(桜が咲くとうれしくなる)

而立のときはちょうど太平洋上空。1997年3月末、深々とした闇の中にヘール・ボップ彗星が飛行機の窓から見えました。次回は西暦4531年に近日点を通過するという。

悠久の時を刻む宇宙の営みに思いを馳せました。

本日、知命に至り、思うことは両親のこと。いずれも50代で他界。どんな思いだったのか。胸中を推し量ることはできません。

けさ姉弟とSNSのグループでちょっとおしゃべりしました。

「人生半世紀、早いものです」と姉。

「内面は30歳のときと変わらない」と応じる私。

「そう、中身は変わらないんだよ。歳とって気づく」

姉の言葉に私も心から納得。

年齢を重ねてわかることがあります。

わかること。それは、回顧でもなく、まして懐古でもない。やはり、学びなのだろうと思います。

姉はつづけていいます。

「きっと、お父さんもお母さんもこんなふうだったんだろうね」

外見は私たち子どもが仰ぎ見る尊敬する親でした。が、二人とも不治の病に倒れ、内心は当然のことに煩悶も落胆もあったことでしょう。

しかし、悲嘆にくれている顔、意気消沈している姿を私たちは見たことがありませんでした。きっと見せなかったのでしょうね。

弟曰く。

「歳を重ねると段々と動く生き物を可愛がりたくなる。犬とか猫とか。そして、やがて動かない生き物、盆栽に移行するんだよ」

弟ながら深い洞察に膝を打つ。

だが、まだまだ青年の気概を持っていると自負しています。生き物はやっぱり人間が一番面白い。

というわけで、がまんしてきたモンブランケーキをきょうだけは解禁としようかな。


(自宅前のバス停。本文とは関係ありません)

第7話からつづく)

翌朝、ホテルのフロントに昨夜の“事件”を伝えました。深夜に水道の修理と称する怪しい人が訪ねてきた、と。

フロント曰く。実際に水道の調子が悪く、修理に向かわせたというのです。

ドアを開けたら絶対に撃たれると私は信じて疑いませんでした。

安堵しました。気を取り直して、この旅の目的である、ラーメンを食べに向かいます。

最高の調味料はいうまでもなく空腹。まずは腹をすかすため、三人でメトロポリタン美術館に足を運びました。

到着すると美術館は休館。きょうは月曜日でした。

紀伊國屋書店に寄って本日付の朝日新聞衛星版を購入。インターネットが普及する前は衛星通信で電送されました。

7番街と49丁目の角近くにある日本料理店「サッポロ」に到着。入店すると、飾らない大衆食堂の雰囲気がうれしい。

味噌ラーメンと餃子を注文。嗚呼、日本のふつうの美味しさと香り。これぞ、日本。食後に朝日新聞を読む。

この当たり前の日本の風景をニューヨークで実現でき、得もいわれぬ快感を味わいました。

夕食に備え、再度、カロリーを消費するため、国連本部を見学。

夕方、ほどよく腹が減ったところで、再び「サッポロ」にてチキンカツカレーを食べました。

夜はロックフェラー・センターのG.E.ビル65階に向かいました。目的地は、カクテルラウンジ「レインボールーム」。

65階に到着すると身分不相応なエレガントなたたずまいに思わずたじろぎます。フロアのそこかしこから「お呼びじゃない」感がひしひしと伝わってきます。

さあ、どうする。ドレスコードもあるだろう。こんな格好で入店できるのだろうか。

そして、何よりも、我々三人の醸し出す、味噌ラーメン臭とカレー臭満載の“一般ピープルオーラ”が店内の雰囲気を破壊するのではないか。

三人でしばし協議。ここまで来て退却はあり得ないだろう。

我々は勇気を出してカクテルラウンジ「レインボールーム」の受付に向かうことにしました。

(第9話へつづく)


(地元の炭鉱跡地を巡りました。本文とは関係ありません

(第6話からつづく)

