れる」と言われるくらいの苦境を迎える。

その後、戦後の経済成長とともにタオルケットの開発などでタオルの生産量が日本最大となる。しかし、1990年代後半、中国やベトナムなどの安価な輸入タオルに押され一時は生産高が5分の1まで落ち込む。

バーバリーなど海外ブランドのOEM(他社ブランドの製品を製造すること)に依存し、企画から営業・販売まで問屋に頼る体質となっていた。

2006年、四国タオル工業組合は佐藤可士和氏が設立した会社「サムライ」を訪れ、ブランディン・プロジェクトを委託する。

そして、「最高の白いタオル」というわかりやすさを重視した戦略により、今治タオルは復活し、現在に至る。

UNIQLOや楽天のロゴ、セブンイレブンのブランディングプロジェクト、SMAPのアルバムのアートワークなどを手掛けてきた気鋭のクリエイティブ・ディレクター、佐藤可士和氏。

たかがタオル、されどタオル。今治タオルに人知れぬ苦闘の歴史と背景があることに私たちは気づかされます。

佐藤可士和氏は、今春、いわきPITにやってきます。どんな話が聞けるのか楽しみです。


(因島大橋の下にあった標識。宇宙人にしか見えない)

「ひがむ」とは「物事を素直に受け取らないで、曲げて考える。自分が不利なようにゆがめて考える」こと。(出典:デジタル大辞泉)

初めて四国を訪れました。地理上の形が福島県に似ています。面積は18,800キロ平米。福島県の約1.36倍。人口は四国4県で381.8万人。福島県の約1.92倍です。

人材育成に対する公金の投入の度合いで当該地域の発展の可能性を見て取れます。その指標の一つに国立大学の医学部の設置状況を挙げるのはあながち間違いではないでしょう。

四国には5つの国立大学があり、うち4大学(香川大学・徳島大学・高知大学・愛媛大学)には医学部があります。福島県には国立大学は1つ。医学部はありません。

次に、2017年度の国立大学法人への運営費交付金等(機能強化促進費45億円を含む)の配分状況を見てみましょう。

まず四国です。5つの国立大学の合計は、48,771,136千円。500億円弱です。

内訳は、愛媛大学12,707,325千円、徳島大学12,693,622千円、香川大学10,287,467千円、高知大学9,795,216千円、鳴門教育大学3,287,506千円。

福島県は国立大学は1つです。福島大学3,657,777千円。37億円弱。

面積は福島県の1.3倍ですが、国立大学への公費支出は13倍です。蛇足ながら愛媛県今治市に設置される岡山理科大学獣医学部は多額の公金が支出されますが私立大学です。

ちなみに、総理大臣がいかなる指標になるかは不明ではあります。が、参考までに四国は吉田茂、浜口雄幸、三木武夫、大平正芳の4名。福島県は1名もいません。

四国っていいなぁ。

というわけで、しまなみ海道のいくつもの大きな橋を渡りながら、一人でひがんでおりました。ひがみの定義をもう一度繰り返します。

「物事を素直に受け取らないで、曲げて考える」

今年はひがむ癖を直したいと思っています。


(富士は眺める山だと思う)

携帯用の歯ブラシセットを購入。買うたびに思うことがあります。それは歯ブラシの先に付いている小さなキャップの扱いです。

たいがいの場合、私は1回程度はキャップを付けてみます。でも、その後、やっぱり捨てます。

何のために付属しているのか。

なんとなくはわかります。もちろん気持ちは理解できるのです。ケース本体の内側とブラシが接触しないようにするためなのでしょう。ブラシの保護というわけです。

では、その小さなキャップとブラシの接触は構わないのでしょうか。

ここで、そもそも論に立ち返りたいと思います。

ケース内側とブラシのどちら側の汚れを懸念しての措置なのか。それを明らかにする必要があるからです。

ブラシ側の方がカビをはじめとする菌やウイルスによる汚染度が高い想定し、汚染されたブラシがケース内側を汚染しないように防ぐためなのか。

あるいは、逆にケース内側の方が汚染度が高いと想定し、ブラシが汚染されないようするためなのか。

この問題で夜も眠れなくなりそうです。

私は思うのです。あの歯ブラシ保護キャップを律義に付けている人は世の中にどの程度いるのか、と。

おそらく18パーセント程度はいるのではないかと推測します。個人の感想です。

「キャップ族」の特徴を考えます。

車のウィンドウォッシャー液が切れる前に補充できる人なのだろう。
机の右の最上段の引き出しの中が整理整頓されている人なのだろう。
新品のズボンに付いている替えのボタンを保管している人なのだろう。
年賀状を引受開始日に投函できる人なのだろう。

いつの日か、私もそんな人になりたい。


(重要文化財「萬翠荘」。松山市にて)

今治の懐石料理「ゆき」で今治市の若い職員と隣り合わせになりました。マダイ、ブリの刺身がじつに美味しい。ぷりぷり感が違う。潮の速さが身を引き締まらせるのでしょうか。