ニューヨーク行き午後1時40分発のアムトラック70号に日本人留学生T君とK君とともにモントリオール・セントラル駅から乗車。

いよいよラーメンを食べに行く旅の始まりです。

セントローレンス川を渡ってしばらくすると窓外にとうもろこし畑と小麦畑が見えます。

午後3時過ぎ、国境を越え、車内で米国の入国審査を受けました。

ハドソン川沿いに広がる湿地帯を南下。広大な湿地帯には、紫色の花をもった植物が一面に群生し、美しい。ときおり、モーターボートが波を切って通り過ぎていきます。

ニューヨークに近づいたころ、体格のよい青年が隣に座りました。

「日本人ですか」

英語で話しかけられました。

聞けば、交換留学生として関西学院大学に留学するという。ニューヨーク州内にあるユニオンカレッジで電気工学を学ぶかたわら、自宅でコンピュータ関連の仕事をしているとのこと。

ラグビーが趣味で、温泉が大好きという。日本の温泉は、混浴と聞いていたらしく、興奮しているようなので、混浴温泉は数少ないことを説明し、クールダウンさせる。

午後11時半、ニューヨーク・ペンシルベニア駅に到着。午前0時、駅前にあるホテルペンシルベニアにチェックインしました。

午前0時半過ぎ、突然ドアがノックされました。水道の修理に来たという。夜中に前触れもなく修理とは絶対に怪しい。

小声で私は二人にいいました。

「ドアの覗き穴を見た瞬間、撃たれるぞ。ドアに近づいちゃダメだ。ここはじっと黙っていよう」

(第8話へつづく)


(花曇りのひととき)

作家の佐藤優氏は公開情報から読み解くことの大切さを訴えています。

「私が外務省時代に専門としていたロシア情勢の分析においても、アメリカ情勢の分析であっても、公開情報を真摯に読み解く作業が基本でした」(「潮」2017年4月号)

このように、基本は公開情報から読み解くことであると佐藤氏は強調。

その上で氏は述べます。

「分析対象に反感を抱く勢力からもたらされる怪しげな話は、ほかの公開情報と照らし合わせて信憑性があるときだけしか使いません。これはインテリジェンス分析の鉄則です」(同)

十数年前。情報公開をめぐって企業から訴えを提起されかけたことがありました。

企業秘密に該当するとの理由です。

当該企業の顧問弁護士に私は訴えました。

「御社が企業秘密と主張しているものはネットで各自治体の情報を丹念に集めれば集約できる情報であり、公知であることから秘密には当たらない」と。

証拠を示した上で顧問弁護士に訴えの取り下げを求めました。すると攻撃的なモードから融和的な雰囲気になり語り出しました。

「確かに東京地検特捜部も新聞や雑誌などの公知の情報から大事件を捜査していくそうだよ。小説『レッド・オクトーバーを追え!』も著者のトム・クランシーは公知の情報から得たもので構築していったといわれている」

「『レッド・オクトーバーを追え!』は私も映画で見ました。著者のトム・クランシーが公知の事実を丹念に収集して物語を構成していったことも存じています」と私も応じました。

というわけで、じつは公開情報(公知の事実)を読み解くことこそ重要であり、怪しげな情報があふれる中でぶれない眼を持ちたいと思いました。


(ラーメンに次いで好きなのがそば。写真は大石の鴨南蛮そば)

第5話からつづく)

モントリオール大学東アジア研究センターのK先生の紹介で日系人向けコミュニティー雑誌「Montreal Bulletin」の編集のお手伝いをするようになりました。

同誌は日本語・英語両版で月刊誌としてボランティアにより発行。日系コミュニティの出来事を中心に投稿記事やエッセイ、広告などで構成されています。

在モントリオールの宗教界のコーナーもあり、カトリック系3派、仏教界1派があります。

宗教界といえば、ケベックのカトリックはローマンカトリックの流れを汲む宗派で、日本とのつながりも深い。かつて日本のカトリックは組織上、カナダの管轄下にあったという。

カナダのカトリックといっても、そのほとんどはケベックです。

そのようなことから、福島県内の「桜の聖母」「会津若松ザベリオ学園」「郡山ザベリオ学園」などいくつかのキリスト教系の学校は、ケベックの教会が設立に関与しています。

全国には有名校であるラサール学園を含む50校以上の学校がケベックのカトリックが設立や運営に関わっています。

雑誌の編集の仕事のあと、皆さんが持ち寄った手作りの日本料理を御馳走になるのが最大の喜びでした。

パブロフの犬のように同誌の編集ボランティアが近づくと、唾液の量が増しました。

このように日本の食べ物を口にする機会は、比較的恵まれていました。

しかし、モントリオール市内にはラーメン店がありませんでした。ラーメンが食べたい。どうしても食べたい。とにかく食べたい。

毎日のようにラーメンのことばかり考えるようになりました。

ある日、私は鉄路でモントリオールから600km南の米国ニューヨークに向かいました。

目的はただ一つ。ラーメンを食べること。ラーメンのためだけの10時間の旅に出ました。

第7話へつづく)


(伊丹の空)

第4話からつづく)

俳誌の座談会に自分の句が取り上げられたことに気を良くした私はモントリオール滞在中、句会に通い続けました。

後日談があります。

私は比熱が小さく熱しやすく冷めやすい体質です。日本に帰国した途端に句作をやめました。

ところが、機縁に触れると再起動する私は十数年後、伊丹市のホームページの投句コーナーに応募するようになりました。

伊丹市は、松尾芭蕉と並ぶ俳人・上島鬼貫の出身地です。同市は国の構造改革特別区域「『読む・書く・話す・聞く』ことば文化都市伊丹特区」の認定を受けています。

毎月のテーマに応じて句作。何度か特選に選ばれました。選者の感想と合わせて紹介します。

2013年4月
テーマ「石鹸玉(しゃぼんだま)」
【特選】石鹸玉百パーセント僕の息
【感想】この作品も私ども俳人が思っている石鹸玉の概念をがらりと変えました。「僕の息」、生きている喜びが感じられます。

2013年5月
テーマ「牡丹(ぼうたん・牡丹園・白牡丹)」
【特選】暁闇の垣根に浮かぶ白牡丹
【感想】暁闇は朝のまだ暗さの残っている時刻。白が際立ちます。

2013年9月
テーマ「残暑(残る暑さ・秋暑し・秋暑)」
【特選】秋暑し雨後の陽に照る石畳

「秋暑し」の句は同市のコミュニティ放送局「ハッピーエフエムいたみ」でも取り上げられました。丁重にも選者の朝妻力先生から録音CDを送っていただきました。

にもかかわらず、ホームページの投句コーナーが終了するや否や句作する気持ちが萎え、いまや作る勇気もありません。

閑話休題。

句会のほかにモントリオール滞在中、私はもう一つの集まりに通っていました。次回はそのことについて触れましょう。

第6話へつづく)


(近ごろまたモンブランが食べたくなってきました)

(第3話からつづく)

モントリオールに来てから始めた俳句。季語もわからず悩んでいたところ、職場の上司が日本から歳時記を送ってくれました。

初夏の季語である鉄線花(てっせんか)を用いて母との思い出を句にしました。

去年(こぞ)のつた蘇らせて鉄線花

「つた」の部分は「つる」とすべきでした。ツタ(蔦)はれっきとした植物の名前です。混同してしまいました。

この句が俳誌の誌上座談会で取り上げられたのです。面映ゆいことこの上ない。

「作者はカナダの地で鉄線を育てていらっしゃるのでしょうか。座右の銘としたい句です」

過分な賞賛に汗顔の至りです。

鉄線はおろか、鉢植え一つすらない、殺風景な寮生活でした。

鉄線の句は、高校生のころ、母といっしょに庭の手入れをしていたときの思い出を描いたものです。

枯れ草のようなつるを刈り取ろうとした私に対して母はいいました。

「それは鉄線といって枯れているように見えるけど、また蘇って花を咲かすんだよ。だから切ってはいけないよ」

文字通り鉄の線のような無骨な姿の中に鮮やかな紫色の花を見て取った母の心に私は深く共鳴。

そして、鉄線の蘇生の力強さに心打たれました。

鉄線花は、亡き母との思い出の花であり、私にとって蘇生の象徴でもあります。

大好きな花です。

(第5話へつづく)


(河津桜)

第2話からつづく)