今治の産業を尋ねる中で、「伯方(はかた)の塩」のことが話題になりました。

「伯方の塩って、九州・福岡の博多だと思う人が多いんです。じつは今治市内に伯方島があります。ご存じでしたか」

「瀬戸内にあるのだろうとは思っていましたけど、今治だったのですね。それは知りませんでした」

「でも、伯方の塩っては言うんですけど、メキシコやオーストラリアの塩を使っているんです」

そう自嘲気味に言いました。

「それには深い歴史があるんですよ。専売特許との戦いなど、涙ぐましい背景があるんです」

「そうだったんですか。知りませんでした」

ウィキペディアと博多塩業のウェブサイトを基に「背景」について再構成します。

1971年(昭和46年)に成立した「塩業近代化臨時措置法(塩専売法)」により、従来の流下式塩田製法が全廃され、イオン交換膜製塩への切り替えが起こった。海水から直接「塩」を採ることが出来なくなり、製塩業は化学工業化された。

江戸時代から続いていた伯方島の塩田も1971年(昭和46年)に廃止。

これに疑問を持った住民らによって自然塩存続運動が起こる。

塩田製塩の存続を訴え、5万人の署名を集めて関係各省へ訴えた結果、1973年(昭和48年)、日本専売公社は「メキシコ・オーストラリアから輸入される天日海塩を用いること」などを条件として塩田製法を用いた塩の販売を認可。

ここに「伯方の塩」が生まれた。

原塩を利用すること以外にも「平釜(熱効率が悪い)を使うこと」「専売塩を誹謗してはならない」などの制約を受け、「袋のデザインや文言の変更」についても専売公社にお伺いを立てなければならなかった。

塩専売法は1997年(平成9年)に廃止され、海水からの塩の直接採取が認められるようになったが、伯方の塩にはメキシコ、オーストラリアのものが用いられている。

なぜ、同国の塩を使うのか。清浄であることと地球環境への配慮からである。

製造の初期過程に「かん水(濃い塩水)」をつくる工程がある。海水を直接煮つめて「かん水」をつくる方法は、たくさんの燃料を必要とする。それに対して、自然の風や太陽熱といった自然エネルギーによって結晶した輸入天日塩田塩を使うと、燃料は少なくて済む。

また、メキシコ塩の産地であるゲレロネグロでは世界遺産にも登録されているほど清浄な湾の海水を、オーストラリア塩の産地であるプライスでは南極海につながる海水を使用。

そのようなきれいな海水よりつくられた天日塩田塩でもあり、同国から天日塩田塩を輸入し使用するのは、原料を安定して仕入れるためでもある。

そのような理由で「伯方の塩」は、現在もメキシコまたはオーストラリアの天日塩田塩を日本の海水に溶かして、ろ過した後のきれいな塩水を原料としているのである。

「ところで、今治がタオル産業が有名なのは、歴史的に綿花の栽培が盛んだったからですよね」

「そうなんですか。なぜタオル製造が盛んなのか、わからないです。すみません」

へつづく)


(陽光燦たる如月の海。小名浜港にて)

不登校問題を話し合うカフェに参加。不登校を経験したという高校生の話に惹きつけられました。

小学生のとき、いわゆる保健室登校でかろうじて学校に通っていた。教室での授業以外の学校行事などには躊躇しながらも参加していたという。

授業には出席せずそういった行事のときのみ参加することに一部のクラスメイトからは羨望とも揶揄とも言える、心無い言葉を投げかけられた。それが嫌で仕方なかった。

中学生になってすぐのホームルーム。学級委員長をどうするかの議論になったとき、小学生のときからのそのクラスメイトが言った。

「◯◯さんが学級委員長をやったらいいと思います」

学校を休んでばかりいた自分に対してなんていうことを言うのか、と思ったという。私のこと、わかっているはずなのに。

嫌々ながら、結局、学級委員長の任を引き受けることに。

いざ委員長になってみると数多くの仕事があり、「これはどうしたらいいのか、あれはどうするのか」等々、日々皆から判断を求められ、いつしか頼りにされ、それに応えている自分に気づく。

自分の存在意義の確かさを感じる中で、周りの勧めもあり、生徒会役員にまでなったのだという。

嫌だな、苦手だなと思っていた人が返って自分の潜在力を引き出す力強いブースターになったとも言えるこの話を聞き、何か心の中で弾けました。

結局、誰かのせいではなく、自分なのだ、と。前職で勤めていた生命保険の営業職時代の研修で上司が言っていたことを思い出しました。

「嫌だと思う人を指差してみなさい。人差し指以外の下の三本の指はこちらを向いているんですよ。要はこちらなんです」

論理的には滅茶苦茶な指差し理論。されど30年近く経ついまでも、妙に心に残っています。

要は自分なんですよね。わかっちゃいるんです。


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