トイレと同様にモントリオール大学の寮のシャワールームは、2つのボックスしかありません。そのボックスもまた仕切りの壁がお互いのすねが見える構造になっているのです。

もじゃもじゃのすね毛が見えるのも嫌ですが、女性のすねが見えるのも、これまた何ともいえない気分にさせられます。

シャンプーの泡がこちらの陣地に流れ込んできた日には、胸が高鳴りました。いままさに隣で女子学生が現在進行形で浴びているのです。

流水がタイルの傾斜を超えてやってくる様子をじっと見つめました。アマゾン川の大逆流「ポロロッカ」以上の衝撃がありました。

当時、私は29歳。学生たちは20歳前後。

密室にすることで犯罪防止を図るという論理は破たんしているのではないか。半端な仕切りの方が危険なのではないか。自分は試されているのではないか。

そんなふうに様々な思念、いや、邪念が錯綜するシャワールームでした。

さて、モントリオール大学東アジア研究センターのK先生のお誘いを受け、モントリオール日系文化会館で行われいてる句会に参加するようになりました。

ホトトギスの系列に連なる「河内野(こうちの)」という会に所属する句会でした。毎月1回、開催。5句以上の作品を作って参加します。

秀逸な句は日本で発行している河内野の俳誌に掲載されるという栄誉もあるという。

ある月のことでした。私の作った句が俳誌の座談会で取り上げられたのです。

第4話へつづく)


(地震のあと職場から一時的に避難した公園)

3 福島は福の島

福島は、大地震、津波、そして原発事故に見舞われました。

震災が起きた当時、私は、なぜこんなことが起きたのだろうと何度も考えました。でも、あるときから、「なぜ」と考えても意味がないと思うようになりました。

今回起きたことは深い意味があるのだ。後ろ向きに考えるのではなく、いかに福島を復興していくかを真剣に考えよう、そう思うようになりました。

それが自分の使命なのだと思います。

日本は災害の多い国です。台風をはじめとする気象現象による災害、地震。そのような災害を乗り越えての日本があります。

人生においても、よいことばかりではありません。いろんな困難なことに出遭います。

大事なことは、その困難に負けないこと。起きたことをいつまでも悔やんでいても、何も変わりません。

起きてしまった「こと」は変わりませんが、その「こと」の意味が将来変わってきます。意味のある「こと」だったと思えるようになってくるのです。

「福島(fukushima)」の福(fuku)とは、よいことがある、幸せになるという意味です。

タイ語ではmongkonに近いかもしれません。島(shima)はタイ語でkoです。

この災難を必ずよい方向に転じていくことを誓い、皆様への感謝の言葉といたします。誠に誠にありがとうございます。

(完)


(塩屋埼灯台からの眺望)

2 あの日、何が起きたのか

あの日、いわき市役所の保健福祉課に所属していた私は、8階建ての市役所の3階で仕事をしていました。午後2時46分に携帯電話の緊急地震速報のアラームが鳴りました。

これまで聞いたことのないような地鳴りと激しい揺れに襲われました。ロッカーが倒れ、立っていることができず、机の下にもぐりました。

悲鳴が響き、強い揺れがいつまでも続きました。揺れが早く収まってくれと、心の中で必死に祈りました。

揺れがあまりにも長く、市役所の建物が壊れるのではないかと死を覚悟しました。

3月11日当日は市役所の庁舎で徹夜し、翌朝、小学校の体育館に行き、避難してきた市民の対応に追われました。

おにぎりは1人1個。もっと食べたそうにしている子どもに「ごめんね、1個だけだよ」と言って配りました。

その小学校の体育館には、いわき市民だけでなく、原子力発電所の立地する双葉郡内の住民もぞくぞくと避難してきました。

今回の震災で私の住む地域で「まさか」ということが、2つ起きました。それは、津波と原発事故です。

「津波」という言葉は子どものころから知っていました。しかし、まさか自分の住んでいるいわき市に津波が襲ってくるとは思いませんでした。

今回の震災で、いわき市では津波により約300名の方が亡くなりました。

もう一つは、原子力発電所の事故です。原子力発電所が事故を起こすとはまったく想定していませんでした。

高い安全性が保たれていると信じていたからです。

原発事故が起きたとき、タイの私の友人たちは、とても心配してくれました。あるタイの友人は、私の妻と子どもをバンコクに避難させてはどうかとまで提案してくれました。

本当に有難いことです。うれしく思いました。

なお、いわき市における放射線の値は十分に安全なものであることを皆様にお伝えします。

(へつづく)


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